論破するのは議論ではない、というあたりまえの話

ものすごくレベルの低い話をするのだけれど、世の中、議論することの意味を取り違えている人があまりに多いように思う。議論は、議論への参加者を説き伏せるために行うのではない。議論は、よりよい解決策を発見するために行うものだ。これは議論の大原則だ。なにも私が独断でいっているのではない。たとえば、Googleで「debate goal」と検索してたまたまトップに出てきたサイトには、

Three interrelated goals of the class are:

  • To become exposed to important—and often controversial—issues in American history, and TO THINK ABOUT THEM.
  • To comprehend historically significant and often complex ideas, and to articulate a position regarding them.
  • To listen to others with an open yet critical mind, and to become more clear and persuasive in arguing your own position.

Goals of Class Regarding Discussion and Debate

とある。どうも大学の歴史の授業心得らしいのだけれど、目標は「考えること、学ぶこと、人の話を聞くこと」であるとしている。さらにこの少しあとには、「権力闘争になりがちだ」と戒めた上で、

Discussions and debates in this class do not have winners or losers

と、勝者・敗者などないのだと注意している。そして、検索結果の2番めに出てきたサイトには、

「議論には3種類ある」とした上で、

The second-worst kind of debate is the kind we engage in most often. It’s the debate where the goal is to prove that you're right.

An even worse kind of debate is the kind where the goal is to destroy someone.

The best kind of debate, on the other hand, is the kind where the goal is to make progress together. The process of this debate often leads the group to explore ideas that no one member could have come up with on their own.

How To Have A Productive Debate

と書いてある。「自分が正しいこと」「相手をやっつけること」が目標の議論はダメで、「参加者の誰もが気づかなかったようなアイデアを探る議論」こそが実りあるものだとしている。ほら、私の言ったのとほとんど同じだ。答え合わせでマルがつくと、やっぱり嬉しいな。1番目の検索結果のものは教育上のものだし、ここにはあげなかったけれど3番目のものも教育上のものだ。だから一般的な意味での「議論の目標」で最初に出てくるのが「議論はいっしょに前進してくためのもの」としているのは、常識的にそうなんだと言っていいのだろうと思わせてくれる。まあ、しょせんGoogleだから、もっと正確な調査は専門の人がやってくれたらいい。

ともかくも、常識的に考えれば、わざわざ人が集まってしゃべるのだから、そこには生産的な意味があると思うのが普通だろう。自分の考えがすべてならなにも人の意見を聞く必要はないのだし、叩き潰したいような相手とはかかわらなければよろしい。論破するのはゲームとしてはおもしろいのかもしれないが、議論の場を設定するコストに比べて見合うものとは思えない。

他人の意見を聞き、自分の意見を開陳し、それを突き合わせてよりよいものを探るプロセスは楽しいものであるし、それを経ることで思いもかけなかった新しいアイデアが浮かんでくる。そういう経験を積んできた人類は、話し合いによって問題を解決していく方法を学んだ。それが現代、議論が重視されている理由だろう。衆知を集めればよりよいものがうまれることを、私たちは経験則として知っている。議論をする目的は、そこにしかない。

 

しかし、人々が集まってなにかを成し遂げようとするとき、議論だけが効果的な方法であるかというと、そうとばかりはいえない。すくなくとも、歴史的にはそうでない場面のほうが多かったことだろう。たとえば、地域に用水が不足しているとする。その解決のために議論すれば、水の配分方法であるとか利水施設の新設であるとか、いろいろと生産的なアイデアは出てくるだろう。しかし、そのときに、一部の集団が結託して他の集団を排除し、用水を独占してしまえば、なんら新しい方法を試してみなくても、その集団にとって問題は解決する。戦争のような単純な力勝負では、あれやこれやと作戦を議論するよりも、専断果敢に攻撃に踏み切ったほうが勝利の確率は高い。技術が概ね出尽くして発展がプラトーになってしまった文化では、議論するよりも秩序を守るほうが生産性が高い場合もある。議論は効果的な方法であるが、常に最良の方法であるとはかぎらない。

ということで、議論が最良でない場合、人々は議論の形式をとっても実際には議論なんてどうでもいいという態度をとることになる。たとえばそれは、議論の形で他の権力者を蹴落とす闘争になる。あるいは、議論といいながらリーダーがその意思をメンバーに伝達するだけの場をつくる。場合によっては、そういった場が権力交代の舞台ともなる。

どうやらこれがこのくにで起こってきたことらしい。会議は、会議を実施したという履歴のためだけに必要となる。基本的にそこは、上意下達の場である。しかし、ときには権力簒奪の場にもなる。その場合、必要なのは論理ではなく、場の力学だ。だから、議論以前に根回しが重要になる。賛同者をいかに集めるかが重要であり、もしも論理性が関わるとしたら、その賛同者を募る過程でのみ重要であって、議論の場では完全に不要なものになる。

 

そういった会議が上から末端まで日常化してしまった世界では、「議論とはより良い解決策を見出すための知恵の出し合いだ」みたいな正論は、寝言にしか聞こえないのだろう。だから、学校でも正しい議論の方法を教えない。いや、学習指導要領では教えることになっている。たとえば中学校の学習指導要領では、国語の2年と3年に「議論や討論をする活動」が組み込まれているし、社会科では教科目標に「議論したりする力を養う」と記されている(個別には地理・歴史・公民の各分野で議論する力を養うことになっている)。実際、国語の試験問題では、議論している場を想定した設問がふえてさえいる。しかし、ではそういった教育を受けた人々がちゃんと議論する力を身につけているかといえば、疑問だと思わざるを得ない。

知識として身につけても、実際にそれを練習する場がないからだ。いや、練習する場は無限にある。日常の社会生活のなかで、議論によってよりよい方法を見出していける場はいくらでもあるだろう。ただ、そういう場で、議論がおこなわれることはめったにない。

たとえば、校則に関して、生徒と教員が議論できる場が設けられたとしよう。このとき、「自由闊達な議論」がおこなわれるだろうか。教員は「立場として」意見を制限される。議論の場に赴く以前に、「どこまで譲歩できるか」が既に決定されている。そういう場で、それでももしも、教員も生徒もそれまで思いつかなかったようなアイデアが発見されたとしたらどうだろう。教員にできることは、せいぜい「持ち帰って検討する」のが最大ではないだろうか。ほとんどの場合はそこまでいかず、想定外のことは議論の対象から排除されるだろう。「それを話し合う場ではありません」と、枠組みが切られてしまう。なぜなら、枠組みは最初っから事前準備のなかで決定されているからだ。

こういった「話し合い」でおこなわれ得るのは、せいぜい生徒の側からの苦情申立と、教員の側からの説得でしかない。それは、「話し合いは実施した」というガス抜きにしかならず、実効的な意味合いはほとんどない。

なぜそうなるのかといえば、同じようなこと、議論の体裁だけをとった上意下達の会議が教職員のレベルでおこなわれているからだ。権力関係が歴然としてる場では、会議の結果は既に決められている。もしもその結果を変えたければ、論理の力では変えられない。会議の場でいくら名案が出ても、それは「次回までに検討」と闇にほうむられるだけだ。まして、お互いのやり取りのなかでどちらの考えも及ばなかったような次元の高いアイデアが浮かんでくるようなことはない。だから、結果を変えるには、会議の場で考えるような悠長なことではダメだ。それ以前にしっかりとアイデアを練り上げ、練り上げたアイデアを持ち回って参加者に根回しをし、会議の場で主導権をとらなければならない。つまり、権力関係がある場では、権力闘争が何より優先される。いいとかわるいとかは抜きにして、それが現実だ。

あるいは、根回しもなしに会議の結果を変えたければ、徹底的に相手を論破するしかない。人格攻撃や泣き落としや駄々をこねるところまでも、ありとあらゆる技を動員して、論敵を困らせ、論敵が退却するように仕向けなければならない。これもまた、一種の闘争だ。こういった闘争の場としてしか議論を用いないのが教員の日常であれば、どうして正しい議論を生徒に教えられるだろうか。

いったいに、そういった闘争は、このくにの会議でごくふつうにみられるものだ。それが標準といってもいい。だから、会議は「よりよい解決策を産み出す」ための生産的なものではなくなる。たとえば、国の有識者会議に出席する人に聞いた話では、ああいった会議の結論はあらかじめ役人が用意していて、それを変えることはほとんどできない。だから、影響を与えたかったら、有識者会議がひらかれる以前に省庁に出向いて根回しをしておかなければならない。もしもそういうことがなしに有識者会議によばれたら(彼はそういうふうによばれることが多いらしい)それはアリバイ作りの員数合わせでしかない。「いろんな意見を聞きましたよ」という形をとるための要員であって、その会議でなにを喋ろうが、政策に反映されることはほぼない、のだそうだ。

だったらなぜそんな会議に出るのか。それは、やはり一種の闘争なのだ。この先、省庁と交渉する際に、「あのとき、あの会議で私はこういう問題を指摘しましたよね」とねじ込むことができる。議事録に残れば、「それが指摘されていたのに行動を起こさなかったのはけしからん」と批判することができる。その会議では実効性はなくとも、将来に向けての布石にはなる。どうもそういうことらしい。

有識者とよばれる人においてさえ、そういうレベルでしか会議をしていない。かなしいかな、「互いのもつ知見を照らし合わせ、そこから新たな発見をする」みたいな生産的な知的活動は、そこにはない。そして、世の中の多くの人が、そういった戦いこそが会議であり、会議でおこなわれるものが議論であると、肌感覚で認識してしまう。

 

だから、なにかというと他人を論破したがる人が現れる。揚げ足を取り、嘲笑し、相手の話を遮り、ありとあらゆる手段で論敵を封殺にかかる。ちょっとは落とし所とか考えないのかと傍からみていて思うが、権力闘争として議論をとらえている人にとっては、一歩譲ることは一歩の負けである。勝負こそがすべてなのだから、まずは勝たねばならない。もしも相手のいうことが正しければ、勝利したあとに、それを取り入れればいい。それが議論の方法だと、勘違いしている。

正しく議論するためには、「自分には見えてないところがあるかもしれない」「自分の枠組みからでは考えきれない領域があるかもしれない」と、あらかじめ認めておかなければならない。そういう前提があるからこそ、「他人には見えないことを自分は提案できる」「他の人の枠組みから考えの及ばないことを自分は問題提起できる」といった自負を正当化できるのだ。どっちが正しい、誤っているなんて、この混沌とした世の中で、そうそう簡単に決められることじゃない。それがわかるなら、誰も議論なんかしない。ひとりの頭では追いつかないから多くの頭でマルチコアに考えようよというのが議論なんだけど、それよりなにより権力という人々には、なにを言っても通じない。

実際、権力闘争がすべてというのはある意味正しくて、とことんな話、正義は拳銃の前にあっさり倒れたりする。マルクスはそういう意味で正しいのだろう。けれど、それでもなお、正義が世の中にあると、私は信じていたいな。こういうことについて議論できる人がいればいいんだけど…

自分でない何かを求めるのは群れ生活者の宿命かもしれない

Tracy Chapmanというシンガー・ソングライターがいて、Talkin' 'bout a Revolutionとか、やたらと格好のいい曲を歌っているのだけれど、なんと言っても出世作のFast Carがすばらしい。アコースティックのギターリフ(けっこうむずかしい)にのせて最小限のバンド編成で進んでいくのだけれど、歌詞が聞かせる。この歌を聞いていたのはちょうどブルデューとかを読み始めてた時期で、貧困の再生産みたいな概念がいまひとつ体感的につかめなかったのを、すっとわからせてくれた。そういえばその少しまえに流行ったSuzanne VegaのLucaは児童虐待のいちばん見えにくところを教えてくれた。こんなふうに、ときには数百ページの大著よりも数分の歌のほうが納得感をもたらしてくれる。もちろん、重厚な著作の重要性がそれで矮小化されるものではないのだけれど。

youtu.be

Fast Carは貧困のなかで虐待されてきた主人公(女性)が恋人との再出発に夢を描き、けれど新しい街でもやはり貧困からは逃げ出せない状況を歌ったものだ。そのテーマはそれはそれで重いのだけれど(その重いものを美しいメロディと甘い声で歌っていくのは凄いのだけれど)、最も耳に残るのはコーラス部分の最後のこの歌詞だ。

And I-I had a feeling that I belonged
I-I had a feeling I could be someone, be someone, be someone

「belong」という感覚を私はこの歌から学んだ。誰かのものである、どこかに所属しているという感覚は、つまりは孤独ではないという感覚であり、それは社会の一員としてしか生きることができない霊長類に共通する感覚だろう。森の哲人とよばれ単独行動で知られるオランウータンでさえ、緩やかな群れを形成しているといわれる。多くのサルの仲間では、群れから離れて単独行動する雄も、実は緩やかに特定の群れと繋がっているのだといわれている。社会から切り離された場合、物理的な生存基盤が脅かされるだけでなく、おそらくは心理的な基盤も崩れていくのだろう。このあたり、人間も同じことである。90%以上は猿一般と変わらない。安心をつくるのは、belongedの感覚だ。

そして、「be someone」だ。「何者かになること」が、希望を与える。そして、このsomeoneは、けっして有名人とか人気者というわけではない。もちろん、英語でもsomeoneを「大物」の意味で使うことは多い(その場合、対義語はanyone とかnobodyとかになるだろう)。しかし、それは特定の行いや場所に関する文脈での用法だと、辞書は言う。

someone
1. PRONOUN
You use someone or somebody to refer to a person without saying exactly who you mean.
2. PRONOUN
If you say that a person is someone or somebody in a particular kind of work or in a particular place, you mean that they are considered to be important in that kind of work or in that place.
Someone definition and meaning | Collins English Dictionary

2番めの意味が「大物」だ。1番目の意味は、「誰か」ということである。たとえば、「誰か手伝ってよ」とか、「誰かがこっちを見てる」とかいった用法だ。別に有名人に手伝ってもらいたいわけでも大物がこっちを見ているわけでもない。

Fast Carのsomeoneは、ちょっと聞くと2番めの「大物」の意味のような気もする。「新しい生活をはじめたらきっと何者かになれる。成功して、郊外に家を買ってひとかどの人物になれるかもしれない」と、そんなふうに思うかもしれない。実際、その夢はこんなふうに歌われている。

We'll move out of the shelter
Buy a bigger house and live in the suburbs

しかし、重要なのはその前のバースだ。父親がアルコール依存症の失業者で母親が愛想を尽かして出ていったことを歌ったあとで、

I said "Somebody's gotta take care of him"
So I quit school, and that's what I did

学校に行かずにコンビニで働いている現状の説明がある。そこでsomeoneと互換的に用いられるsomebodyが、「誰かが面倒見なくちゃ」と、1番目の用法で語られている。主人公は、この段階で、この「誰か」を引き受けているのだが、それが自分自身の人生を食いつぶしていくことを自覚している。だからこそボーイフレンドの車に夢を託す。その車が州境を超えていくときに、belongedと感じ、そして、someoneになれるかもしれないと思う。してみると、このsomeoneは、父親の人生の後始末をする誰かではない、べつの誰かであればそれでいいのだということになるだろう。「何者かになる」というのは、けっして「大成功をおさめる」ということではなく、「いまの自分ではない別の人物になる」ということだ。そして、そこには、疎外された人が常に感じる「みんなはちゃんと居場所があるのに、自分にはそれがない」という感覚が裏側にある。どこにも帰属する場所のない人間はnobodyであり、帰属する場所があってはじめてsomeoneになれる。そんなsomeoneになりたいと、Fast Carの主人公は歌っているのだろう。

 

だが、皮肉なことに、帰属するところのない人間などいない。人間は本質的に社会的生物であり、社会のなかに居場所がなければ存在できない。実際、この主人公も、「父親の世話をするためにコンビニで働く」という(引き受けたくはない)社会的な居場所をもっているのだ。だからsomeoneになりたいというのは、「自分ではない誰かになりたい」つまり「もっとマシな生活をしたい」ということである。ただ、それが現状を改善するという外部の変化によるのではなく、「自分が何者かになる」という形で発露しているだけだ。

では、なぜ「よりよい現状への希望」が「何者かになりたい」という表現をとるのか。それは、人間が群れ生活者として、避けがたく群れの他の成員を観察しているからではないだろうか。生物の存在基盤は基本的には外部環境であるのだけれど、群れ生活者にとっての存在基盤は群れという社会だ。だから、社会の外側の環境への関心よりも、社会の内側をつくる他の成員への関心が桁違いに強くなる。そしてもしも自分が苦しいのであれば、なぜ他のメンバーは苦しくないのだろうかと思う。それは自分が自分だからだ。自分が彼であれば、こんなに苦しまずに済む。これが「自分ではない何者かになりたい」と思うメカニズムだろう。そして、生憎なことに、苦しみは個人的なものであり、自分だけが感じることのできる感覚だ。だから、私たちは常に「自分だけが苦しい」とか、「他の人も苦しいかもしれないけど自分は特に苦しい」と感じる。理性としてではなく、動物的な感覚としてそう受け止める。だから私たちはつねに「何者かになりたい」と思う。そういうことではないだろうか。

 

では、充足された人は「何者かになりたい」と思わないものだろうか。苦しいからべつの誰かになりたいと思うのなら、苦しくない人はそうは思わないのだろうか。私にはそんなふうに見えない。むしろ、充足されたように見える人ほど、「何者かになりたい」という願望が強いように思える。たとえば中小企業の社長がスポーツカーを買うときの感覚は、「スポーツカーを乗り回すような格好のいい人間になりたい」という願望ではなかろうか。ステータスシンボルとよばれるものを求める人の感覚は、たいてい、そのシンボルによって表される「何者か」になりたいのだと、私には見えてしまう。

いや、そういう物質的な成功者はけっして充足されているのではない、心の平安をもっている人こそが充足されているのだというかもしれない。言葉をかえれば、社会的な自分の役割を自分自身のアイデンティティとして引き受け、それに没頭している人は、いまさらなりたい何者かなどないのだろうと、そんなふうにも推測される。それはそうかもしれないとも思う。ただ、残念なことに、そういう人に出会ったことはない。もちろん私の見てきた範囲など世界のごく僅かだし、類は友を呼ぶともいうから、充足できない私のような人間の周りにはそういう人しか集まらないのかもしれない。けれど、「ああ、この人は尊敬できるなあ」と思える哲学者のような人でさえ、「こんな自分ではダメだ、もっと修行しなければ」と思っているように見える。あるいは、平安の極みにいるような乳児を抱えた母親でさえ、「もっといいおかあちゃんにならないとね」と話していたりする。もしも充足しているように見える人がいたとしても、それは「私でない誰か」の姿として見えているだけなのではないだろうか。そういう落ち着いた人になりたいと思うのも、結局は「私でない誰か」になりたいというこっち側の願望ではなかろうか。

そういう人しか周りにいないからかもしれないけれど、私には、「何者かになりたい」、それも「大物」という意味の「何者」ではなく、「自分ではない誰か」の意味での「何者かになりたい」は、群れ生活を営む生物としての人間の宿命的な感覚ではないかと思えてしかたない。その願望に食い散らかされてしまうと、人生はロクなものにならない。けれど、適度にそういう感覚があれば、それは向上心ということになるだろう。そして、「よりよい場所」をめざす向上心は、確かに人間を進歩させるのかもしれない。だから、そういう感覚を抱え込んでしまうことそのものは、いいことでもわるいことでもない。重要なことは、生得的なその感覚をどこまで理性でコントロールできるかではないだろうか。

 

人間は社会の中でしか生きられない。けれど、社会というものには五感で知覚可能な実体はない。ただ、その存在が概念として理解できるだけのものだ。ある意味では幻影だ。共同幻想だ。それでも人間はそこに依存して生きる。そういう構図を理性で認識すれば、既に「自分」という何者かである存在が、それでも「何者かになりたい」と願うプロセスが見えやすくなるのではないだろうか。そうやって「何者かになる」ことは、社会のなかでの自分の居場所を再設定することでもある。それはつまり、社会に受け入れられること、つまり、belongedである自分を実現するために必要なことではないだろうか。

それにしても、これだけ長く生きてきて、何者にもなれないというのは、いったいどういうことなんだろうかと、自分自身を振り返って、嘆息が漏れる。たしかに私は編集者にもなったし翻訳者にもなった。風来坊にもなったし教師にもなった。経営者にもなったし非正規の底辺労働者にもなった。夫にもなれたし父親にもなれた。けれど、いまだに「何者かになりたい」という願いは消えない。まったく、ろくでなしだ。そういえば「ろくでなし」を英語ではnobodyと…

 

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この文は、シロクマ先生のブログに触発されて書いた。けれど、先生のブログの内容との関連は、ないな。スミマセン。

blog.tinect.jp

価値観から逃れられないからこそ、いったんそこを保留にすることが重要になるという話 - 「良い」「悪い」で見えないもの

何の気なしに書いたブコメに星がいっぱいついて慌てることがある。いや、私の意見に何かを感じてくれた人が多いのは単純に嬉しい。一生懸命考えて書いたブコメだと、特に嬉しい。慌てるのは、何の気なしに書いたものが思わず伸びるときだ。詰めて書いてないから、曖昧になっている。曖昧なぶん、ときには真逆に受け取られることもある。これまでも何度かそういうことがあった。そして、昨日も。

問題のブックマークコメントは、これだ。

新書の役割――「ナチスは良いこともした」と主張したがる人たち(田野 大輔) | 現代新書 | 講談社(1/5)

「良いこと」とか「悪いこと」という言い方が、そもそも歴史に向き合う態度じゃないと思う。

2021/06/27 10:49

b.hatena.ne.jp

元の記事は、「ナチスもよいことをした」と主張する人々に対して、「それはおかしいよ」と、本を紹介しながら述べるものだ。私は基本的に、その論の張り方に同調する。ブコメ群の中には批判的なものも多いけれど(その中にはある程度頷けるものもあるけれど)、私は細かいことはともかく、「ナチスのいいこと」なんてのはほとんど悪事の一環でしかないと思うので、あんまり記事の批判はしたくない。だいたいが、この記事の中でも触れられているTwitterで話題になった高校生だかなんだかがナチスを擁護した小論文を書いた件にもブックマークコメントをつけて、

予備校時代、一番添削に困った「完璧な文体でナチスの政策を肯定した小論文」とヒトラーファンの女子高生の話 - Togetter

何の教科かによる。国語だったらケチつけるわけにいかない。社会だったら、ケチつける穴を見つけられなかった自分を恥じるべき。 / 教科枠のない小論文なら、社会科的な観点から批判できると思う

2021/02/08 12:22

b.hatena.ne.jp

社会学的な観点からは絶対に批判されねばならないと主張したぐらいだ。だから、そもそも「ナチスもいいことをした」みたいな言い方は、あんまりにも幼稚じゃないの、と言いたくて、最初にひいたブックマークコメントを書いたわけだ。「良いとか悪いとかはお伽話の世界の話であって、そういう単純な切り方をしたら笑われるよ」と。

ところが、意外なことに、これが「相対論」みたいに取られてしまった。確かに、読みようによっては、「物事には良いことも悪いこともあるんだから、そこは公平に評価すべきじゃないの」みたいな主張にとれなくもない。もともと100字制限のあるコメントで誤読を避けることはできないとはいえ、そういう読み方をされるのは本意ではない。それで批判する人(ブコメをずっと読んでいくと批判するひともいたし、わざわざブコメへのブコメで批判してくれたひともいた)に関しては、「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ」で済む。けれど、たくさんついた星の中の、ひょっとしたら半分くらいのひとがそういう誤解をしてつけてるんじゃなかろうかとも思った。だとしたら、そういうひとの主張を代表しているような顔をするのは嫌だ。ここで言い訳しておけば、取り消したいひとは取り消せるだろうとも思った(自分がつけた星の上にカーソルをもっていってしばらく待つと、取り消せる仕様のようだ)。

 

私は、社会を見るとき、自分の価値観から逃れられないのを知っている。だから当然、「これはいい、あれはダメ」みたいなことを思う。そういった意見が個人的な偏見であったとしても、それを主張するのは重要だと思っている。だから、多くの人が肯定する宿題という慣行に対しても、「それって根拠がないんじゃない?」みたいなことを平気で言う。だって、おかしいものはおかしい、と思うからだ。こんなもの、価値観のカタマリだ。

ただ、じゃあ、何のためにその価値観を他者にぶつけるのかといえば、それは愚痴ではない。いや、愚痴っぽくなることも多いけれど、なるべくそれは避けたいと願っている。そうではなく、未来をよりよいものしたいと思うから、自分の価値観にもとづいて、「こうしたほうがいいのに」と主張する。自分の価値観に沿ってよりよい未来がほしいわけだ。もちろん、それは他の人の価値観に適合しないかもしれない。そこは弁証法だ。異なる意見がぶつかったとき、そのどちらでもない新しい地平が開けることもある。未来はそうやってできていくのだと思う。そこに投機するための原動力として、自分の価値観は存在する。

そして、その価値観は、過去に学ぶことによってより深められる。補強される。なぜなら、過去の事実は、実にいろんなことを考えさせてくれるからだ。だからこそ、私は歴史に興味がある。その中には、たとえば千年前の源氏物語に対する興味みたいなものもあるし、つい十年ばかり前の太陽光発電の制度ができた経緯みたいなものもある。そして、そういうものは、より詳しく知れば知るほど、さらにいろんなことを学ばせてくれる。

 

たとえば、私は家庭教師として中高生に歴史を教えることもしばしばあるわけだけれど、中学校の歴史の教科書にはかならず、戦時中の日本の「欲しがりません勝つまでは」的なポスターが掲載されている。戦時下に国家主義のもとで人々が総動員された様子を学ぶためのいい資料だ。これが出てくると、私は(時間的余裕があればだけれど)、必ず、「同じようなポスターはアメリカでもつくられた。国家総動員的な動きは特にイギリスでは強かった。なぜなら、イギリスは連日ドイツ軍の空襲にさらされ、いつ侵略されても不思議ではない状態だったからだ」といった解説をする(ちなみにこれは、20代の頃に写真史関係の本を翻訳していたときに学んだ)。こういう知識は、戦争というものがどういうものであるのかを考える上で役に立つと思うからだ。

ただ、ここで、もしも「よい、わるい」といった価値観を安易に持ち込むとどうだろう。たとえば、「国家総動員は人々の自由を侵害するから悪い」という価値観で日本の「欲しがりません勝つまでは」を断罪するとする。すると、「同じようなものはアメリカにもイギリスにもあった。みんな、悪いことをしていたんだ。だから、日本が特に悪いということはない」みたいな、安直な「相対論」みたいなのに落ち込まないだろうか。あるいは、「当時の侵略国家の日本は悪い国なので、そのための総動員は悪い」みたいな価値観で物事を判断するとどうなるか。「よい総動員」と「悪い総動員」が存在することになってしまわないだろうか。

それでは、本質から遠ざかる。そうではなく、歴史事実に対しての善悪は、いったん保留する。そして、未来に対してのみ、価値観を投影する。すると、当然、私のような人間の価値観からすれば、「国家のために自分の全てを投げ出すのが美談になるような世の中はまっぴらゴメンだ」ということになる。そうなると、「たとえ日本であれイギリスであれ、とにもかくにも、国のために死ねというような社会はまちがってたんだよな」ということが見えてくる。つまり、そもそも戦争に至るような社会のあり方そのものに対する批判が生まれてくる。これは相対論ではない。

つまり、自分の価値観に基づいた判断をするためには、細かなひとつひとつの事実に関して、その歴史の文脈の中では価値判断すべきではない、となる。なぜなら、価値判断は事実を見えなくするからだ。そうではなく、ひとつひとつの事実が由来した力学を観察する。観察するときにもちろん自分自身の価値観から感情は動くのだが、なるべくそこを保留する。そうでなければ、それは阪神タイガースの応援で騒ぐ外野席の観客みたいなことになってしまう。

どういうことか。たとえば、昨今の日本の政治になぞらえてよく引き合いに出されるインパール作戦を考えてみよう。これはひどい作戦であり、あちらこちらと批判されるエピソードが山盛りだ。特に、その中でも牟田口廉也将軍の言動はネットミームにさえなっている。だから、我々外野席の人間としては、「牟田口はカス!」「あんなやつがいたから日本が負けた」みたいなことを言いたくなる。だが、それは、外野の観客としては言ってもいいのだけれど、歴史から何かを学ぼうとするときにはけっして言ってはいけない。なぜなら、もしも将軍がもっと優秀な人であり、戦略にも長け、合理的な判断ができる人であったとしたら、インパール作戦は一定の成功を収めたかもしれないのだ。そのとき、それを「よかった」と、歴史を見るものは言ってもいいのだろうか? 確かに白骨累々のジャングルの退却路は避けられたかもしれない。けれど、それによってビルマ、あるいはインドにさらに犠牲が拡大していたかもしれないのだ。もしも現代の価値観から「人殺しをする戦争はよくない」というのであれば、じゃあ作戦の成功はより大きな人殺しにつながらなかったと保証できるのか、ということになる。日本が勝利して大東亜共栄圏が完成したら、それはそれでめでたしめでたしだったのだろうかということになる。

「お前は日本が負けたことがよかったというのか!」みたいな罵声が飛んでくるかもしれない。私は別に敗戦を喜ぶようなナントカ症候群の人ではない。けれど、日本が勝って万々歳とも思えない。現状の日本の政治を見る限り、もしもこれが70年前にアジア一帯に広がっていたらと思うと、かなりげんなりする。とことんでいえば最初っから戦争とかなしに繁栄できたらよかったと思うのだし、けれど、植民地争奪戦の19世紀からの流れの中でそれが無理だったのなら、それはもう、私の価値観で物を言うのをやめようと思うばかりだ。そして、過去に対して「あれがよかった、これがよかった」という口を謹むかわりに、未来に対しては、「戦争を絶対に起こさないような世の中にしよう。戦争がなければそれでOKなんて話じゃないよ。だって、戦争がなくったって、多くの人が自分の意志に背いて無理やりにしたくもないことをさせられて、しんどい思いをしてるじゃないか。そういうのはまっぴらだよ」と、価値観全開の主張をする。「誰も喜ばないオリンピックなんてやめたらいいのに!」は、1936年のベルリンオリンピックに対しては言わないが、まだ歴史には組み込まれていない2021年東京オリンピックに対しては言う。未来はまだ変えられる可能性がある。だからこそ言う。

 

こういうのが「相対論」だと言うのなら、もう私は文句は言わない。この考え方が批判されるのなら、それはそれで納得する。互いの批判はけっして後ろ向きなことではないと思う。私は、びくびくしながらそれを歓迎するだろう。批判と批判がぶつかって、なにか新しいものがうまれる。人間はそうやってここまで来たのだと思うし、ここから先も、そうやってなんとかかんとか、やっていくのだろうと思う。すくなくともあとしばらくは。

「太陽光発電の拡大は民主党政権のせい」という事実誤認 - 時系列は正しく見よう

私はもう10年ぐらい前になるけれど、非正規雇用の専門職(という言い方がものすごく奇妙なのだけれど)として太陽光発電関係の公的な仕事にごくわずかだけかかわっていたので、いまでも太陽光発電に絡んだニュースには注目している。そして、ブックマークしたら、他の人のコメントもながめている。参考になるものもあれば、見当違いだなあと思うものもある。たとえば、今日も、そういうのがあった。このニュース

 

mainichi.jp

についた、このコメント

再考エネルギー:全国で公害化する太陽光発電 出現した黒い山、田んぼは埋まった | 毎日新聞

何度でも言う 菅民主党政権時に雑に制度設計し補助金→経済の弱い地方で利権化→その後自民党政権下で補助金率必死に下げる

2021/06/27 10:34

b.hatena.ne.jp

なんかを見ると、「事実とちがうことを何度でも言われてもなあ」と思う。フィードインタリフの固定価格買取制度は、確かに民主党政権下で成立したものだけれど、それは、自民党政権下で既に方向性がきまっていたものを受け継いだに過ぎない。最初に「フィードインタリフをやる」と言ったのは、いまだに自民党の重鎮として君臨する二階氏であるらしい。

このあたりの流れは、私が細かく書いてもいいのだが、資料を調べるのもめんどうなので、ちょっと検索してパッと出てきた適当な論文のリンクを貼っておこう。

rikkyo.repo.nii.ac.jp「買い取り制度のケーススタディー : 日本」(飯田 哲也)

2011年の論文なので、その後のいろいろな推移のことは書かれていないが、逆に、再生可能エネルギーの系統接続がはじまった頃からのあれこれが詳しめに書いてある。ちなみに、飯田哲也氏は政治的には民主党寄りの人で、民主党政権時には政府関係の委員も務め、後には自民党候補の対立として山口県知事選挙に立候補していたと記憶している。私は彼が若いころに主催していた勉強会に何度か参加させてもらったことがあるので、まったく縁がないわけではない。とはいえ、深く知っているわけでもない。

ということで、細かい話はそっちを見てもらえればいいのだけれど、いくつか上記のブコメのどのあたりが事実に反しているのかをきちんとあげておこう。まず、「菅民主党政権時に雑に制度設計し」という部分は、歴史的経緯からいえば制度設計そのものは、自民党議員も多数参加した超党派の集まりで検討され、諸外国の動きや制度を参考に練り上げられたものだ。そして、固定価格買取制度は、「補助金」ではない。補助金は別に用意されていて、やがてすぐに廃止になった。さらに、「補助金率引き下げ」と書いてあるのは固定買取価格の引き下げなのだが、フィードインタリフはもともと固定買取価格を細かく引き下げていくことを前提にした制度だということだ。だから、「自民党が必死に引き下げ」というのは、そもそも制度をまったく理解していないことを白状しているようなものだと言わざるをえない。下げるのが前提の制度で下がったのを、政府の努力と思うのは、完全に事実に反する。

むしろ、私の見たところ(ここからの話にはエビデンスはないけれど)、自民党政府は固定買取価格を不当に高く維持する方に力を注いできた。このブログでも何度か書いていると思うが、もともと太陽光発電の設置費は、その後の売電収入でかつかつ元が取れる程度に調整すべきものである。ところが、いったん「太陽光は儲かる」みたいな神話を官民挙げてつくってしまったせいで、下げられなくなった。それは、下手に太陽光業界みたいなのを育成してしまったために、そこに利権が生まれてしまったからだ(上記ブコメで「利権」の部分だけはあながち間違いでもない)。そして、そういった利権絡みの陳情に弱いのは、(まあたぶん他の政党でも同じとは思うが)、自民党だ。太陽光発電の固定買取価格がなかなか下がらず、世間からの風当たりが一気に強まったのは、自民党のせいだと私は思っている。

 

ま、私の観測は、事実だとして争うつもりはない。ただ、その前に書いたように、歴史的経緯、制度の設計に関しては、上記に引用したブックマークコメントは完全に誤っている。そして、そういう誤りを含んだ議論はしょっちゅう見かける。なんなら、民主党系の議員でさえ、まちがえている。自分とこの政権が関わったことぐらいちゃんと覚えとけよとおもうのだが、政治家はすぐに忘れるものらしい。どうにかならんもんかなと、いつも思う。

 

ともかくも、現状の太陽光発電、けっして好ましいとはいえないことには10年前にごくわずかでもそこにかかわった人間として、非常に残念に思っている。特に、本来分散型でこそ力を発揮するはずの再生可能エネルギーを大規模化することに関しては、なぜあの時点で強く批判しなかったのかと、後悔している。もちろん、自分がセミナーで話すときなんかは、そのあたりも触れるようにはしていた。けれど、「メガソーラーでパネルの量産が加速したらパネルの価格が下がっていっそう太陽光の普及が進むじゃないか」という議論のまえに、「まあ、そうだよねえ」と、口をふさいでしまったのは事実だ。そのあたりの不明を、現在も恥じている。だが、そのあたりのことは、もっと長いべつの話になる。いつか、書ける日がくるかなあ。

宿題を自明とする教育方法は正しいのだろうか - 「宿題論」はなかなか進まない

「宿題論」という名前のファイルがデスクトップに置いてある。プロパティを確認すると書き始めたのはちょうど2年ほどまえになる。プロットも考え、初めの方を原稿用紙換算で10枚ほど書いたところで、止まっている。書き始め時点ではそういう構想でもなかったのだけれど、その後、これは家庭教師の手引書の第二弾の1つの章を構成するものとして私の中では位置づけられている。最初の本を書いてからもうずいぶんになるから、そろそろ次を書きたいと思って準備をしてきた。これはその一環だ。

ただ、なかなか書けない。言い訳はいろいろあるが、いまだに進んでいない。なに、そのうち書けると思う。そして、しっかりした論はそっちで書くつもりだ。中身は、一般に「宿題」として出されるものの欠点を論って、最終的に「それならばどんなふうにしてどんな内容の宿題を出すのが有効なのか」というところにもっていこうと思っている。なにせこれは、家庭教師のためのマニュアルなのだから。

 

だから宿題の話はそっちで全てになるはずなのだけれど、それ以前のところでどうにもすっきりしないので、今回はその話。そもそも、宿題を出すことが当然というのは、何が根拠になっているのだろうか、ということだ。

一応、学習指導要領に、それっぽいことがないわけではない。明確に「宿題」という言葉はないのだけれど、家庭学習の重要性が説かれており、解釈のしようによっては、「家庭学習を有効なものとするために教師は宿題を出すのだ」と強弁できないこともないようにはなっている。このあたりから攻めていきたい気持ちはあってそれなりの論拠もつくっているのだけれど、そもそもそういう解釈を許容するのは、社会全体に「だって、授業をしたら宿題は出すもんでしょう」という暗黙の前提が共有されているからだ。だから、本当は「なんでそんな前提が存在するのか」ということに遡らなければここは見えてこない。そして、それは家庭教師の技術書の守備範囲をこえるだろう。

私の感覚では、宿題というのは一種の残業だ。よく「学生の仕事は勉強です!」みたいな説教をする教師がいるが、もしもそうだとしたら、授業時間が正規の労働時間であり、それ以外の拘束時間は時間外労働となるだろう。そして、多くの業界で一定の残業を見込むことが雇用の前提になっているとはいえ、本来従業員の員数は残業をせずに業務を終えられることを基準に算出すべきであって、最初っから残業しなければ業務が回らないような職場はブラックの烙印を押されたって仕方ないだろう。そう思えば、授業に自動的に宿題がくっついてくるのはおかしいのではないか、ということになる。

それに対して、「勉強は仕事ではない!」と怒りだす教師もいるだろう。二重規範のような気もするが、必ずしも「学生の仕事は勉強」という主張と同じ教師が言ってるとはかぎらない。そして重要なことは、教師がどう理屈をつけようと、それを受け入れる社会常識がある、ということだ。なぜ宿題は特別視されるのだろうか。

プロの教師であれば、授業時間内に生徒に伝えるべきことはきっちり伝えるだけの技量をもっているべきではないのだろうか。授業時間外の生徒の努力をあてにしなければ教科指導が行えないのは指導力不足ではないのだろうか。私はどうしてもそう思ってしまう。

もちろん、子どもの成長にとって、学校が全てではない。家庭での学び、放課後の学びは子どもを大きく成長させる。むしろ、授業時間以上に成長させる。だが、それは宿題のような与えられた課題によらなければできないものなのだろうか。小学生であれば遊びを通じてさまざまな思考方法を子どもは身につけていく。家事の手伝いによっても、多くのことを学習する(料理が成績を向上させる可能性については以前にも書いた)。読書は目に見える成績だけでなく「非認知的能力」を向上させるとも言われるし、伝統的に悪口を言われてきたテレビやマンガ、さらにはゲームやWebの閲覧でさえ、子どもの成長にはそれなりの寄与をしてきたといえる。だって、「テレビばっかり」「マンガしか読まない」「ゲーム中毒」「ネット廃人」と子ども時代に罵られてきた人たちが、大人になって現にこの世の中を動かしているのだから。

そして、そういった学びは、宿題によって妨げられる。なぜなら宿題は子どもの時間を奪い、エネルギーを消耗させる。さらにわるいことに、多くの場合、親子関係を悪化させる。なぜなら、親はかならず「宿題やったか」の一言を子どもに投げかけるからだ。やりたくもない宿題でもやらねばならないというプレッシャーのなかにいる子どもに、この言葉が与える影響の大きさは格好の研究課題だと思うのだけれど、その悪影響をはっきりと評価した話をあまり聞いた記憶がない。

 

なぜ、宿題が自明視されるのだろうか? 息子の小学校のときの担任は、「これは先生と君たちの約束だ。宿題が問題ではなく、約束を果たさないことが問題なのだ」と言っていたそうだが(息子はその言葉に感銘を受けたようではあるが)、そんなもの、ただの論点のすり替えにすぎない。なぜ一方的に出される宿題を「約束」として強要できるのか、そこが問題だ。

確かに、孔子が言うように、「学びて思はざれば則ち罔し」であって、学習したことは振り返ることによってようやくその意味が明らかになってくる。しかし、振り返ることは、宿題を通じて可能であろうか。学校の授業の内容を反芻しようとするとき、何ら課題は必要ない。必要なのはただ思い巡らせる時間だ。実際、私は子どものころ、よく授業の内容を思い返しながら通学路を歩いていた。あれは自分をよく成長させてくれたなと思う。小学校から高校・大学まで、徒歩(後には自転車)でいずれも片道30分ぐらいかかる距離だったから、空想に費やす時間は十分にあった。だから、私は宿題を全くしない子どもであったにもかかわらず、必要なだけの復習をしていたのだともいえる。

ただし、全ての授業をそうやって復習できていたかというと、そうではない。人間、楽しいことだけを思い出していたいのだ。だから、面白かった授業、印象に残った教師の話ばかりを考えていた。そのせいで、数学や英語の成績はひどかった。授業がおもしろくなかったからだ。数学や英語がおもしろいと思えるようになったのはもっとずっと後で、授業とは無関係に自分で好きなだけやることができるようになってからだ。人間の成長とはそういうものだと思う。

生徒の成長をコントロールできると思って教師が宿題を出すのは、むしろ成長の阻害要因になるのではないか。そして、生徒を本当に成長させたければ、まずは生徒が身を乗り出すような授業をしなければならないのではないか。生徒の印象に残る授業、生徒が興味をもつ授業は、放っておいても生徒のなかで発酵する。生徒が思い返して、「罔し」に陥らないようにしてくれる。そして生徒は成長してくはずだ。

 

けれど、教師はデフォルトで宿題を出し、社会はそれを当然のものとして受け止める。私のような残業論に対しては、そもそも授業時間の合計は一般社会人の労働時間にくらべたらずっと短いのだから、宿題込みでようやくそれと等しいのだという論も成り立つ。ただ、この論理はそろそろ限界に来ているのではないかと、私は感じている。というのは、基礎教育の話ではなく、大学生の勉強時間が伸びているという話を聞いて、「そうだよねえ」と思ったからだ。

yuiami.hatenablog.com

私は大学生は教えていない。元の教え子の何人かは大学に入ってからも連絡をくれるし、息子もこの春から大学生になったし、まあ少しぐらいは最近の大学生の様子も見聞きしている。大学で教えている人からの話も聞くことがある。あと、この程度のことは言っても守秘義務違反にはならないと思うのだけれど、十数年前から7、8年前ぐらいまでの期間、大学の教育管理システムを開発している会社の仕事を少しだけやっていた。なので、どのようにして最近の学生を管理するシステムが発展してきたのかには少しだけ詳しい。

そういう知識を動員して大学生の勉強時間の推移を追いかけてみると、明らかにICTが教務管理や授業に組み込まれてきたあたりから学生の勉強にかける時間が増加してきているように見えてくる。そして、それはそうだろうと思う。私がかかわっていたシステムは、いかに学生を効率よく勉強に駆り立てるかをセールスポイントにしていたからだ。それは競合各社のシステムも同じだ。授業前の資料配布や事前アンケート、授業中の抜き打ちのアンケートや小テスト、授業後のレポート提出機能や質問機能、資料の共有機能など、「ああ、たしかにこれやったら学生は勉強するな」と実感させられるものばかりだった。当時はその機能を使いこなしている教員は少数だったようだが、ベンダーの側もどんどんUIを進化させていた。そりゃ、使いやすくなれば使うだろう。そして、学生はどんどん勉強に駆り立てられる。

学生の本分が勉強であることを思えば、それはそれで批判すべきことでもなんでもないだろう。けれど、たとえば授業前に「反転学習」で動画の閲覧を求め、授業中は居眠りや内職ができないほどに各種機能を活用し、授業後には8時間以内のレポートを求め、さらには生徒同士のコラボレーションや相互批判を推奨するというようなことを標準化するとどうなるか。90分の授業に最低でも60分、下手をすると120分ぐらいはプラスアルファの時間を費やさねばならなくなる。昔もいまも大学生が卒業までに必要とする単位数は特に変化がないので、大学生が受ける授業時間数は時代が変わっても大差ない。90分授業が4コマ、5コマとはいる日もある一方で、2コマぐらいしか授業のない日もある。3コマの日だと授業時間数はたかだか4時間半だ。けれど、ここに上記の時間を入れると7時間半になる。ほぼ8時間労働に相当するといってもいい。もしも「学生の仕事が勉強」であるのなら、だ。つまり、「学生は遊んでばっかり」というのは、管理が緩やかで仮にレポートの課題が出てもサボり放題だった昔には真実であったかもしれないが、ICTの導入によって管理が厳しくなった現代においては(たとえばレポートの未提出は厳格に減点されるし、締切は秒単位で厳守になる)まったくあてはまらない。

ただ、上記のブログに引用された大学生協の調査データをみると、授業時間外の大学生の勉強時間は1日あたり60分程度であり、私の推計よりもかなり少ない。おそらく、ひとつにはうまい具合にサボっているのだろうし、ひとつには教員の側がそこまでシビアに授業管理システムを活用していないのだろう。

いや、それにしても1日の平均学習時間が5時間程度なのはやっぱり仕事に比べたら遥かに少ないのではないかとも思えるかもしれない。ただ、この統計は特に休日を除外しているようにも見えないから、週に直せば35時間であり、もしも週休2日で当てはめれば1日7時間の労働となり、休憩の1時間を労働時間に含めるのであればちょうど8時間労働に相当する。つまり、現状、大学生は社会通念上十分な時間を学習に当てているわけで、それは遊んでばかりいたかつての大学生のイメージとは程遠い。

こういった学習時間の伸びは、制度の強化とそれを支える教育管理システムの進化によるところが大きい。私が学生のころは、学生の側からみても首を傾げたくなるような成績評価が多かった。たとえば私は大学1年のときに一般教養として芸術学なる授業を受けたのだけれど、最初の数回で教師が何をいいたいのだかさっぱり理解できず、脱落した。試験だけは受けたけれどまず単位が取れるとは思わなかったのに、「良」の成績がついた。同様のことは専門科目でもあり、たとえば線形数学はまるで理解できなかったけれど単位がもらえた。あえて文句を言うつもりもなかったけど、絶対におかしいと思った。そういったいい加減な成績評価は、現代では許容されていない。出席、レポート、試験など、客観的な基準できっちりとスコアを出し、それに準拠してしか単位は出せなくなっている。かつては「そんなこといっても無理じゃない」と言い逃れができたのが、システムが整備されることで「こうやったらできますよ」と具体的にソリューションが提示される。なんなら教務課からサポートや研修が提供される。「現実は不可能」という言い訳はていねいに潰される。管理は強化され、最終的には、学生は真面目にならざるをえない。

真面目であることそのものはいいのだ。けれど、もしもこういったシステムをシステムベンダーが理想とするような方法で活用しはじめると、上記のように学生は1日に7時間どころか、日によっては10時間とか11時間机にかじりつかねばならなくなる。労働であれば1週の残業時間は15時間が上限だから、本当に真面目に勉強すれば過労死ラインを超えることにもなりかねない。現実はまだまだそこまでいっていないが、流れはそうなっている。ICTを忌避してきた高齢の教授たちが引退していき、システムに従順に従うことを受け入れる教員がその後を埋めていけば、学生たちの学習時間がブラック企業並みになっていくのは、システムの設計を見ていれば避けられない運命のように思える。

そこまで真面目にやれるものではない。ということで、どうなるかといえば、学生は適当にサボるわけだ。けれど、昔のように代返(これも死語か。「サボってる人の代理で出席の返事をすること」)を頼んだり教師の情に訴えるような方法では、現代の洗練されたシステムは乗り越えられない。ではどうするかといえば、レポートは適当に検索してコピペをする。「本当はしっかりしたレポートを書きたいけれど、時間がないから適当なものを出した」というのは、実際に大学生が口にする言葉だ。コピペのレポートなんて無意味を通り越して害悪でしかないけれど、学生の生活時間を侵食するような制度設計のもとでは、そういった劣化が起こるのは当たり前ではないか。

 

重要なことは、こういった管理システムの進歩は、徐々に大学から高校、高校から義務教育の世界へとひろまりつつあることだ。「勉強は善」という考え方からは当然、「しっかりと勉強させるためのシステム」は歓迎されこそすれ、何ら否定されるものではない。しかし、そこで無視されるのは、子どもたちの時間が有限であるという事実、そして、成長のためには緩やかな時間、枠組みにとらわれずに思考をひろげていく時間が必要であるという事実だ。

宿題がそれを阻害すると言ったら、多くの教師が目を剥くだろう。宿題なんてほんのわずかの時間だけがんばれば終わるじゃないかと、自分の出している宿題の量を実証的に持ち出してくるかもしれない。だが、中学生や高校生をみてきて、現実に、彼らがどれだけ宿題に苦しんでいるかをみていると、「わかっちゃいない」と思う。たしかに、ひとりの教師が出す宿題の量は大したものではない。1日の授業の復習にせいぜい30分もかからないだろう。だが、中高生は毎日6時間の授業を受ける。体育のように宿題のない授業もあるから、平均4教科の宿題が毎日出るとしよう。各教科30分かかるとしたら合計2時間にものぼる。2時間の残業が標準化するような企業は、やっぱり人を壊すのではなかろうか。

そして、ここでも「手ぬき」が起こる。真面目に取り組めば1時間、2時間とかかる宿題を、サラッとやってしまう生徒も多い。そして、そういう「要領のいい生徒」のかなりの部分は、成績が伸びない。あたりまえの話で、自分で考えもせず、手先を動かすだけでこなす宿題が教科の理解に寄与するわけはない。教師は、「真面目にこれだけの課題をやったら成績が伸びないわけはない」と考えて宿題を出すのだろうが(せめてそうあってほしい)、「真面目にやったら」という前提が可能かどうかをあんまり考えていないのではないか。そこをどうにかするのが「がんばりだ」「学生の本分だ」と主張するばかりでは、まるで説得力がないことに気づかないのではないか。

 

こういう構造を支えているのが、「だって宿題はあたりまえでしょう」と考える世間の常識なのだ。なぜ、時間外労働が当然とされるのだろう。人生は学びの連続だし、子どもは特に多くのことを学んでいかねばならない。じゃあ、そのために宿題が有効だという根拠はどこにあるのだろう。そもそも、生徒の時間を支配することに関して、教師は何の権限があるのだろう。

こんな疑問を抱えながら、それでも私も遠慮がちに宿題を出す。業務規程にそれが組み込まれている以上、逃げられない。いや、必要のない宿題は有害でしかないし、効果的に宿題を出すのは本当にむずかしいんだと、経験をかさねるごとに思うのだけれど、なかなかこういう主張に耳を傾けてくれる人は多くない。ほんと、「常識」ほど怖いものはないよ。

「はらぺこあおむし」の思い出 - ひとの趣味にはケチをつけないでおこう

絵本作家のエリック・カールさんがしばらく前に亡くなったそうで、「そういえばお世話になったよなあ」と追悼の思いを抱いた。お世話になったといっても、私自身が読者としてお世話になったというニュアンスではない。いま大学生の息子が小さい頃、よく読み聞かせた。ずいぶんと読んだ。代表作の「はらぺこあおむし」なんかは、たぶん100回以上は読んだはずだ。

記憶違いでなければ、そのころ世話になっていたある編集者の方から贈っていただいたうちの1冊だった。最初の印象は、「やたらと派手な本やなあ」だった。それから、「いったいなんやねん?」というのが次に来た。デフォルメされた絵は、もちろん写実ではない。だから、空想世界、ファンタジーなものとしてうけとるべきだろう。けれど、その割に、この青虫、食ってばかりだ。ファンタジーってのは、現実世界で表現できない主張があるからこそ、書かれるものだろう。じゃあいったいなに? 食いすぎて腹痛を起こすこと? まさかねえ。

ということで、私の中の評価は低かったのだけれど、なぜだかこの本、当時2歳だった息子にはウケた。一種の仕掛け絵本だから、そういう小細工がおもしろいのかもしれないとも思った。だとしたらあざといなあとも感じた。本に穴をあけたりポケットをつけたりというのは、私みたいな古臭い人間からみたら邪道に思える。なんだかなあと思いながら、それでもせがまれるままに何度も読んだ。

読むからには、こっちだって工夫する。たぶん私のなかでのベストの読み方は、毎日、メニューがふえていくところ、どの曜日も同じだけの時間をかけて読むことだ。当然、増えれば増えるほど、早口になっていく。これは読む方もそれなりにテンションが上がるし、聞いてる方も楽しいようだった。

そのうち、「はらぺこあおむし」の小型本もウチにやってきた。これはどうやって入手したのか覚えていない。もらったのか、それとも、本屋で息子が欲しいと言ったのか、どちらかだと思う。後者だとしたら、「それはもうあるから」とかなり頑張ったときのことかもしれない。子どもは、なぜだか既にもっているものと同じものを欲しがることがある。このあたり、大人とは理屈の立て方がちがう。

以後、息子は私が「はらぺこあおむし」の読み聞かせをするときに、となりでその小型本をひろげ、そしてそのうちに私の声に唱和して読むようになった。もちろん、2歳の子どもが文字を読めたわけではない。単純に、ストーリーを全部逐語的に覚えてしまっていたのだ。このときの様子が(やたらと解像度の低い)動画に撮ってある。他の人がどう思うかしらないが、親にとってはこの上なく可愛らしいシーンだ。本当はアップロードして他の人にも見てもらいたいのだけれど、全文を読み上げているから、まちがいなく著作権的にアウトだろう。2歳の子の朗読はなかなか上手で、親バカとしては自慢したいのだけれど。

 

人が何かの本を好きになるとき、その感じ方は実にさまざまだ。理屈っぽい私は、「はらぺこあおむし」を好きになることはついになかった。けれど、多くの幼児はそうではない。彼らは、彼らの感性で、あのカラフルな絵本を好きになる。実際、その後、何人もの小さな子どもにあの本を見せたり、ときにはもらってもらったりもしたのだけれど、多くの子どもにウケた。私に贈ってくれた人も、それをよく知っていたのだろう。

同じエリック・カールの作品であれば、私はもっとべつの本のほうが好きだ。月をつかまえにいく話とかは印象にのこっている。けれど、息子の心を掴んで放さなかったのは「はらぺこあおむし」だ。名作とはそういうものなのだろう。

そして思う。自分が理解できないからといって、他人がいいと思うものを否定にかかるのはやめておこうと。あるいは、理解できないものに無理やりな解釈をこじつけるのも、やめておこう。わからないものは、わからないでいい。ただ、それを他の人が気に入ったら、そのことは尊重しようよと思う。自戒をこめて、そう思う。

「ねいろブレンド」レビュー

booth.pm

 

真音のアルバムが届いた。正直なところ、あまり期待していなかった。というのは、彼らがアップロードしていた予告ティーザーの音があまり良くないと感じていたからだ。いまにして思えば、貧弱なスマホのスピーカで聞いたのがよくなかったのだろう。せめて、しっかりしたイヤホンを使うべきだった。彼らの繊細な音は、細部まで聞いてこそ真価を発揮する。

ライブで聞けば、それがわかる。ただ、コロナの状況下、そういう機会も失われている。YouTubeに発表されたこんな音源は、その実力の一端を示してくれる。けれど、こんな小品で全てが伝わるわけはない。

youtu.be

ようやくまとまった形でアルバムが届いて、その魅力を十分に味わうことができた。以下、曲ごとにレビューしておこう。

1. Order

曲、というよりもイントロダクション。「ねいろブレンド」というコンセプトに合わせた音のアンサンブル。

2. 春便り

このアルバムのトップにして白眉。彼らの最新曲でもある。クレジットを見ると2人のメンバーの共作であることがわかる。演奏だけでなく、創作でも息が合っている。迫力あるmachiのボーカルの特徴がよく活かされている一曲に仕上がっている。

3. Tenderness

コロナ禍のやるせなさを歌い上げた曲。1年ほど前に公式YouTubeにアップされた楽曲だが、今回、改めてスタジオレコーディングされている。

4. 夜いろ

こちらも昨年動画がアップされたものの再レコーディング。ギターのベース進行がいいリズム感で曲を進めている。最後の和音がちょっとだけ不気味。

5. 伝えること

最も古い曲のひとつで、「歌いにくいし演奏しにくい」曲だと、発売記念オンラインライブで笑い話にしていた。ぎこちなくなりがちな曲をmachiのボーカルが救っている。

6. 朝凪

これもmachiとSubの共作。ギターの美しさは、さすがフィンガーピッカーのSubならでは。低音から高音まで無駄を排した音選びできれいに表現した曲に乗せて、ボーカルがどこまでも伸びていく。アルバムの掉尾を飾るにふさわしい一曲。

7. (?)

え? アルバムは終わったんじゃ? いや、ネタバレは…

 

全曲あわせて27分余りのミニアルバムだが、しっかりと聴きごたえはあった。