Twitterをはじめてみた

Twitterのアカウントをつくった。特に深い意味があるわけではない。

Twitterを最初に使い始めたのは割と古く、2010年初頭のことだ(アカウントそのものはもう少し前につくっていたようにも思う)。ブログを書き始めたのが2006年で、その頃はいろいろな選択肢があった。いろんなサービスも出ては消えという状態で、その中で「ミニブログ」として注目を集めていたTwitterにも興味を覚えた。リーマンショック後で仕事の先行きも不透明な中、「これからはソーシャルメディアだ」との掛け声もあって、ちょっと乗り遅れ気味ではあったけれど、「Twitterぐらいやっとかないとなあ」という気持ちで始めたように思う。

やってみると、それなりにおもしろかった。それまでつながることが思いもよらなかった人々と知り合うことができた。特に東日本大震災のときには、Twitterの力に驚かされた。そこから見えてくる世界が自分の知っている世界とまるで違うことに、社会の複雑さを思い知らされた。震災までの1年間の助走期間があったことは自分にとって幸いだったと思う。

ただ、SNSは時間食いだ。リーマンショックでも途切れることがなかった翻訳の仕事が地震の後ぱったりと止まってしまい、急速に金に困ってくるようになって、しかたがないから事務所は開店休業にして働きに出ることになった。そうなると、とてもTwitterなんかやっている暇はない。そこで得られた関係を切るのはつらかったけれど、やむなくフェードアウトすることにした。いつか戻るつもりで、アカウントは残していた。

何年かたって戻ろうとしたとき、もうパスワードも忘れてしまっていることに気がついた。めんどうなのでまたしばらく放置し、さらに数年たってまた気になった。実はTwitterのアカウントは仕事用とプライベートとブログの宣伝用を分けて3つつくっていたのだが、早い段階でほぼ活動をやめていた2つは整理して消してしまおうと思った。そして残りの1つは復活させようと思ったのだけれど、その肝心のプライベート用のアカウントに設定していたメールアドレスを、その少し前に失っていることに気がついた。パスワードを失ってもメールアドレスがあれば戻ることはできる。そのはずだけれど、メールアドレスまで失ってしまっていては、どうしようもない。戻ることもできず、消すこともできず、Web上のゴミとして、私の古いアカウントは管理不能になってしまった。大失敗。

それからかなりたって、2年ほど前だったか、Instagramをやってみようと思って、その際にTwitterアカウントを新たにつくった。ただ、こちらはInstagramを続ける体力がなかったせいで、ろくろく使いもせずに干からびてしまった。ほとんど何も使わずに、結局は消してしまった。

 

なぜ、古いアカウントからフェードアウトしなければならなかったのかとか、なぜ2年前につくったアカウントを使えなかったのかと考えてみた。それはある意味、私が「正しく」Twitterを使っていたからだろう。当初の「ミニブログ」という認識とは異なって、Twitterは実際にはコミュニケーションのツールだ。フォローし、フォローされることで、そこに緩いコミュニケーションが成立する。興味をもった個人のアカウントを追いかけて「そうか、そういうこともあるか」と思ったり、「こんなことがあったんだよ」という独り言に反応してくれる人がいるのに喜んだりする。おそらくそれがTwitterの王道の使い方なのだろう。ただ、そういうコミュニケーションのためには、タイムラインをある程度は追いかけていないといけない。全部が全部読むことなんてできないし、特に私が抜ける頃からタイムラインの仕様が変化してフォローしていないアカウントからの情報もどんどん流れるようになってからは、タイムラインをどこまでも追いかけることなんておよそ無理になっている。それでも、眺めている時間が多ければ多いほど、Twitterを楽しめるような仕組みにはなっている。それは時間の限られた私には無理だ。だからもうTwitterは自分の生活からは切り離すしかない。もうそこに戻ることはないだろうと思っていた。

 

けれど、しばらく前から、考えの断片をどこかにメモしておく必要があるかもなあと思うようになった。ちょっと物騒な話なのだけれど、奈良の発砲事件のあと、容疑者のTwitterアカウントが発見され、過去の投稿が流布するという出来事があった。それによって、容疑者がその数年間にどんなことを考えていたのかが可視化される。これはおそらく、今後の公判やその後の犯罪をめぐる議論のなかで、ますます重要な役割を果たしていくことになるだろう。そういう意味では、非常に貴重な記録でもある。

私は別に重犯罪を犯す予定はないのだけれど、やっぱり自分の日常をどこかに残しておくことは意味あることではないかという気がし始めた。もちろん、長くブログを書いてきているので、その軌跡は残っている。既にサービスをやめたところに書いていたものも、少なくともローカルにはログを保存してある。日常の記録、日記みたいなものはたしかに残っている。ただ、ブログはやっぱりある程度はひとの目に触れることを想定して書いている。だから、ある程度のまとまりはある。

もっと断片的な想念は、日々に起こる。ほんの二、三行のそういった思いは、書き留められることもない。それだけの値打ちもないだろう。けれど、それを蓄積しておけば、やはりなにかの役に立つような気がする。いつか消えてしまうものとしても、少しの役には立つ可能性がある。誰かがその跡をたどるのか、自分がたどるのか、そんなことは全く起こらないのか、よくわからない。よくわからないけれど、よくわからない未来には、多少の投機はしておいてもいい。

 

だから、今回、私はTwitterの「正しい」使い方はやめようと思う。これをコミュニケーションのためのツールとして使うのはやめようと思うわけだ。タイムラインなんて見ていられない。そこはスッパリとやめる。そのためにはフォローはしない。フォローなんてするから、その人のことが気になるのだ。いや、気になるひとはいる。けれど、追いかけるのはやめる。そんな時間はない。そこに時間をかけて自滅するぐらいなら、やらないほうがいい。残念だし寂しい話だが、そこは割り切ろう。

純粋に、自分自身のメモとして使う。そういう使い方なら、しばらく続けられるかもしれない。だから、フォローも、フォローバックもないし、リツイートやらコメントやらがあっても基本的には読まない。そういうことをやらないことを前提にすれば、たぶん、しばらくは使い続けられるだろう。その意味は十分にあると思う。たとえばこの先、私が老年性の痴呆になっていくとしたら、その過程を追いかけることができるかもしれない。それはそれでひとつの知見だろう。

 

あと、実利的なこととして、TwitterアカウントがないとTwitterで流れてる情報が読みにくいということがある。すぐに「アカウント作れ」と言ってくるんだから。まあ、営利企業のサービスなんてそんなもんなんだろうけど。なんだかなあという感覚は、どうしても抜けない。

 

Jun Mazmot (@JunMazmot) / Twitter

宗教に関する断片的な思い出 - 1990年代の地方都市と農村で

私はノンポリであると同じくらいに非宗教的だ。ただ、これにかんしては個人的に引いている一線がある。「宗教」というものを私は2つに分けてとらえている。まずひとつは個人的な非合理な思考だ。もちろん非合理的思考のすべてが宗教であると考えているわけではない。非合理的思考のうち、なにかを畏れ、なにかを尊いものとし、自らの行動を律するものが宗教だ。これはほとんどの人間の内にあるものだと思う。なぜなら、世界は人間の頭脳が合理主義で解析できる限度を遥かにこえた複雑系として存在するからだ。どれだけ合理主義を信奉する人であっても、日々の生活を実行していく上では、なんらかの非合理的な信念をもたねばやっていられない。朝起きて「気分がいいな」と思うことに理窟は要らない。友だちをつくるときにいちいち自分にとっての利害を考えるやつはいない。飯は箸と茶碗で食うものであって、合理主義で食うものではない。人間の生活を構成しているものの大部分は習慣と信念であり、部分的にそこには合理的な根拠もあるのだけれど、そうであったとしても「昔からやってるから」とか「これはそういうもんだろう」みたいな薄弱なものであることが多い。そういった非合理的な習慣や信念のなかで、とくに畏敬の念にかかわるものを私は宗教であるととらえる。したがって、そういう意味での宗教は非常に個人的なものである。個人的なものではあるが、習慣や信念は社会的に共有される部分が大きいので、ある程度は社会的なものにもなる。そういった宗教的な思想に従って自らの行動を社会的に受容可能なものに整えていくことが「敬虔」な態度なのだと思う。そういう意味で、私は敬虔な人間でありたいと思う(思うだけで実際にそうだとは言っていない)。

そういった個人的な敬虔さを体系化し社会構造化したものとして、組織宗教がある。組織宗教は、もともと各個人のなかにある非合理的な習慣や信念を根っこにもっているので、多くのひとに受け入れられる。言葉をかえれば、多くのひとが共有する習慣や信念を、宗教という形で組織化する。この組織宗教が、私がとらえる2つめの「宗教」だ。組織宗教の特徴として、非合理的な思考になんらかの根拠を与えてくれることがある。なぜ朝の空気が気持ちいいのかといえばそれは神の恵みであるのだし、なぜ隣人を友としなければいけないのかといえばそれは神の愛である、という具合だ。そして、その根拠の由来に関しては、やっぱり合理的な根拠はない。聖典に書いてある、というのは決して合理的根拠ではない。それを信じるかどうか、だけだ。信じる動機としては、「だって昔からそうやってきて、人類はうまくいってきたじゃない」という経験則がある。そして組織的な宗教は、信念に関わる原理のほかに、組織に関わる原理でうごくようになる。自然選択的な原理によって、自らを維持できない組織が脱落していく結果、組織維持に一定以上のリソースを割く組織宗教のみが生き残る。キリストがペトロに教会を築けと言わなければ、キリスト教が後の世にのこったかどうか疑わしい。ブッダの教えはサンガが継承・発展させたのだし、宗教改革プロテスタント教会がなければ組織的な抵抗にはなり得なかっただろう。組織宗教の重要な特徴は、組織そのものの存在にある。そして一般に「宗教」とよばれるのは、この組織宗教だ。

私は敬虔なひとでありたいと願う(願うだけかもしれないが)一方で、組織宗教は願い下げだ。それは坊主を嫌い続けた(それは多分個人的怨恨だったのだが)父親の影響であり、それ自身が非合理的な信念だ。いわば、宗教的信念によって組織宗教に反発する。とはいえ、積極的に組織宗教の本山に火をかけにいくような織田信長でもなくて、寺社に行けば小銭をさらって賽銭ぐらい投げる。葬儀に行けば坊主の読経も聞くし、結婚式では十字架に頭を下げる。自分自身は組織宗教と無縁でいたいと思うが、組織宗教が歴史的に果たしてきた役割や未来に果たす可能性がある役割まで否定しようとは思わない。

もちろん、歴史をみれば組織宗教が行ってきた悪行がそこかしこに目につくだろう。気分がわるいのでいちいちはあげない。その一方で見逃してならないのは、組織宗教が多くの弱者を救ってきた事実だ。たとえば仏教なんかは、もともと衆生の救済がその最大の目的であったわけで、歴史的に貧民救済事業なんかはずいぶんとやってきた。教会もそうだ。ムスリムに関して私はまったく無知なのだけれど、イスラム教の拡大の背景にはそれが社会の相互扶助を基盤としていることがあると聞いたこともある。権力から見放された人びとに力をあたえることは、多くの宗教が果たしてきた重要な役割だろう。

とくに、多くの宗教は、神の前での平等観から、社会からはじき出されたひとを積極的に拾い上げてきた。社会のなかに居場所を失った人びとを吸収する役割を果たしてきたのである。罪人であっても、悔い改めて宗教組織のなかで修行に励んで救済される道が用意されていた。江戸文学には寺に入って更生するような物語もあったように思う。宗教は、社会が養えなくなった規格外の人びとを引き取ることもできた(ある部分ではこのあたりは昔日のヤクザとかぶる部分もあるのだけれど、その話は長くなるだろうからやめておく)。組織宗教が提供する物理的な構造物は、あるときはシェルターとしての役割も果たした。そして、加賀の一向一揆のように、ときには権力に対抗する拠点にもなり得た。

 

もう20年以上前になるのだが、私は丹波の農村に一時居留していた。そのときに見聞きした話だ。ある家に、40歳に近い独身者が住んでいた。近所のひとの言葉では、彼は心の優しい人であった。けれど、勉強ができたわけではなく、また人付き合いがうまいわけでもなかったので、いつのまにか職をうしない、無職と、ときに臨時的な雇用との間を行ったり来たりする生活を続けていた。その数年前からは非正規の職もみつからず、母親の年金に頼って先祖伝来の田舎家でほそぼそとくらしていた。だが、そこで母親が亡くなり、彼は窮地に立たされた。彼が窮地に立たされたというよりは、その小さなむらで、地縁共同体的な関係にある数軒の家が困った。放って置いて餓死させるわけにもいかない。働きに出てくれればいちばんなのだが、本人にその気も能力もなさそうだ。野菜ぐらいなら余り物をもっていってやらないでもないが、現金までは出せない。一家をかまえる力のない男に、近所づきあいもできない。つまり、農村の相互扶助社会の一員としてみとめられるだけのことができない以上、相互扶助の対象になりにくいわけだ。なお、彼の家屋敷の権利は末子である彼ではなく、とうに地域をはなれてしまっている跡継ぎの血筋の方に移っている。無資産・無収入で、ただそこにいるだけの存在だ。本人もこのままではどうしようもないとわかっているのだが、かといってすでにどうしようもない状態が何年もつづいているので、いまさらといえばいまさらで、どうすればいいのかもわからない。通りすがりからみればいくら親戚の所有になっているとはいえ家賃をとられるわけではない家に住むことはできるのだし、1人が食うぐらいの小銭は稼げなくはなかろうと思うのだが、そういう生活力みたいなものと無縁で何十年も生きているとそれは相当に難しいことでもあるようだ。

そこで近隣の世話人的な縁者や遠い都会の跡継ぎ筋の親戚が相談した結果、彼は天理教に引き取られることになった。「天理教で修行をしてやり直させる」みたいなことを言っているひとがいたが、どちらかといえば天理教に厄介払いしたような印象でもあった。ただ、それが彼にとって一概に不幸であったとも思えない。教団の方で元気にやっているという噂も聞いた。持病もあるような話だったから、草深い田舎でひとり引きこもっているよりは、健康にもよかったのではないだろうか。田舎では社会的に居場所を見つけられなかったかもしれないが、宗教組織のなかで、どこかに自分の居場所を見つけたともいえるだろう。よかったとかわるかったとか言えるほどに私はそのひとも前後の事情も知らないのだけれど、そのときに、「宗教というのはこういう役割を社会のなかで果たしてきたのだなあ」と感じた。

 

私がこの農村に身を寄せていたのはわずか2年ほどのことだ。その前後は、そこから10kmほどはなれた地方都市でくらしていた。およそ、丹波という土地は、さまざまな宗教の交差点だ。PL教や真光教の源流でもある大本教の発祥の地でもあるし、古来の寺社仏閣も多い。金光教天理教といった老舗の新興宗教の教会、もちろん創価学会支部もあった。

私が仕事をしていた事務所にしてからが、4階建てビルの4階にあったのだけれど、すぐ下のフロアには幸福の科学が入っていた。いや、私の事務所さえ、ずいぶんと怪しげだった。これは書きはじめると長くなるので端折るのだけれど、今回の選挙でいったら参政党みたいな感じのミニ政党(結局誰も当選しなかったので政党ですらないが)の事務を引き受けてたときもあるし、農業関係の小さな雑誌の発行所であったこともある。ある意味、幸福の科学以上に怪しげな人びとを惹きつける磁力を発していた。もちろん、まともなひともたくさん出入りしていて、私はいまでもそういった農村の人びとから力をもらっているのだけれど、紛れるように怪しい人もずいぶんとやってきた。ま、私自身がかなり怪しいので、類は友を呼ぶのだろう。

そのなかのひとり、Kさんは、統一教会の人だった。もちろん(といっていいのかどうかわからないが)最初からそうだといっていたわけではない。どういうツテで現れたのだったかもう覚えていないのだけれど、Uターンの新規就農者ということで自己紹介があった。農協の発行する機関紙の紙面トップに写真入りの記事があるのを見せてもらった。その頃で40歳ちょっとぐらいの、農村部では若手とよばれる年齢層の人だった。もううろ覚えだけれど確か10メートル×50メートルの相当におおきなハウスを2棟建てて施設園芸をやるのだという。「回転をあげて稼がないといけないから、小松菜とホウレンソウでいこうと思うんです」みたいな話だった。そのときには、「すごいひとがいるもんだなあ」と感心した。数百万円の投資をして、それを上回る売上をあげて経営を回していこうという。「もちろん無農薬です」と胸を張るので、売るのがたいへんでしょうというと、産直組織があって、そこにおくるのだという。「自分がつくる野菜だけじゃ手配できないから、市場のセリに参加する権利も手に入れたんですよ」という。地方都市の市場は、片手間で趣味のようにつくっている野菜が持ち込まれることもあるので、目利きをしっかりすれば品質のいいものを安くで仕入れることもできるのだそうだ。そういう野菜を仕入れてきて「産直」(と言えるのかどうか疑問だとそのときも思ったが)で消費者に直送する。そこに自分がつくる菜っ葉類を加えれば、売上は安定するというわけだ。たいしたもんだよねえと、素直におもった。

つぎにあったのは、まだ寒い2月の頃ではなかったかと思う。すっかりしょげていたので聞いてみると、大雪にハウスを潰されたのだという。大型ハウスは構造上、雪に弱い。とくに日本海側の重い湿った雪は、多くの被害をもたらす。それは地元の人だからよく知っていて、パイプも一回り太いものを使って頑丈に組み立てていたのだけれど、それでもやられてしまった。なにせぐんにゃり曲がってしまっているので、修理などできない。全面的に建て替えるぐらいしか方策はないけれど、そのためには倒壊したハウスの破れ果てたビニルや折れ曲がった鉄管を撤去しなければならない。産直のネットワークを抱えていることがこういうときには裏目に出る。野菜を安定して供給し続けるためには毎日の市場からの仕入れと出荷作業が欠かせず(平常時の数時間のハウスの世話に割く時間は余裕であるとしても)、こういう非常時にハウスの撤去に集中してかけられる時間が取れそうにない。

ここで、私は施設園芸の過酷な経済を教えられることになった。Kさんが「農協の融資」だといっていたのは、実はリース契約でしかなかった。「3年で完済したらあとは自分のもの」といっていたハウスは、(農協職員の口約束は知らないが)実際には3年の使用権でしかなく、つまりはその数百万円の投資は、投資でもなんでもなく、少なくとも契約上は施設使用料でしかなかったようだ。最初の数年は売上をすべてつぎ込んで融資の返済に当てるという計画は、実はどこまでいっても売上は農協に入っていくというしくみでしかなかったようだ。もちろん、口約束ではたぶんリース落ちのハウスは「どうぞ使ってください」ということになるのだろうし、その際のハウスの土地の使用料は微々たるものになるのだろう。にしても、それは契約書のどこにも書いていなかった。しかしまた、もしもハウスの所有権が農協のものであるのなら、大雪被害による損失は農協のものであるのが筋だと思われた。けれどKさんによれば、倒壊したハウスでも、融資の返済は続けなければならない。融資じゃなくてリース契約なんだろうと思うが、どうもそれ以外にも新規就農資金の融資はうけているようで、話が混乱している。なにが正しいかわからないが、毎月の支払いだけは確実な数字のようだ。なんだ人生のすべてを農協の借金のカタにとられてるみたいじゃないかという感じだ。これがUターン新規就農の現実なのかと、まだまだ田舎のシロウトだった私は暗澹たる思いでその話を聞いた。

けれど、Kさんはしょげてばかりではなかった。どこからその信念がくるのだか、とにかく頑張るという。そこで私は、ひとつ提案をした。地方都市に引っ越して1年以上がたつというのに、私はまだ自分の畑というものがなかった。せっかく農地が郊外に広がる場所に住んでるのに、土に触れる機会がない。運動不足にもなる。だったら、Kさんがハウスの残骸を片付けるのを手伝うというのはどうだろう。その代わり、Kさんが出荷するのに余る野菜を分けてもらう。私にとってわるい取引ではないような気がした。

Kさんは、一気に元気を取り戻した。「神様が助けてくれた」みたいなことも言っていたように思う。その頃までにKさんがクリスチャンだということは聞いていたので、「信仰のある人は言うことがちがうなあ」ぐらいに私は思った。そして、それから1ヶ月ばかりたって春の日差しが戻りはじめたころ、私はKさんに連れられてその倒壊したハウスの現場を訪れた。思った以上に悲惨な状況だったが、私はこういうグチャグチャなところで頭を使いながら身体を使うのは嫌いじゃない。半分楽しみで片付けに通うようになった。Kさんは1回か2回野菜をくれたほかは忙しいのかめったに会わない。けれど、近所の婆さん連中が通りがかりに野菜をくれるようになった。隣のハウスのプロ農家とも知り合った。彼は地元の若手ホープであり(といってもKさんとたいして年齢は変わらない)、トマトを周年栽培していた。なるほど、このぐらいしっかり出荷できるなら、農協の支払いもどうということはないのだろうという感じだった。もちろん大雪でもハウスを潰すことなどなかった。

鉄骨やビニルの残骸を片づけた跡地に、ハウスが再建されることはなかった。Kさんにはとてもそれだけの余力はなかったわけだ。その代わり、Kさんは跡地に露地栽培をはじめた。たかが1反ほどの露地栽培でどれだけの売上が見込めるのかわからなかったが、放置しておいたところで始まらない。私も手伝って夏野菜を植えた。けれど、その収穫ができる頃になると、Kさんは畑に現れなくなった。ナスもトウモロコシもどんどん盛期を過ぎるから、しかたないので私は出荷できなさそうなのからもいで食べるようになった。たまにいいのがなくなってることがあったから、「ああ、Kさんが出荷したんだな」と思う程度で、その夏はほとんど顔を合わせることがなかった。そのまま季節が巡って翌年の春ぐらいじゃなかったかと思う。突然Kさんが事務所にやってきた。そして、「仲間がやっている集会があるんだけど、来ないか」という。ここに来てようやく、私はKさんの「キリスト教」が、カトリックプロテスタントの教会ではなく、なんらかの新興宗教なのだろうと思い至った。めんどうなので断ったのだけれど、しつこく言うので詰まっている予定表を見せると、「その空いている日でいい」と言う。そうなると断るのもおかしいので、じゃあその日に、と訪問することにした。行ってみると、学生の頃に話に聞いたことがある統一教会だ。なんだかしらないけど奇妙な踊りをしてるビデオを見せられ、「どうだ?」と聞くから「いや、もういいです」みたいなことを言って退散した。実際、たかが数十分のビデオだったけれど、時間を損した以上の感想は出てこなかった。あれ、なにがしたかったのか、未だに理解できない。

その後、Kさんとあったとき、「まつもとさんは神の使いだと私は信じていますけれど、神様のことを話したくないのは理解しますから、まつもとさんとは農業のことだけにしますね」みたいなことを、気を悪くしないでください的な口調で言った。私は別に人の信仰はその人のものだからどうでもいいと思っていたので、とくにKさんとの関係がその一件で悪化したこともなかった。ただ、いろいろと思い当たるフシはあった。

Kさんの「産直」は、つまりは統一教会の信者向けの事業だったのだ。だから、安定していた。信者なら、教会関係で回ってくる野菜には文句を言わずに金を出すだろう。そういう意味では、Kさんが曲がりなりにも新規就農者として食っていけたのは、統一教会のおかげであるわけだ。けれど、その売上の大半は、農協への支払いに充てられる。Kさんは、産直の売上だけでは足らず、いろいろとアルバイトを掛け持ちするようになった。そうやって稼いだお金でなんとか農協への支払いを続ける。「3年で完済したら」という話を何度も聞かされたが、隣のハウスのプロ農家の話とかいろいろ総合すると、どうも夢を見ているような気がしないでもない。子どもも多く、家族を養うのもたいへんなKさんは、たまに顔をあわせるといつも忙しい、しんどい、金がないと言っていた。そして、たまに神様のことを話した。話してから、「あ、まつもとさんにはこういう話はしないことになってましたね」みたいに謝るのだけれど、神様の話をしているときは目の光り方が全くちがっていて、正直、私は少し怖かった。

その後も私はハウス跡の畑に通い続けたけれど、Kさんはもう現れなくなった。畑の主がいないとはいえ、放置したら草だらけになるだけだ。仕方ないので、私は自給用には広すぎる畑を自分の裁量で耕すようになった。そうやって出入りしていると、近所の人から噂を聞く。Kさんは最終的にはもちこたえられず、都会に舞い戻っていったそうだ。農協と宗教、どっちがKさんの生活を破壊したのか、私にはいまもわからないでいる。

 

とにもかくにも、組織宗教は願い下げだ。それは、新興宗教だけではない。いや、むしろ旧来の宗教の方に私は強く反発を感じる。それは先に書いた父親の私怨(たしか小学校時代にお寺のボンボンに地域でもっとも貧しい地区の子だというだけで相当に馬鹿にされたとか言っていたと思う)の影響もあるのだろうが、やっぱり先に書いた農村に居留していたときの経験が大きく影響している。数十軒しかないちいさな集落だったのだが、高齢化の時代ということもあって、何度も葬式があった。その葬式のたびに、きらびやかな格好で地域の寺の僧侶がくる。あるとき、私の住んでいる家の隣人が死んだ。50歳前の、農村では若いひとだ。元は板前だったらしいのだけれど、身体を壊して生家に引きこもるようになっていた。数年前に同居していた母親が死んでからは、母屋は荒れるままにして、離れに引きこもって病身をいたわっていた。その彼が、死んだ。無一物の貧しさの中でしんだ。その葬式、坊主がベンツでやってきた。デカすぎで、むらの道に入らない。交通整理係が嘆くのだ。あんな外車、傷をつけるわけにもいかないし、かといって坊さんを遠くから歩かせるわけにもいかない。あちこち整理して、ようやく場違いな空き地にとまった車から降りてきた血色のいい僧侶を見て、私は心底、仏教というものに絶望した。これはありえんわと思った。貧しさのなかに放置した挙げ句、死んだらいそいそとやってきてお布施をぶんどっていくのかよと、呆れるばかりだった。

 

農業は、宗教と相性がいい。複雑系である農業は、合理主義でつめていってもなかなかうまくいかない。やるだけのことをやっても、結局は祈ること、感謝することでどうにかなる部分はなくならない。だから、農村には古くから地域の寺社があるのだし、明治や昭和の頃からの新興宗教もけっこう根を張っている。世話になった農家でお昼をごちそうになったとき、その床の間に真光さんの軸がかかってあるのにようやく気がついたこともある。列車の窓から「あれが大本の農場」と教えてくれた人もいた。新規就農の若い人たちには、そういった組織宗教には属さないけれど、「スピリチュアル」な指向性をもった人がすくなくなかった。自然を相手にする仕事をしていると、やっぱり人間を超えたなにかを思ってしまうのは無理のないことなのだろう。

私はそういうものを否定したいとは思わない。一方で強く合理主義を信奉しながらも、同時にそれで全てが割り切れるもんじゃないよとも思っている。だから最初に書いたように、できれば敬虔な人でありたいと願っている。だが、組織宗教の生臭さ、胡散臭さには辟易する。宗教に限らない。組織というものには、つねに警戒心を抱く。それは、組織が不可避的に組織の維持・拡大を原理としてそこに組み込んでいるからだ。

人間は社会的存在であるから、かならず他者と協同して生きる。その協同のあり方に秩序をもたらすのが組織だ。だから、組織をつくることは社会生活においてはごくあたりまえなのだし、その組織が安定していることも、ある程度は重要だ。けれど、組織は目的ではない。目的を果たすための道具だ。目的が達成されるのであれば、組織そのものの存在は重要ではない。ところが、一般に、組織はその組織の維持・拡大を目的に組み込んでしまう。宗教でいえば、かならず布教が信者の義務になる。なぜなら、維持・拡大を意識しない組織はやがて消え去ってしまうからだ。「生き残るものだけが生き残る」という身も蓋もない自然選択原理によって、維持・拡大を原理に組み込まない組織は消えていく。ときには、本来その組織ができた目的以上に、維持・拡大に特化した組織だけが生き残っていく。宗教に限らない。既得権益をがっちりおさえてあらゆる手段で新規参入者をはばむような組織をみていると、「それって本来の自分の存在意義を忘れてるんじゃない?」とおもわざるをえないことがよくある。そういった組織のもっともおおきなものは、国家であるかもしれない。本来は人びとの幸福を最大にするために存在するはずの国家なのに、やたらと好戦的で、勢力の維持・拡大に多大なリソースを割く軍事国家などはその典型だ。ミサイルにかける金を困ってるひとにまわすのが本来だろうとおもうのだけれど、それでは生き残れない。結局は人民を飢えさせても軍備を増強するような国が生き残ってしまう。

そういう奇妙な現実を是正していくには、組織なんてないほうがいい。けれど、なければ不便だろう。だから、あらゆる組織には、その寿命をあらかじめ設定しておくべきだと、私はいつのころからか夢想するようになった。存続のための存続をゆるさない天寿があれば、組織の自己目的化は避けることができるんじゃなかろうか。そういう夢想は、やっぱり非合理的で、だから私の宗教なのかもしれない。さて、布教活動を…

蕎麦の思い出 - たいした話ではないけれど

蕎麦、といっても麺類としての「ソバ」ではなく、穀物としての蕎麦を初めて意識して食ったのは、たぶん20代の終わり頃、信州の土産で「蕎麦米」を買ったときだと思う。信州土産といえばそれ以前に蕎麦茶は何度かもらったり買ったりしていたので、そこまで遡るともうちょっと古い話になる。蕎麦茶は香りがいいので好きだったが、どういうわけか2種類、全く別々のものがあるのを不思議に思っていた。いずれも玄米茶と同じように蕎麦を炒ってあるのだけれど、いまにして思えば丸い粒のまま炒ったものと、粗挽きにしていったものだったのだろう。その後、粒のままの蕎麦茶には巡り合わない。

なぜ「蕎麦米」を手にとったのかといえば、その頃、私は意識的に米を食わない生活をしていた。まあ、外食したときには食べるので完全に忌避していたわけではないのだけれど、自炊では基本、米は食べない。その代わりに雑穀を主食にする1年を過ごした。雑穀には粟、黍、稗の3種があるが、いろいろと漁っているとその他にもシコクビエとかキヌアとか、いろいろあることがわかってきた。おもしろいと思っていろいろ手を出すうちに、蕎麦米を見つけたわけだ。ひょっとしたらそういう生活をしている私をおもしろがって、当時よく家に酒を飲みに来ていた友人が買ってきてくれたのだったかもしれない。自分で買ったのか、もらったのか、記憶が曖昧だ。ともかくもその友人と、蕎麦米をネタに飲んだ記憶がどこかに残っている。

蕎麦は、本来粉に挽く。粉に挽いたほうが合理的だからだ。というのも、蕎麦殻(枕のクッションに使われる)は脱穀しにくく、力を込めると脱穀する前に穀粒が割れる。割れるのなら脱穀せずに粉に挽いて蕎麦殻は篩い分けたほうがうまくいくという原理だ。その点は小麦とよく似ている(小麦は殻ではなく種皮なのだけれど)。

信州名物の蕎麦米は、わざわざ蕎麦粒を蒸してから干し直して、デンプンを固め、その上で脱穀するのだそうだ。手間がかかっている。米の貴重な山間部で、それでも米のように蕎麦を食べたいという執念が結実したのではないか、みたいなことがどっかに書いてあったように思う。ツルンとした感じで食感は悪くないが、あまりありがたみもなかったように記憶している。

そのうち私は雑穀から小麦に主食を移していった(あちこちとよその家の飯を食うことが増えて結局米断ちも解禁した)。小麦は粉だから、いろんな粉に興味が移っていった。たとえば「はったい粉」は、大麦の粉で、かつては日本全国で食べられていたものだ。日本に限らない。ブータンではいまでも普通に食べられていると聞く。これは大麦を炒ってから挽いてあるのだけれど、それは小麦と大麦の粒の性質のちがいによる。そんなこともだんだんと身をもって学んでいった。そして蕎麦に再会した。当時はまだ限られたスーパーにしかなかったが、それでもごく当たり前のスーパーマーケットの棚に蕎麦粉を発見したわけだ。

蕎麦粉は、加熱時間がごく短時間で糊化する。とことんでいえば、熱湯をかけてかき混ぜるだけで食べることができる。蕎麦掻きだ。だから、薄焼きのクレープなんかがうまくいく。ただし、蕎麦の粉は水との馴染みが良くない。小麦粉とは明らかにちがう。なるほど、蕎麦打ちが趣味になるわけだ。

 

そのうちに私は地方都市に引っ越して、数年のうちによくわけのわからない耕作者になった。自家菜園にしてはやたらと広い場所を、自分のものでもないのに耕すようになった。そして、友人に蕎麦のタネをもらった。「どうすんの?」と聞いたら、「さあ。私ももらったからわからない」という。一応、春蕎麦と秋蕎麦があるとか、蕎麦は75日とか、そういう古い農書に書いてあるようなことぐらいは耳学問としてあったから、この辺の時期かなと思うところで畑に播いてみた。いまとちがってまだネットの情報もない頃だから。

蕎麦はきれいに発芽した。そして、どんどん伸びた。盛夏を過ぎた頃だったけど、まだまだ夏草は伸びる時期だ。けれど、雑草に打ち克つスピードでどんどん成長した。そして、思いもかけずしっかりと収穫できた。僅かなタネを15メートル×2条ぐらい播いただけだったけれど、1kgぐらい穫れたのではなかったかと思う。別に何というアテがあってつくったわけではない収穫、どうしようかと思っていたら、友人の友人が蕎麦打ちを趣味にしているというので、来てもらって蕎麦打ち大会となった。

ところがどっこい、これを粉に挽くのが実に厄介だ。代わる代わるに石臼をゴロゴロと回すのだけれど、いっこうに粉にならない。結局、その粉で打ったのは1回分だけで、あとは持参の粉をごちそうになったのだったと思う。穀物の粒を粉に挽くのは、相当にたいへんだ。よくこんなことをやろうと思ったなと呆れてしまう。それでも食うという執念が、人間をここまで変えてきたのだろう。おそろしい。

 

蕎麦はその後も、数年の間は毎年のように播いた。というよりも、半ば雑草として生えていた。蕎麦の実は、熟するとどんどん脱落する。稲のように刈り取って干していても、あんなにきれいに穂に残るようなものじゃない。だから、収穫できる実の量と畑に落ちる実の量と、どっちが多いかというぐらいになる(もちろんプロはそんなアホなことはしないだろうけれど)。結果、畑に大量のこぼれ種が残るから、翌年以降も雑草のように発芽する。

蕎麦の若い葉っぱは、刻んで薬味にできる。あの頃は、よく雑草化した蕎麦やらしそやらの葉っぱを集めてきては、刻んで食っていた。そこらの草を食ってれば、あとは貰い物でけっこうどうにかなる。そんな生活は、それなりに安定していたなと思う。古い思い出だ。

電力逼迫時にEVの急速充電を割高にするのは、ありだと思う - 1人のEVユーザーの視点から

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ぽよぽよちゃん。 on Twitter: "電力逼迫注意報か警報が出たらEVの急速充電料金を10倍にしろ論。ええぞやったれやったれ。 https://t.co/ngr9rpZEh1" / Twitter

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実際、EVの電池はオフピーク時の充電によって電力需要の平準化に役立つ面もあるから、ピーク時には控えるような合理的判断を価格の方でコントロールするのはありかなと思う。どうしても必要なときは高くても払うから

2022/06/28 15:03

b.hatena.ne.jp

に、やたらと星がついている。このコメントはそのとおりで特に補足も何もないようなものだけれど、一応、私が9ヶ月のEVユーザーで、そして、ユーザーの感覚として「それはありだろうな」と思っているのだということは付け加えておいたほうがいいのかなと思って、書く。

まず、基本的にEVの充電にかかる電気代は安い。このガソリン価格高騰の折、実際、EVで助かったなと思う。どのくらい安いかというのは、実際には車によって大きく異なる。私は中古の三菱iMiEVに乗ってるが、電池がヘタっているので、充電性能も良くなく、さらにいえばもともと急速充電器の高電圧に対応できないので、そういう意味ではあまり安くない。ちなみに、自宅の充電は自宅の電気契約によって電気代が異なるわけだが、公共の充電設備での充電は、基本的に充電器の使用時間割の支払いになる。1分あたりに何円という価格設定だ。だから、同じ時間でも大量の電流を流すことができる最新式の電池を搭載したEVのほうが、圧倒的に電気代が安くなる。おそらく半額とか、4分の1とかのレベルで安くなる。だが、そこまで安くならない私の旧式のEVでも、距離あたりの値段にしたらガソリン代よりも安い。

具体的にいうと、200Vの通常充電器の場合、1時間で20kmぐらいの走行が可能な程度の電気が入る。私がいつも使うイオンの充電器は1時間で100円なので、100円で20kmだ。去年まで乗っていた軽は、リッターあたり17kmぐらい走ったから、いまのガソリン代なら20km走るのに200円ぐらいになるだろう。つまり、ガソリン車の半額だ。

急速充電の場合、三菱車なので、三菱のディーラーなら、1分あたり5円で入れられる。30分充電すると30kmぐらい距離が伸びるから、通常充電とほぼ同じ価格だ。悔しいのは、急速充電器の場合、上記のように最新型ならその2倍、3倍の電力量は同じ時間で入るので、さらにさらに激安になる。うまくすれば燃料代はガソリン車の2割とか、その程度でいくんじゃなかろうか。

そして、多くの場合、自宅で充電すればもっと安くなる。このあたり、契約によって大きく異なるのでなんともいえないのだけれど、kWあたり料金が30円としても、外で充電する場合の半額程度ではなかろうか。まあ、電池の性能がよければ、ディーラーで急速充電するほうが安いのかもしれない。このあたりは、私がそういう高級車を持っていないので、わからない。ときどきディーラーで高速充電器を占拠している高級車を見るから、そういうことなのかなとも思ったりもする。

ただし、私の場合、自宅充電はもうタダみたいなものだったりもする。というのは、10年の買取価格保証期間を過ぎた太陽光パネルが屋根の上にあるからだ。価格保証が過ぎると、買取価格は二束三文になる。この二束三文の電気、売らなければ、ある意味、二束三文で使うことができるということにもなるだろう。天気のいい日を見計らって、充電する。この場合、100Vの電圧なのでずいぶんと時間はかかるけれど、そのほうが電池のためにはいいのだし、時間なら通常はたっぷりある。こうすれば、実質の燃料費はタダ同然で、EVに乗れる。もちろん、たまには曇りの日が続いたり、翌日の予定のために夜間に充電しなければならないときもあるから、やや高めの電気代を払わなければならないときもある。それでも、ガソリン代に比べたら微々たるものだ。

実のところ、こういう詳細をレポートして記事にしようと思っているのだけれど、もう少しデータをためたいので、先のことにしている。とりあえず、今日は、まず「燃料費はガソリンに比べたらほんとに安いよ」ということを知ってもらうことが第一だ。そして、そのうえで、「必要があれば少々高くても気にしないよ」ということを伝えたい。

このあたりは、ユーザーによって違うだろう。けれど、上記のような「自宅で充電するのがいちばん安くて便利」という状況があるときに、じゃあ、なぜ公共の充電器を使うのか、ということになる。それは、基本的には走行距離が延びて電気が足りないからだ。だが、EVでそこまでの遠出はしない。もともと遠出に向いていないのを承知で買ってるわけだから、近距離用途が中心で、たまに都合で遠距離に出る。だから、公共での充電が少々高くついても、全体としては燃料費にほとんど影響しない。あるいは、外で充電するときに、必ずしも満充電まで持っていく必要を感じない。不足分だけ入れられれば、帰ってから充電するほうが時間の節約にも電気代の節約にもなる。

実際のところ、急速充電器の価格設定は、スポットによってけっこう違う。ディーラーは1分5円だが、イオンは1分12円だ。そして、他社のディーラー(よく使うのは日産だが)は1分あたり15円したりする。3倍だ! けれど、30分制限の充電、たかだか300円だけ余分に払うだけといえなくもない。そして、ピンチを脱するためにそこに充電器があるなら、そのぐらいの出費は安いものだと思える。そこで10分だけ充電することで家に帰れるのなら、3倍と言わず5倍、6倍でも私は使うだろう。

仮に10倍の価格設定がピーク時に実施されたとして、基本的にはその時間帯の急速充電器の使用は避けるように行動を工夫する。けれど、車なんて、使いたいときに使えるから魅力的なのだ。だから、必要があれば、日中でも乗るだろう。そして、電池が怪しくなってきたら、やっぱり急速充電器は使う。余分な電気代にヒヤヒヤしながらも、しょせん数百円で電欠の難を逃れられるんだったら、そりゃ、やむを得ないと思う。それでもトータルで見たら、ガソリンに比べて遥かに優位にたってることがわかってるんだし。

 

だから、電力逼迫時に急速充電器の設定を変えるのは、それはそれでありだと思う。そうやって不要不急の使用を回避できればいいのだし、緊急の使用で儲かった分は、いろいろと有効活用できるだろうと思うし。

私は道に迷わない - だからアブナイ奴、という話

山岳部の連中は、案外とよく道に迷う。昔のことで、GPS使うのが一般化したいまのことは知らない。笑い話のようではあるが、反省会とか行くとアプローチで道まちがえたとか、下山の道に迷ったとか、割とよく聞いた。自分自身でも、しょっちゅう道を踏みまちがえてた。理由は簡単で、山岳部の連中は基本的には地形を読む。地形を見て、地図を確認し、自分の現在位置を把握して、方向を決める。だから、登山道のないバリエーションルートであるとか、あるいは登山道が雪に閉ざされてしまう冬山とか、そういうところでも安全に行動できる。ルートの選択は「あっちの斜面は雪崩れそうだ」とか「あそこの尾根に取り付いたら上部の処理がヤバいな」とか、そういった判断で行われるのであって、そっちに登山道があるかどうかとか、そういったことからはほぼ独立している。その判断をまちがえたら命にかかわるから、等高線の読み方みたいなことは徹底的に叩き込まれる。実際の地形と地図を何度も見比べ、立体が図上にどのように表現されているのかの対応を地道に学んでいく。だから、よっぽどのことがないと高山ではルートをまちがえないし、仮にまちがえたとしてもそれにきっちり対応できるだけの心の準備と装備は整えている。そういう意味では、山岳部の連中は道に迷わない。

ところが、低山ではそのセンスが通用しない。なぜなら、樹林帯の低山は、基本的には人為的に開かれた道によって通行可能なルートが定まっているからだ。道を歩くときに、ひとは地形を気にしない。地形的にいったら「このあたりは登らなきゃおかしいのになあ」と思っても、道がそちらになければ道に従うしかない。そしてたいていの場合、道は何らかの都合で合理的につけられている。もちろんおおまかには、「だいたいはこの尾根を行くんだな」みたいに把握しているわけだけれど、ときに登山道は尾根の腹をまいていたりする。「あれ?」と思っても、しばらくするとまた道は尾根の上に戻る。だから、あまり疑問を持たずに道にくっついていくのが正解だし、なんなら道標や踏み跡に注意して、「正しい道」を外れないように進むことが重要になる。ところが、山岳部の連中ときたら、ついついそこで高山の感覚を生半可に出してしまう。「生半可に」というのは、確かにきっちりと地形図を読んでおけば、まちがえないのだ。けれど、登山道がある樹林帯では、どうしてもそのあたりの判断が大雑把になる。「ここはずっと尾根筋だよね」と思っていると、主尾根をはずれていく分岐を見落として、地形上は尾根筋が続いているように見える獣道に突っ込んでしまう。本当はそこで支尾根に踏み換えて道は続くのだけれど、そういう細かいところを見落としてしまう。結果、しばらく進んで、突然あるはずのないピークに出て、わけがわからなくなる。続いている道だと思ったものはそこで消え、どっちも急傾斜の高台で、ようやく道をまちがえたことに気がつく。

山岳部の連中のタチのわるいのは(一般的に、ではないと思う。私の知ってる何十年も前の連中だ)、そこで強行突破してしまうだけの体力と装備をもっていることだ。いや、ちょっと戻ればいいだけなのだ。けれど、そこでおもむろに地形図とコンパスを取り出して、「ちょっと外れてしまったけど、こっちの方向にこの斜面をトラバったら支尾根の方に出れるはず」みたいな、雪山だったら正しいかもしれない、絶対にまちがった判断をやってしまう。そして、行ってしまう。おい、戻れよ。戻ったほうが早いよと、第三者的な立場からはいえるのだけれど、そこを強行してしまう。そして、どう考えてもヤバいザレ場を突破したりして、行っちまう。

ただ、低山をなめてはいけないのは、それが通用しない場面もある、というよりも本当なら通用しない場面のほうが多いからだ。だいたいからして日本の山はV字谷みたいに言われるが、むしろ小文字の「r」ぐらいに思ったほうがいい。谷筋に向かうと急速に傾斜が増すのが普通だ。だからうっかり下っていくと、思いがけない急斜面やガレ場、ときには崖に行き当たる。いったん谷底まで行ったらいいのかといえば、日本の沢筋には滝やゴルジュ帯があったりする。昭和からこっちは谷沿いの林道なんかも開発されてたりするのだけれど、それは少し高いところを高まいていたりして、谷底からでは存在が見えなかったり、あるいは無理にそこまで登ろうとすると、また崖に阻まれたりする。突破するのにロープ持ち出して懸垂下降したり、おい、目的を果たして気楽なはずの下山中にそんなことするのかよと、そんな事態にもなりかねない。

あるいは、低山で案外にやっかいなのが人里近くなってから道を外れてしまったときだ。自然の崖なら弱点をつくなり最悪ロープワークまで繰り出して突破する山岳部の連中も、まさか道路の擁壁のコンクリートの懸崖をそうやって通過するわけにはいかない。「この沢筋を下れば道路に出られるはず」と思って下っていったら両岸をコンクリート護岸で固められていて、にっちもさっちもいかなくなることだってある。私有地の柵にぶち当たって、柵が切れるまで延々と密な藪と格闘しなければならないこともある。身体的なダメージでいえば、これは相当にでかい。

ふつう、そこで道に迷わないだろうとか、道に迷ったことがわかった時点で引き返せばいいのにとか、冷静になれば思う。けれど、どうにか突破できるだけの体力と根性と装備をもって行動してると、「えい、いってしまえ」となってしまう。そういうことを繰り返しているといつか死ぬぞと思いながらも、本人に「迷った」という感覚がないから、前に進んでしまう。

 

そう、一般人が「道に迷った」と感じる場面で、ある人々は「おや、やっかいごとがおこった」ぐらいにしか思わないのだ。「ある人々」なんて言わなくていい。どうやら私はそういう性格だ。ふつう、「あ、ヤバいな」と思ったとき、ひとは引き返す。私は突っ込んでしまう。客観的に見ればアホなことで、場合によっては道徳的にアウトなことであっても、行ってしまう。いや、山の話ばかりではない(ちなみに低山でそういうアホなことをしてしまったのは、家から歩いて出かけた六甲の山で10年ばかり前にやらかしたのが最後だ)。仕事でも生活でも、「そこでやめとけよ」とずっと後になって冷静になったら思うようなことでも、「なんとかなる」と突っ込んでしまう。

こういう人生で、よく生き延びてこられたなと、自分ながら呆れる。けれど、突っ込んでは窮地に陥ってなんとか脱出するのを繰り返す。おそらく、そういうスリルを味わってしまうと、それが人生の刺激になってしまうんだろう。何だ薬物中毒と同じじゃないか。アブナイ奴じゃないかと、我が事ながら思ってしまう。

命までは取られなかった。けれど、その過程で、迷惑をかけたひとはずいぶんいる。それはいまでも痛い。だから、せめてこのぐらい生きてきたんだから、残りの人生、他人に迷惑をかけることは避けるようにしていきたい。とは思いながら、やっぱりやっちまうんだろうなとも思う。中学生のとき、葛城山で、道に迷って、それでもなんとか突破できたあの体験が道を踏みまちがえた最初だったのだろう。あそこに戻れるなら…

目標、努力、成功、成長について(その2) - 同じ言葉を使っていても

前回、「目標、努力、成功、成長について」という記事を書いた。

mazmot.hatenablog.com

これはもともと、はてなを代表するブロガーのひとり、シロクマ先生のブログに感じた違和感が出発点になっている。

p-shirokuma.hatenadiary.com

p-shirokuma.hatenadiary.com

違和感というのは、物柔らかな口調であるから普通に読んでいたら気にならないのだけれど、シロクマ先生が成功することに価値を見出しているのがどちらのエントリにも強く現れていたことだ。いや、そりゃ、人間は幸福であるべきだし、幸福な状態を入手することを成功だと定義するのであれば、成功は喜ぶべきことであるにちがいない。けれど、記事中では、「アタリ」の例とされているのが大学進学であったり、「点の成功」の例とされているのが「大学入試。就職。結婚」であったりと、「成功」は「社会的により上位にあるとされるものへの上昇」として描かれている。一般に、「社会」を語るときには、それがどんな「社会集団」であるのかを定めておかなければならない。この文脈ではそれは日本社会ということになるのだろうけれど、シロクマ先生の見ている日本社会と、私の感じている日本社会は、どうも微妙にズレている。それが違和感の発生源だろう。

確かに、私たちは有名大学に進学した人、有名企業でバリバリ仕事をしてる人、そこで出世の階段を登っていく人、あるいはベンチャーを立ち上げて経営者として活躍している人、ときには素晴らしい配偶者を得て幸福な家庭を築いている人を「成功した人」として羨む。自分もそんなふうになれたらいいだろうなと夢想することもある。けれど、重要なことは、そんな成功をつかめる人はごく僅かである、という事実だ。ごく僅かであってもそうありたいということで、たしかにそれに向かって努力する人々は成功する人々の数よりはずっと多い。けれど、もっとその外側に、そういうものを成功であると認めた上で、はなからそれは自分とは無関係な世界のことであるとして、特にそれを目指そうとか、それに向かって努力しようとか、そういうことを考えない人もまた、多いのではないだろうか。むしろ、そっちのほうが多数派なのではないだろうか。

そういう多数派であっても、それぞれなりの小さな成功はある。たとえば東京の私立大学への進学は、東大や京大といった国際的にも名前の通った大学への進学を成功と捉える人々にとってはとてもとても成功のうちには入らないだろうが、別の人々にとっては十分な成功といえるだろう。全国的Fランク大学として高名な某芸術大学に通っている私の息子にしたところで、半数ほどの卒業生が進学しない彼の高校では「大学行けていいね」の部類になる。それぞれの身分にはそれぞれの身分なりの成功があり、それは上の身分の人々の失敗と実質的に同じである、みたいなことはあるのかもしれない。ああ階層社会。

昭和的な言い方をすれば、係長になった人は課長を羨み、課長は部長になるまでそれを成功と認めない。部長は取締役にならねば敗者だし、取締役は社長にのぼりつめたいと願う。けれど、圧倒的多数は万年平社員で、何なら失業して職安に行ったり、土方になったりする。ま、令和の現代にそういうモノサシは古すぎるだろうが、成功を社会的な上昇と結びつける限り、そこには絶対的な安住の地はない。成功はどこまでも逃げ去るものであり、捕まえようとしても捕まらない青い鳥に過ぎない。

もちろん、それを回避する方法はある。目標を明確にしておくことだ。たとえば、「医者になりたい」というのを明確な目標にすれば、国家試験に合格した段階ではっきりとそれは「成功」と認められる。「医者になって人の命を救いたい」というような漠然とした目標には安易に成功は確認できないかもしれないが、それでも、診断がピタリとハマり、治療が功を奏した瞬間には、成功を感じてもかまわないだろう。物事が曖昧なのは測定基準がはっきりしないからであり、測定基準をはっきりさせればそこは明確になる。目標は、成功のいい測定基準になる。

そして、目標が定まれば、そこに対する具体的な努力が可能になる。およそ、目標を定めない努力は精神論にしかならない。それは、目標を定めない上昇志向と同じで、人を終わりのない泥沼に陥しいれる。そういう側面からも、目標設定は大切だ。そして、目標に向かっての努力の達成度から、人は成長の度合いをはかることができるだろう。

けれど、ここで繰り返すなら、それは多数派には当てはまらないのではないか。なぜなら、努力に見合う絶対的な成功の価値が、「下に」いくほどだんだんと低下していくからだ。トップクラスで競っている人々にとってはそうではなかろう。成功は莫大な見返りをもたらすのだし、なんなら成功が得られなくとも、見返りは大きい。たとえば東大をトップクラスで卒業という目標を達成できなかった東大生でも、世間からみればそりゃ優秀な企業への就職が可能だろう。目標を立て、そのために着実に行った努力には、たとえ目標達成の成功が得られなくとも、それなりの価値がある。司法試験を目指して猛勉強して結局合格しなかった人でも、大企業の法務部という一般人から見たら羨むべき安定職への可能性がある。成功には価値があるし、成功が得られなくても努力によって得られるものは大きい。ところが、もっと「下の」クラスになると、どうだろう。たとえばそこそこ名の通った私立大学への入学は、多くの「偏差値が真ん中あたり」の高校生にとっては目標になり得る。けれど、もしもその目標が得られたとしても、そういった大学に通うことによって得られるメリットはそれほど大きくない。まあ、大学の価値なんてそれぞれだけれど、たとえば就職先でいえば有名私大を出ても非正規雇用がやっとなんてのは近年ではザラにある。それでも生涯賃金を見たら大卒のほうが多少は有利なのかもしれないが、それが「努力」の成果として得られたものだと思ったら、なんだか哀しくなる程度のものでしかないのではなかろうか。また、大学合格を目指して努力したけれど成功しなかった場合、その努力に対する報いはほとんどないのではないか。受験勉強としての英語や数学が多少できたところで、それが大学入試以外のどこで役に立つというのだろう。結局は骨折り損のくたびれ儲けではないか。

だから、シロクマ先生が「努力はみんなするけど、努力ガチャを引ける回数がちがう」とか、「点の成功より線の成功」とか、あるいは直近では「性淘汰圧」とかいうときに、なんか違和感が拭えない。いや、そうやって努力を当然とする価値観とか、成功があって当然みたいな考え方とか、異性の選択によって生殖機会の回数が定まるとか、それはそれぞれに正しいのだろうけれど、「それって一般化できるのか?」と思ってしまう。そういう価値観や思考方法や原理が当然とされる社会は、確かにある。受験業界なら「最低でも関関同立か関東ならMARCHぐらい、順当にいけば旧帝大ぐらいがあたりまえでしょ」みたいな世界に住んでいる人々の集団では、おそらくそれはあてはまる。医者や弁護士を輩出するような進学校の内部では、そんな価値観や原理が支配的であっても不思議はない。けれど、私の仕事は、そういう生徒ばかりを相手にしているのではない。高校卒業のために単位を揃えるのに四苦八苦している生徒に、「努力は報われる」みたいな価値観で接しても、すれちがうだけだ。部活が楽しくて仕方ない生徒に、「幸福になるためには目的意識がなければなりません」みたいに説教したって、空回りする。だって彼女は既に幸福なのだから。

 

人間は多様であって、すべてに通用する原理・原則は、なかなか見つけにくい。とりあえず私は、「うまいものを食ってよく寝ること」が人を幸せにするという原則はだいたい大丈夫だろうと思っているけれど、それすら絶対的なものとはいえないと感じることもある。目標、努力、成功についても、それが当てはまる人に関しては、それは割と有効なモデルだし、よくできているとは思う。けれど、それが当てはまらない人々の存在を、最近特によく感じている。そして、まだまだ修行が足らんなあと反省したりもする。

それでも、私がたぶん、人間に関してだいたいは当てはまるんじゃないかと思う原則は、ないわけではない。たとえば、「人は成長する」。これは、長い目で見たときに、たいてい当てはまるように思う。たとえどれほど家庭教師がヘボだろうが、生徒はそれにもかかわらず成長する。それを信頼していれば、たいていのことは乗り越えられるように思う。たとえ、努力や成功がなくても、「成長したなあ」と感じることは多い。もちろんそれは、客観的な指標なんかない感傷に過ぎないのかもしれないけれど…

目標、努力、成功、成長について - 流れ去る時間と円環する時間

家庭教師として生徒を教え始めたときに、最初に確認するのは「なんのために勉強するんですか」ということだ。もともと私は勉強が大嫌いだし(ちなみにざっと9割の生徒が「嫌いだ」と答えているからここでは多数派だと思う)、嫌いなことをあえてするのであればそれには必ず理由があるはずだと思うからだ。好きなことをするのに理由はいらない。嫌いなことをあえてするには、そのための理由がなければおかしい。理由がわかれば、その理由に沿って指導ができる。これが顧客満足度をあげるもっとも確実な方法だ。売りたいものを売るんじゃなくて、客が望むものを売るのがサービス業の基本(まあ、優秀なビジネスマンにとってはそうではないのだろうけれど)。

勉強をする理由としてあがってくるのはさまざまであり、個別だ。ひとりひとりちがっている。もちろん、表面的な理由(「大人になって困るから」とか「将来のため」みたいなの)は理由になってないから徹底的に潰しておく。観念的なお題目は要らない。こっちはもっと具体性がほしいわけだ。「親がうるさいから」というのは十分に具体的だが、こういう外部からの圧力はやっぱり理由にはならない。もしもそれが唯一の理由だというなら、私はクビを切られるのを覚悟で親と話し合うだろう。いまだそれで辞めさせられたことはない。

具体的に理由をどんどん詰めていくと、半数ぐらいの生徒は「将来の目標」を出してくる。実は、このタイプの生徒は教師にとって非常にラクなのだ。なぜなら具体的な目標があったら、それに到達すべき経路が明らかになり、そこに至るまでのマイルストーンも置くことができる。ひとつひとつ確認していけば、なんなら次のテストの目標点まで割り出せて、こんなやりやすいことはない。ま、実際には「将来の目標」なんて成長の途中でコロコロ変わるから、最初に描いた筋書き通りに進むことはめったにない。とはいえ、そういうのを便宜的にでも置いておけば、なすべきことが自ずと明らかになる。無意味な「やる気」なんて引っ張り出さなくてよろしい。

しかし半数ぐらいの生徒には、これは当てはまらない。ただ、それでも無理矢理にそういうスタイルに当てはめてしまう場合もある。たとえば「何になりたいかわからない」という生徒に、「じゃあ、10年後、20年後にどんな自分でいたいか想像できますか」と尋ねたら、「ときどき美味しいものを食べて、旅行に行けるような暮らしをしている」と答えた生徒がいた。ならば、そのイメージ通りの未来を実現するためにはどんなことが必要でしょうというところから、「じゃ、大学行って給料がいい会社に就職するみたいな感じですか」と、目標っぽいものを設定した場合なんかがそうだ。つまり、意識されない動機をとりあえずは目標モデルに落とし込んだわけだ。そういうのまで含めれば、6、7割ぐらいは目標モデルにもっていける。けれど、どう工夫してもこのモデルがしっくりこない生徒は少なくない。

その中でも、割と少数派だけれど家庭教師にとってやりやすいタイプの生徒は、「好きだから」タイプだ。「なんで勉強するんですか」という問いに、いきなり数学の問題がうまく解けたときの快感だとか、歴史の魅力だとかを語りだす連中だ。注意しないといけないのは、こういう生徒の中には頭が良すぎて「模範的にはそう答えるべきだ」と理解した上でその筋書きに沿ってセリフを並べている生徒が混じっていることだ。まあ、そのぐらいに自分を客観的に操作できるなら、それはそれでたいしたものだ。ホンネで勉強の魅力を語る生徒と同じくらいにはやりやすい。これらの生徒は、表面的には「勉強は嫌いですね」みたいに言っても、そこまで忌避してるわけではないから、放っておいてもやるべきことはやってくれる。手間がかからない。ただ、どちらにせよ、こういう生徒は多くない。

けれど、そこまで意識的ではないけれど、学ぶことの魅力に気づいている生徒は案外といる。これはある意味当たり前のことで、人間はもともと新しい情報を貪欲に取り込む性質を本能に組み込むことで発展してきた生物でもあるわけだ。それらの生徒は、自分自身の知的好奇心と学校の授業で強調される技能訓練とのギャップの前で、勉強が嫌いになっている。人間の記憶なんていい加減なものだから忘れるのは当たり前なのに、「教えたことは必ず覚えているべきだ」とする教師の姿勢から、退屈な反復が「勉強」の中心に来て、わくわくする新しい知識に触れることがどんどんとぼやけてしまっている。そういう不条理があるのだということさえわかれば。実際にはこのタイプの生徒も「好きだから」のグループに入れられるだろう。あまりうるさいことを言わずに知的満足をもたらす餌だけ与えていけば、着実に伸びる。家庭教師の役割は、テストの点数に一喜一憂する親をどうやってごまかすか、みたいなところに絞られてくる。

そして最後に、どうしても「なんで勉強するのか」に反応できない一群の生徒がいる。多数派ではないのだが、確実にいる。どういうふうに尋ねてみても、動機が不明。かといって親や学校からの強い圧力に屈しているわけでもない。「嫌だな」と思いながらも、どうにかこなしていくことで日常がまわり、その日常が続くことに何らかの意義を見出しているのかもしれない。そのあたりの行動原理が言語化されていない。だから、私もよくわからない。けれど、なんとなく共感する。私もたぶん、子どもの頃に「なんで勉強するのか」を質問されたら、同じように答えに詰まってしまっていただろうから。

 

ともかくも、大別すれば生徒には目標をもって勉強に取り組む生徒と、目標はないけれど勉強に取り組む生徒の2種類がいることになる。もちろん人間がきっちり2種類に分類できるわけはなく(いや、阪神ファンとそれ以外とか、できるといえばできるのだが)、その間にはグラデーションがある。目標があるといえばあるけれど、実は目標をもてと言われたからなんか適当に言ってみただけみたいな生徒も実際には少なくないように見える。上記のように教師からすれば目標をもっている生徒は指導しやすい。おそらくそれが理由なのだろう、21世紀の子どもたちは、小学生の頃からことあるごとに将来の目標を学校で尋ねられる。もちろん、「大きくなったら何になる?」は昔から大人が子どもに尋ねる定番で、「男の子は大将、女の子は看護婦」の戦時中から「末は博士か大臣か」の立身出世主義の高度成長期にかけても普通の質問だった。けれど、その時代の「何になる?」は「目標」みたいな具体的なものでなく、「夢はでっかく」と、現実味がないほうが称賛された。「ノーベル賞」とかね。小学校6年生のときの同級生で「サラリーマンになりたい」と言ってたやつは、興ざめなこと言うな的な目で教師から見られていた。なにせ、21世紀には宇宙に飛び出して銀色のレオタードを着るのだみたいに思われてた時代だ。現実主義は嫌われていた。ところがその21世紀の子どもたちは、同じような答えをしたら、もっと現実的にと言われるだろう。「サラリーマン(とはもはや言わないだろうが)にもいろいろな職種がありますよ。まず技術職ですか、営業職ですか。どんな分野に興味がありますか」と、事細かに具体化される。なぜなら、具体的な将来の夢は目標に置き換えやすく、目標ができれば指導がしやすいからだ。だから、いまの子どもは将来の目標について聞かれることに慣れていて、中学3年生ぐらいだとこっちが驚くほどかっちりした人生プランをもっていたりもする。

そういう子どもたちの中には、本当にしっかりしたひともいるのだろう。人生三周目ぐらいに知恵のある子どもだっている。けれど、教師に言われたからというだけで「目標」を設定する生徒もいる。そして、いくら教師がはたらきかけてもそれがピンとこない生徒もいる。その中には、それでも好きだから学ぶという生徒が、やはりその強度はグラデーションではあるのだけれど、確かに含まれる。けれど、特別に目標があるわけでもないし、また特に好奇心が強いわけでもないし、それでもまあ、そこそこに勉強はやるんだという生徒が、確かに存在する。そのあり方もやっぱり一様ではなく、さまざまな形がある。ただ、そういう生徒と話していると、私自身の理屈の根拠である「嫌いなことをするんだったら必ず理由があるはずだ」という問題の立て方が現実を反映していないのかもしれないという気もしてくる。以下、話をわかりやすくするために、一方の極に「目標タイプ」、もう一方の極に「動機なしタイプ」を置くことにしよう。

 

「目標タイプ」には、努力がよく似合う。努力の方向性が定めやすいし、努力の結果がはっきりと目に見えるからだ。到達すべきところが明確であれば、そこまでのマイルストーンもはっきりする。努力は常に成果と照らし合わせることで持続される。そして、努力が着実に実を結べば成功が手に入る。それは志望校への入学であるかもしれないし、正社員としての就職であるかもしれない。あるいは職場での達成であるかもしれない。そして、そういった努力と成果のサイクルを回していくことで、着実にそのひとは成長していくだろう。

その一方で、「動機なしタイプ」には、努力という概念がそぐわない。そりゃ、そういうひとでもがんばるときにはがんばる。ときにはとてつもない集中力を発揮してくれたりもする。けれど、目標のないがんばりは一過性のものにならざるを得ない。継続的な努力へとは、なかなか昇華できない。それでも、いろいろやってれば、なんだかんだで成功が訪れるかもしれない。けれど、そういった成功は、それを狙って準備してきたものではない。本人にとっては、気がついたら転がり込んできたラッキーのように感じられるだろう。周囲が成功だと讃えても、ピンとこない顔をしている。そりゃ嬉しいのだけれど、「よくがんばったね」なんて言われたら、居心地が悪い。謙遜でもなんでもなく、「たまたまですよ」と返すしかないだろう。

どちらがいいとかわるいとかいう話ではない。だいたいが、この2つの「タイプ」そのものが仮想的に置いたものであって、必ずしもそれが当てはまる話ばかりでもない。じゃあなぜこんな2つの「タイプ」を持ち出したのかといえば、それが、人間の時間の観念とどこか対応するのではないかと思いついたからだ。

ずいぶん古い読書で得た知識なのでもう出典も定かではないのだけれど(調べたら案外と簡単にわかることなのかもしれないけれど)、近代西欧的な時間の観念は、直線的なものなのだそうだ。すなわち、時間とは一方向に流れ去る量であり、いったん流れ去った時間は二度と戻ってこない。そういうふうに言われれば、確かに時間とはそういうものかもしれないなあと思う。覆水盆にかえらずだし、こぼれたミルクの上で泣いてもしかたない。人生にやり直しはない。

その一方で、人類の歴史の中では西欧近代的な時間の観念は特異的なものであると、その書物には記されていた。もともと人類は、円環する時間の中を生きていた。円環する時間とは、繰り返し繰り返し、同じことが起こる時間の流れだ。たとえば、冬が来れば必ず春が来る。苗を植え、収穫の秋を迎えれば、きっと来年も同じように実りの秋はくる。これが円環する時間だ。繰り返しは1年の単位で起こるばかりではない。朝が来れば太陽が昇り、日が暮れたとしても、また必ず東に曙光がさす。あるいは、ひとは生まれて死ぬかもしれないが、死ぬ人がいれば必ず生まれてくる人がいる。物事は必ず繰り返すのであって、どこかに始まりがあるわけでも終わりがあるわけでもない。こっちにしても、そういうものだと言われればそうなのかなあと思う。人類学の教えるところでは(といっても最新の知見は知らない。出所がもう何十年も前の本だから)、ほとんどの人類はそういった時間の観念のもとに生きてきた。

そして、もしもそうであるのなら、目標を定めて、それに向かって努力し、そして成功を収めるという一連のモデルは、西欧近代化とともに生まれたのではないかという気がしてくる。流れ去る時間に最もうまく対応するためには、先まで見通した計画を立てて行動する必要がある。つまりは目標を立て、その実現に向けて努力する。成功は、一方向に進む時間の中で、努力の集積として実現する。「目標タイプ」は、直線的な時間の流れと相性がいい。

もちろん、円環する時間であっても、目標は立てられるだろう。たとえば秋の豊作は、たとえ実りの秋が毎年くるとしても、やはり毎年同じように切実な願いであるはずだ。秋の豊作を目標として、春の田起こしに精を出すのは、「目標があっての努力」と捉えることができるかもしれない。けれど、そのときに、秋の豊作は「成功」ととらえられるだろうか。円環する時間の中で、たとえば豊作の願いは状況がどうだろうが個人がどうだろうが、毎年繰り返し起こる事象であり、豊作をもたらすための努力である農作業も毎年繰り返し起こる。結果として豊作が現実になることもあれば、天候その他の事情で不作になることもある。同じように豊作を願い、同じように努力しても、結果は年によって違う。そんなとき、豊作は、「努力の成果」としての成功としてとらえられるだろうか。

円環する時間の中では、サイクルを越えて目標を立てることができないし、そしてサイクルの中で立てる目標は次のサイクルの中でも目標になるわけだから、それに対する努力も同じことの反復になる。そこに特別な何かはないのだし、特別なことがないのに結果が少しずつ変化するのであれば、それはもう「運・不運」のレベルだろう。このような時間を生きる人にとって、「成功」という概念は、いまひとつ理解しにくいにちがいない。「努力」さえ、なにか「目標」があるから行うのではなく、毎年の循環の中で繰り返し行うことに位置づけられる。春の田起こしは秋の豊作を願って行うのかもしれないが、なぜそうするのかと言われれば「毎年やってるから」というのが最もしっくりする感覚になるだろう。

こういった時間の観念のもとに生きていると、「なんのために」をいちいち考えなくなる。考えなくてもやるべきことをやっていれば世界は回る。そういう信頼感のもとに、人は日々の行動を営む。そうやって生きてきた流れの上に立って子どもたちに「なんのために勉強するんですか?」という問いを発したときの反応を受け止めれば、どこか納得できるような気もする。そんなことは考えなくても、むかしから子どもは学校に行くもんだし、学校に行けば勉強はするもんだ。あるいは親は子どもに勉強しろというもんだし、子どもはいやいやでも勉強するもんだ。むかしからそうやって世の中は回ってきてるんだし、理由なんてのはあとからくっついてくるもんだ。意識してそう考えているのではなく、感覚的に、そんなふうにとらえて生きている子どもたちは案外と少なくないのだろう。これが「動機なしタイプ」として現れるのかもしれない。

 

古い小説を読んでいると、よく東京の立身出世主義と田舎の因循姑息が対比的に描かれている。都会での競争に疲弊した登場人物が故郷に戻ってホッとするのも束の間、どこまでも進歩のない農村の感性に嫌気が差してまた大都市へと舞い戻る、みたいな筋書きは、誰のどの作品というのでもなく、実にありふれていたように思う。明治維新以後、日本人は西欧的な時間の流れを受け入れていった。けれど連綿と受け継がれてきた円環する時間の感覚が基底を形作っている。個人の中にある感覚の不調和が小説に描かれているのだと思えばわかりやすい。そして、ここで1人の個人が2つの時間の観念を同時に内在化させているように、実は一方向に流れる時間の観念と円環する時間の観念は、決して「西欧文化東洋文化」のような対立ではないのかもしれない。

私たちは、もともと、過ぎ去る時間と繰り返す時間の両方の感覚をもって生きている。たとえば方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして…」は、流れ去る時間と繰り返す時間の両方の感覚がなければ味わえないように思う。芭蕉奥の細道の書き出し、「月日は百代の過客にて…」も、一方向に流れる時間というものを明示的に表現しているといえるだろう。伝統的な日本人の感覚の中にも、一方向に進み戻ってこない時間の感覚は確かに存在する。ヨーロッパ世界において、近代以前には円環する時間の観念が主流であったと言われるが、その時代に流れ去る時間の概念がなかったわけでもなかろう。一方向に進み戻ってこない時間の観念は、もともと目立たなくともあったものが、近代化の中でことさらに強調されるようになったのだと考えればいいのだろう。そして、そういう観念で時間を捉えるひとも、身体のどこかには円環する時間の観念も併せ持っているにちがいない。

 

なんでこんなことを考えるのかといえば、ひとつには最近、年老いた母と過ごす時間が増えていることが関係しているのかもしれない。一方向に流れる時間で人生を見ると、老齢は惨めだ。なぜなら、目標は既に達成されてしまった。あるいは、達成不可能という現実が確定してしまった。先に待っているのは死でしかない。ここからどんな目標を立て、どんな努力をして、どんな成功があるというのだろう。もちろん、近代は年齢を問わず、目標モデルを当てはめる。看護学の本を訳していたときに知って驚いたのだが、近年は「成長」を少年期や青年期にだけ当てはめるのではなく、壮年期や老年期にも当てはめる考え方が広まっているのだそうだ。つまり、「成長」というモデルはそのままに、それを「未熟な状態から一人前の状態になること」だけではなく、もっと拡張していこうという考え方だ。成長とは、年齢の変化に応じて自分自身を変えていくことだ。たとえば高齢者にとっての成長とは、日々衰えていく身体能力を受け入れ、それに順応してなおかつその能力を十分に活かして充実した生活を送れるように適応していくことだ。たとえば脳梗塞で入院し、快癒した高齢者にとっては、失った能力を少しでも回復し、あるいは失った能力の代替になる能力を開発することが目標になり、そのための日々のリハビリが努力となり、成功をつかむ道程においてそのひとは成長する。これが近代の求める高齢者の生き方だ。

それはそれで、納得のできるものでもある。実際、そういう言い方で鼓舞される高齢者もいる。数年前に亡くなった私の父親なんかもそんなふうだった。できなくなっていくことの中でそれでもひとつの目標を定め、そこへのマイルストーンをおいてそれをクリアしていくために努力を重ねる。マラソンランナーならではのその姿勢は、看護チームからも称賛されていた。そして実際、そういった病院生活で、父は人間としても成長していったと思う。そういう姿を思い浮かべると、人生のどんなステージにあっても「目標モデル」はありなのかなと思えてくる。

けれど、その一方で、もうひとり、私にとって忘れられない老人がいる。丹波の田舎に暮らしていたとき、近所に住んでいた農夫だ。区としては隣だったので日頃顔を合わせることはそれほど多くなかったのだけれど、山の奥にある住まいから里に出る途中に私の家があったので、ちょくちょくと立ち寄ってくれていた。しばらく顔を見ないなと思っていると、またひょっこりと来てくれて、入院していたと言う。もういいのですかと聞いたら、いや、ブドウの剪定の講習があるから途中で1回帰ってきたんだとのこと。そのときは、そうですか、おだいじに、みたいなことを言ったのだけれど、たまたまそのとき家にいた友人と、後で顔を見合わせてしまった。

この老農、その頃でもう80歳ぐらいだったように思う。腰も曲がっていて、60代が若手と呼ばれる田舎の基準でみても年寄りの部類に入る人だった。農業に関してはベテラン中のベテランで、素人である私たちが見たら信じられないような立派な作物をつくる。その人が、いまさらながらにブドウの剪定を習うというのである。何を習うというのか。人に教えるというならともかく、新たに学ぶことなんかないだろう。だいたいが、数年前に植えたというブドウ園にしたところで、彼が生きているうちに盛期を迎えるとは思えない。いや、そうなるのかもしれない。いったい何歳まで生きるつもりだよ、と。

私はこの話を、「人間、いくつになっても学ぶことをやめてはならない」とか、「向上心は人を若々しくさせる」みたいな教訓として使ってきたのだけれど、なんとなく、「それはちょっとピントを外しているかもなあ」という感覚ももつようになってきた。たぶん、かの老農は、そんな感覚で剪定の講習を受けたのではない。地域で推進してるブドウを植えたし、普及所が講習をやるというし、そういうときの講習は受けるもんだ、みたいな感覚だろう。そのときに、一方向に流れ去る時間の中に自分がいるという意識はない。ブドウの樹が成熟する頃に自分がどうなっているかなどと、考えても仕方のないことは考えない。そういうことは、実際にそのときになってみればわかることだ。それよりも重要なことは、以前牛がいたときに草をはやしていた斜面が空いてるし、それを放っておくわけにいかないから何かを植えることだったのだし、そのときに奨励されているブドウはひとつの選択肢として正しかったのだろうし、果樹の剪定のことはだいたいわかってるといっても普及センターでこの品種に合わせた講習をやるというのなら受けるべきなんだろうし、とにかくこの状況で自分がやらねばならないことをやることだ。それをやっていれば世の中は回っていくのだし、世の中が回っていれば自分がどうなろうが、それですべてうまくいく。仮に自分が倒れたとしても、誰かがあとを引き継いで、やっぱりやるべきことをやっていけば、それでいいのだ。だからこそ、自分はこの瞬間に、自分がやるべきことをやる。そんな感覚だったのではないだろうか。

実際、彼の農場は実に見事だった。1町近い山の中の田んぼをほとんど手植えでつくりまわしていたのだが、豊作の秋にいくら穂が重くなっても倒れる気配もなかった。手植えなのは大苗の健苗が田植え機にかからないからで、なぜそんな大苗にするのかといえば、昔からそうやってきて、それでうまくいっているから変える必要を感じないからだった。機械を拒否するわけではなく、稲刈りには古いバインダーを使っていた。有機農業関係者が比較的目立つ地域だったが、主義主張に関心はなく、牛がいるから堆肥を田畑に入れる、農協に出すより儲かるから自分で販売までやるというスタンスで何十年も生きてきたのだということだった。

私はその後、子どもが生まれる前に10キロほど離れた地方都市の郊外に引っ越した。息子が生まれたとき、それを聞いてこの老農は自転車に乗って峠を越えてわざわざうちまで祝いに駆けつけてくれた。私はとても嬉しかった。それから一年ほどたって、時雨気味のある日、妻が彼を見かけたという。曲がった背中で子ども用の自転車に乗って夕暮れの中を走っていった。翌日、その老人の訃報が届いた。不思議な出来事だった。妻が見たのは錯覚だったのだろうか。田んぼで倒れて亡くなったのだそうだ。

話が少し逸れたが、あの尊敬すべき老農夫は、円環する時間を生きていたのだなあと思う。壮年期に野菜の行商に使っていたがっしりした荷台の自転車を取り回すだけの体力がなくなると、成人した息子が納屋に放置していた子ども用の自転車を自分用に使うようになった。それは、彼にとって「できなくなったことを別の手段でできるようになる」という成長モデルで説明するよりも、「去年までと同じことを今年もできるように工夫する」という繰り返す時間のモデルで説明するほうがピッタリくるような気がする。来年も、再来年も同じことを繰り返す前提で、それでも同じことができなくなれば、それに応じて工夫する。その工夫によって、また新たなサイクルが生まれ、そしてそれが続いていく。変化はあるし、その変化の最大のものは老いであり、この世からの退場である。けれど、自分が消えていくあとからあとから、新たな命が生まれて、また新たなサイクルを始める。それは単純に寿ぐべきことだ。

葬儀の家の庭に起こされた焚き火の火にあたりながら(このときの火の粉で上着にできた焼け焦げがいまも残っている)、大往生とはこういう人生をいうのだろうと私は思っていた。そういう人生の片隅にごくわずかだけでも関わることができて、私も幸せだと思った。その祝福を受けた息子の人生も、きっと幸せなものになるだろうと確信した。センチメンタル。

 

嫌いな勉強をするのにはきっとなにか動機があるはずだ。それを目的とか目標とかいって引っ張り出せる「目標タイプ」と、どうしてもそれが出てこない「動機なしタイプ」と、実際にはその両者が同時に一人の人間の中にいるような気がする。それは、人間が直線的に進んで始まりと終わりがある時間の感覚と、始まりも終わりもなくただ循環を繰り返す時間の感覚の両方を備えているからなのだろう。その感覚の強弱は、個人によって異なっている。同じ人でも、状況によって異なった感覚が優先するだろう。だから、多数派の生徒は家庭教師が無理矢理に目標設定するのについてくることができる。家庭教師としてはそのほうがラクだから、可能であれば目標は設定しておきたい。けれど、それがピンとこない「動機なしタイプ」にどう対応すればいいのか、これはなかなかに難しい。

それは、私の中にそういった時間の感覚がないからではない。そうではなく、現代の学問をベースにした学習指導要領に準拠した教育課程が、やっぱり近代西欧的な直線的な時間の感覚に馴染みがいいからなのだろう。目標を立てることは、個人的な営為である学問を一般化し、場合によっては公共のものにすることだ。個人の営為の社会化といってもいい。資本主義社会のもとでは、個人の欲求の達成は社会化され、社会の発展に結実するとされる。目標を立ててそれを実現することは、まさにそういうことだ。

その一方で、循環する時間の中で行う学問は、どこまでいっても個人的なものだ。個人的な営みを支えるのは、ひとつには喜びだろう。一面に青々と活着した田んぼの苗を眺めるとき、「ああ、美しいな」と思う。納屋に積まれた米の袋の山を見て「今年も大丈夫」と安心する。椎茸を売りに回って、空になった荷物の代わりに膨らんだ財布を確認して「儲かったな」とほくそ笑む。あの老農はそういう喜びを日々に積み重ねていたに違いない。それは個人的なものであって、とるに足らないつまらないものにも見える。けれど、その積み重ねでもって、毎日が、毎年が、そしていくつもの人生が繰り返され、天下が成り立っている。そういう意味で、これもまた、個人と社会のかかわり方のひとつであるともいえる。「動機なしタイプ」を支えるのは、そういった小さな喜びを大切にすることであるのかもしれない。そして、そういった喜びを積み重ねることで、確かにひとは成長する。それは目標モデルのいう成長とは異なるような気がするが、やっぱり成長と呼べる何かが起こるような気がする。

だとしたら、そういう生徒に向き合うときには、「小さな喜び」が感じられるような指導にしなければならないのだろう。会社のミーティングで他の講師の話を聞くと、たとえば「できたらシールを貼ってあげる」とか「褒める」とかいったテクニックで子どもを「やる気にさせる」みたいな話がよく出てくる。私はけっこうそういうのに懐疑的で「子ども騙しだ」とか「何様だよ」みたいに内心批判してきたのだけれど、ひょっとしたらそういうやり方は、生徒の中に小さな喜びをつくり出す工夫なのかもしれない。

そんなことをしなくても、授業そのものが面白ければ、それは喜びになる。そのはずだ。何のためにやってるとか、それで何が得られたとか、そんなことはわからないけれど、単純に家庭教師の時間が楽しみになる。そういう授業はあり得る。それができることが、生徒の中に小さな喜びをつくり出す本来ではないのだろうか。

ただ、それがホントにできるのかと言われれば、うん、私の授業、そこまでのエンターテインメントにはできないよなあとも思う。同じ時間を過ごすのに、90分の映画を1本見るのと同じだけの楽しみを与えられる授業であればなあと、これは実際に生徒に向かってもいう。でも難しい。難しいけれど、それができればなあと切に願う。そのためには、努力も必要だし、まだまだ成長せねばならない。結局のところ、それが私の「目標」だったりと…