中学生用の英語教材自作の話 - 一例報告

英語教育の理想と現実

家庭教師として中学生に英語を教えるのは、けっこう悩ましい。というのも、理想と現実の間の距離があまりにも離れすぎているからだ。

究極の理想としては、言葉はその言葉が使われている場所で生まれ育った人々が覚えるように覚えていくべきだ。人間が言葉をどんなふうに覚えていくかは、それはそれで専門家がいろいろ研究していることであって、シロウトの私がどうこういうことではない。ただ、まちがいがないのは、まず音として聞いている期間が最初にあり、その音と概念を結びつけながらオウム返しで真似をする期間があってから、ようやく音をコミュニケーションの手段として使えるようになる順序だ。やがて音は文字と結びつき、そのなかで規則を発見し、整理していく。こういった過程が頭脳の発達と並行しながら進行する。

外国語を学ぶ場合、まず、言葉を覚える過程と脳の発達の過程が同時進行するわけではないという点が既に大きなちがいとなっている。母語で一通りの発達がある程度までできあがった段階で、母語とは別のものとして学びはじめる(だからさまざまな「学習法」みたいなのが流布する)。そうではあっても、私の経験上、やはり言葉は音から入るのがベストなようだ。初学者は音として把握する練習をメインとし、文字は補助的に使うべきだと思う。そうやってある程度、モノマネ的に使えるようになってから、文法的な理解に進んだほうが話がはやい。だから、非現実的な意味での理想としてではなく、実現可能な理想としては、英語を教えるならまず実際に英語の音を実際のイメージとセットで反復してもらうことから始めたい。英会話教室のような方法だ。手許にいろいろなものや画像を用意して、「これは何?」「だれの?」「どこにある?」「何色?」みたいなことを問答したり、あるいは買い物のロールプレイをしたりして、実際に英語を使う場面を大量に経験させる。入門用の動画教材(セサミストリート的なやつ)も使えるだろう。そうやって英語に慣れてから、補助的にそれが文字とどう対応するのかを少しずつ練習させる(フォニックス的なやつだ)。そして、ある程度、「英語ってこんなもんなんだな」と自信がついてきたところで、集中的に文法的な説明にはいる。基礎的な文法が把握できたら、今度は長い文章を何度も音読させる。音読は、音と文字を結びつけて学習できるので、原始的だけれど侮れない方法だ。可能であれば、この段階で英語音声の動画も大量に見せたい。たとえば英語圏の映画やアニメだ。楽しめるものがいい。動画視聴や音読がある程度までいったら、もう声は出さなくていいから、長文を大量に読ませる。辞書を積極的に使うのはこのあたりからだ。そんなふうに進めれば、英語力は急速に上がる。そうやって英語の実力がついた上で、最終的に英語の検定(英検とかGTECとかTOEICとか)や入学試験(高校受験や大学受験)のための対策をすれば、おもしろいように点数は上がるだろう。これが実現可能なレベルでの理想だ。

だが、実際にはそんな理想通りに英語の指導ができたためしはない。理由はいくつもある。そのひとつひとつをあげたらきりがない。というのは、家庭教師は生徒一人ひとりの状況にあわせるのが仕事であって、生徒一人ひとりの特殊な事情のもとで、できない事情も多岐にわたるからだ。ただ、概ね共通して言えることはいくつかある。

まずひとつは、そもそも家庭教師は英語だけ教えるのではない、ということだ。しかも、多くの生徒が週1回だ。複数回の生徒はだいたいが受験対応だから、のんきに英語の基礎教育なんかやってる場合じゃない。上記の英語の特訓は、英語を中心に週2回か3回やらなければ実行できない。そういうケースは、ほぼありえない。

もうひとつの理由は、学校英語を無視して進めるわけにいかないということだ。これは上記の理由とある部分は重なる。自分が全面的に英語教育を担うわけにいかないから、かなりの程度は学校での英語指導をアテにしなければならなくなる。そして、学校英語は家庭教師の都合なんかにはかかわりなく、学習指導要領の組み立てどおりに進行する。それをアテにする以上、こちらもそこをあまりはなれられなくなる。

ちなみに、学習指導要領の英語カリキュラムは、理念的には上記の「実現可能な理想」と考え方は大きく異なっていない。小学校に英語が導入されたが、そこでは文法的なことを詰めるのではなく、「英語に親しむ」ことが主な目標となる(指導要領改訂で少しは様子が変化するが、基本的姿勢は変わらない)。そうやって「英語ってこんなもん」という感覚がわかってから、中学校で文法を学ぶという手順だ。ただ、絶対量がちがうことと、なによりもテストの設計の関係で、実際にはかなり理念からかけ離れる。生徒は「何を暗記したらいいんですか」という発想で英語に取り組んでくるし、学校教師もそういう発想を歓迎するから、中学英語は、実質的には文法的なステップを一つ一つ踏みながらしか進んではいけないことになっている。そして、そのステップは非常に漸次的だ。だから、習うまでは過去形はテキストに用いてはならない。未来形や不定詞や完了形も、習っていないあいだは読んでも書いてもいけない。各段階で厳格に使える用法が規定されてしまう。これは、「文法は一気にやってしまって、あとは音とテキストの物量で攻める」という理想からかけ離れたものになる。

学校英語を無視できないもうひとつの理由は、それが生徒の成績に直結しているからだ。もしも学校のカリキュラムを全部無視していいのなら、それとはまったく別な方法で英語を教えても、中学生だったら高校受験の英語のテストで高得点をとるぐらいのところまでもっていくのは(生徒の適性や好みによっても一概にはいえないにしろ)だいたいは可能だ。英検だったら2級ぐらいまで上げることもできるだろう。だが、その場合、途中の学校の英語の点数は保証できない。多くの場合、高得点は望めない。なぜなら、学校英語の定期テスト対策は(多くの人がそういうもんだと思っているから気づかないのだけれど)、かなり特殊なのだ。だから、定期テストの点数は、学校英語にあわせて、その単元の文法事項を集中的に反復しないと上がらない。別の方法をとったほうが最終的な得点能力が上がると思っても、途中で通知表の成績が下がれば生徒本人の自信も低下するし、内申書も不利になる。だから、学校英語の進め方にある程度あわせないわけにはいかない。

ユニバーサルな教材が使えないわけ

学校英語にあわせようとすると、とたんに教材の問題が出てくる。いや、完全に学校英語の通りに進めるのなら、教材は無数に市販されている。けれど、こちらは、学校の英語を利用しながらも、できれば理想に少しでも近づけた英語教育をしたいと思っている。そのほうが生徒の利益になるからだ。つまり、学校での英語と相補的な形で英語を教えたい。そのためには、学校英語と矛盾しないように「音から入る英語」「大量に長文を読むトレーニング」を実施したい。けれど、それをやろうと思ったら、たちまち手にはいる教材がそれほど多くないことに気づく。そして、「語学は量」という本質を考えたら、分量は絶対的に不足することになる。

一般に、英語の初学者向きの教材は、近年、かつてなく入手しやすくなっている。インターネットのおかげだ(なかでも音声教材に関しては、YouTubeの恩恵は大きい)。英語を外国語として学ぶのは、日本人だけじゃない。世界中の多くの非英語圏の人々が外国語として学ぶ。そればかりでなく、英語圏であるはずのアメリカやイギリスの国内でも、母語を英語としない人々は少なからずいて、そういう人々は第二言語として子どものうちに英語を習得する。だから、子ども向けの英語の教材は、音声、テキスト、あるいはそれらを複合させたマルチメディアと、多種多様に存在する。もちろん有料素材もあるし著作権にセンシティブなものもあるが、多くのものは教育上の配慮から無料であったりオープンであったりする。だから、ライセンスを気にせずに英語教育に使うことは、かなりの範囲で無理なく行える。

ただ、それらの豊富なユニバーサルな教材は、日本の学校英語との整合性が非常に悪い。学校英語を無視して独自に教えるのなら、いくらでも使える。だが、学校英語をアテにして、その進度にあわせて使おうとすると、とたんに使えなくなる。

英語だと想像しにくいかもしれないので、小さな子どもがどうやって日本語に親しんでいくのかを思い起こしてもらうのがいいだろう。子どもは、まず、音声として親の言葉を聞き、真似るところからはじめる。親は、確かに子どもに対してむずかしい言葉は使わないようにする。けれど、よくよく観察してみると、親や保育士、幼児教育の教師は、文法的にはかなり高度な表現も意識せずに使っていることがわかる。倒置法とか体言止めなんかも、ふつうに使う(だからそういう技法が詩の表現で出てきても小学生は違和感なく読むことができる)。日本語的な表現でいえば、副詞の呼応的用法なんかは、相手が幼児だろうとふつうに使う。「絶対〜ダメ」とか「きっと〜はず」なんてやつだ。もしも外国人が日本語を学ぶとしたら、こういった高度な表現は少し段階が進んでから勉強するだろう。けれど、子どもはそういうのも混ぜこぜで学んでいく。文法的な段階なんか無関係に学ぶ。そしてテキストとして与えられる絵本、あるいはマンガなんかの文章は、決して文法的に理解しやすいものではない。むしろ、文法的に整理しようとしたらひどく難解なものが、「音が美しいから」「響きがいいから」「リズムが楽しいから」みたいな理由でどんどん盛り込まれている。実際、そうでなければ子どもたちは読む気を失うだろう。言葉を学ぶとはそういうものだ。

だから、英語教育を「ネイティブ・スピーカーと同じように」と思って外国の絵本を使ってやろうとすると、発想を入れ替えない限りたいへんなことになる。絵本であっても難しい単語はどんどん出てくるし、現在完了形どころか未来完了形や過去完了形、仮定法、分詞構文、原型不定詞など、文法的には高度なことがおかまいなく出てくる。そういったものをごちゃ混ぜに、ただし、概念的には子どもにも理解しやすいように噛み砕いてどんどん与えることで、子どもたちは言語を獲得していく。

外国語、あるいは第二言語として英語を学ぶための教材の場合、多少はそのあたりに配慮はある。ネイティブ・スピーカーを想定した絵本や幼児向けの動画なんかに比べれば、明らかに高度な表現は抑制的につくられている。ただし、ユニバーサルな教材は、日本の中学生用の教材ほど厳格ではない。現在形を主に学習することがターゲットだなと思われる単元でも必要なときには補助的に過去形や未来形を使う。だってそうしなければ不自然になることが多いからだ。仮定法とか完了形も、よくよく聞けば紛れ込んでいたりする。なぜなら、言葉は、さまざまな場面で使用されるからだ。実用的な場面を、動画とかテキストとかに落として教材にすることが必要になる。ユニバーサルな教材は、そういった実用性を重視している。文法的な枠組みからはみ出さないことに気を使い過ぎるほど気を使う日本の教材とはちがい、多少の逸脱はあっても、「それはまた別の機会に学ぶので、とりあえずそういうもんだと思って聞き流して」みたいな感じで許容する。だから順序からいったら現在形しか知らないはずの段階の教材でも過去形や未来形が出てくるし、単数形・複数形を学習する前からどちらもふつうに出てくる。言葉の中のどこに注目するかが問題であって、「習ってないから使ってはいけません」という規制はない。

これが、インターネットで豊富に利用可能な英語教材を、私が英語を教えるときにそのまま利用できないと感じる大きな理由なのだ。もちろん、学校英語を完全に無視して進めていいのなら、いくらでも利用できる。実際、ごく稀にはそういうふうにして英語をスタートする生徒もいて、その時点ではおもしろいぐらいに英語が上達していく。けれど、上述の事情でどこまでも学校英語を無視するわけにもいかず、どこかの段階で学校英語にあわせなければならなくなる。そうなると、やっぱり既習事項と未習事項は気にしないわけにいかなくなる。なぜなら、下手に学校で習ってないことを進めすぎるとテストで想定されていない解答を書いたり、あるいは学校で要求される反復に支障が出たりするからだ。理想と現実は同時進行で進められない。理想と現実を折り合わせなければならず、そのときに、理想的な形で利用可能な教材は、利用できなくなる。

日本の教材が使えないわけ

ならば、「ふつうの教材」、つまり、書店で売っている学習参考書・問題集や、日本人が日本人の中学生向けにインターネットで提供している英語教材を使えばいいではないか、となるかもしれない。けれど、これらを使って効果的な英語教育をしようとしても、すぐに限界にぶち当たる。

もともと日本の教科書は、上記のように、ステップ・バイ・ステップを厳格に守っている。中学1年生の冒頭のレッスンこそは文法的な縛りにとらわれずに慣用的な挨拶や定型句を学ぶのだけれど、すぐに一般動詞の使いかた、be動詞の使いかた、というふうに進んでいく。最初は単数形からなので、その間に複数の表現は禁じ手になる。一人称、二人称しか学んでいないあいだは、絶対に三人称表現は使えない。そうなると、自由な表現はできない。それでも教科書には、英語が使われている場面が描かれる。そういう場面に未来形を使わないとか不定詞は使えないとかいった限定を加えると、どんどん人工的な、ありえない文が並びかねない。しかし、場面をごく短いものに限るなら、あまり不自然でもなくそういった細工ができる。日本の英語の教科書はそういう仕組みでできている。苦しいなかでよく工夫しているなと感心する。

だが、それをもとにした教材は、その限定的な例文をもとにいくつかのバリエーションを飽きるほど繰り返して覚えさせるようにつくられている。それはそれでひとつの方法ではあるのだけれど、言葉が実際に用いられるような形とはどんどんかけ離れていく。現実に用いられる言葉はもっと多様であり、ぐちゃぐちゃにみえて、そのなかにパターンが現れてくる。文法はそれを蒸留したものであり、文法を学ぶことは重要だが、現実はエッセンスだけでできているわけではない。両方を知らなければならない。学校英語は文法的な要素の習得にばかり目が向いている(もうちょっと正確にいうなら昔に比べたらここは大きく改善しているし、理念的にも決して文法中心主義ではないのだけれど、テスト設計の関係で現実は文法に過度に傾斜している)。家庭教師として英語を教えるなら、そこで抜け落ちるもっと豊かな英語を教えたい。英語の実力を養い、最終的な「得点力」をアップする上でも、それは欠かせない。けれど、日本の学校教育に沿った教材ではそれに対応できない。

現実には、多くの中学生が、教科書の例文に準拠した問題集の反復教材で英語を覚える。けれど、それだけで英語の多様で豊かな実際が学べるだろうか。そういった学習法で身につけた英語で、たとえば英語圏の幼児向けの絵本を読もうと思っても、たちまち行き詰まるはずだ。これは実際に、まだ私が駆け出しのころに試行錯誤をするなかで見出した事実だ。絵本も読めない英語で、小説が読めるだろうか。雑誌記事が読めるだろうか。まして論文が読めるだろうか。もちろん、そのためにはさらに高校、大学で英語教育を積むわけだ。高校三年生なら幼児向けの絵本も理解できるし、簡単な小説も読めるようになる。大学生になれば論文も読めるようになる。けれど、そういう順序は正しいのだろうか。

理想論を語るのではない(それは冒頭の方で既に語った)。現実のカリキュラムがそうなっているとき(そしてそうなっている理由は、それなりに十分理解できる)、そこにもう少しだけ、実際に使われている英語、文法にではなく、もっと日常にフォーカスした英語、楽しさや美しさに着目した英語、豊かな英語に近づけた教育はできないのだろうか。それは可能だ。だが、書店に売っている参考書や問題集ではそれに対応できない。あまりにも文法的なステップ・バイ・ステップにフォーカスしすぎているからだ。

どんな教材が必要なのか

理想を現実にすり合わせるには、微妙なごまかしを意識した教材が必要になる。基本的に、学校の例文中心主義はある程度受け入れる。そしてこの部分は、ふつうの市販教材で対応できる。家庭教師が用意しなければならないのは、そこからこぼれ落ちる、もっと多様な英語を収録した教材だ。具体的には、さまざまな音声教材とテキスト教材だ。問題はその内容だ。

まず、学校の進度にあわせた文法要素が中心にこなければならない。その上で、中心部分ではない部分では、単語や文法要素は、既習にとらわれない。ではあっても、あまりに学校英語からはなれたものは扱わない。このあたりが「微妙なごまかし」になるわけだ。たとえば、「すばやく」という表現にはquickly、promptly、swiftlyなどがあり、また類似表現にat once、soon、right away、immediatelyなどがある。実際にはもっともっと豊富にある。だからユニバーサルな英語教材ではそれらがどんどんとっかえひっかえ出現する。ニュアンスがちがう場合に最適のものが選ばれるのはもちろんだが、それだけではない。英語は繰り返しを嫌う傾向があるので、同じ表現を使っても差し支えないような場面でも言い換えはどんどん行われる。文脈も影響する。けれど、日本の生徒に教える場で実用的に使おうと思ったら、そこを制限する。中学生用の教材だったら、このうちのいくつかは使わない。できれば副詞を避けてat onceを優先するだろうし、副詞で使いたければquicklyから優先するかなと思う。immediatelyは高校1年生かな、みたいに思う。同様に、文の構造も、節は中学1年生にはなるべく避ける。完全に除外すると不自然になるからそこまではしないけれど、避けられるところは避ける。重文構造はなるべく単文に分解する。たとえば中学2年生なら、関係代名詞はなるべく避ける。やはり少しぐらいは許容しないと不自然になるけれど、解説が必要になるほどの頻出は避ける。仮定法もできる限り避ける。

つまり、なるべく英語の豊かさ、多様性を失わないようにしながらも、学校英語を基本に教えられてきた生徒が迷ってしまわないように、相当な抑制を加えるわけだ。そのためには言い換えを工夫し、なるべく平易な表現を選び、意味を推測しやすいように文脈を配置し、単語を選ぶことになる。

ある程度、それに近い工夫をしているのは、 意外にも実は英検、実用英語技能検定だったりする。英検は、かつて「あんなものとっても学校の成績は上がらない」と批判されたものだが、民間試験活用の流れのなかで注目され、さらにまた批判されたりと、毀誉褒貶が激しい。ただ、その出題の傾向は良くもわるくも一貫しており、なるべく「実際に使われている英語」を意識しながらも、学習カリキュラムにもしっかり目を配り、各レベルに相応以上の文法知識や単語を避けるようにしてきている(だから英検対策の単語集とかも出されるほどだ)。英検の出題とユニバーサルな教材を比べると、学校英語の教材までいかないが、かなり既習事項からはみ出さないような工夫がされていることがわかる。単語も、学校の進度とぴったり合わないのは当然としても、「どう考えても中学生が知ってる必要はないだろう」というレベルのものはほとんど出てこない。出てきても注釈付きで負担をかけないようにしている。

だから、英検の過去問題は、学校英語プラスアルファの英語指導をしたいときにはいい教材になる。1年分の過去問題はつねに英検公式のWebサイトで公表されているので、生徒にそれを使わせるのは著作権法上も問題はない。とはいえ、1年分をこえると非公表になるし、それを無理に使えば著作権の問題が発生する。したがって、すぐに量が不足するようになる。

いま私はオンライン専任になっているのだけれど、そうなる以前は生徒が使っている教科書とは別の教科書会社の教科書を副読本的に使っていた。教科書は数百円で買えるし、ある意味、その学年の進度にぴったり合っているのだから、テキストの量を確保するにはいい手段だ。ただ、オンラインになるとそれは使えない。生徒に購入してもらえばまだ著作権上の問題は発生しないのだけれど、家庭教師側の手許にしかないものを生徒と共有したら、著作権侵害になる。このあたり、Webで学習用としてフリーで公開されているデータに比べれば使いにくい。

テキスト教材をつくってみた

ならば自分でつくるか、となって、ようやく本題になる。やれやれ、前置きが長くなった。数日前に思い立ったので、その報告だ。今回は、要件として、

  • 中学2年生(現状は1学期)が読むテキスト
    ・ よって過去形・未来形は既習、不定詞、動名詞、完了形は未習
    ・ 未習範囲を含んでもよいが、主要部分は既習の知識で概ね理解できるようにする
  • 長さは200 words程度までの読み切り記事で、記事数は10以上、必要に応じていくらでも追加可能なものとする
  • テキストの末尾に簡単な問題をつけるが、これは達成感を与えるためのもので、重要なものではない。
  • 興味をもって読める内容

とにかく量を読ませたいとなると、1回読み切り形式で、毎日新しいのが読めるようにするほうがいい。読んでもらえばそれでいいので設問は本来不要なのだけれど、かなしいことに中学生はテスト形式に慣れすぎていて、問題がついていないと教材と思ってくれなかったりする。また、問題が解いてあれば一応、こちらも「あ、ちゃんと読んだんだな」と確認できるので、入れることにする。もっとも重要なのが、読んで面白いこと。面白くなければ続くはずがない。

となると、オリジナルの作文は不可だ。まずなにより、中学生が面白いと思えるような読み物をいくつも書くだけの才能はない。その才能があれば、家庭教師なんかやってないはずだ。次に、オリジナルで英文を書いて、きちんとした英語になるとは思えない。もちろん、後述するように機械翻訳を使えばそれなりに誤りのない英文を書くことはできる。けれど、英語として自然かどうかは、思いのほかに書かれてある内容に依存する。よくいわれることだが、英語的な発想と日本語的な発想は異なるのだ。一応私は、家庭教師になる以前に(あるいは家庭教師になってからも兼業で)、英語翻訳者の実務経験が長い。だから、文法的にソツのない英語を書くことは可能なのだけれど、それを中学生の教材にしていいかと言われたら、残念ながら首を横に振るしかない。

そこで、いろいろ考えて、最終的にこういう方法で作成した。

  • 大元の素材は、外国の小学生向けの読み物からとることにした。具体的には、子ども向けに英語に翻訳されたイソップ寓話集のサイトからテキストをコピーした。
  • 次にこのテキストを、DeepLを用いて日本語に変換した。
  • 日本語のテキストを再度DeepLに入力し、日本語の文を調整して、英語が平易になるように書き換えた。
  • DeepL上で、英語表現を簡易なものに変更した。
  • できあがった英語テキストを、元のテキストと比較して推敲した。
  • 最終的にLibreOffice上で体裁を整え、設問を追加した。

大きな流れとしては、実際に英語圏で子ども向けの読み物として用いられているものを日本の中学生の学習段階に適合するように書き直す、というものである。なぜそうするのかといえば、ネタを書き下ろす力がないから、というのに尽きる。もちろん、実際に英語圏で読まれているものを学習の対象にするのは、英語教育の趣旨からいってもふさわしい。教育用にいろいろなサイトが存在するが、そのなかでイソップ寓話集を選んだのは、ひとつにはこれほど古い物語に著作権上の問題はさすがに存在しないだろうと思ったからだ。もちろん、英語のサイトには英語への翻訳者がいるわけで、その翻訳著作権はあるだろう。ただ、ひとつには教育目的での使用にはオープンにしていることと、それから、全面的に英語を書き直すことになるので、いずれからいっても問題はないと判断した。テキストは、基本的にはInternet Archiveで公開されているオープンなテキストと同じものであるようだ。あと、単純に私がイソップ寓話を好きだという理由もある。幼児期に絵本で読んだ記憶がいまだに鮮明で、「おもしろいなあ」と思う。きっと中学生も面白いと思ってくれるんじゃないかと思う。ここまで古いと、かえって時代遅れとか、関係ないだろうし。

このテキストをそのまま使用しなかったのは、なんといっても文法的にも出てくる単語のレベル的にも、中学2年生には難しすぎるからだ。格調高いといってもいい。小学生レベルのイソップ寓話であるのに、おそらく高校生ぐらいじゃないときちんと読解できない。このあたりが日本の英語教育どうなのよというところでもあるのだけれど、そこは妥協することにしているのだから、文句は言わないことにする。そして、粛々と書き換える。

書き換えるためにDeepLという翻訳エンジンを利用するのは、ひとつには手作業でやってたら私自身のコストがかかってしかたないということでもあるのだが、それだけDeepLの精度が高いということでもある。以前話題になってからときどき使っているのだが、入力する文をある程度機械が読み取りやすいように調整してやりさえすれば、下手な人間が訳すよりはずっと「自然な」翻訳が得られる。英語→日本語の翻訳ではたとえば「です、ます」と「だ、である」が混ざったりしてがっかりするが、そういう目立つアラはかえって手作業でなおせるから、問題にはならない。そして、日本語→英語の翻訳は、日本語を単文を中心にしたシンプルなものに整えれば、ほぼ信頼できる結果を出してくれる。

私は日本人だから、英文を書き換えるよりも、日本文を書き換えるほうがずっと能力が高い。上述のように翻訳の実務経験があるから英文を直接書き換えることもできるのだけれど、仕上がりのクォリティを考えたら、それはやらないほうがいい。いったん日本語に変換してから、日本語の方でどんどん単純化していく。

そして、これを再度DeepLにかけるわけだ。このときに、DeepLでは、英語→日本語には実装されていない機能が利用可能になる。訳語にマウスオーバーすると、別候補が表示されるのだ。別候補を選ぶことによって、それにもとづいて訳文が書き換えられる。これは使える。DeepLで翻訳された英文を読みながら、「ああ、ここは中学2年生にはしんどいなあ」と思えるところが出てきたら、まず日本語の方を調整できないかどうかをみる。文の構造的な問題はだいたいこれで解決する。表現や単語が難しい場合は、マウスオーバーで別候補にする。そうやって英文テキストを仕上げていく。

できあがったテキストを元のオリジナルと比較するのは、原文の意図を表現レベルで損なっていないかどうかをチェックするためだ。「味わい」が失われていないかどうかのチェックといってもいい。オリジナルのネタを日本文からもってくるのではなく英文からもってくるのには、こういう利点もある。日本人には納得できるが英語的ではないような論理構造みたいなのはやっぱりあるわけで、それは原文と比較することでチェックすることが可能になる。

 

と、まあ、機械翻訳のDeepLにおんぶに抱っこのような世話になってテキストを用意した。だいたい英検4級レベルと3級レベルの中間ぐらいのテキストが、思った以上にうまく作れた。このテキストを自分で書きおろせるかと言われたら、ちょっと無理だなあと思う。ツールがあればこそで、ほんと、いい時代になったもんだと思う。せっかくいい時代になったんだから、学校英語ももうちょっと…。いや、その話はやめとこう。

ブコメが怖い

ブログを書いている以上、少しでも多くの人に読んでもらいたいのは当然のことだ。読んでほしくなければ非公開設定だってある。そして、はてなブログの場合、ブックマークがつくと露出が高まる。より多くの人に読んでもらえる。だからブックマークがつくのは大歓迎だ。そして、ブックマークのコメント、いわゆるブコメも、参考になる意見が多いので、嬉しい。ときには筋違いのコメントや批判もまじってくるけれど、それらもほとんどの場合は自分の論旨の甘さや考えの浅さに気づかされてくれたり、あるいは異なる立場や思想からの見え方がわかったりするので、ありがたい。実際、私も「はてなブックマーク」(はてブ)ユーザーで、自分なりのブコメをつけている。そういう立場からいっても、ブコメは歓迎こそすれ、避けたいものでは絶対にないはずだ。

ただ、一昨日の夜、一つ前の記事を書いたときには、「ああ、しばらくブコメは見たくないな」と思った。ほぼまちがいなくブコメがつくと思ったし、ちょっとそれが「怖い」と思った。

中学受験のことは、以前にも記事にしている。この話題には、多くの人が反応するのはわかっていた。だから単純にアクセスがほしいだけなら、中学受験について書けばいい。それも極論であれば極論であるほど、燃えやすい。以前にそれがわかっていたけれど、以後、中学受験をメインテーマにした記事は書かなかった。というのも、私はそこまで深く中学受験にかかわっているわけではないからだ。家庭教師として中学受験生の指導に当たることもあるが、過去には年に1人いればいいほうだった。自分が小学生の指導が好きではないのでできる限り避けてきたということもあるが、運もあったのだと思う。同じ会社のなかではけっこう小学生を複数もっている講師も多いので、たまたまだったのだろう。それが、コロナの少し前からオンライン専任講師になったことが関係しているのか、一気に中学受験生がふえた。中学受験ではない小学生もいるにはいたけれど、5人とか6人とか、小学生を教えることになった。そこでいろいろ悩んだことを吐き出したいと思った。とはいえ、中学受験専門の学習塾の講師にくらべたら比較にならないほど生徒は少ない。家庭教師以前には学習参考書の編集者としてこの受験産業界のキャリアは長いから、それなりの知見はある。とはいえ、中学受験にはさまざまなステークホルダーがいる。その最大のものは、受験生であり、受験生を抱えた家庭だ。自分はそういう立場でかかわったことはない。だから記事が一面的になるのは書く前からわかる。そういう記事が批判されやすいのもわかる。なので、「ああ、もう中学受験のことは書かなくていいかなあ」と思っていた・

それでも書くのは、その時々のタイミングで、「ああ、やっぱりひとつ、ガツンと言うたらんとあかんのやないか」という思いが沸き立ってしまうからだ。それは自分の生徒や生徒家庭とのやり取りが引き金になるときもあるし、ネットの記事や、あるいはそれについたコメント群をながめていてのこともある。何かがきっかけになって日頃溜め込んでいることが噴き出す。けれど、書きながら、「ああ、またいろんな人がいろんなこと言うんだろうなあ」と思う。本来は勉強になるそれらの言葉が、自分の気持をさらにかき乱すのは前もって予想がつく。もうやめようかなとも思う。それを押し止めるのは、「せっかくここまで書いたのにもったいない」という意地汚さでしかない。そして、「ブコメが怖い」となる。アホなことと思いながら、「まあ、読まなきゃいいだけじゃない」と思う。そんなわけはない、どうせ読むのだとわかっていても、そう自分を言いくるめて「公開する」というボタンをクリックする。それが2日ほど前のことだ。

 

まんじゅう怖いではないが、ブコメが怖い。自分のキャパをこえる量のコメントが押し寄せてくるのは、正直いって怖い。この程度の量で、しかもほとんどが穏やかな意見程度のコメントで怖いなんて言ってたら炎上を経験した人には申し訳ない。それでも怖い。

いや、いつもいつも、ブコメが怖いわけじゃない。初めてはてブの存在を知ったのは十数年前、ほかの場で書いたものに500ぐらいのブクマがついたときだった。そのときは「ブックマークのコメントってムチャおもしろい」と、わくわくしたものだ。いまでもそういう気持ちになれるときはある。けれど、中学受験関係の記事につくブコメは、そういうふうに楽しめない。自分がそこに抱いているネガティブな気持ちがどうしても反映されてしまうからかもしれない。恐怖は自分自身の投影であるとか、誰か言ってなかったか。

恐怖や不安といった感情は、けれど、歴史を振り返ったときに時代を動かしてきた重要な動力源であったと思う。いま、そういうことを調べはじめている。ブログの記事にできるほどまとまるかどうかはわからないけれど、下書きをはじめている。ただ、それもまた、「ブコメが怖い」系統の記事になるんだろうなと思う。多面的な事象を一面から切り取って記事を書くときには、こういう感覚におそわれる。ちがう立場からはちがうものが見えていることがしっかりと予想できるからだ。そんなブログならやめちまえと思わないこともないが、このブログはどうもそういう性格のものであるらしい。

 

もっとのどかなことを書きたいなと思うこともある。たとえば野菜の話とか。葱がうまいとか大根がうまいとか、およそ人畜無害で炎上などしようがないものを書きたいなとも思う。そして、実際に書きはじめている。ブコメが怖い症候群が出たときには、そちらに逃げようかなと思う。ポチポチと、日々のよしなしごとを綴っていきたいと思っている。

ひとりの食卓から|まつもと|note

とかいいながら、やっぱりまた、「ブコメが怖い」記事をこっちに書くんだろうな。今度ははてなスターが怖い…

中学受験は、やっぱりおかしい - 基礎教育が目指すものと評価基準の乖離

「成長」というとらえどころのないもの

教育が目指すものは、なにはさておき、人間の成長である。人間の成長を支える介入を教育とよぶ、と定義しても差し支えないほどだ。原理的に、これに異を唱える人は多くないだろう。多数の人が教育を人間の権利とし、それを提供することが社会の義務だと考えるのも、それが人間を成長させるからだ。人間は成長する権利をもつのだし、成長を支えるのは社会である。生物はその基本特性として成長するのだし、社会的生物である人類はそれを構成する個人のそれぞれの成長によって成り立っている、ともいえるだろう。

ここに、教育を評価する根本的な困難が存在する。というのは、人間の精神的な成長は、容易に測定できない。さらに、介入が効果を上げたかどうかの測定は、それ以上にむずかしい。というのは、およそ人間は、教育なんか受けなくったって、それなりには成長するからだ。だから、仮に精神的な成長が観測されたからといって、それが一義的に教育の成果であるとはいえない。教育は成長を促進したかもしれないが、成長を阻害したのかもしれない。ひどい教育にもかかわらず、その他の要因によって成長がみられたということだってあり得るわけだ。教育の効果を正確に判別しようとすれば介入の有無によってどの程度のアウトカムのちがいがみられたのかを検証しなければならないが、それは倫理的に無理だ。実験のために正当な権利である教育を一部生徒に対して止めることなどできない。だいたいが、成長は個人差が大きいので、数例のことで検証はできない。大規模調査をしようとすれば、施される教育が均質であることを先に検証しなければならないが、教師の当たりハズレが大きいことは常識であって、そこから発生する影響をコントロールすることは相当な困難だろう。したがって、教育は、「だいたいこんなもんだろう」という思い込みと、「むかしっからやってきたことだから」という保守主義と、あとはマジナイみたいなものの混淆によって支えられているといってもいい。

人間は、教育以外の要因でも成長する

実際のところ、多くの人が見落としがちなのは、人間にはその人自身の力で成長する能力があるということだ。もちろん、社会的生物である人間は単独では成長できず、つねに他者とのかかわりのなかで成長するのだけれど、それが制度としての教育である必要はない。むかしは「テレビばっかり見てるとアホになる」、少し前なら「ゲームばっかりしてると…」、さらに最近では「スマホばっかり…」と言われるのだけれど、実際に起こったことは、それらのメディアを通じてさえ、人は成長できるのだということだ。それがベストかどうかとか、他のものと比較してどうだということではない。人はあらゆる外部刺激をベースに自律的に成長する力をもっている。教育は、それを補助するだけである。

家庭教師をやっていて、「あ、ここはいくら訓練してもいまはダメだな」と思うときがある。そういうときは、その局面は一旦退却して、他のことに力点を移す。そうしておいて1年とか2年たって、改めて同じ課題に取り組むと、驚くほどにうまく理解が進むことがある。放置していたあいだ、「教育」としての介入はおこなわれていない。それでも、生徒は日常生活をとおして、あるいは他の教科の学習をとおして、しっかりと成長する。だから、成長の結果として、過去にはわからなかったことがわかるようになる。そういうことが、しばしば観測される。放っておいても時間の働きで人間は成長するのだなあと、感じる。ときには、その成長は人為的に外部から働きかけるものよりもずっと強く本質的なのだなあとも思う。

だからこそ、カリキュラムに発達段階を考慮することが重要になる。以前にこのブログでも指摘したのだけれど、たとえば比率の概念は小学生には理解しにくいのだけれど、中学2年生以降になると飛躍的に理解する素地が高まる。これなんかは典型的に年齢による発達段階が学習項目の理解に影響する例だと思う。なぜ小学校の算数で中学校的な代数を扱わないのかとか、小学校の国語で文法をやらないのかとか、理科の量的な把握は主に高校になってから扱うこととか、小学校の歴史は人物本位なのに同じ時代を扱う中学校ではそうではないこととか、なるほど、学習指導要領は(上記の比率のようにどうしても無理のある部分はあるにせよ)、よくできていると思わせてくれる。年齢相応の理解というものが、カリキュラムの作成には欠かせない。それは、教育とは無関係に年齢に応じて人間が成長するという事実をベースにしてはじめて、納得できることだろう。

成長=知識・技能の獲得?

これに対して、「いや、教育の力はそんなもんじゃない」という異論もある。つまり、発達段階は教育的介入によってどんどん進めることができる、というものだ。5年生で比率の概念がしっかりつかめないのは教え方がわるいからであって、きっちり教えれば5年生どころか、4年生でも3年生でも比率は理解できる。国語の文法も、中学にはいってから習うのはもったいないことで、小学生にでも教え込めばちゃんとわかる。理科計算が小学生にできないのは教えていないからだけで、筋道立てて教えたら密度でも濃度でも、あるいは力学的な計算でも熱量の計算でも、ちゃんとできるようになる。そういう主張がある。直接的な主張として聞くことはめったにないけれど、「ああ、そう考えているんだな」と思わざるを得ない現象がある。それも、相当に広範囲な社会事象として観測される。中学受験のことだ。

受験業界の端くれにいる者として、中学受験の常識とされているものはだいたいわかる。5年生からでは遅い、最低でも4年生からスタートさせるべきだし、3年生や2年生から、なんなら小学校入学から準備をスタートさせたってけっして早すぎることはない、というのが受験産業の言い分だ。その根拠は、中学受験で主に出題される小学校5年生、6年生の学習範囲の問題を、実際に5年生、6年生で学校で習ってから練習したのでは、絶対的な時間が足りなくなる、ということだ。合格に必要な高得点を取れるだけの精度を上げるには反復練習が必要であり、そのためには時間がかかる。その時間を確保するためには、3年生、4年生のうちから5年生、6年生の学習内容を先取りして覚えさせ、学校で学ぶよりはるか前から練習させなければならない、という発想だ。そして、多くの学習塾では、そいういった考え方にもとづいてカリキュラムが組まれている。そして実際に、「得点力」をアップさせている。そういう意味で、彼らの言葉に矛盾はない。そして、多くの親もそれを信じる。信じる人がいるから、受験の風習は成り立っている。信じる人が多ければ多いほど、その行いの実利は保証され、信じることは明確な価値をもつ。ある意味、宗教と同じ構造がそこにある。

ともかくも、こういった「年齢が低くても、教え込めば高度なことができるようになる。むしろ、年齢がひくいときから始めたほうが上達がはやい」という発想は、たとえばピアノやバイオリンといった楽器演奏やバレエやフィギュアスケートといった運動に関する幼児英才教育の発想と同じものであるだろう。しかし、学問と技芸は、似たようなところはあるけれど、やはり根本的に異なるものだ。学問で扱うさまざまな概念は、物理的な脳の成長が伴わなければ意味を成さない。これは古くはルソーが「エーミール」で観察したことでもある。

にもかかわらず、学習塾をはじめとする受験産業は、「先取り学習」で成果をあげている。つまり、中学受験時点での「得点力」を、遅れてスタートした生徒よりも高いものにしている。そういうふうになる要因はいくつかあるのだけれど、もっとも根底にある教育観がちがうことが最大のものであるように思われる。すなわち、冒頭で述べた「教育が目指すものは人間の成長である」という教育観ではなく、「教育が目指すものは、どれだけの知識を獲得し、どれだけの技能を身につけたかである」とする教育観だ。あるいは、「人間の成長とはすなわちどれだけの知識を獲得し、どれだけの技能を身につけたかを意味する」という観念といってもいいだろう。そうすれば二者に矛盾はなくなる。受験産業の人間であっても「人間の成長」の重要性を等閑視する人は多くあるまい。ただ、そこでそれが知識や技能に置き換えられると信じ込んでいるケースが多いのではないだろうか。

そういった誤解を生み出しているのは、学力テストだ。なぜなら、学力テストが測定するのは知識と技能だからだ。測定基準が知識と技能であれば、それを向上させることが目的であると短絡的に結びつけてしまうのも無理はない。そして、知識と技能の伝達は、特別に人間としての成長がなくても実行することができる。早くに始めて練習量をふやすことは、まさにそういう発想から直接に生まれてくる。

考えさせることと技能を教えることと

受験数学の「特殊算」の入門編として、植木算というものがある。これはたとえば、

道にそって、6mおきに木が10本うえてあります。道のはしからはしまで何mありますか。

というようなものだ。このような問題が教育現場に導入されたのはずいぶんと古い。その経緯は知らないが、たしかにこのような問題は、正しく扱えば人間の成長を促すツールとなるだろう。もしもそういうことを念頭に置いて私がこの問題を使うとしたらどんなふうにするか。生徒は小学校5年生ぐらいだろうか。まず、なにもヒントを与えずに問題を出す。たいていの場合、生徒は

    6×10=60

と計算して、「60mです」と答えるだろう。そこで、図を描いて、もう一度考えさせる。それでも「60m」と答える生徒がいるはずなので、実際に図の上で数えさせる。そうすると、54mだということがはっきりする。ここで、生徒が「掛け算は信用できない」と思ったとしたら、それはひとつの進歩だ。次に類題を出す。4mおきに12本とか、数字や設定を変えるわけだ。生徒は用心深くなっているから、図を描いて数え、正解するだろう。それを受けて、さらに類題を出す。ただし、今度は3.7mおきに100本、みたいに、ちょっと図に描いて数えるのが現実的ではない数字にする。ここで生徒は考えはじめる。ときにはギブアップするから、そういう場合にはもう1回、数えて答えが出るタイプの類題に変えてみる。長考を続ける生徒には、様子を観察しながら、考えさせる。行き詰まった場合には、やはり難易度を下げた問題から再出発させる。そのうちに、やはり掛け算を使わなければ計算がたいへんすぎることに気がつくだろう。けれど、最初に掛け算をやったらうまくいかなかった。ここから「掛け算を使うんだけれど、なにか罠がある」と気づいたら一歩前進だ。それでもまだ、「掛け算の前に1をひくという下処理をすればいいんだ」と気づくまでには、かなりの距離がある。その距離をうまくサポートしながら渡らせるのが教師の役割ということになる。できるだけ口出しは控えることだ。ヒントよりも、諦める気持ちをさらに奮い立たせるような介入が望ましい。そして最終的に計算によって正解が出る道筋ができたときには、うまくいけば、複数の演算を組み合わせた関数的な考え方にまでたどり着くことができるだろう。数学的な思考力が少しだけ鍛えられる。これは成長といっていい。

しかし、実際にはここまでのていねいな指導はできない。なぜなら、上記のことをやろうと思ったら、1時間から2時間、場合によっては2日分の指導をしなければならないからだ。一方、技能として植木算を5年生に教えるのはかんたんだ。スタートは同じでも、そのあと、手品の種明かしをするように、「ここは間隔の数だけ掛け算することになります。だから、本数から1をひいて掛け算すれば答えが出ますね」とまとめればいい。10分もかからないだろう。そして、生徒は、2時間かけたときと同じぐらい正確に、あるいはもっとよく、この計算技能を身につける。残りの時間を反復練習に費やせば、長時間試行錯誤をさせた場合よりもテストの点数は遥かに上がるだろう。

つまり、中学受験に出題されるような特殊算がわるいのではない。そういったものを活用して、子どもたちの成長を促すことは、適切な時期と方法で行えば十分に可能だ。けれど、最終的な関門として待ち構えている入学試験は、点取りゲームだ。点数が1点でも高いものが勝ちになるルールだ。そういうものが結果を判定するとき、やるべきことはどれだけ成長したかではなく、どれだけ技能を身につけたかだ。あるいは知識があるかだ。成長という個人的な営みは、もともと外部からの評価になじまない。そういうものを追求するよりは、もっと客観的な評価が可能なものを求めるほうが正しい。功利的な意味では、明らかに正しい。そしてそれを、受験制度は利用している。

受験制度は社会的損失

このブログでも、過去に中学受験を批判してきた。ただ、その批判は受験生の親に対して向けられたものでも、まして受験生当人に対して向けられたものでもない。何らかの選択によって何らかの利益が得られることが明らかなとき、その選択をするのは、個人として何ら責められるものではない。仮に受験によって中高一貫校に入り、それによって将来の生涯賃金が増えると判断するときに、受験のための投資と生涯賃金の増加分を比較して受験すべきだと判断するのなら、それはそれで正しいだろう。その他のメリットを考えた場合も同じだ。そのために支払う犠牲と得られる利得が釣り合うものであれば、その選択をすることは何ら不当なことではない。

また、入学試験を実施する中高一貫校に対しても、試験を行うことそのものについては同様に批判するものでもない。公教育のなかで学校の多様性は重要だと思うし、その中で特色を出す学校がその学校にふさわしい生徒を選抜するのは何らおかしなことではない。ただし、その選抜方法として、古色蒼然とした問題、半世紀以上も前から伝統的に用いられてきた問題を使い続けるのは、いったいどうなのかと以前の記事で批判した。それは子どもたちに対して有害であるだけでなく、本来の目的である「自分のところに来てほしい生徒を集める」上でも学校にとって役立っていないのではないかと思うからである。不文律のもと、受験産業との馴れ合いで成立している受験文化は、あまりにも珍奇で時代遅れだと思う。

最終的に、批判は受験制度を許容している社会全体に向けられるものだ。なぜなら、本来の教育の目的である「人間の成長」を「特定の知識・技能の習得」に置き換えることは、最終的には社会の成員の能力を低下させ、社会の活力を削ぐことになると思うからだ。誤解されやすいがわかりやすい表現を用いれば、「国力の低下」といってもいい。

いろいろと実践上の問題、あるいは考え方の問題はあるにせよ、公教育の指針である学習指導要領は、活力のある未来に向けて、かなりの程度、広く合意された教育カリキュラムを示している。そこでは、もちろん知識・技能も習得すべきものとしてあげられているが、もっとも重視されているのは「考える力」であり、「コミュニケーション能力」であり、さらには「情報を活用する力」である。こういった人間の基本的なコンピテンシーは、「教える教育」からは十分に育たない。内発的な成長を促すような「育てる教育」が必要である。そして学習指導要領も、(解釈次第では)それを推奨している。しかし、競争的なテストをめざした「勉強」では、前者が圧倒的に勝ってしまう。故に、受験制度を当然のものとして受け入れることは、学習指導要領にある教育目標を建前だけのものにしてしまい、実質を失わせることになる。

だから、政策として、あるいは社会的な合意として、中学受験、すくなくとも現在おこなわれているような中学受験は徐々に排除されるようになるのが望ましいと思う。さらにいうならば、なぜ中受がこれほどもてはやされるかといえば、それは大学受験が後ろにひかえているからであるし、さらに大学を就職予備校的に扱う一部の風潮があるからでもある。そういった諸々のことを考え合わせれば、結局行きつくのは入試全廃論ということになる。

学問を学びたければ自由に学べるようになるのが理想だ。もしもキャパシティの問題があるのなら、くじ引きでかまわない。優秀な人が学問を学ぶべきだという考えは、本当に合理的なのだろうか。優秀でない人が学んで底上げすることも、優秀な人が突き抜けていくことと同じくらい重要ではないのだろうか。教育について考え始めると、いくらでも疑問が出てくる。こういうことに悩み続けることができるのは、私の受けた教育が良かったからなのか、わるかったからなのか…

 

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追記1:上記、「知識・技能の獲得」と「成長」を対比させて書いているが、知識・技能のトレーニングによって人間が成長する可能性を否定しているのではない。受験をくぐり抜けてきた多くの人は、実際に、そういう修行を通じて成長したのだと思う。ただし、それはたとえば貧困の中から貴重な学びを得ることができる人がいることと似たようなものだと思う。貧困が得難い経験となるからといって、貧困こそがあるべき姿であるなどといえるわけがなかろう。人間は、あらゆる経験をつうじて成長する。だから、これは成長を促すべき介入者側の立場から見た対比である。介入者としては、知識・技能の獲得に傾斜することは、明らかに成長を手助けすることと矛盾する。

 

追記2:この記事は、今日、ブックマークコメントした2つの記事、

topisyu.hatenablog.com

なぜ「中学受験は親の受験」と言われるのか - 斗比主閲子の姑日記

及び

davitrice.hatenadiary.jp

サンデル教授の「大学入試くじ引き論」 - 道徳的動物日記

にインスパイアされて書いたものである。

教師が「叱る」ことは原理的に可能なのだろうか?

家庭教師をやっていて、生徒を叱ったことがない。これはなにも私の性格がどうとかいうことじゃなく、原理的に家庭教師は生徒を叱る立場にないからだ。もっとも、生徒の方で勝手に「叱られた」と受け取る場合があるので、これはなんとかしなければいけないといつも反省する。たとえば、中学生の数学で、カッコを外すときにいつも正負の符号をまちがえる生徒がいるとする。そういうまちがいを「うっかりミス」みたいな雑な括りで処理していては絶対にそのようなミスはなくならない。失敗には必ず原因があり、原因を潰さないことには同じ失敗は必ず再発する。そして原因分析には、失敗をした当事者の感覚の分析は欠かせない。だから、「なぜここでまちがえたと思いますか?」と、生徒に理由を聞く。この聞き方をちょっとでもまちがえると、生徒は「叱られてる」と思って「スミマセン」としか答えなくなる。そういう返答がかえってきたら聞き方が悪いので、大いに反省するしかない。

家庭教師が生徒を叱れないのは、「叱る」という動詞には、必ず権力構造が内包されているからだ。たとえば、

しか・る【𠮟る/×呵る】
[動ラ五(四)]目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。「その本分を忘れた学生を―・る」

出典:デジタル大辞泉小学館

となっている。目下・目上というのはすなわち権力構造の中での下位者・上位者ということである。すなわち、「叱る」ためには権力構造がなければならないし、「叱る」のは権力上位者の特権であるともいえるだろう。

通念上は、教師は生徒に対して「目上」である。つまり、権力を行使する上位者である。それを盾に、「生徒が怠けたらビシビシ叱らんとあきませんよ」みたいに言うベテラン家庭教師に出会ったこともある。「先生の方から叱ってください」みたいに言ってくる生徒の親もいる。けれど、冷静に考えたら、少なくとも家庭教師にそんな権力はない。

なぜなら、家庭教師なんて、「生徒の成績を上げる」業務を対価をとって委託されている存在に過ぎないからだ。サービスを売っているといってもいい。このような契約は、契約者同士が対等の関係であってはじめて成立する。八百屋が大根を売るのと本質的に変わらない商行為だ。八百屋が大根を売るときに、八百屋と買い物客の間に権力関係は存在しない。大根が高いと思えば客は買わなければいいだけの話だし、客が法外な要求をすると思ったら八百屋は売らなければいいだけのことだ。八百屋が売らないのは権力的なのではない。あるいは、契約関係において最大の権利行使は、契約の破棄である。その限度内で、八百屋は権利を行使できるともいえるだろう。そう思えば、家庭教師が生徒に対して行使できる最大の権利は「そんなことをするのなら自分は教えない」と契約を破棄することでしかないだろう。そしてそれに関しては、「こんな教師なら金を払ってまで来てほしくない」と契約を破棄する権利を生徒の側も持っている。つまり、権利としては対等であって、どちらが上位・下位という権力構造のなかにはない。

実際のところ、権力は、家庭教師という業務の遂行にとって特に必要がないものだ。権力でもって従順に生徒を自分の意図通りに操作できたとして、それでもって生徒の成績が上がるかと言われれば、否と返すよりない。生徒の成績は生徒が成長することによってしか上がらないし、生徒の成長は、生徒の行動をコントロールすることで促進できるものではない。野菜を育てるのと同じで、ひたすら水を撒き、雑草を取り除いて待つぐらいのことしかできない。「芽を出せ」と命令して発芽する種子はなく、「成長しろ」と命令して伸びる枝はない。「大きく太れ」と命令しても果実は肥大しない。けれど、だからといって農家にやるべき仕事がないわけではない。同様に、生徒の行動にいちいち指図しなくとも、家庭教師にはやらねばならない作業がいくらでもある。それをやっていれば「生徒の成績を上げてほしい」という業務上の付託はたいていの場合はどうにかなる。だから、契約関係の上では本来発生しようのない権力を、幻の上に求める必要などない。

そして、権力のない家庭教師には、生徒を叱る能力はない。目上の者でもないのに、目上にだけ許された「叱る」行為はできない。だから私は生徒を叱らない。「目上・目下」という関係性がなくとも知識や技能は伝達できる。「三歩下がって師の影を踏まず」なんてのは、およそ世迷い言であると言い切ってかまわないと思う。

 

学校教師はそうではない、と思ってきた。なぜなら学校教育法に、

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

とあるからだ。「懲戒」は、通常、一定の権力構造のもとに行われる。

ちょう‐かい【懲戒】 
[名](スル)
1 不正または不当な行為に対して制裁を加えるなどして、こらしめること。

2 特別の監督関係または身分関係における紀律の維持のために、一定の義務違反に対して制裁を科すること。特に、公務員の懲戒処分。

出典:デジタル大辞泉小学館

したがって、学校教員には「教育上の必要」を前提として、一定範囲内での権力が法律によって付与されているものだと考えることができる。だから、教員が生徒を叱るときには、叱るという行為そのものに対してではなく、「それが教育上必要あるのかよ」ということに対して批判されねばならないと思っていた。たとえば以前に書いた

mazmot.hatenablog.com

なぜ「忘れ物を叱る」のが無意味なのかという記事でも、わざわざ「教師が叱ることが場合によっては認められるとした上で、なお、少なくとも忘れ物に関しては効果はほとんどない」と書いている。これは、上記の法律上の規定を念頭に置いたものだ。効果がないのに叱ることは、常にアウトカムについて説明を求められる家庭教師的な常識からいえば、「教育上必要」ととてもいえないと感じていたわけだ。

 

ただ、それ以降、どうもこの「叱る」という概念について、引っ掛かりを覚えていた。というのは上記記事に続けて書いた記事でも触れたのだが、ブックマークのコメントで、「あ、この人は"叱る"という言葉と"叱責"という言葉を別概念を表すものとして使ってんだな」と思われるものがあったからだ。そのときに連想したのは、馬の走り方だ。私のようなシロウトは、馬が走ってるのを見ても「あ、走ってるな」としか思わないのだけれど、見る人が見ればそれはギャロップであったりトロットであったりペースであったりと、まったく別な概念で表現されるものであるのだそうだ。ということは、一部の人にとっては「叱る」と「叱責」は完全に区別されるものであり、それにはそれなりの事情があるのだろう、と考えたからだ。知らないことを放っておくのはどうも気持ちが悪い。そこで、「叱る」ことに関して、教育学でどのように扱われているのか、ちょっと調べてみようと思った。

メタ分析とかやるようなことでもないしやる能力もないし、30件ほど文献を集めてざっと読んだ印象だけではあるのだが、「叱る」行為に関する評価は実に幅広い。大別するならば、「叱ることが教育上効果がある/必要だ」とする立場と、「叱ることは有害だ」とする立場に分かれるだろう。その両極の間で、さまざまな温度差もある。意外だったのは、前者の立場の方が多いことだった。後者の立場は、おもに障害者教育などに関して見られることが多かった。なので、後者の立場でもたとえば発達障害に関しては叱ることは害が大きいと考えていても、その他の場合には許容している可能性を除くことができない。一般的にすべての場合に関して叱ることをネガティブに捉えている論は、ほとんど見かけなかった。実際のところ、これには驚いた。

そして、気になっていた「叱る」と「叱責」の使い分けだが、これをほぼ同義の交換可能な概念として使っていた例の大半は、「叱ることは有害だ」の論調のものであった。私の感覚としては動詞としての「叱る」の名詞形が「叱責」になるのだが、たしかにそういう使い方をしている事例は何件もあった。ただ、その大半が否定派の方であり、肯定派の方は1件か2件しかなかったようである。とはいえ、じゃあ「叱る」と「叱責」を明確に別概念として定義していた文献があったかといえば、そうではなかった。肯定派の多くの文献では、「叱責」という単語を使わず「叱る」の名詞形は「叱り」と記述されていることが多かった。

興味深いのは、肯定派の「叱る」概念が、多くの場合、「褒める」との対立として捉えられていたことである。否定派には、そういった概念の立て方は見られなかった。これは、肯定派においては「叱る」のは生徒に対する教育的介入の手段であると考えられているからのようである。したがって、論旨も「効果的な叱り方」みたいなものになり、効果を高めるために「叱り」と「褒め」を併用することが勧められる、みたいな論が多かったわけだ。

そういった論の中身を見てみると、感情的であったり、禁止的であるような「叱り」は効果が低く、論理的であったり例示的であるようなものが効果的であると書いてあったりする。このあたりで、「なるほど」という気持ちと「そうなのか?」という気持ちが同時に起こった。というのも、確かに感情的な言葉は伝わりにくい。その一方で論理的な説得は効果的である。しかし、上記の「叱る」という言葉の定義には、「強くとがめる」とある。「強く」というのは感情的なことではないのだろうか。論理的に説得する場合、そこに「強く」というのはどう馴染むのだろうか。どうも実感が湧きにくい。たとえば、英語で「叱る」の概念に相当すると言われるscoldという単語は、

Definition of scold
transitive verb

: to censure usually severely or angrily : REBUKE
intransitive verb

1 : to find fault noisily or angrily
2 obsolete : to quarrel noisily

Scold | Definition of Scold by Merriam-Webster

とあって、やはり強い感情や怒りの感情を伴うのが通常のようである。もちろん英単語と日本語の単語は一対一で明確に対応するものではないのだけれど、「叱る」に関してはこの英語の定義のほうが、なんとなく日本語の「叱る」をよく説明しているような気がする。声を荒げたり怒気を含むことが、「叱る」には含まれるように思えてしかたない。もしもそうではない、そういった感情を含めるのは効果的ではない、というのであれば、それは単に「指摘」や「説明」であって「叱る」のではないんじゃないか、みたいな気分になってくる。

まあ、このあたりは感覚のちがいであり、「叱る」を別な概念として使うのであればそれはそれでかまわない。だとしても、やはりそこには権力関係が存在することが前提であり、そしてその権力関係は学校教育法11条に由来すると考えるのが正当なのだろうと思う。

 

さて、そんなふうに、まるで異世界でも見るような気持ちで「叱る」関連の文献を眺めていたのだけれど、最後の方で目に止まったものがあった。

ci.nii.ac.jp

学校教育法が禁止する「体罰」とは何か 前田聡

この論文は特に「叱る」ことをテーマにしたものではなく、体罰との関係で教師が生徒を叱る場面が出てくるために検索にヒットしたものなのだけれど、学校教育法11条と懲戒権のことなど、改めていろいろ勉強になる内容でもあった。著者は法学の人らしい。私が「おや?」と思ったのはここだ。筆者は1963年初版の『教育法』(兼子仁)に触れて、

ここでは,何が体罰か,という点については行政解釈を踏襲しつつも,人権尊重の観念と「非権力的教育観」という 2 つの理念によって体罰禁止の趣旨が説明されていることが注目される。

と述べている。「え? 非権力的教育観って?」と、思って脚注に目を移すと、

兼子は,旧教育基本法 2 条,同 7 条をふまえて「今日の教育は,被教育者の自発性を尊重しながら社会生活自体のもつ教育機能を活用して行われる社会的作用とされている」という「社会的教育観」としたうえで,かかる教育観を現行法がとっているのならば,「教育主体の優越性は著しく減退し,もはや教育は法的には権力作用ではなく,非権力的な社会作用となったものと解される」と述べる。

とある。よくわからないのでさらに調べてみると、どうやら法学の方では行政が行う活動を「権力的」と「非権力的」に分類しているらしい。権力的活動とは強制力を伴うもので、たとえば法律や条例などの法の制定、裁判所の執行命令などが該当するらしい。一方の非権力的活動は、強制力を伴わない行政サービスのようなものが当てはまるらしい。

私は公教育というものを学校教育法にもとづく強制力(具体的には11条の懲戒権)をもったものと考えていたのだが、どうやらこの1960年代の法律書、そして現在の法学の方の常識では、教育は典型的に「非権力的行政活動」に属するらしい。たとえば「教育行政機関と学校の関係」(伊津野朋弘)には戦後教育に関して、

教育行政は、権力的手段をもって目的達成を意図する行政作用を多く含む一般行政から独立し て、独自の非権力的行政を実現すべく構想され、それは教育委員会制度の創設となった。そして そこ での教育行政は、「保育行政・助長行政」であり、「その手段においては、権力の行使というものではなく、むしろ精神的または物質的な奉仕」でなければならないとされた。かくて教育は行政上の不当な支配を否定し、自律性を実現すべきものとされるにいたった。そこに戦後教育行政の一つの基本をとらえなければならず、したがって戦前の学校管理概念とは自ら異る実質をもった機能が、行政機関と学校との間にはつくりださなければならないのである。

とある。つまり、教育は本質的に非権力的であるというのである。

非権力的であっても、公的機関は権力性を帯びる。これはちょっと前にも書いたことだ。たとえばおよそ非権力的に行われるはずの行政サービスである水道事業においてさえ、恣意的な意思決定は住民の健康を脅かすだろう(だから意思決定と執行は別組織が行うべきだというのが先の記事の主張だった)。ただ、非権力的な相互作用において、基本になるのは契約関係であり、契約関係において一方が他方に対して行うことができる究極の権利は契約の破棄である。そこに力関係の優劣があれば弱いほうが被害を一方的に被るにせよ、非権力的な行政サービスでは、最も強い強制力は当該サービスの停止であり、それを上回るものではありえないはずだ。

このようにして改めて学校教育法11条を見てみると、教員が生徒に対して加えることができる「懲戒」の最も強力なものは、「教育を行わない」ことであるにちがいない。そして、実際に、学校教育法35条には出席停止処分の規定がある。出席停止は相当に厳重な処分であることがこの条文に定められた手続きからもわかるし、その上でなお、「出席停止の期間における学習に対する支援その他の教育上必要な措置を講ずる」と教育サービスを完全に停止してはならないことまで定めている。こうしてみると、11条の「懲戒」は、実際には文字づらから受ける印象とは裏腹に、決して強力なものではありえないのではないかと思われる。

 

ところが現実には、この懲戒権を根拠に、学校ではさまざまな生徒への権力行使が行われる。懲戒権が定める「懲戒」が具体的に禁止されている「体罰」以外の処罰を任意に含むものであれば、その権利でもって生徒のあらゆる学校生活を教員は縛ることができる。なぜなら、「教育上必要がある」と認めれば、それだけで教員は懲戒を加えることができるからだ。しかし、もしも教育行政が法学が教えるように非権力作用であるのなら、学校教育法が定める「懲戒」の意味が変わってくる。それは究極には(厳正な手続きを踏んだ上での)出席停止処分であり、そこに至る前の警告である。それ以外の権力構造を背景にした教師の恫喝、脅迫、強制などは、すべてあってはならないことになるのではないか。

そして、権力構造がないとき、すなわち、「目上・目下」の関係が存在しないとき、語義的に「叱る」ことは不可能になる。教育は、権力による行為のコントロールとしては存在できなくなる。そうではなく、学ぶ者が成長していく過程をサポートすることが教育であるという、本来のあり方としてしか存在できなくなる。そして気づく。なあんだ、学校教師だって家庭教師と同じじゃないか。教師だからといって自動的に立場が上だなんてことはあり得ない。物事の道理を伝え、わかってもらうのに、そんな社会関係は必要ない。人間と人間は本質的には対等であり、対等であると腹を括ったところからしか見えないものがある。相手が見えなくて、どうやって教えることができるよと思う。

 

結局のところ、「正しい叱り方」とか「効果的に叱る方法」とか、そんなものをいくら読んでも私の心に響かないのは、それらがすべて、「教師が上で、子どもは下」という関係性を前提にしているからなのだ。そういう関係性がおかしいと思えるのは私が一介の雇われ家庭教師に過ぎないからなのだけれど、よくよく考えてみたら、学校教師だって大差はない。そりゃ、学校教育法11条に懲戒権はあるのかもしれないけど、現実を見ようよ。教師だって一人の人間として長所もあれば欠点もある。教師に任ぜられた途端にそういった欠点が消えるわけじゃない。ダメダメなところがあったって、役割を果たせればそれでプロだ。役割を果たすときに、ありもしない優越性は必要ない。そういう割り切りができない限り、学校は正常化しないと思うよ。

 

(追記)                          

学校教育法11条の「懲戒」について「じゃあ、どういうものが懲戒に当たるの?」という具体的な規定を知らなかったのだけれど、文部科学省体罰禁止に付属する文書で例示していた。それによると、

(2)認められる懲戒(通常、懲戒権の範囲内と判断されると考えられる行為)(ただし肉体的苦痛を伴わないものに限る。)
 ※ 学校教育法施行規則に定める退学・停学・訓告以外で認められると考えられるものの例 
 ・ 放課後等に教室に残留させる。
 ・ 授業中、教室内に起立させる。
 ・ 学習課題や清掃活動を課す。
 ・ 学校当番を多く割り当てる。
 ・ 立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。
 ・ 練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる。

となっていて、概ね、一定の自由を制限する処罰を「退学・停学・訓告以外」にも可能としている。このなかに「叱って」という文言が入っているから、文部科学省としては「叱る」ことが可能としているのだということがわかる。

ただ、近年の精神的な暴力は肉体的な暴力に劣らず深刻な被害を及ぼすという考え方に立てば、「肉体的苦痛」の代わりに「精神的苦痛」でもって処罰を加えるのはどうなのよ、ということにもなる。まあこれは、別の話になるんだろうな。

息子の動画を非公開にした - 春の大掃除

私の息子は、(親バカが言うのもなんだけれど)才能のある人だ。小学生の頃は落語家で、イベントの出演や施設の慰問にしょっちゅう出かけていた。もちろん小学生のやることだからしょせんは素人芸でしかないのだけれど、それでもあんなふうに何百人もの聴衆を相手に舞台に立てるかと言われたら、私にはムリだ。中学生になってすぐに全国放送のテレビにも出演したのだから、まあそこそこのところまでは行ったのだろうと思う。

器用なやつなので、小学校の高学年の頃にはコマ撮り動画なんかを撮影しては遊んでいた。やがてBlenderぐらい使えるようになり、3Dの動画なんかも見せてくれた。

声変わりを機に落語はお休みにして(その後復帰できていないのだけど)、ギターの練習をはじめた。声変わりが終わりかける頃から歌もつけるようになって、なぜだか70年代から80年代のフォークソングを弾き語るようになった。これが中高年世代にウケた。「さだまさしを歌う中学生がいるよ!」と、その世代の母親に急いで電話をかけていた女の子の声は忘れられない。高校に入ったときも、たちまち学校公認のフォークシンガーになってしまった。あんまり持ち上げられるのが鬱陶しかったのか、結局歌うのはやめてギターに専念し、3年間でずいぶん上達した。何十年ギターを弾いてる私よりも遥かに上手く、昨夜もいくつかコードを教えてもらった。たいしたもんだ。

そういう芸歴だから、親バカとしてはこれまでいくつもの動画をアップしてきた。よく見られたものでも数百だから、まあ友人知己に自慢するためだけのものではある。プライバシー的なことも考えないでもないが、ステージに立って不特定多数に向かって演じている時点でそれはもう割り切るべきだろう。息子も「アホな親のやることはしゃあない」みたいに黙認してきた。落語で十数本、弾き語りも二十数曲はアップしたと思う。コマ撮り動画とかは、特別に公開を意図したというよりも、息子に渡す目的でアップしたのがそのままになっていた。もともとほぼ非公開に近いものではあった。

それらの動画を、数日前、すべて非公開にした。公開しておく価値がなくなったからではない。たとえばいくつかの落語は子どもが落語をしたいと思ったときの参考になるだろうし、フォークソングの弾き語りは、この時代にちょっと新鮮だったりもする。親が自慢したいだけでなく、置いておけばゴミよりは少しマシな程度の役には立ったかもしれない。けれど、この春、いったん過去のものは整理しようと思った。というのも、そんな息子も高校を卒業し、大学に進むことになったからだ。ここらが区切りだろうと思った。

 

去年のコロナの時期、息子は自らInstagramYouTubeTwitterでの発信をはじめた。自分たちのバンドやユニットが、「これだ」と思うようなコンテンツをアップするようになった。ということは、親が親の思いで彼にまつわる情報を出すべき時期ではない、ということだ。ここから先、新たな活動がどんどん増えていくだろう。外に出す情報は自分で管理していくことになる。親としては、ひとりの観客として、それを楽しめばいい。オフィシャルが出さない情報は、存在しないものとして扱うのがファンの礼儀だ。だから、非公開にした。

もっとも、私が管理していないコンテンツは、どうしようもない。たとえば彼がかつて参加した落語大会の公式ページには彼の過去の演目がいまも公開されているはずだ。Webに公開されているわけではないが、学校行事で参加した演目は、学校内ではふつうに閲覧できたり配布されたりしている。そしてトドメは、彼がまだ保育園の頃、自宅で撮った「手遊び」の動画、妻がYouTubeにアップしたものだ。いまだにアクセスが絶えない。10年以上たって、さっき見たら31万回を超える再生数になっている。

この再生回数を超えることが、彼の最初の試練になるのだろう。そう思うと、笑みがこぼれるのをおさえることができない。

決定プロセスと実行プロセスを同じ組織に委任してはならない

成長性の高い企業の特徴のひとつは、意思決定の権限が末端に委譲されていることだ。本当かどうかは知らないが、そういう指摘をときどき目にする。スピード感が何より重要な時代にあって、上層部の許可がなければ動けない企業は遅れをとる。現場の動きをいちばんよく知っているのは末端の担当者なのだから、そのレベルで決裁して差し支えない事柄については権限を移譲してしまう。権限の分散が営利企業においては重要なのだそうだ。

それはそうなんだろうと思う。それに比べれば、公的機関の動きや判断はイライラするぐらいに遅い。1980年代頃だったと思うが、「役所は民間企業に学ばなければいけない」みたいな風潮があったのも、ある面では理解できる。スピード感ということでいえば、とにかく公的機関は遅い。だが、社会経験を重ねてくると、それはそれでしかたのないことだと思えるようにもなってきた。官と民は、似ている部分もあるが、根本的に性質のちがうものだ。ケインズ以降、官が事業をして経済を回す部分が大きくなり、事業であるため民間と区別がつきにくくなった経緯はあるのだろうが、本来、公的な事業はあくまで公共の福祉のために行うのであって、営利企業とはスタンスがちがう。まして、公的機関が担う機能は事業だけではないのだから、そこは大きくちがうのが当然だ。利益を出さない民間企業は潰れればいいのだけれど、公共の福祉のために存在する公的機関が潰れてはいけない。そこだけとっても大きくちがう。

さらに、公的機関には、法律によって、通常の企業には与えられない権力が付与されていることが多い。たとえば水道事業だけれど、安全な水を利用できることは基本的人権であると考えることもできるのだから、それを供給することには権力性が付随する。水道事業者の都合で上水の提供を止めることができたら、それは恣意的な権力の行使になってしまう(だから水道に関しては電気やガスとちがって料金未払いで止められることがない)。あるいは道路の拡幅や新設でもそれによって住民の権利が制限されたり利害が偏ったりする場合があるのだから、「便利になればそれでいい」というものでもない。こういった権力の行使には慎重の上に慎重でなければならないし、調整のためにスピード感が犠牲になってもやむを得ないともいえるだろう。

公的機関の行うことには権力性が多かれ少なかれつきまとうことが多いのだが、そのなかでも制度上、はっきりと人権を制限する機能が与えられている機関が存在する。その最たるものが警察だ。警察は、公共の安全を守るため、一定の条件下で人権を侵害する権力を与えられている。たとえば逮捕や家宅捜索は、基本的人権を明らかに侵害している。このような権力を与えられた機関は、常に適切なコントロール下に置かれねばならない。だから、警察の権力行使には裁判所の令状が必須とされている。現行犯逮捕のような緊急時を除き、常に外部機関による決定がなければ動けないとされているのが、制度の設計になっている(それを迂回する「転び公妨」のような問題はまた別の話になるだろう)。

警察ほどはっきりしていないが、学校も人権を制限する権力を与えられている。義務教育という制度設計と社会の通念の上から、そうなってしまっている。学校長を責任者として学校・教員は、教育上必要と認められる指導を生徒・児童に対して行うことができる。たとえば、生理的欲求を満たすことは基本的人権であり、人間は、生まれながらにして必要に応じてトイレに行くことができる。ところが学校は、指導上の必要性からトイレに行く時間を休憩時間に制限した上で(そこまでなら便宜上わからないでもないのだけれど)、それ以外の時間にトイレに行くことに教師の許可を必要とすると定めている。私は家庭教師として生徒から「トイレに行っていいですか?」と言われるたびに「あかんと言うたらどうすんねん?」とツッコむのだけれど、現実には「教育上の指導」と称して許可を与えない教師だって学校にはいるらしい。まさに、現実として学校には生徒の人権を制限する権力が与えられているわけだ。

近頃よく話題になるブラック校則にしたところで、それがまかり通るのは学校に権力が与えられているからだ。義務教育ではない高校に関しては、「それが嫌なら学校をやめればいいじゃない」と、制度上はあくまで契約関係に基づく制限であって、無制限な権力の行使ではないということになっている。しかし、高校を中退することによる社会的な不利益は非常に大きく、高校を経由しない人生設計が困難である現状を考えれば、やはりここには義務教育に準じた権力構造があると言わざるを得ない(ただ、高校に関してはかつての大検から高検への制度変更など、そこを経由しない道筋が少しずつ認められるようになってきているとは感じている。それは別の話だ)。まして義務教育である中学校には、「そんな校則にはしたがえない」と感じたら基本的人権である教育を受ける権利が失われるわけで、「教育上の必要性」という名目は相当に強力な人権制限を伴う権力を制度として学校に与えているのだということがわかる。

 

そういった権力の存在を否定するアナーキーな発想もそれはそれで興味深いのだけれど、現実には警察も学校も必要だと感じられる私にとって、それではその権力の暴走をどう食い止めるのか、ということが重要になってくる。なぜなら、権力は必ず暴走するからだ。

これは、いまから70年近くも前に書かれた「パーキンソンの法則」という本にも書かれていることなのだけれど(私の書棚にもあったのだけれど、英語の勉強にちょうどいいからと高校生に貸し出してまだ戻ってきていない。したがって、正確な引用はできない)、あらゆる組織は組織であるが故に、組織の自己防衛と権力の拡大化を目指すようになる。これは人間の本性に組み込まれている志向のようで、例外はない。あるいは、例外が発生するような組織はすぐに消失してしまうため、世の中には自己防衛と権力の拡大を目指す組織しか残らなくなる。「パーキンソンの法則」は社会学者が書いたとはいえかなり通俗書であるのでわかりやすい分だけ大雑把なのだけれど、それだけにおおまかな話としてはその後数十年を経てもその正しさは失われていない。そして、組織の自己防衛と権力の拡大は、すなわち、暴走である。組織が置かれた本来の目的とは無関係な方向に組織が動きはじめる。

たとえば、学校。校則の多くは統制をとることを目的としている。統制をとることは、たしかに学校運営をやりやすくする。さまざまな問題の発生を防ぎ、失われるコストを最小限にとどめるだろう。しかし、学校の目的は子どもたちが健全に成長するように介入を行うことであって、学校の運営を効率的に行うことではない。たしかに本来の目的を達成するためには余分な問題が起こらないようにしたほうがいいのかもしれないが、多くの校則は必要以上に強権的であり、場合によっては子どもたちの成長に対して著しく有害であることだってある。それでもそれが「そういうもんだ」と判断されるのは、それが組織防衛にとって有益であるからにちがいない。つまり、本来の目的とは別な目的に向かっているのであり、権力の暴走である。

 

権力が必ず暴走するとき、そしてそれでも権力を何らかの公的機関に与えねばならないとき、人間は知恵として対立する機関に権力を与えてバランスをとることを選んできた。これが権力分立だ。典型的には立法、行政、司法の三権分立。これらの機関にはそれぞれ相当に強力な権力が与えられる。だからこそ、互いに牽制できるような独立性と監視機能が与えられたわけだ。それは中学校の社会科でも習う。

そして、権力分立とは厳密な意味ではちがうのかもしれないが、やはり権力機関には別の独立した組織が監視なり監督なりを行うようになっている。たとえば上記の警察に対する裁判所の令状発行がそうだ。また、制度としては、学校に対する教育委員会だ(残念なのは教育委員会が校長OB会みたいになって学校からの独立性が怪しいことではあるのだが、それもまた別の話だろう)。権力を与えられた組織が暴走しないためには、必ず別の権力組織が必要になる。

そして、近頃思うのは、この権力の分立、結局は決定機関と実行機関と監査機関を分けることではないかな、ということだ。つまり、何らかの権力の行使を行おうとするのであれば、その実行組織がまず必要だ。しかし、実行組織が意思決定すると、必ずその方向は組織防衛と権力拡大に向かう。したがって意思決定は別の機関が行わねばならない。その上でなお、決定された意志が正しく実行されたかどうかは、さらに独立した機関が監査しなければならない。これが国政に反映されたものが立法、行政、司法の三権分立ではなかろうか、ということだ。

そして、国政以外の公的機関にあてはめた場合、監査(というよりも最終的な行為の適法性の判断)は、そのまま司法に任せていいだろう。ここの部分で権力を二重にする必要はない。そして、ほとんどの公的機関は、決定機関と実行機関を兼ね備えている。これは、法令の枠内で「この部分は権限を認めますよ」と定めた範囲に関して、その機関の長に裁量権があり、その長が指揮する組織が実行を司るという意味である。たとえば学校であれば、校則を定めるのは校長であり、校則を実施するのは校長が指揮する教職員である、ということになる。これがまずいのだと思う。

 

学校の例だとわかりにくいので、もっとわかりやすい例を出そう。近頃、報道で悲惨な例を耳にする出入国在留管理局だ。入国管理局の業務は、なるほど、法令に則って行われている。しかし、実態としては裁判によらない自由権の侵害であり、憲法違反の虐待であり、人間の尊厳やときには生命にかかわるような拘束である。なぜ法治国家であるはずの日本においてそのようなことが起こり得るのかといえば、それは入管が組織防衛に走っているからだと理解するのがもっとも説明しやすいように思える。すなわち、入管の本来の目的は、日本への入国者を適切に管理することであろう。その際、法の想定を超えて入国してきた外国人に対しては、一律に違法として送還を行おうとする。送還が不能な場合に収容し、それが長期に渡っても何らそれ以上の対応ができない。なぜならそうやって杓子定規な対応をしている限り、組織としては安泰だからだ。組織防衛という自己目的の上からは最適解となる。そして、収容者に対する虐待も、それが収容施設の秩序を保つのであれば、組織にとっては最適解になる。それが、「入国者の適切な管理」にはまったくつながらないか、場合によってはその目的と大きく乖離するとしても、それが何らかの動機になるわけではない。

もしもここで、「送還するかどうか」「収容するかどうか」「収容を解くかどうか」といった判断を入管以外の機関が行うように制度を改めたらどうだろうか。単純に決定する場所が変わっただけで、同じ制度下では同じような決定が出ると考えてもかまわない。けれど、拮抗する権力関係は別な結果を生むだろう。たとえば、「杓子定規な対応はおかしい」と思っても自らが決定機関であったとしたらそれをいうことは組織防衛の原理に反する。それは言ってはならないことになる。けれど、別組織が意思決定をするのであれば、「杓子定規に収容しろと言われてもこっちの方はもう定員いっぱいですよ」と反論することが可能になる。むしろそういう反論は、組織防衛と拡大にプラスになるだろう。一方、収容者に対する虐待が批判されても内部に秩序を保つことに対する防衛原理が強ければそれは無視されるのだが、意思決定機関側が独立した権力としてそれを批判すれば無視できなくなる。このように、決定プロセスと実行プロセスの分立は、システムに大きな変更を加えなくとも、それだけで権力の暴走を防ぐことになるだろう。

 

もっといい例として、児童相談所の問題がある。というよりも、この「決定機関と実行機関が同一であることから問題が発生する」という気づきは、実は児童相談所のいくつかの事例からもたらされたものなのだ。児童相談所は虐待による被害を防ぐために、なくてはならないものである。けれど、児童相談所児童福祉施設の実際は、どちらかといえば過剰な組織防衛に走っているように感じられる。その一方で、ときどき報道されるように、「児相が機能していれば防げたのに」という事件が起こったりもする。「児相は余分なことばっかりやらかしやがって」という思いと「もっと児相にはしっかりしてもらわないと」というまったく対立する印象を受ける出来事の果てに、「どうも機能不全は決定機関と実行機関が同じだから、自分たちの組織の都合で目的を曲げてしまうことが自然発生するんじゃないか」と気がついた。

だから本当は、そういった考えに至った案件を書けばいいのだ。けれど、それぞれに対して私はそれほど深くかかわったわけでもないし、制度にそこまで詳しいわけでもない。さらに、実際の当事者たちのプライバシーもある。フェイクを入れて事実関係に誤解が発生してもいけない。いつか書ける日が来たらとは思うけど、当分は無理だなあと思う。

だから、本当は今回の記事のテーマである「決定プロセスと実行プロセスを同じ組織に委任してはならない」という発見は、常日頃思いながら、「書くことはないだろうな」と思ってきた。ただ、ここ数日来、そういう趣旨で書いたブックマーク・コメントにずいぶんと多くのはてなスターが集まったのを見て、未熟でも書いといたほうがいいかなと考えを改めた。

だから、この記事はどこか奥歯に物が挟まった言い方にもなったし、具体性を欠いた空論のようでもある。けれど、よく注意してみれば、決定プロセスと実行プロセスを同じ組織が担うことによって発生する問題は、いろいろなところで見られるはずだ。たとえば、生活保護申請の窓口業務がそうであったりする。制度設計上はどうであれ、窓口業務を担当する職員は権力性を持っている。そして、それが市役所という実行組織の中で決定プロセスにかかわると、組織防衛のために本来あるべきでない行為を行うようになる。

もちろん、ここで書いてきた「プロセスを分離すべきだ」という考えは、権力にまつわることについてのものである。冒頭でも書いたように、権力の絡まない場においては、決定プロセスと実行プロセスは現場で同時進行的に行えるほうがいい場合もある。あらゆるものを営利企業のプロセスになぞらえて考えるのが誤っているのだということは、改めて念を押しておきたい。

「体操服の下に下着を着ない」は、変態教師の妄言とは、ちょっとちがう

ブラック校則との関係で「体操服の下に肌着を着てはいけない」というルールが少し前からときどき取り上げられる。私は着衣や髪型などに関してとやかくいうのは人間としてどうなのと思うほうだから、こういうルールが学校にあるのはおかしいと思っている。そして、多くの校則が「規則のための規則」と化し、その意味が検討されることもなく、ただそれが存在することによって統制と権威付けが行われる機能だけをもっているという現状を見たら、「ええかげんにせぇよ」と言いたくなる。ときには、「そのルールは異常だろう」と思えるものもふつうに通用していたりする。

ただ、どんなにおかしく見えるものであっても、成立当初には何らかの合理的な理由があったと考えるのが穏当だろうとは思う。たとえば「体操服の下に下着を着ない」というルールにしても、一見、「下着のことなんて気にするのはおよそ変質者ぐらいなもんだろう」と思えるのだが、実はそれなりの根拠はあったようだ。これはもっぱら、家庭科の方の知見によるものらしい。たとえば、

『衣服の着方の工夫で冬を快適に』 の授業提案 (薩本弥生,井上真彰)

によると、

肌着は吸湿性の高い綿などの素材が使用されることが多いため、一度濡れてしまうと後冷えして不快になるため、汗をかきやすい季節や運動量が多い時は吸水速乾性に優れた体操服だけに着替えて運動し、運動後は汗を拭きとってから、肌着を制服の下に着るのが良いと考えられる。 

 とある。これはなにもこの論文で初めて主張されたことでも何でもなく、私が中学生だったはるか昔から、家庭科の教師や体育の教師が主張していたことである。ちょっと探しただけでは文献に出てこないぐらい、常識化していた知見であるわけだ。ちなみに、これに対しては「なるほど」という意見と「ちょっとおかしい」という意見が、当時でも両方あったと記憶している。特に、「後で冷えるにしても、運動中の汗を放置するのはまずいだろう」という意見はけっこう説得力があり、そのため、タオル2枚を用いて体操服の下に汗取りのための層をつくって、汗をかいたらすぐにそれを抜き取る、みたいな運用も(マラソン大会のときなんかには)あったように記憶している。

じゃあ、「体操服の下に肌着を着ない」というのは合理的なのかといえば、現代ではそんなことはない。なぜなら、下着の性能が上がり、「吸水速乾性に優れた」素材は普通に安価に手に入る。下手をすれば、体操服以上だ。そういうものが求めればいくらでも手に入る時代に、いまさら「下着が濡れたら気持ち悪いから」みたいな理屈は通らない。

結局、問題なのは時代に合わせたアップデートができないことであったり、一律に問題を解決しようとする姿勢であったりであって、決して変態趣味ではないのだ。問題を正しく把握しないと、解決からはどんどん遠ざかるだけだから、このあたりは気をつけるべきだと思うよ。