長いこと家庭教師なんかやってると、いろんな生徒に接することになる。いまは生徒の数はだいぶ減らしているのだけれど、その中でも特に変わり種なのは、25歳*1の社会人生徒だ。彼はもともとが私の息子の先輩であり、大学卒業後に私のもとにやってきた。というのは、大学の卒業制作の取材中に、「小学校の先生になりたい」という夢が突然に生まれ、それまで教職課程をとっていなかったことから卒業後に改めて教職課程取得のための学習を進めなければならなくなったからだ。ちなみに、「卒業制作」という言葉からわかるように、彼は芸術系の大学出身だ。芸術系の大学の学生にはありがちなのだろうが、「学校の勉強」にはあまり相性がよくなくて、中学は不登校、高校も一風変わった学校に行っていたので、教職課程で必要な基礎教育部分の学習内容がさっぱり理解できていなかった。なので、「中学校の勉強を改めて教えてください」と、私の生徒になったわけだ。「中学校」と言われたから、私は小学校からスタートして英数国社理の全教科、復習をやった。
それももう3年あまり前の話だ。人間、目標があるとどんどん進むもので、2年ぐらいで一通りの復習は終わった。中学校の勉強ぐらい2年あれば十分だろうというかもしれないが、はじめのうちは指導時間の半分以上を大学の教職課程のレポートの書き方の指導で使っていたのだから、だいぶ頑張ったほうだと言っていいのではなかろうか。ちなみに、レポートひとつ書くのにはじめのうちは何週間も苦しんでいたのだけれど、1年ぐらい練習したらウソのようにスラスラ書けるようになった。コツを飲み込むというのはこういうことかと思ったものだ。
そして、2年目ぐらいから、バイト先も教育関係に変えた。福祉系の放課後デイサービスのような施設で、仕事の内容は戻り学習中心の塾講師のような部分がかなりの比重を占める。なので、気がつくと私は、塾講師を指導する家庭教師みたいな変な立場になっていた。この1年ぐらいは、「こんな生徒がいるんですけど、どうやって教えたらいいんですか」みたいな相談を受けることが多くなってきている。いや、みんな苦労してるんだなあ。
以上が前フリだ*2。本題は、そこで相談を受けた「英語ができない子」の話だ。
4月頃の話だったと思う。
「中学2年の女の子なんですけどね。英語が全くわからないんです。スタッフのミーティングで、『とにかく基礎が大事だから中学1年の問題から解かせてみたら』ってアドバイス受けて中1の問題をやらせてるんですけど、全然マルがつかないんですよ。本人も自信なくしてて、英語やってると泣き出すぐらい」
と、まあ悲惨といえば悲惨な状況だ。「どうやって教えたらいいんですか」と言われても、そこまで壊滅的だと下手なことは言えない。
「いったん英語から離れて他の教科をやってみたら?」
「でも、英語の成績がやばいから、なんとかしてくれって親御さんからも言われてるし」
「教科書の音読とか、そういうのが初歩としては定石なんやけど」
「あ、そういうのはできるんです。上手とまではいかないけど、読めます」
「じゃ、泣くことないじゃない」
「でも、問題がひとつもわからないんですよ。なにより、『自分は英語がわからない』って思ってるから、考えるのをやめちゃって、当てずっぽうで答え書いてるのが見ててもわかるんですよ」
「で、本当に『英語がわからない』って、見てて思う?」
「そりゃ、中1の基礎問題もわからないんですから」
「単語もわからない?」
「そこは一生懸命やってるんで、ある程度は覚えてるんです。けど、過去形とか、変化がわかってない」
「教科書の本文の意味はわかる?」
「それはわかってるみたいです。でも、問題はわからない」
だいぶ状況が見えてきた。
「英語がわかるって、どういうことなんやろね」
「それは、ちゃんと読めて、書けて、聞けて、話せてっていう」
「語学の4要素やね。で、実際のところ、書くのと話すのはそこそこハードルが高い。近頃は小学校ぐらいから英会話とか行ってる子どもはそれでもけっこう英語で喋るけど、そうでもなければ中学生ぐらいだと無理だと思っといたほうがいい」
「ですね。試験にも出ませんし」
「なので、読むのと聞くのが中心になるんやけど、聞く方はYouTubeの動画とか使ったらええんちゃうか」
「前に教えてもらったシャドウイングのやつですね」
「そうそう。けど、問題は読む方や。ところで、英語の読む力って、どうやったらわかると思う?」
「長文の読解問題とかですか」
「そうやね。ただ、英語の試験問題ってのは長文問題でもそこにいろいろな種類の問題を混ぜてくるからね。だから、英語が読めてるかどうかを知るには、とりあえず簡単な長文読ませて、『なにが書いてあった?』って、聞いてみるのがいい」
「そういう問題集とか、ありますか?」
「いや、問題みたいにするとかえって面倒や。ほら、以前、英語をやり直そうっていうことになったとき、最初に英検4級用の長文読んでもらったやろ」
「ありましたねえ」
「単語とか、わからないのがあったら説明したらええんよ。とにかく最初から最後まで読んでもらって、『何の話やった?』みたいに聞いてみたらいい」
「たとえば、『本を買う話だった』みたいな感じですか」
「そうそう。そしたら『それって何の本?』とか『なんで本を買おうと思ったの?』とか『誰と買いに行ったん?』とか、いろいろ聞けるじゃない。そうやって聞いていったら、だいたいの意味が取れてるかどうかは判断できるやろ」
実際、私は中学1年から英語を学び始めた生徒には、そういう指導をする。以前には、中学1年の生徒には英語指導はしなかった。せいぜい定期テスト前に教科書の音読をさせるぐらいで、なるべく英語には触らなかった。というのは、英語が全くわからない生徒に英語を教えても、あまり目に見えた効果が上がらないからだ。中学1年が終わるまで学校の授業を通じてある程度は英語に馴染んでもらってから、一気に文法のまとめをやるのが効果的だった。けれど、改訂ごとに目に見えて英語の教科書の内容が高度になり、前回の指導要領の大改訂で一気に英語のレベルが上がって、その方法は捨てた。なぜなら、中学1年の学校の学習だけでは、圧倒的に「英語に馴染む」ための量が不足するのが明らかだからだ。いまの指導要領のレベルを中学の3年間で達成するためには、もっと多様な英語に大量に触れておくことが、文法的な学習を開始する以前に必要になる。
なので、中1になったら、まず英語を読ませる。いや、それは無理でしょうと思うかもしれない。以前の指導要領の考え方は、そういうことだった。西も東もわからないのにいきなり読ませても混乱させるだけだ。それよりは初歩的な文を教えて、そこから徐々にステップアップしていくべきだと。
けれど、まず音読から入ることは、やってみれば可能だとわかる。教科書にはフォニックスに準拠した基礎的な発音法の解説があるから、必要があればそれを参照させて(ほとんどの場合その必要もないが)、「そこはローマ字の読みとは違ってこう」とか、「こういうアルファベットの組み合わせではこんな音になる」とか説明しながら読ませると、割と早い段階で簡単な長文をきれいに読めるようになる。そして、そんなふうに英語を読ませて、「いま読んだところにはどんなことが書いてあった?」と聞く。すると、たいていは「わかりません」となる。あたりまえだ。そこで「わからない単語があったら質問して」と指示を出し、質問させ、できるだけていねいに単語を解説していく。そうやって解説しきってから、もういちど音読させ、「なにが書いてあった?」と尋ねる。すると、だいたいは当たらずとも遠からずの説明をしてくれる。つまり、文法的な説明とかほとんどせずに、「英語がわかる」状態を無理矢理につくり出すことができるのだ。
そうやって、毎回、長文をとっかえひっかえしながら、音読をさせては単語の解説を補足し、そして内容を確認するということを繰り返していく。数ヶ月繰り返すと、本人の中に「英語がわかる」という感覚が生まれてくる。ちなみに、それをさらに自信に変換するために、たとえば英検4級を受験させてみるとかいうことも、生徒によってはやる。その場合には英検受験用のちょっとした特訓もやるけれど、あのあたりはパターンだからあんまり英語力とは関係なく、訓練だけでできたりする。ともかくも、そういうことをやると、「私は英語がわかる」という感覚が生まれる。そこまできて、ようやく文法的な学習に進むことができる。いまの学習指導要領に合わせたスピードで英語を身に着けさせようとしたら、このぐらいの荒療治はしないととても間に合わない。
ともかくも、重要なことは、言葉というのは文法的に分解して単語間の正確な関係を理解しなくても、だいたい雰囲気でふわっと理解できてしまうことだ。それも、音として受け入れると、その「ふわっと」がさらにうまくいく。国語*3の低学年の教科書にルビが振ってあるのは、「知らない言葉でもとりあえず音として読みましょう」という考え方の現れだと思う。そしてそれがうまくいく*4。声に出して読み上げることができ、そして鍵になる単語の意味を説明してもらえれば、文の大意は雰囲気でわかる。
もちろん、英語学習を進める上では、そこで止まってはならない。「ふわっとした理解」は、ときにはとんでもない誤解を含んでいる。正確に理解するには文法的な知識が不可欠であり、それはきっちりと積み上げていく学習によって身に着けねばならない。ただ、そういう正確な理解に至る学習は、「ふわっとした理解」があったほうが圧倒的に効率がいい。それをささえるのは、「英語ならだいたいわかる」という自信だ。「わかるんだけど、なんかここのところがなんでそうなるのかわからない。変だ」という感覚から、「なるほど!」が生まれる。江戸時代の漢文ではないが、「素読百回、自ずと意味通ず」の乱暴な方法は、そういう意味で案外と効率がいい。
教職免許を目指している例の生徒に、こういう指導方法についてアドバイスした翌週、さっそく報告があった。
「長い文を読ませて、何が書いてあるか聞いてみたんですよ。そしたら、その『当たらずとも遠からず』のことをちゃんと答えてくれました」
「英語が全くわからないわけじゃなかったんだ」
「そうなんですよ。それで褒めたら、とても嬉しそうでした」
「そこで言ってあげるんやで。『いままで中1の問題をたくさんやってきて辛かったと思うけど、そのおかげでほら、英語がわかるようになったじゃない』ってね。そして、しばらくは穴埋めとか並べ替えとか書き換えとか、とにかくテスト対策みたいな勉強は触らないようにして、その自信を深めていくようなことをどんどんやらせてみたらいい。半年もやったら、準備ができるから、文法に進めるよ。そしたら遅れを取り返せるから」
もちろん、「中1の問題をたくさんやってきたから英語がわかるようになった」はウソだ。けれど、自分がやってきたことが無意味だったと思うほどしんどいことはない。それがどれほど意欲を削ぐことかと思えば、ウソでも、「これまでがんばったからわかるようになった」と思ってもらうほうがいい。そうやって自信をつけて、そしてそこから「なんとなく英語がわかる」と思えるようになったら、文法に進めばいい。
これで一件落着かと思ったのだけれど、実はこの話、続きがある。2ヶ月ほどたって、また「以前に話した英語ができない生徒のことなんですけど」と、相談があった。
「うまくいきはじめたんじゃないの?」
「はい。どんどん英語を読ませて、いい感じに進んでたんです。けど、俺が休暇とったときに、他の先生が入ったんですね」
「まあ、たまには休みも必要やんな」
「今年は教育実習も入らないといけませんし。で、そのときに、その先生、その子の英語のテスト見て、『これじゃダメだから、このプリントをやりなさい』って、大量のプリントを宿題に出したんですよ」
「そんなん、無視させたらええやん」
「そうもいかないんですよ。っていうのは、その先生、有名な塾から移ってきた人で、実際、うちに来てからでも生徒の成績をあげてきた実績があるんですよ。俺みたいなのが文句言える立場にないです」
「で、その生徒は」
「また、英語が嫌いな状態に逆戻りです。ぴたっと手が止まってます」
「だったらもうそのやり方があってないのは明らかじゃない」
「でも、その先生、『毎週提出は先生との約束だぞ』みたいに脅してるんですよ。俺が休んだ1回だけで、もうずっと先の計画まで立てて、そして俺に『それをちゃんとやらせないからこの子はこんな成績なんだ』って言うんですよ。ミーティングでも、はっきりと『君の責任でしっかりやらせなさい』って」
「でも、1年間、そういうプリント中心でやってきてダメやったんやろ」
「少なくとも俺が引き継いだときはそうでしたね」
「だったら、そのやり方があかんのは明らかやん」
「でもね、学校のテストに出るのはそっちなんですよ。その先生、確かにプロなんです。『俺はこの地域で採用されてる教科書を徹底的に研究してこのプリントをつくった。テストには必ずこのプリントの問題から出る。この問題の答えを完璧に覚えたら、テストで満点取れるはずや』って言うんです。で、たしかにそれはそのとおりなんで、俺、反論できないんですよ」
私だって反論できない。学校のテストは学習指導要領、そしてそれを体現した教科書に準拠している。だからこそ、教科書を徹底的に研究すれば、出題される問題の7〜8割は予測可能だ。それを100%暗記すれば、学校のテストなんて恐るに足らない。実際、かつての中学英語の学習塾の指導の多くはそういう観点から実施されてきたし、それで十分に役に立ってきたと言えないこともなかろう。
けれど、学習指導要領の改訂で、教科書の記載内容は一気に増えた。教科書ごとの変異も大きくなった。学校の定期テストだけなら1社の教科書だけ研究すればいいのだけれど、県単位の入試や全国単位の模試だとそれだけでは不足するようになる。いきおい、反復練習で覚えなければならないプリントの量は膨大になる。まず、人間にとって処理可能な量ではなくなる。
じゃあ、英語のテスト対策は無理なのかといえば、実はそうではない。最終的には、英語がわかってしまえば、あんなもの、暗記なんてしなくったってそこそこの点数が取れるようになっている。対策をするんじゃなくて、英語の理解を深めることで、最終的に点数を確保しにいく。それしかないだろうと、新学習指導要領の時代に思う。
けれど、「これを全部覚えたら満点取れますよ」という理屈には、それで対抗することはできない。なぜなら、そりゃ、全部覚えたら高得点が取れることはウソではないからだ。そして、それが実質不可能だと指摘したところで、「がんばればできないわけはない」「怠け心では向上しない」「根性が足りない」みたいな精神論を持ち出されたら、もうそこで議論はできなくなる。ああ、そうですねと言うしかなくなる。
結局、私は自分の生徒である彼に、「まあ、プリントの方はなんとか誤魔化して、やってるふりだけさせて、半分くらい、元に戻して自信をつけさせてあげるしかないんちゃうかな」と姑息なアドバイスをするしかできなかった。こういうことは、しょっちゅうあるのだ。例えば学校の宿題。無視しては成績が下がるけど、やったところでたいした意味はない。それでも、学校の教師の機嫌を損ねないことは、それはそれで重要なのだ。だってそれで「英語の成績」が変わってくるのだから。
英語はおもしろい。英語を学ぶことはおもしろい。おもしろいと思えるようになったら、それほどの負担でもない。それを阻害してる元凶がつまらないテスト問題だ。けれど、それがなければ評価のしようもないというのも、わからんでもない。まったく、世の中はうまくいかないもんだ。