教師が「叱る」ことは原理的に可能なのだろうか?

家庭教師をやっていて、生徒を叱ったことがない。これはなにも私の性格がどうとかいうことじゃなく、原理的に家庭教師は生徒を叱る立場にないからだ。もっとも、生徒の方で勝手に「叱られた」と受け取る場合があるので、これはなんとかしなければいけないといつも反省する。たとえば、中学生の数学で、カッコを外すときにいつも正負の符号をまちがえる生徒がいるとする。そういうまちがいを「うっかりミス」みたいな雑な括りで処理していては絶対にそのようなミスはなくならない。失敗には必ず原因があり、原因を潰さないことには同じ失敗は必ず再発する。そして原因分析には、失敗をした当事者の感覚の分析は欠かせない。だから、「なぜここでまちがえたと思いますか?」と、生徒に理由を聞く。この聞き方をちょっとでもまちがえると、生徒は「叱られてる」と思って「スミマセン」としか答えなくなる。そういう返答がかえってきたら聞き方が悪いので、大いに反省するしかない。

家庭教師が生徒を叱れないのは、「叱る」という動詞には、必ず権力構造が内包されているからだ。たとえば、

しか・る【𠮟る/×呵る】
[動ラ五(四)]目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。「その本分を忘れた学生を―・る」

出典:デジタル大辞泉小学館

となっている。目下・目上というのはすなわち権力構造の中での下位者・上位者ということである。すなわち、「叱る」ためには権力構造がなければならないし、「叱る」のは権力上位者の特権であるともいえるだろう。

通念上は、教師は生徒に対して「目上」である。つまり、権力を行使する上位者である。それを盾に、「生徒が怠けたらビシビシ叱らんとあきませんよ」みたいに言うベテラン家庭教師に出会ったこともある。「先生の方から叱ってください」みたいに言ってくる生徒の親もいる。けれど、冷静に考えたら、少なくとも家庭教師にそんな権力はない。

なぜなら、家庭教師なんて、「生徒の成績を上げる」業務を対価をとって委託されている存在に過ぎないからだ。サービスを売っているといってもいい。このような契約は、契約者同士が対等の関係であってはじめて成立する。八百屋が大根を売るのと本質的に変わらない商行為だ。八百屋が大根を売るときに、八百屋と買い物客の間に権力関係は存在しない。大根が高いと思えば客は買わなければいいだけの話だし、客が法外な要求をすると思ったら八百屋は売らなければいいだけのことだ。八百屋が売らないのは権力的なのではない。あるいは、契約関係において最大の権利行使は、契約の破棄である。その限度内で、八百屋は権利を行使できるともいえるだろう。そう思えば、家庭教師が生徒に対して行使できる最大の権利は「そんなことをするのなら自分は教えない」と契約を破棄することでしかないだろう。そしてそれに関しては、「こんな教師なら金を払ってまで来てほしくない」と契約を破棄する権利を生徒の側も持っている。つまり、権利としては対等であって、どちらが上位・下位という権力構造のなかにはない。

実際のところ、権力は、家庭教師という業務の遂行にとって特に必要がないものだ。権力でもって従順に生徒を自分の意図通りに操作できたとして、それでもって生徒の成績が上がるかと言われれば、否と返すよりない。生徒の成績は生徒が成長することによってしか上がらないし、生徒の成長は、生徒の行動をコントロールすることで促進できるものではない。野菜を育てるのと同じで、ひたすら水を撒き、雑草を取り除いて待つぐらいのことしかできない。「芽を出せ」と命令して発芽する種子はなく、「成長しろ」と命令して伸びる枝はない。「大きく太れ」と命令しても果実は肥大しない。けれど、だからといって農家にやるべき仕事がないわけではない。同様に、生徒の行動にいちいち指図しなくとも、家庭教師にはやらねばならない作業がいくらでもある。それをやっていれば「生徒の成績を上げてほしい」という業務上の付託はたいていの場合はどうにかなる。だから、契約関係の上では本来発生しようのない権力を、幻の上に求める必要などない。

そして、権力のない家庭教師には、生徒を叱る能力はない。目上の者でもないのに、目上にだけ許された「叱る」行為はできない。だから私は生徒を叱らない。「目上・目下」という関係性がなくとも知識や技能は伝達できる。「三歩下がって師の影を踏まず」なんてのは、およそ世迷い言であると言い切ってかまわないと思う。

 

学校教師はそうではない、と思ってきた。なぜなら学校教育法に、

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

とあるからだ。「懲戒」は、通常、一定の権力構造のもとに行われる。

ちょう‐かい【懲戒】 
[名](スル)
1 不正または不当な行為に対して制裁を加えるなどして、こらしめること。

2 特別の監督関係または身分関係における紀律の維持のために、一定の義務違反に対して制裁を科すること。特に、公務員の懲戒処分。

出典:デジタル大辞泉小学館

したがって、学校教員には「教育上の必要」を前提として、一定範囲内での権力が法律によって付与されているものだと考えることができる。だから、教員が生徒を叱るときには、叱るという行為そのものに対してではなく、「それが教育上必要あるのかよ」ということに対して批判されねばならないと思っていた。たとえば以前に書いた

mazmot.hatenablog.com

なぜ「忘れ物を叱る」のが無意味なのかという記事でも、わざわざ「教師が叱ることが場合によっては認められるとした上で、なお、少なくとも忘れ物に関しては効果はほとんどない」と書いている。これは、上記の法律上の規定を念頭に置いたものだ。効果がないのに叱ることは、常にアウトカムについて説明を求められる家庭教師的な常識からいえば、「教育上必要」ととてもいえないと感じていたわけだ。

 

ただ、それ以降、どうもこの「叱る」という概念について、引っ掛かりを覚えていた。というのは上記記事に続けて書いた記事でも触れたのだが、ブックマークのコメントで、「あ、この人は"叱る"という言葉と"叱責"という言葉を別概念を表すものとして使ってんだな」と思われるものがあったからだ。そのときに連想したのは、馬の走り方だ。私のようなシロウトは、馬が走ってるのを見ても「あ、走ってるな」としか思わないのだけれど、見る人が見ればそれはギャロップであったりトロットであったりペースであったりと、まったく別な概念で表現されるものであるのだそうだ。ということは、一部の人にとっては「叱る」と「叱責」は完全に区別されるものであり、それにはそれなりの事情があるのだろう、と考えたからだ。知らないことを放っておくのはどうも気持ちが悪い。そこで、「叱る」ことに関して、教育学でどのように扱われているのか、ちょっと調べてみようと思った。

メタ分析とかやるようなことでもないしやる能力もないし、30件ほど文献を集めてざっと読んだ印象だけではあるのだが、「叱る」行為に関する評価は実に幅広い。大別するならば、「叱ることが教育上効果がある/必要だ」とする立場と、「叱ることは有害だ」とする立場に分かれるだろう。その両極の間で、さまざまな温度差もある。意外だったのは、前者の立場の方が多いことだった。後者の立場は、おもに障害者教育などに関して見られることが多かった。なので、後者の立場でもたとえば発達障害に関しては叱ることは害が大きいと考えていても、その他の場合には許容している可能性を除くことができない。一般的にすべての場合に関して叱ることをネガティブに捉えている論は、ほとんど見かけなかった。実際のところ、これには驚いた。

そして、気になっていた「叱る」と「叱責」の使い分けだが、これをほぼ同義の交換可能な概念として使っていた例の大半は、「叱ることは有害だ」の論調のものであった。私の感覚としては動詞としての「叱る」の名詞形が「叱責」になるのだが、たしかにそういう使い方をしている事例は何件もあった。ただ、その大半が否定派の方であり、肯定派の方は1件か2件しかなかったようである。とはいえ、じゃあ「叱る」と「叱責」を明確に別概念として定義していた文献があったかといえば、そうではなかった。肯定派の多くの文献では、「叱責」という単語を使わず「叱る」の名詞形は「叱り」と記述されていることが多かった。

興味深いのは、肯定派の「叱る」概念が、多くの場合、「褒める」との対立として捉えられていたことである。否定派には、そういった概念の立て方は見られなかった。これは、肯定派においては「叱る」のは生徒に対する教育的介入の手段であると考えられているからのようである。したがって、論旨も「効果的な叱り方」みたいなものになり、効果を高めるために「叱り」と「褒め」を併用することが勧められる、みたいな論が多かったわけだ。

そういった論の中身を見てみると、感情的であったり、禁止的であるような「叱り」は効果が低く、論理的であったり例示的であるようなものが効果的であると書いてあったりする。このあたりで、「なるほど」という気持ちと「そうなのか?」という気持ちが同時に起こった。というのも、確かに感情的な言葉は伝わりにくい。その一方で論理的な説得は効果的である。しかし、上記の「叱る」という言葉の定義には、「強くとがめる」とある。「強く」というのは感情的なことではないのだろうか。論理的に説得する場合、そこに「強く」というのはどう馴染むのだろうか。どうも実感が湧きにくい。たとえば、英語で「叱る」の概念に相当すると言われるscoldという単語は、

Definition of scold
transitive verb

: to censure usually severely or angrily : REBUKE
intransitive verb

1 : to find fault noisily or angrily
2 obsolete : to quarrel noisily

Scold | Definition of Scold by Merriam-Webster

とあって、やはり強い感情や怒りの感情を伴うのが通常のようである。もちろん英単語と日本語の単語は一対一で明確に対応するものではないのだけれど、「叱る」に関してはこの英語の定義のほうが、なんとなく日本語の「叱る」をよく説明しているような気がする。声を荒げたり怒気を含むことが、「叱る」には含まれるように思えてしかたない。もしもそうではない、そういった感情を含めるのは効果的ではない、というのであれば、それは単に「指摘」や「説明」であって「叱る」のではないんじゃないか、みたいな気分になってくる。

まあ、このあたりは感覚のちがいであり、「叱る」を別な概念として使うのであればそれはそれでかまわない。だとしても、やはりそこには権力関係が存在することが前提であり、そしてその権力関係は学校教育法11条に由来すると考えるのが正当なのだろうと思う。

 

さて、そんなふうに、まるで異世界でも見るような気持ちで「叱る」関連の文献を眺めていたのだけれど、最後の方で目に止まったものがあった。

ci.nii.ac.jp

学校教育法が禁止する「体罰」とは何か 前田聡

この論文は特に「叱る」ことをテーマにしたものではなく、体罰との関係で教師が生徒を叱る場面が出てくるために検索にヒットしたものなのだけれど、学校教育法11条と懲戒権のことなど、改めていろいろ勉強になる内容でもあった。著者は法学の人らしい。私が「おや?」と思ったのはここだ。筆者は1963年初版の『教育法』(兼子仁)に触れて、

ここでは,何が体罰か,という点については行政解釈を踏襲しつつも,人権尊重の観念と「非権力的教育観」という 2 つの理念によって体罰禁止の趣旨が説明されていることが注目される。

と述べている。「え? 非権力的教育観って?」と、思って脚注に目を移すと、

兼子は,旧教育基本法 2 条,同 7 条をふまえて「今日の教育は,被教育者の自発性を尊重しながら社会生活自体のもつ教育機能を活用して行われる社会的作用とされている」という「社会的教育観」としたうえで,かかる教育観を現行法がとっているのならば,「教育主体の優越性は著しく減退し,もはや教育は法的には権力作用ではなく,非権力的な社会作用となったものと解される」と述べる。

とある。よくわからないのでさらに調べてみると、どうやら法学の方では行政が行う活動を「権力的」と「非権力的」に分類しているらしい。権力的活動とは強制力を伴うもので、たとえば法律や条例などの法の制定、裁判所の執行命令などが該当するらしい。一方の非権力的活動は、強制力を伴わない行政サービスのようなものが当てはまるらしい。

私は公教育というものを学校教育法にもとづく強制力(具体的には11条の懲戒権)をもったものと考えていたのだが、どうやらこの1960年代の法律書、そして現在の法学の方の常識では、教育は典型的に「非権力的行政活動」に属するらしい。たとえば「教育行政機関と学校の関係」(伊津野朋弘)には戦後教育に関して、

教育行政は、権力的手段をもって目的達成を意図する行政作用を多く含む一般行政から独立し て、独自の非権力的行政を実現すべく構想され、それは教育委員会制度の創設となった。そして そこ での教育行政は、「保育行政・助長行政」であり、「その手段においては、権力の行使というものではなく、むしろ精神的または物質的な奉仕」でなければならないとされた。かくて教育は行政上の不当な支配を否定し、自律性を実現すべきものとされるにいたった。そこに戦後教育行政の一つの基本をとらえなければならず、したがって戦前の学校管理概念とは自ら異る実質をもった機能が、行政機関と学校との間にはつくりださなければならないのである。

とある。つまり、教育は本質的に非権力的であるというのである。

非権力的であっても、公的機関は権力性を帯びる。これはちょっと前にも書いたことだ。たとえばおよそ非権力的に行われるはずの行政サービスである水道事業においてさえ、恣意的な意思決定は住民の健康を脅かすだろう(だから意思決定と執行は別組織が行うべきだというのが先の記事の主張だった)。ただ、非権力的な相互作用において、基本になるのは契約関係であり、契約関係において一方が他方に対して行うことができる究極の権利は契約の破棄である。そこに力関係の優劣があれば弱いほうが被害を一方的に被るにせよ、非権力的な行政サービスでは、最も強い強制力は当該サービスの停止であり、それを上回るものではありえないはずだ。

このようにして改めて学校教育法11条を見てみると、教員が生徒に対して加えることができる「懲戒」の最も強力なものは、「教育を行わない」ことであるにちがいない。そして、実際に、学校教育法35条には出席停止処分の規定がある。出席停止は相当に厳重な処分であることがこの条文に定められた手続きからもわかるし、その上でなお、「出席停止の期間における学習に対する支援その他の教育上必要な措置を講ずる」と教育サービスを完全に停止してはならないことまで定めている。こうしてみると、11条の「懲戒」は、実際には文字づらから受ける印象とは裏腹に、決して強力なものではありえないのではないかと思われる。

 

ところが現実には、この懲戒権を根拠に、学校ではさまざまな生徒への権力行使が行われる。懲戒権が定める「懲戒」が具体的に禁止されている「体罰」以外の処罰を任意に含むものであれば、その権利でもって生徒のあらゆる学校生活を教員は縛ることができる。なぜなら、「教育上必要がある」と認めれば、それだけで教員は懲戒を加えることができるからだ。しかし、もしも教育行政が法学が教えるように非権力作用であるのなら、学校教育法が定める「懲戒」の意味が変わってくる。それは究極には(厳正な手続きを踏んだ上での)出席停止処分であり、そこに至る前の警告である。それ以外の権力構造を背景にした教師の恫喝、脅迫、強制などは、すべてあってはならないことになるのではないか。

そして、権力構造がないとき、すなわち、「目上・目下」の関係が存在しないとき、語義的に「叱る」ことは不可能になる。教育は、権力による行為のコントロールとしては存在できなくなる。そうではなく、学ぶ者が成長していく過程をサポートすることが教育であるという、本来のあり方としてしか存在できなくなる。そして気づく。なあんだ、学校教師だって家庭教師と同じじゃないか。教師だからといって自動的に立場が上だなんてことはあり得ない。物事の道理を伝え、わかってもらうのに、そんな社会関係は必要ない。人間と人間は本質的には対等であり、対等であると腹を括ったところからしか見えないものがある。相手が見えなくて、どうやって教えることができるよと思う。

 

結局のところ、「正しい叱り方」とか「効果的に叱る方法」とか、そんなものをいくら読んでも私の心に響かないのは、それらがすべて、「教師が上で、子どもは下」という関係性を前提にしているからなのだ。そういう関係性がおかしいと思えるのは私が一介の雇われ家庭教師に過ぎないからなのだけれど、よくよく考えてみたら、学校教師だって大差はない。そりゃ、学校教育法11条に懲戒権はあるのかもしれないけど、現実を見ようよ。教師だって一人の人間として長所もあれば欠点もある。教師に任ぜられた途端にそういった欠点が消えるわけじゃない。ダメダメなところがあったって、役割を果たせればそれでプロだ。役割を果たすときに、ありもしない優越性は必要ない。そういう割り切りができない限り、学校は正常化しないと思うよ。

 

(追記)                          

学校教育法11条の「懲戒」について「じゃあ、どういうものが懲戒に当たるの?」という具体的な規定を知らなかったのだけれど、文部科学省体罰禁止に付属する文書で例示していた。それによると、

(2)認められる懲戒(通常、懲戒権の範囲内と判断されると考えられる行為)(ただし肉体的苦痛を伴わないものに限る。)
 ※ 学校教育法施行規則に定める退学・停学・訓告以外で認められると考えられるものの例 
 ・ 放課後等に教室に残留させる。
 ・ 授業中、教室内に起立させる。
 ・ 学習課題や清掃活動を課す。
 ・ 学校当番を多く割り当てる。
 ・ 立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。
 ・ 練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる。

となっていて、概ね、一定の自由を制限する処罰を「退学・停学・訓告以外」にも可能としている。このなかに「叱って」という文言が入っているから、文部科学省としては「叱る」ことが可能としているのだということがわかる。

ただ、近年の精神的な暴力は肉体的な暴力に劣らず深刻な被害を及ぼすという考え方に立てば、「肉体的苦痛」の代わりに「精神的苦痛」でもって処罰を加えるのはどうなのよ、ということにもなる。まあこれは、別の話になるんだろうな。

息子の動画を非公開にした - 春の大掃除

私の息子は、(親バカが言うのもなんだけれど)才能のある人だ。小学生の頃は落語家で、イベントの出演や施設の慰問にしょっちゅう出かけていた。もちろん小学生のやることだからしょせんは素人芸でしかないのだけれど、それでもあんなふうに何百人もの聴衆を相手に舞台に立てるかと言われたら、私にはムリだ。中学生になってすぐに全国放送のテレビにも出演したのだから、まあそこそこのところまでは行ったのだろうと思う。

器用なやつなので、小学校の高学年の頃にはコマ撮り動画なんかを撮影しては遊んでいた。やがてBlenderぐらい使えるようになり、3Dの動画なんかも見せてくれた。

声変わりを機に落語はお休みにして(その後復帰できていないのだけど)、ギターの練習をはじめた。声変わりが終わりかける頃から歌もつけるようになって、なぜだか70年代から80年代のフォークソングを弾き語るようになった。これが中高年世代にウケた。「さだまさしを歌う中学生がいるよ!」と、その世代の母親に急いで電話をかけていた女の子の声は忘れられない。高校に入ったときも、たちまち学校公認のフォークシンガーになってしまった。あんまり持ち上げられるのが鬱陶しかったのか、結局歌うのはやめてギターに専念し、3年間でずいぶん上達した。何十年ギターを弾いてる私よりも遥かに上手く、昨夜もいくつかコードを教えてもらった。たいしたもんだ。

そういう芸歴だから、親バカとしてはこれまでいくつもの動画をアップしてきた。よく見られたものでも数百だから、まあ友人知己に自慢するためだけのものではある。プライバシー的なことも考えないでもないが、ステージに立って不特定多数に向かって演じている時点でそれはもう割り切るべきだろう。息子も「アホな親のやることはしゃあない」みたいに黙認してきた。落語で十数本、弾き語りも二十数曲はアップしたと思う。コマ撮り動画とかは、特別に公開を意図したというよりも、息子に渡す目的でアップしたのがそのままになっていた。もともとほぼ非公開に近いものではあった。

それらの動画を、数日前、すべて非公開にした。公開しておく価値がなくなったからではない。たとえばいくつかの落語は子どもが落語をしたいと思ったときの参考になるだろうし、フォークソングの弾き語りは、この時代にちょっと新鮮だったりもする。親が自慢したいだけでなく、置いておけばゴミよりは少しマシな程度の役には立ったかもしれない。けれど、この春、いったん過去のものは整理しようと思った。というのも、そんな息子も高校を卒業し、大学に進むことになったからだ。ここらが区切りだろうと思った。

 

去年のコロナの時期、息子は自らInstagramYouTubeTwitterでの発信をはじめた。自分たちのバンドやユニットが、「これだ」と思うようなコンテンツをアップするようになった。ということは、親が親の思いで彼にまつわる情報を出すべき時期ではない、ということだ。ここから先、新たな活動がどんどん増えていくだろう。外に出す情報は自分で管理していくことになる。親としては、ひとりの観客として、それを楽しめばいい。オフィシャルが出さない情報は、存在しないものとして扱うのがファンの礼儀だ。だから、非公開にした。

もっとも、私が管理していないコンテンツは、どうしようもない。たとえば彼がかつて参加した落語大会の公式ページには彼の過去の演目がいまも公開されているはずだ。Webに公開されているわけではないが、学校行事で参加した演目は、学校内ではふつうに閲覧できたり配布されたりしている。そしてトドメは、彼がまだ保育園の頃、自宅で撮った「手遊び」の動画、妻がYouTubeにアップしたものだ。いまだにアクセスが絶えない。10年以上たって、さっき見たら31万回を超える再生数になっている。

この再生回数を超えることが、彼の最初の試練になるのだろう。そう思うと、笑みがこぼれるのをおさえることができない。

決定プロセスと実行プロセスを同じ組織に委任してはならない

成長性の高い企業の特徴のひとつは、意思決定の権限が末端に委譲されていることだ。本当かどうかは知らないが、そういう指摘をときどき目にする。スピード感が何より重要な時代にあって、上層部の許可がなければ動けない企業は遅れをとる。現場の動きをいちばんよく知っているのは末端の担当者なのだから、そのレベルで決裁して差し支えない事柄については権限を移譲してしまう。権限の分散が営利企業においては重要なのだそうだ。

それはそうなんだろうと思う。それに比べれば、公的機関の動きや判断はイライラするぐらいに遅い。1980年代頃だったと思うが、「役所は民間企業に学ばなければいけない」みたいな風潮があったのも、ある面では理解できる。スピード感ということでいえば、とにかく公的機関は遅い。だが、社会経験を重ねてくると、それはそれでしかたのないことだと思えるようにもなってきた。官と民は、似ている部分もあるが、根本的に性質のちがうものだ。ケインズ以降、官が事業をして経済を回す部分が大きくなり、事業であるため民間と区別がつきにくくなった経緯はあるのだろうが、本来、公的な事業はあくまで公共の福祉のために行うのであって、営利企業とはスタンスがちがう。まして、公的機関が担う機能は事業だけではないのだから、そこは大きくちがうのが当然だ。利益を出さない民間企業は潰れればいいのだけれど、公共の福祉のために存在する公的機関が潰れてはいけない。そこだけとっても大きくちがう。

さらに、公的機関には、法律によって、通常の企業には与えられない権力が付与されていることが多い。たとえば水道事業だけれど、安全な水を利用できることは基本的人権であると考えることもできるのだから、それを供給することには権力性が付随する。水道事業者の都合で上水の提供を止めることができたら、それは恣意的な権力の行使になってしまう(だから水道に関しては電気やガスとちがって料金未払いで止められることがない)。あるいは道路の拡幅や新設でもそれによって住民の権利が制限されたり利害が偏ったりする場合があるのだから、「便利になればそれでいい」というものでもない。こういった権力の行使には慎重の上に慎重でなければならないし、調整のためにスピード感が犠牲になってもやむを得ないともいえるだろう。

公的機関の行うことには権力性が多かれ少なかれつきまとうことが多いのだが、そのなかでも制度上、はっきりと人権を制限する機能が与えられている機関が存在する。その最たるものが警察だ。警察は、公共の安全を守るため、一定の条件下で人権を侵害する権力を与えられている。たとえば逮捕や家宅捜索は、基本的人権を明らかに侵害している。このような権力を与えられた機関は、常に適切なコントロール下に置かれねばならない。だから、警察の権力行使には裁判所の令状が必須とされている。現行犯逮捕のような緊急時を除き、常に外部機関による決定がなければ動けないとされているのが、制度の設計になっている(それを迂回する「転び公妨」のような問題はまた別の話になるだろう)。

警察ほどはっきりしていないが、学校も人権を制限する権力を与えられている。義務教育という制度設計と社会の通念の上から、そうなってしまっている。学校長を責任者として学校・教員は、教育上必要と認められる指導を生徒・児童に対して行うことができる。たとえば、生理的欲求を満たすことは基本的人権であり、人間は、生まれながらにして必要に応じてトイレに行くことができる。ところが学校は、指導上の必要性からトイレに行く時間を休憩時間に制限した上で(そこまでなら便宜上わからないでもないのだけれど)、それ以外の時間にトイレに行くことに教師の許可を必要とすると定めている。私は家庭教師として生徒から「トイレに行っていいですか?」と言われるたびに「あかんと言うたらどうすんねん?」とツッコむのだけれど、現実には「教育上の指導」と称して許可を与えない教師だって学校にはいるらしい。まさに、現実として学校には生徒の人権を制限する権力が与えられているわけだ。

近頃よく話題になるブラック校則にしたところで、それがまかり通るのは学校に権力が与えられているからだ。義務教育ではない高校に関しては、「それが嫌なら学校をやめればいいじゃない」と、制度上はあくまで契約関係に基づく制限であって、無制限な権力の行使ではないということになっている。しかし、高校を中退することによる社会的な不利益は非常に大きく、高校を経由しない人生設計が困難である現状を考えれば、やはりここには義務教育に準じた権力構造があると言わざるを得ない(ただ、高校に関してはかつての大検から高検への制度変更など、そこを経由しない道筋が少しずつ認められるようになってきているとは感じている。それは別の話だ)。まして義務教育である中学校には、「そんな校則にはしたがえない」と感じたら基本的人権である教育を受ける権利が失われるわけで、「教育上の必要性」という名目は相当に強力な人権制限を伴う権力を制度として学校に与えているのだということがわかる。

 

そういった権力の存在を否定するアナーキーな発想もそれはそれで興味深いのだけれど、現実には警察も学校も必要だと感じられる私にとって、それではその権力の暴走をどう食い止めるのか、ということが重要になってくる。なぜなら、権力は必ず暴走するからだ。

これは、いまから70年近くも前に書かれた「パーキンソンの法則」という本にも書かれていることなのだけれど(私の書棚にもあったのだけれど、英語の勉強にちょうどいいからと高校生に貸し出してまだ戻ってきていない。したがって、正確な引用はできない)、あらゆる組織は組織であるが故に、組織の自己防衛と権力の拡大化を目指すようになる。これは人間の本性に組み込まれている志向のようで、例外はない。あるいは、例外が発生するような組織はすぐに消失してしまうため、世の中には自己防衛と権力の拡大を目指す組織しか残らなくなる。「パーキンソンの法則」は社会学者が書いたとはいえかなり通俗書であるのでわかりやすい分だけ大雑把なのだけれど、それだけにおおまかな話としてはその後数十年を経てもその正しさは失われていない。そして、組織の自己防衛と権力の拡大は、すなわち、暴走である。組織が置かれた本来の目的とは無関係な方向に組織が動きはじめる。

たとえば、学校。校則の多くは統制をとることを目的としている。統制をとることは、たしかに学校運営をやりやすくする。さまざまな問題の発生を防ぎ、失われるコストを最小限にとどめるだろう。しかし、学校の目的は子どもたちが健全に成長するように介入を行うことであって、学校の運営を効率的に行うことではない。たしかに本来の目的を達成するためには余分な問題が起こらないようにしたほうがいいのかもしれないが、多くの校則は必要以上に強権的であり、場合によっては子どもたちの成長に対して著しく有害であることだってある。それでもそれが「そういうもんだ」と判断されるのは、それが組織防衛にとって有益であるからにちがいない。つまり、本来の目的とは別な目的に向かっているのであり、権力の暴走である。

 

権力が必ず暴走するとき、そしてそれでも権力を何らかの公的機関に与えねばならないとき、人間は知恵として対立する機関に権力を与えてバランスをとることを選んできた。これが権力分立だ。典型的には立法、行政、司法の三権分立。これらの機関にはそれぞれ相当に強力な権力が与えられる。だからこそ、互いに牽制できるような独立性と監視機能が与えられたわけだ。それは中学校の社会科でも習う。

そして、権力分立とは厳密な意味ではちがうのかもしれないが、やはり権力機関には別の独立した組織が監視なり監督なりを行うようになっている。たとえば上記の警察に対する裁判所の令状発行がそうだ。また、制度としては、学校に対する教育委員会だ(残念なのは教育委員会が校長OB会みたいになって学校からの独立性が怪しいことではあるのだが、それもまた別の話だろう)。権力を与えられた組織が暴走しないためには、必ず別の権力組織が必要になる。

そして、近頃思うのは、この権力の分立、結局は決定機関と実行機関と監査機関を分けることではないかな、ということだ。つまり、何らかの権力の行使を行おうとするのであれば、その実行組織がまず必要だ。しかし、実行組織が意思決定すると、必ずその方向は組織防衛と権力拡大に向かう。したがって意思決定は別の機関が行わねばならない。その上でなお、決定された意志が正しく実行されたかどうかは、さらに独立した機関が監査しなければならない。これが国政に反映されたものが立法、行政、司法の三権分立ではなかろうか、ということだ。

そして、国政以外の公的機関にあてはめた場合、監査(というよりも最終的な行為の適法性の判断)は、そのまま司法に任せていいだろう。ここの部分で権力を二重にする必要はない。そして、ほとんどの公的機関は、決定機関と実行機関を兼ね備えている。これは、法令の枠内で「この部分は権限を認めますよ」と定めた範囲に関して、その機関の長に裁量権があり、その長が指揮する組織が実行を司るという意味である。たとえば学校であれば、校則を定めるのは校長であり、校則を実施するのは校長が指揮する教職員である、ということになる。これがまずいのだと思う。

 

学校の例だとわかりにくいので、もっとわかりやすい例を出そう。近頃、報道で悲惨な例を耳にする出入国在留管理局だ。入国管理局の業務は、なるほど、法令に則って行われている。しかし、実態としては裁判によらない自由権の侵害であり、憲法違反の虐待であり、人間の尊厳やときには生命にかかわるような拘束である。なぜ法治国家であるはずの日本においてそのようなことが起こり得るのかといえば、それは入管が組織防衛に走っているからだと理解するのがもっとも説明しやすいように思える。すなわち、入管の本来の目的は、日本への入国者を適切に管理することであろう。その際、法の想定を超えて入国してきた外国人に対しては、一律に違法として送還を行おうとする。送還が不能な場合に収容し、それが長期に渡っても何らそれ以上の対応ができない。なぜならそうやって杓子定規な対応をしている限り、組織としては安泰だからだ。組織防衛という自己目的の上からは最適解となる。そして、収容者に対する虐待も、それが収容施設の秩序を保つのであれば、組織にとっては最適解になる。それが、「入国者の適切な管理」にはまったくつながらないか、場合によってはその目的と大きく乖離するとしても、それが何らかの動機になるわけではない。

もしもここで、「送還するかどうか」「収容するかどうか」「収容を解くかどうか」といった判断を入管以外の機関が行うように制度を改めたらどうだろうか。単純に決定する場所が変わっただけで、同じ制度下では同じような決定が出ると考えてもかまわない。けれど、拮抗する権力関係は別な結果を生むだろう。たとえば、「杓子定規な対応はおかしい」と思っても自らが決定機関であったとしたらそれをいうことは組織防衛の原理に反する。それは言ってはならないことになる。けれど、別組織が意思決定をするのであれば、「杓子定規に収容しろと言われてもこっちの方はもう定員いっぱいですよ」と反論することが可能になる。むしろそういう反論は、組織防衛と拡大にプラスになるだろう。一方、収容者に対する虐待が批判されても内部に秩序を保つことに対する防衛原理が強ければそれは無視されるのだが、意思決定機関側が独立した権力としてそれを批判すれば無視できなくなる。このように、決定プロセスと実行プロセスの分立は、システムに大きな変更を加えなくとも、それだけで権力の暴走を防ぐことになるだろう。

 

もっといい例として、児童相談所の問題がある。というよりも、この「決定機関と実行機関が同一であることから問題が発生する」という気づきは、実は児童相談所のいくつかの事例からもたらされたものなのだ。児童相談所は虐待による被害を防ぐために、なくてはならないものである。けれど、児童相談所児童福祉施設の実際は、どちらかといえば過剰な組織防衛に走っているように感じられる。その一方で、ときどき報道されるように、「児相が機能していれば防げたのに」という事件が起こったりもする。「児相は余分なことばっかりやらかしやがって」という思いと「もっと児相にはしっかりしてもらわないと」というまったく対立する印象を受ける出来事の果てに、「どうも機能不全は決定機関と実行機関が同じだから、自分たちの組織の都合で目的を曲げてしまうことが自然発生するんじゃないか」と気がついた。

だから本当は、そういった考えに至った案件を書けばいいのだ。けれど、それぞれに対して私はそれほど深くかかわったわけでもないし、制度にそこまで詳しいわけでもない。さらに、実際の当事者たちのプライバシーもある。フェイクを入れて事実関係に誤解が発生してもいけない。いつか書ける日が来たらとは思うけど、当分は無理だなあと思う。

だから、本当は今回の記事のテーマである「決定プロセスと実行プロセスを同じ組織に委任してはならない」という発見は、常日頃思いながら、「書くことはないだろうな」と思ってきた。ただ、ここ数日来、そういう趣旨で書いたブックマーク・コメントにずいぶんと多くのはてなスターが集まったのを見て、未熟でも書いといたほうがいいかなと考えを改めた。

だから、この記事はどこか奥歯に物が挟まった言い方にもなったし、具体性を欠いた空論のようでもある。けれど、よく注意してみれば、決定プロセスと実行プロセスを同じ組織が担うことによって発生する問題は、いろいろなところで見られるはずだ。たとえば、生活保護申請の窓口業務がそうであったりする。制度設計上はどうであれ、窓口業務を担当する職員は権力性を持っている。そして、それが市役所という実行組織の中で決定プロセスにかかわると、組織防衛のために本来あるべきでない行為を行うようになる。

もちろん、ここで書いてきた「プロセスを分離すべきだ」という考えは、権力にまつわることについてのものである。冒頭でも書いたように、権力の絡まない場においては、決定プロセスと実行プロセスは現場で同時進行的に行えるほうがいい場合もある。あらゆるものを営利企業のプロセスになぞらえて考えるのが誤っているのだということは、改めて念を押しておきたい。

「体操服の下に下着を着ない」は、変態教師の妄言とは、ちょっとちがう

ブラック校則との関係で「体操服の下に肌着を着てはいけない」というルールが少し前からときどき取り上げられる。私は着衣や髪型などに関してとやかくいうのは人間としてどうなのと思うほうだから、こういうルールが学校にあるのはおかしいと思っている。そして、多くの校則が「規則のための規則」と化し、その意味が検討されることもなく、ただそれが存在することによって統制と権威付けが行われる機能だけをもっているという現状を見たら、「ええかげんにせぇよ」と言いたくなる。ときには、「そのルールは異常だろう」と思えるものもふつうに通用していたりする。

ただ、どんなにおかしく見えるものであっても、成立当初には何らかの合理的な理由があったと考えるのが穏当だろうとは思う。たとえば「体操服の下に下着を着ない」というルールにしても、一見、「下着のことなんて気にするのはおよそ変質者ぐらいなもんだろう」と思えるのだが、実はそれなりの根拠はあったようだ。これはもっぱら、家庭科の方の知見によるものらしい。たとえば、

『衣服の着方の工夫で冬を快適に』 の授業提案 (薩本弥生,井上真彰)

によると、

肌着は吸湿性の高い綿などの素材が使用されることが多いため、一度濡れてしまうと後冷えして不快になるため、汗をかきやすい季節や運動量が多い時は吸水速乾性に優れた体操服だけに着替えて運動し、運動後は汗を拭きとってから、肌着を制服の下に着るのが良いと考えられる。 

 とある。これはなにもこの論文で初めて主張されたことでも何でもなく、私が中学生だったはるか昔から、家庭科の教師や体育の教師が主張していたことである。ちょっと探しただけでは文献に出てこないぐらい、常識化していた知見であるわけだ。ちなみに、これに対しては「なるほど」という意見と「ちょっとおかしい」という意見が、当時でも両方あったと記憶している。特に、「後で冷えるにしても、運動中の汗を放置するのはまずいだろう」という意見はけっこう説得力があり、そのため、タオル2枚を用いて体操服の下に汗取りのための層をつくって、汗をかいたらすぐにそれを抜き取る、みたいな運用も(マラソン大会のときなんかには)あったように記憶している。

じゃあ、「体操服の下に肌着を着ない」というのは合理的なのかといえば、現代ではそんなことはない。なぜなら、下着の性能が上がり、「吸水速乾性に優れた」素材は普通に安価に手に入る。下手をすれば、体操服以上だ。そういうものが求めればいくらでも手に入る時代に、いまさら「下着が濡れたら気持ち悪いから」みたいな理屈は通らない。

結局、問題なのは時代に合わせたアップデートができないことであったり、一律に問題を解決しようとする姿勢であったりであって、決して変態趣味ではないのだ。問題を正しく把握しないと、解決からはどんどん遠ざかるだけだから、このあたりは気をつけるべきだと思うよ。

地頭の良さと受験勉強と

学習塾的な教育が「本質的に」役に立ってるのかという増田(Anonymous diary)記事があった。

anond.hatelabo.jp

SAPIXみたいなのって本質的に役に立ってんの?

老子によればおよそこの世の中無用のものはないのであって、そりゃ、この世に存在するものであれば役に立ってないわけはない。ただ、記事には「本質的に」とある。じゃあ、「本質」って何かって考えたら、そこはわからなくなる。まあ、難しく考えるからわからなくなるのであって、ひらたく考えたら、「子どもに教育を受けさせる意味」みたいなことかもしれない。だったら、これは「本質的には役に立たない」と断じてかまわないだろう。少なくとも現代社会に合意されている意味では、役に立たない。

なぜなら、日本国憲法にあるように教育を受けるのはすべての人に認められた権利であり、基礎教育は国が無償で提供する。無償で提供する教育内容は、「本質的に」役立つものでなければならない。現実がどうなっているかはさておくとして、理念としてはそうなっているはずだ(でなければ国会で法改正が議論されるはず、ってのが民主主義だよね)。そして、教育基本法以下、学習指導要領までを読めば、たしかに(それが正しく実施されるなら)、公教育は本質的に役に立つように設計されている。

公教育の外側に位置する受験産業は、多くの場合、公教育で認められなかった教育を施すものだ。特に、中学受験のさまざまなテクニックは、かつては指導要領の中で認められながら、それが洗練されるとともに次第に排除されるようになっていったものだ。もしもそれらが本質的に役に立つものであったなら、排除されるはずがない。本質的ではないから排除されたのだ(ただし、受験業界には、序列をつける上でそれらのテクニックを利用する価値がある。だから公教育の外側で生き残った。そのあたりの批判は、別記事でも書いたところだ)。受験産業のやってることの多くは、「本質的な」意味では役に立たない。

もちろん、このブログでも何度も書いているように、全体の話と個別の話を混同してはいけない。個別には、そういったテクニックを学ぶことで本質的な成長を遂げる生徒もいるだろう。だが、そうなってくると、教育が目指す本質的な成長とはどういうものだという話になってしまう。そして、この少し前に目にした別の増田記事が思い浮かぶ。これだ。

anond.hatelabo.jp

いや、この記事そのものよりも、そこについたブコメ群のほうだろう。

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コメントを見ていて思ったのは、「地頭」のイメージがずいぶんとひとによってちがうのだなあということ。まあ、元増田のイメージはかなり極端なハズレ値だと思うのだけれど、それにしても幅が広い。

私のイメージだと、「地」なのだから、余分な介入をしない時点での利発さのことかなあと思う。そして、「余分な介入」の大部分は、私にとっては受験勉強に代表される反復訓練だ。それをしなくても「一を聞いて十を知る」ような回転のはやい生徒に当たったとき、「ああ、こいつは地頭がいいなあ」と思う。そして、「これはラクができるな」とホッとする。家庭教師にとってはアタリの生徒だ。細かいこと言わなくても、軽いアドバイスでどんどん点数をあげていってくれる。実際のところ、「できるやつは何をやってもできるし、できないやつはどうがんばったってできない」。この絶望的な事実は、家庭教師を数年もやればイヤでも気づかされることだ。伸びる生徒は家庭教師なんぞつけなくったって伸びるし、底辺を這いずる生徒は家庭教師がいくらムチで叩こうが成績を上げない。結局は地頭の良し悪しが結果を左右してしまう。ミもフタもないことではあるが、ある部分は、否めないことだ。

この「地頭がいい」生徒、意外にも小学生時点では珍しくない。それが中学生になると、減ってくる。ということは、外部から感じられる「地頭の良さ」は、決して遺伝のような生得的に決まるものではなく、あるいは幼児期の英才教育のようなもので決まるものでもないのではないかと思えてくる。もしもそうなら、年齢によって出現率が変化するのは奇妙だということになるからだ。そして、だとするならば、「地頭を良くする介入」ができるのではないかという推論が生まれてくる。変化するものなら、その変化への介入はできるはずだ。地頭の良くない生徒の成績を伸ばすことは困難だけれど、地頭を良くすることはできるんじゃないかという希望が生まれてくる。

ということで、私はできるだけテスト対策なんかには時間を潰さずに、「どうやったらこいつの地頭を伸ばせるだろうか」という課題に焦点を当てるようにしている。もっとも、そのあたりはいろいろ兼ね合いもあるので難しい。それになにより、「地頭」というものの正体がいまひとつ判然としないため、それを伸ばすためにどういう対策がベストなのか、生徒によっては狙いを定めきれないことも多い。それでも、そういう観点で取り組むことで、どうやらこうやら「家庭教師なんてあってもなくても同じ」というところから少しだけは抜け出せているのかなと思う。

 

ちなみに、「地頭」を伸ばす方法として、おそらくこれまでの研究の蓄積の中でほぼ唯一エビデンスが得られているのは、「読書」であるようだ。ただし、読書なら何でもいいのかというとどうもそういうことでもないし、読書が唯一の方法であるのか、それがベストの方法であるのかということも、何一つエビデンスがないようだ。私がもう一つ注目しているのは「対話」なのだけれど、これも方法論として確立しているわけではない。いずれにせよ、こういうことは「本質的」な教育効果につながると思うし、学習塾ではまずやらないことであったりする。ということは、まあ、やっぱり学習塾とかには、「本質的な」意味はないのかなあ。もちろん、中受の合格勝ち取りたければ、ヘンな家庭教師なんかにつくよりはよっぽど役に立つと思うけどね。

なぜ「昔話」のオリジナル版をあまり目にしないのか

こんな増田記事を見てブコメを書こうと思ったけど、長くなるのでこちらで。

b.hatena.ne.jp

[B!] 昔話はなぜ文語じゃないんだろう

「昔話」と一口に言っても、中身はいろいろある。柳田国男を先駆として各地で採取されてきた「民話」が量からいっても質からいっても「昔話」の大部分を占めるとして、そのなかにもいろいろな系統やら分類やらがあるらしい。そして、その外側に書物に記され、文書として読まれてきたものがある。ただ、それらも口承で伝えられてきたものの記録であったかもしれないし、あるいはオリジナルな創作であっても、それが口承され、やがて民話の中に溶け込んでいったものもあるだろう。

口承の民話であれば、それが文語でないのはある意味、当然だ。文語どころか、地方独特の語り口で記録されたままのものは、現代語の感覚だとまったく意味がわからなかったりもする。そういった記録は当然存在しているのだけれど、一次資料的なそういうものが一般の目に触れないのは、これも当然だろう。

その一方で、書物として伝えられてきた「昔話」に関しては、当然ながら古文で書かれている。増田は「我々が知っているのは、かぐや姫に対する竹取物語ぐらい」と書いているが、たとえば「浦島太郎」は「丹後国風土記」だし、「ものぐさ太郎」は「御伽草子」が出典だ。「こぶとり」は「宇治拾遺物語」に記載されている。これらは、古文で書かれていて、ごく普通に入手できる。たとえば私の書棚にも、岩波文庫版の御伽草子がすぐ手の届くところに置いてある。

つまり、「竹取物語ぐらい」というのは、増田が単に無知なだけだ、と言ってしまってもいいのだけれど、実はここにはそういう無知を発生させる事情があると私は思っている。それは、高校入試、大学入試の存在だ。

 

通常、高校入試、大学入試の国語の試験には古文が出題される。出題される古文は、新たにつくられることはなく(そういう擬古文を問題に出したらたちまち各方面からたたかれるだろう)、中世以降に実際に書かれた文献から抜粋される。千年以上も蓄積された文献があるのだから、いくらでもバラエティに富んだ出題ができるはずだ。しかし現実には、「この文は頻出!」とか、「これは過去にも出題されたことがあるね」みたいなものが多い。つまり、膨大な文献の中から入試問題に出題されるのはごく一部でしかない。

なぜかといえば、それは入試問題のフォーマットのせいだ。入試問題は制限された時間内で解くことが前提であり、たとえば1つの古文に関しては15分とか20分ぐらいで解くことになる。となると、問題文が長大であってはならない。数百字から文系大学の入試でもせいぜい千数百字程度までの長さであってほしい。そして、文脈を理解するためには、できればそれだけの文字数で完結していることが望ましい。そんな都合のいい文だけが入試に選ばれる。

なぜ徒然草宇治拾遺物語が入試問題に頻出するかといえば、単純に長さがちょうどいいからなのだ。もちろん今昔物語や宇治拾遺物語の中には長い目の説話も含まれているが、そういうのは出題されない。入試問題にちょうどいい長さのものばかりが選ばれる。江戸文学あたりだとそういう長さのもののバリエーションも増えてくるけれど、鎌倉時代あたりだと本当に限られてくる。御伽草子は室町期の成立といわれていて、古文の問題として出題されても不思議ではないのだけれど、滅多に出ない。その理由は、単純に一話が長いからだろう。

だから、少し時代が下って安土桃山時代の「伊曽保物語」はよく出題される。これは元ネタがイソップ物語で一話あたりが非常に短い。だから、高校入試とかにはうってつけなわけだ。翻訳(翻案)に過ぎない伊曽保物語と御伽草子と、文学史的にどっちが重要かといえば、甲乙はつけがたいのではないか。そのなかで御伽草子が入試に出にくいのは、その理由として「長いから」という身も蓋もない事情以外、考えられないのではないかと思う。

そして、一般人が古文を読むのは入試や入試対策にほぼ限られるのだから、入試に出ないとなると、その存在すら気がつかないことになる。増田の無知は笑えない。恥ずかしいのは入試制度に過度に傾斜した学校教育のほうだろう。

無敵の人になる方法 - はみ出し者の組織における役割

家庭教師を派遣する小さな会社に雇われて子どもに教え始めてからちょうど8年になる。初めての生徒をもったのが2013年の2月だった。いまでも印象に残っている。あの頃は、私もまるで素人で、生徒にずいぶん迷惑もかけた。私だけじゃない。会社もいまよりもずっといい加減だった。私自身が会社に不信感をもっていたし、会社の方も講師は使い捨てという態度だった。実際、2年ほどで最古参になれたぐらいに人の入れ替わりが激しかった。ロクなことではない。

この8年で私は大きく変わった。あの頃には夢想もしなかったオンライン授業までやってるんだから、わからないものだ。そして、会社も変わった。まだまだ「ちょっとどうなの?」的ななところは多いけれど、ずいぶんとまっとうになった。ブラックだった労働環境も、ホワイトとまでは言わないが、だいぶ明るい色になった。それを証拠に、ここ4、5年は講師陣の顔触れがほとんど変わらない。ポツポツとメンバーの入れ替わりがないわけではないが、以前のように数ヶ月で消える人はいなくなったし、いつの間にかいなくなって「あれ? 辞めたの?」みたいなこともなくなった。このぐらいの人の入れ替わりはどこの会社でもあるだろう。人が安定することは組織が安定することでもあるし、サービスのレベルが維持され、向上していくことでもある。正直、こんなふうに変わるとは想像もしなかった。

とはいえ、私はこの家庭教師サービスを全国展開している会社とは、個人事業主としての業務契約を締結しているに過ぎない。いわゆる「契約社員」というやつだ。だからどれだけ会社が成長しようが、ある意味では他人事である。私がこの会社の仕事を始めたときはそういう立場の講師も多かったのだけれど、途中から会社は正規雇用の常勤講師の比率を増やす方向に舵を切った。安定し始めたのはその頃からで、やっぱり経済的な保障が何よりも重要なのだなあと思い知らされた。ちなみに私が「正社員」にならなかったのは自分にとってそのほうが都合がいいと判断したからで、そのことは5年前に電子書籍として出した本の中で詳しく書いた。繰り返しになってもいけないので、詳しくは書かないけれど、興味があったら読んでみてほしい(末尾にリンクを貼っといた)

会社の体質が変わったのはファンドが入って経営が変わったことがひとつの理由だ。ただ、その少し前から変化の兆候はあった。そして、単純に経営者が変わっただけで何もかもが変わるわけもない。やはり現場の一人ひとりの意識が変わったことが大きい。その変化のためにはやっぱり自由にモノが言える雰囲気が大切だ。そして、古参講師のひとりとして、私はそういう空気をつくるのに多少の寄与をしてきた自負がある。口幅ったい言い方ではあるが、大きな変化の中のごく小さな部分は、自分がいたからだと思っている。言葉をかえれば、そういうふうに思えるからこそ、ときに「しょうもない会社やなあ」と思いながらも、私は未だにその会社の仕事をしている。そしてたぶん、まだしばらくはそれを続けるつもりでいる。なぜなら、その「しょうもない」部分を少しでもマシにしていけると思うからだ。

ダメな勤務先は辞めればいい。基本的に私はそう思っている。ダメな連中のために自分の貴重な時間を潰すべきではない。ただ、ダメなところを辞めて、次にマシなところに移れるかといえば、その保証はない。だんだん年齢を重ねてくると雇用のチャンスはどんどん小さくなる。ある時点から私は、ダメなところから次のダメなところに移るより、ダメな場を少しでもよく変えていくほうが面白いと感じるようになってきた。それが常にできるとは限らない。けれど、できるのならそうするほうがエネルギーの使い方として賢いのかもしれないと思えるようになってきた。

ダメな職場に勤めている人の多くは、「ああ、ここ、ダメだなあ」とか「どうにかしてくれないかなあ」と思ってる。けれど、たいていは黙っている。言ったところで変わるもんじゃないし、批判ばっかりしてると空気を悪くする。周囲から煙たがられるし、場合によっては上から睨まれる。下手をすれば給料や雇用に響いてしまう。余分なことを言うことで職を失うぐらいなら、少しのことぐらい我慢すればいい。それが人生というものだと、目先のことに集中する。そうしていれば、どうにかこうにか生きていくことができる。ま、はなっから問題なしと思い込んで政治ゲームにうつつを抜かすような人々だっているし、もともと自分の目先のことにしか関心のない人だっている。そういう人はそういう人だ。けれど、話してみるとけっこう多くのひとが「もっとこうすればいい」みたいなことを思いながら黙っている。身の安全のために黙っている。

ダメな場を少しでもよくしたいと思うのなら、そういうひとが声を出せるようにするのがいちばんだ。なぜなら、自分ひとりでは絶対に大きな場を変えることはできない。それだけのエネルギーもないし、だいいちが、自分自身の問題意識が正しいかどうかもわからない。「絶対こうなった方がいい」というアイデアがあっても、自分しか賛同者がいなければ基本的にそっちには動かない。けれど、多くのひとが賛同するようなアイデアであれば、意外に簡単に場は変わる。じゃあ、賛同するひとがいるかどうかっていうのが問題だけれど、それは皆が自由に喋るようにならなければわからない。皆が意見を言えるようになったら、場は変わる。ときには自分から見て「あれ? かえってわるくなったんじゃないの?」って方向に変わることもあるけれど、変わるときはチャンスだ。止まっている石は動かせないけれど、転がりだした石は脇から小さな力を加えるだけでうまくすれば望んだ方向に向きを変える。変わり始めたら、まずそれだけで大きな第一歩だ。

そしてここで、私のようなはみ出し者が役に立つ。正規雇用の常勤の講師たちは、そうそう簡単に声を上げられない。生活がかかっている。けれど、時間いくらで契約している私のような立場なら、いくらでも言いたいことが言える。だから私は、この8年間、会社のミーティングに出席するたびに文句を言い続けてきた。自分に関係のない常勤講師の問題にまで首を突っ込んで文句をつけた。なぜなら、常勤講師が働きやすい職場になれば会社全体のクォリティが上がり、それが自分の仕事のしやすさにつながってくることに気づいていたからだ。末端の労働提供者に過ぎないくせに、会社の経営方針にまで偉そうに意見を言った。もしもそういう変化が起これば、自分の仕事がやりやすくなることがわかっていたからだ。

ふつう、そこまではできないと思う。なぜ私ができたのかといえば、「クビにするならいつでもクビにしてくださいよ」と言える立場をつくりあげてきたからだ。いわば、組織内の「無敵の人」だ。一般に「無敵の人」は悪い意味で使われる。安定した社会のルールを無視して好き放題に振る舞うその姿勢は、秩序を壊すだろう。けれど、ダメな組織を変えようと思ったら、そういう無敵の人が必要だ。私は半ば意図せず、半ば意識的に、そういう人になった。

通常、雇用者と被雇用者の立場は、圧倒的に後者が弱い。雇用者が「嫌なら辞めてもらってけっこう」という言葉と、「嫌ならいつでもクビを切れ」という言葉では、強いのは前者だ。後者は普通、負け犬の遠吠えにしかならない。そうならないようにするためには、本気で「辞めさせたければ辞めますよ」と言えなければならない。そのためには2つのことが重要だ。

まずひとつは、「こいつを辞めさせたら損だな」と会社に思わせることだ。これは案外と簡単にできる。もともと非正規雇用契約社員は常勤の正規雇用に比べて会社にとってメリットがある。なにせ安いから。ぶっちゃけの話、家庭教師の給料なんて底辺レベルでしかない。正規雇用だとそうではあっても固定給に保険だとか賞与だとかいろいろ付いてくるから多少はマシになるのだけれど、非正規だととにかく安い。これはデフォルトで会社のメリットだ。ただ、それだけなら「代わりはいくらでもいるよ」というのが産業革命以降の雇用者の立場になる。そう言わせないためには、真面目で優秀な従業員になることだ。難しいことではない。余分なことに気を回さず、求められたことをやればいい。この会社が講師に求めているのは、第一に生徒を辞めさせないこと、第二に生徒家庭から追加の授業を申し込んでもらうことだ。つまり売上を減らさず、増やすことだ。この2点だけそつなくこなせば、それができない他の講師よりも評価は上がる。会社がぜひとも手放したくない講師になれる。

もうひとつは、それでも万一辞めなければならなくなった場合でも困らないだけの準備をしておくことだ。それは、自らの技量を磨いておくことだ。プロの家庭教師として、そのレベルを高めておけば、いざというときの保険になる。なぜなら、その技術はそのまま会社を辞めても使えるからだ。たとえば、私は常に会社とは無関係な生徒を何人か確保しておくことにしている(私が非正規雇用を選んだ理由のひとつはそこにある。並行して個人営業が可能だから)。もしも会社を辞めても、最低限の収入は確保できるし、生徒を増やせれば失った分もカバーできる。じゃあなぜすぐにそうしないのかといえば、個人で生徒を集めるのはめんどくさいからだ。会社にぶら下がっていれば生徒を集める方にではなく、教える方に集中できる。そこはメリットだ。けれど、常にスキルを磨いていれば、会社にすべてを依存する必要はなくなる。使ってくれるならそれはそれでいいけれど、嫌なら自分でやるよという姿勢が身についてくる。あるいは、他の会社に行ってもいいよと言えるようになる。

会社にとって惜しい人材になることと、会社に生活のすべてを依存しないようにすることと、この2点で、会社という組織内で私は無敵の人になれた。利害はあるけれど執着のない関係者になれた。だから、言いたいことは遠慮せずに言う。それが組織内を活性化して、会社がいい方向に変わるのに少しでも寄与したと、自分ではそんなふうに思っている。

「それってタダ働きじゃない?」と言われたこともある。こういう自慢話をすると、鋭い人は気がつくのだ。組織が良くなることでトクをしているのは会社であり、私ではない。捨て身の無敵の人になることで、私はリスクを背負い、会社は活性化する。それって単純に損じゃないかというのだ。それはそうかもしれないなあとも思う。けれど、そこまできたら、私には別な動機があるのだということがわかってくる。

それは、会社の方針をもっと大きく変えることだ。たとえば、いま、会社では講師の標準的なプラクティスとして、宿題を義務付けている。どんな生徒であっても、毎週、宿題をきっちり出さねばならない。私はこれを変えたいと思っている。なぜかといえばそれは子どもたちのためにならないと信じているからだ。その信念のもとをたどれば宿題嫌いだった昔の自分がいる。だからこれは宗教みたいなもんだ。宿題根絶は私の悲願だ。だからまず、ひとつの会社で「宿題は必ず出すもの」という思い込みを、「宿題は必要に応じて出すもの」というごく当たり前の実践に変化させたい。その上で、「必要なんてほとんどないじゃない」という事実に気づかせたい。そうやって、宿題依存の業務形態を変えさせたい。そんなもの、ごく小規模の特殊な家庭教師会社ひとつ変えたところでどうなると言われるかもしれないが、もしもこの会社がそう変わることで他社に差別化ができ、営業成績が上がるようになれば、必ず業界に追随するものが現れる。世の中の変化はそういうふうにして起こすものだと思う。そこまでできたら、多少自分に損なところがあっても本懐ではないか。

だから私は、いまもときどき思い出したように、会社のミーティングでは「宿題なんて毎回出す必要ないですよ」とか、「習慣だからって勉強するのは害悪でしかないですよ。あれは必要だからやるんです」みたいなことを言う。無敵の人だからそれを言えるのだし、そういうことを言っていると、そのうちに「そこまで言ってもええんやな」という空気が生まれてくるはずだ。そしたら、本当の意味での議論が始まる。そして、議論の中で会社も変われば、私も変わる。それが楽しくてしかたない。

人生、楽しまなければ損だ。だから私は、あえて組織におけるはみ出し者になる。追い詰められてはみ出すのはしんどいだけだ。楽しくなんかない。けれど、自分からきっちりと準備してはみ出すなら、こんなにおもしろい役回りはない。人がそれを道化と言おうが、それもまた、人生。

 

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