イラストが本文化していく時代

ブコメはてなブックマークにつけたコメント)の補足を書いておこう。もともとの話題はこちら。

togetter.com

これももともとのTweet(といまは言わんのか)をまとめたもので、さらにそれにブコメつけるというやたらと階層のめんどくさい構造になってるのだけれど、それはともかく。スタートのポストはまともなことを言ってて、

当時は小説におけるイラストというものが惰性的というか、かなり軽んじられていたことが窺える 

と、なんかニュアンスはあれとして、事実関係はそのとおりと思う。ところがそれにぶら下がるポスト群が、なんだか現代の文脈で当時を解釈していて、なかには「それはあり得んだろ」という解釈をとくとくと語っていてそれに賛同者が出てくるみたいな奇妙なものもあった。そこで、ブコメを書いたら割と星がついたので、「じゃ、補足しておこう」と思った。

映画化された小説『セーラー服と機関銃』の表紙がセーラー服ではなく、ブレザーを着ていて、当時は小説におけるイラストというものが惰性的というか、かなり軽んじられていたことが窺える話

なんかすべて現代の基準で物事を語ってて、ああ昭和は遠くなりにけりと思った。絵と本文が矛盾するとか、むかしはそんなこと誰も気にしてなかったよと。何ならあの時代の単行本を10冊ぐらい並べてみたらいい

2024/04/27 12:07

b.hatena.ne.jp

で、「単行本を10冊ぐらい並べてみたらいい」と書いたんだけど、思い立ってデスクのすぐ脇にある本棚からひと並びの10冊抜き出して写真に撮った。ただし、昭和の頃に中高生だった私が買った「単行本」は実際にはほとんどが軍事関係のオタク本ばっかりなのでそれは参考にならんだろうと、当時買った文庫本を広げた。ここ、自分の言ったことと齟齬が生じてるので一応の言い訳。まあ、もとの文脈からいえば文庫本のほうがいいかもしれない。

見事に本文と「なんか違う」みたいなのばかりになったが、恣意的に選んだのではない。もちろん、少しは選んだが、それは本文との整合性とかいう視点ではなく、同じ作者ばっかりにならないようにとか、文字だけでレイアウトされているのははじくとか、そういうことだから。なので、ふつうこのぐらいには表紙絵と本文は違うんだという見本にはなると思う。

 

左上から見ていこう。「船乗りクプクプの冒険」は、私がごく初期に買った本だった。そして、この表紙絵には面食らった。というのは、小学生の頃に読んだ本は挿絵入りの子ども向けのものがほとんどであり、そして挿絵は(多くの場合は)本文との整合性が意識されていて、そして表紙絵もその挿絵と矛盾ないようになっていた(表紙絵は画家が別になる場合もあったけれど)。だから、表紙に描かれている絵は本文の内容を表すものだと思い込んでいた。そして、この水色は海を表すのだろうか、茶色は島を表すのだろうか、みたいに悩むことになった。それが、北杜夫の同じ新潮文庫の本をもう1冊買って、「なあんだ」と拍子抜けした。全く別内容の本に同じ表紙絵が使われていたのだ。つまり、これには「新潮文庫北杜夫のシリーズはこの絵でいきますよ」という以上の意味はなく、本文とは全く無関係に「デザイン」(20世紀日本の文脈での用法)として用いられていただけだったわけだ。中学生になったばかりの私にそれが理解できるまでだいぶ時間がかかった。

宮沢賢治の童話集の表紙は、明らかに「銀河鉄道の夜」をモチーフにしている。だが、このお話を読んだことがある人なら、この表紙は本文の内容とほぼ無関係だと思うことだろう。そうではなく、「銀河」というキーワードと「少年が登場する」というプロットだけから画家が自由にイメージを広げたものだと思ったほうがすんなりくる。表紙絵とはそういうものだというのが当時の常識だったのだろう。

「ようこそ地球さん」は星新一ショートショート集で、単一の作品ではない。だから当然、本文の内容とは無関係に、SF的な世界を表現した絵にならざるを得ない。ただ、上記のように小学生向けの本に慣れ親しんでいた私は、「この絵はどのお話の絵なんだろうな」と何度も見返していた。結局結論は出ず、最終的には「表紙絵なんてそんなもんなんだ」と何年かかかってようやく納得したように覚えている。

長靴をはいた猫」は、確かに猫が主人公だから(いや三男なのか?)猫が表紙で本文とあっているといえなくはない。けれど、だいぶイメージが違う。私はこの猫、嫌いだったなあ。

動物農場」も豚の出てくる話だから豚が表紙で内容は本文とあっているといえる。でも、そうなのか? やっぱりこれは違うぞと思うのだけれど、当時の本の表紙なんて、読者の納得感とかはどうでもよかったといえるんじゃなかろうか。

「怪傑黒頭巾」はもう内容をあんまり覚えてないのだけれど、確か二刀流ではなかったと思う。これは脇差というよりも太刀を2本差してないか? 背景も江戸城の城内にしてはやたらと鬱蒼としている。

「バクの飼い主めざして」はエッセイであり、バクは登場しない。

いつか猫になる日まで」は新井素子の数々の作品の中でも出色のものだと思うのだけれど、決して主人公が猫に変身する話ではない。この表紙を見たら誰だってそう思うんじゃなかろうか。

「オヨヨ島の冒険」は、どう見てもこの2人、本文に登場する人物と同じとは思えない。爺さん、こんなに鍛えてないだろう。「あたし」は体操服着てないと思うぞ。

あなたにここにいて欲しい」は、作品の舞台になる秋吉台を描いているし、中心人物である2人の女性も描かれているのである意味、これこそ本文にピッタリ合わせて描かれているともいえるのかもしれない。でも虹は出てないぞ、とか本文と違うツッコミを始めたらそれはいくらでもできるだろう。

 

結局のところ、昭和の時代には表紙絵はある程度本文と独立して扱われていた。ちなみに、「適当な既存の絵を探してきたんだろう」みたいな話は、ある部分は正しく、ある部分は噴飯ものでもある。ここに例示した10冊の本のカバー絵は、おそらくほとんどが作品に合わせて依頼・作成されたものだ。例外は「船乗りクプクプの冒険」の絵で、これは串田孫一のクレジットがあるから既存の絵を編集者が気に入ってカバーに採用したのだろう。このように、本文と全く無関係に「この絵はすばらしいから」みたいな理由でカバーに採用されることがむかしにはけっこうあった。その一方で、「本文にあうようなイラストがないかな」みたいに既存の絵を探して持ってくる、みたいなことはほぼなかった。なぜかといえば単純な話で、そんなライブラリが存在しなかったからだ。1970年代も半ばをすぎると有償で提供するフォトライブラリみたいなのが生まれていったが、それはあくまで写真素材であって、イラストを登録してあるライブラリはたぶんなかった。いまみたいに画像検索したら何でも出てくる時代じゃない。だから、「そこらに転がってる既存の絵」なんてのがそもそもあり得ない前提であるわけだ。

 

こういう発想の変化は、「なぜ表紙絵が本文と半ば独立していたのか」という方向でしか現代の人々には考えられないのだろうけれど、逆に、私は「なぜ本文と合わない表紙絵に違和感があるんだろう」というふうに感じる。ここで最初の「『セーラー服と機関銃』の表紙絵がセーラー服ではなくブレザーだ」という話に戻るのだけれど、昭和の感覚だとこのぐらい本文と離れているのは(少なくとも読者にとっては)ふつうの体験だった。ところが現代はそうではない。

いや、昭和の頃でも、小学生にとっては大きな違和感があった。ここに問題を解く鍵がある。なぜ小学生だった私が本文無関係の表紙絵に違和感を感じたかといえば、それは小学生向けの本は基本的に本文と挿絵が一体化していたからだ。そしてラノベ以降の現代の作品では、本文とイラストはひとつのものとして作品世界を作る。それが常識化してしまったがために、この程度のことで違和感を覚えるように読者の側が進化してしまった。

 

それがいいとかわるいとかいうのではなく、ああ、時代は変わるのだな、ということだ。セーラー服とブレザーの違いは、それが「女子高生を表象している」という意味において昭和の時代には何ら問題なく同一のアイコンでありえたが、現代ではそうではない。そこまで描きこむことが十分に合理的な時代なのだ。そして時代の変化に取り残されていく老兵は、ただ去るのみ。いや、そういうのが居心地良く過ごせる場所もあって、たとえばはてブとか…

ああ、やだやだ