ある編集者の思い出

前回、前々回とこのブログでリチャード・ブローティガンの「風に吹きはらわれてしまわないように」の出版告知の記事を書いている。

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『風に吹きはらわれてしまわないように』リチャード・ブローティガン | 筑摩書房

この小説と私のかかわりはおよそ40年前に遡る。そのときに担当してくれた当時晶文社の編集者が秋吉信夫さんだ*1。秋吉さんにはその後も長くお世話になり、独立されてからも、ご結婚を経て姓を改められてからもなにかと気にかけてくださった。十数年前までは年賀状のご挨拶ぐらいは続けていたのだけれど、私が年賀状をやめてしまったこともあり*2、その後、ご消息を知ることもなくなった。今回の出版にあたって何かと思い出すことも多かった。姓を改められてからもお世話になっているので、ふだんはそちらのお名前が出てくるのだけれど、あの時代の記憶の中では「秋吉さん」だ。そんな思い出を記しておきたい。風に吹きはらわれてしまわないように。

 

とはいえ、実は、私は秋吉さんのことを何も知らない。それが私にとっての秋吉さんだった。年齢不詳の謎の人。どんなふうにして編集者になったのかを一度話してくれたこともあったけれど、なんだか謎すぎて私にはどうもうまく受け止められなかった。だからもう何も覚えていない。小柄な体をツイードのジャケットに包み、その下からはいつも黒いタートルネックがのぞいていた(もちろん夏にはそうでなかったと思うのだけど、私にはジャケットの下からのぞく黒いタートルネック以外の姿が浮かばない)。後年、スティーブ・ジョブズの写真を見たときに、「あ、秋吉さんだ」と思ったものだ。もっとも、黒のタートルネック以外で共通するところといえば眼鏡ぐらいだった。それでも、着飾るという意味ではおしゃれではないのに品の良さを感じさせるという意味ではとてもおしゃれな人だと思った。そういうところが連想につながったのかもしれない。

どこの大学を出たかとかどこの育ちだとか家族がどうだとか、そういう話はほとんどしなかった。これは、秋吉さん自身もしなかったし、私にも尋ねられなかったということでもある。もちろん、いわゆる世間話のようなものもお互いに積極的にはやらない。なので、話題は私が訳したばかりのブローティガンの話や、それに関連する文学の話にならざるを得なかった。

ただ、かなしいかな、私にはろくろく文学の話なんかできなかった。小学生の頃からの本好きで、中学生の頃には友人と競うように小説を読み漁り、高校、大学とそれなりに本を読んできたつもりの私だったけれど、世間標準でいえば「読書家」というにはあまりにも読書量が少なかった。大海に出て己の小ささを知る喩えのとおりだ。翻訳にあたってはブローティガンの作品は全部読んでやろうと思ってがんばったのだけれど、図書館で借りることができなかった何冊かはついに未読のままだった。あえて書店で買ってまで読もうとしない程度の浅いファンだったともいえる。なので、ブローティガンのエピソードを秋吉さんが語るのを私が「すごいなあ」という顔で聞くばかりだった。

仕事ぶりに関しては、「ていねいな人だな」という印象に尽きる。ただ、私が出会った編集者はほとんどがていねいな仕事をしていた。そういう職種なのだろう。あまりていねいな人間ではない私が編集者としてやがて行き詰まるようになったのは、ある意味、当然かもしれない。なので、仕事の打ち合わせのことで思い出すことがないわけではないが(「ここ、抜けてませんか?」みたいな指摘とか)、まあ特に記すようなことでもないだろう。そういうところに関しては、どの編集者にも共通するからだ。仕事に関して他の人と特に際立っていたところといえば、字がきれいだったことぐらいだろうか。きれいというのともちがう、独特の読みやすい書体だった。

パーソナルな情報端末のない時代だったから、連絡はいつも電話だった。私はこのブローティガンの著書、晶文社版の題名では「ハンバーガー殺人事件」の翻訳から2年ほどして会社を辞めているのだけれど、それまでは自宅に電話もなかった。だから、いつも連絡は会社の電話にくれていた。社長ひとり、従業員は私ひとりの小さな編集プロダクションだったから、たいていは私が電話をとった。なので、気兼ねすることもなかったのだけれど、何度かは事務所に戻ると社長から「晶文社の秋吉さんって人から電話あったぞ」みたいに言われることもあった。ちなみに、受ける方は特に遠慮はしなかったけれど、こちらからかけるときには外の公衆電話からコインを入れてかけていたような気がする。

ハンバーガー殺人事件」が書店に並んだ頃、秋吉さんから「出版記念に打ち上げに行きましょう」とお誘いがあった。世間知らずの私だったけれど、世の中に「出版記念パーティー」みたいなものがあることは聞いていた。けれど、そういうものではなく、ささやかな打ち上げだ。秋吉さんは、ファミレスより少しだけ上等なところで飯を食わせてくれた。特にお酒を飲めとも言われなかったし、秋吉さんも積極的に飲もうともしなかった。乾杯のビールぐらいは飲んだように記憶している。体育会系の山岳部というところの出身で、そしてビール愛好家の社長のもとで数年働いていた私は、何かというと酒は飲むものだ、みたいな文化の中にいた。ただ、私自身は、別に酒が好きでもない。飲めと言われれば飲むけれど、ひとりで酒を飲むことは基本的にありえない。飲みたいと思ったことがない人だから、特に酒を勧めない秋吉さんはある意味、新鮮だった。

「あなたは小説が書けるかもしれない」

そう言われたのは、このときの食事が終わってコーヒーを頂いているときだったように思う。はっきり覚えているわけではないので別の機会だったかもしれないのだけれど、その口調と言葉は鮮明に記憶にある。私はもともと(多くの本好きがそうであるように)「こんな本が自分にもつくれたら嬉しいな」という思いがあり、それが無理だと思ったから翻訳者を志し、そしてそれが当面できないからと編集プロダクションでアルバイトをしていた若者だった。だから、そんなふうに言ってもらえてとても嬉しかった。けれど同時に、自分には書けないこともわかっていた。少なくとも「いまは」。なので、いつか書きたい、いつか書けるようになったらいいと、そんな気持ちを曖昧な表現でボソボソと返事したような気がする。

この言葉は、その後も、同じようなことを1回か2回、言われたように思う。ちなみに、そういう言葉があったからでもないのだけれど、何度か小説を書こうとしたことはある。その経験からいえば、やっぱり私は小説が書ける人ではないようだ。勢いをつけて書き始めても、途中で失速してしまう。子ども向けの「おはなし」ぐらいの長さならどうにかなるけれど、それを越えるとうまくいかない。絵描きさんになぞらえていうなら、デッサンの基礎がないのだと思ったりもする。編集者をやってきた端くれとしていい文章と悪い文章の判別ぐらいはつくし、どこをどう直せばいいのかもだいたいわかる。けれど、それを自分でやろうとすると失敗する。これはもう、職人として鍛錬している筋肉がちがうのだろう。

ともかくも、秋吉さんはいつも、「あなた」という二人称を使った。ふつう、二人称を使わないような「どう思いますか」みたいな問いかけでも、「あなたはどう思いますか」みたいに、「あなた」を入れてくることが多かった。これはちょっとカッコいいなと感じた。だから、私もその後は二人称に「あなた」を使うようになった。秋吉さんほど自然には出てこないけれど、いまでも生徒に対して「あなたはこういうところが優れている」みたいに使うことがある。

会社を辞めてフリーランスになってからは、翻訳の仕事のほか、ときどき校正の仕事をまわしてもらっていた。会社勤務時代の仕事が学習参考書(問題集)の編集だったからフリーになってからもその関係の仕事が多かったのだけれど、私はそれが嫌いだった。嫌いだけれど、「食うためにはしかたない」とか「オレが引き受けなければもっといい加減な連中がもっとひどいものをつくるに決まってるんだから」とか、いろいろと理由をつけては頼まれる仕事は断らなかった*3。そのなかで、秋吉さんの出してくれる仕事は面白くて、学参の仕事を友人に孫請けに回してでも、秋吉さんの仕事を優先することにしていた。

もちろん私は翻訳者になりたい人だったから、なんとか翻訳の仕事ももらいたいと思っていた。会社をやめる少し前に秋吉さんが写真関係のインタビュー集の翻訳をまわしてくれていたから、それが終わったあと、ロック関係のインタビュー集の企画を持ち込んだことがある。その見本原稿を見た秋吉さんは、

「でも、これって写真家の口調と同じじゃないですか」

と、口元に笑みを浮かべながら言った。私は自分が器用な書き手でないことをそのときに知った。ただ、この企画がポシャったのは、私が下手くそだからではない。そもそも著作権の関係とかで、企画そのものに無理があったのだと、秋吉さんは教えてくれた。その際だったと思う。

「翻訳者って、専門をもってるんですよね」

というようなことを、秋吉さんは教えてくれた。これはどういう言い方をされたのだか、さっぱり覚えていない。そういうニュアンスのことを言われたということでしか残っていないのだけれど、これはたしかにそうだと、だんだん私にもわかるようになっていた。「なんでもいいからヨコのものをタテに直しますよ」という翻訳者なんて世の中にはいない。外国語で書かれたものを日本に紹介したいという動機があって、その動機の先に翻訳という手段がある。それがふつうだ。学者なんてのは、だいたいがそうだ。だからそういう動機もなく、ただ「翻訳という作業が好きだから」で翻訳者になろうというのが間違っている。それはそうだろう*4。けれど、私には専門と呼べるものはない。なにかないかなと考えたら、一応、学生時代には航空工学科というところにいたことに思い至った。そこを中退した劣等生だけれど、もしかしたらこれかもしれないと思って宇宙開発に対する批判の原稿を書いて秋吉さんに読んでもらった。ややあって、困惑したような顔で原稿を返してもらった。やはり私には本を書けるほどの専門性はないことがよくわかった。

専門性のない人間は雑多な半端仕事をするしかない。ただ、それが私にはずいぶんと楽しかった。秋吉さんがまわしてくれる仕事はさまざまなバラエティに富んでいて、飽きることがなかった。その中でも特に規模的に大きかったのは、ある私小説作家の全集の校正だった。これについて書き出すと長いし、また、書き残しておくべきこととも思わないので端折るのだけれど、一作家の生涯の作品を追い続けた2年ほどの歳月は私にとって貴重なものだった。最終巻だけは私の個人的な都合で関与できなかったのだけれど、そういった作業を通じて、私は専門性はないくせに、平気な顔で専門家の意見にコメントを入れるような図々しさを身につけた。これは後の人生において私の大きな武器になった。

インターネット以前の時代だったから、校正紙の受け渡しには出版社まで出向くのが常だった。後に地方に移転して仕事をするようになってからは宅急便を使うのがふつうになったけれど、都心部にそう遠くない文京区にいたそのころは、電話一本ですぐにとんでいった。なにしろ不安定な収入のフリーランスだったから、現金は一円でも惜しい。なので、160円だかの電車代をケチって1時間以上の道のりを歩いて御茶ノ水秋葉原の間にある晶文社まで行った。古い社屋は狭くて、顔を出すと秋吉さんは近くの喫茶店に招いてくれた。「ここのコーヒーはちょっといけるんですよ」みたいに言ってくれたが、私はコーヒーの味があまりわからない人だった。それでもたしかに、華やかな香りがしたのは覚えている。

その狭い社屋の二階に通されたこともある。会議室のような場所だったが、壁面いっぱいが書棚になっていた。

「いま整理中なんですけど、好きなのがあったら持ってってもいいですよ」

出版社だから、過去に出した本は基本的にいつでも参照できるように書架においてある。ただ、重版のたびに見本本が加わるなどの関係で、重複が多くなる。それを一気に整理しようということらしかった。私から見たら宝の山だ。けれど、遠慮が先にたって、3冊ほどだけ、「これ、いいですか?」ともらうことにした。音楽関係の本ばかりで、1冊はブルース・ポロック「ロックンロールが最高」だった。図書館で読んで気に入った本で、何度も借り直していた。なので、もらえたのがとても嬉しかった。ちなみにこの本、息子が高校生のとき、その先輩が遊びに来て借りていった。何ヶ月かして返却時に非常に気に入った様子だったので、「じゃ、あげるよ」と、改めて彼にもらってもらった。いい本は、こんなふうにしてどんどんと受け継がれていってほしい。少なくとも、私はそんなふうにして本に出会ってきたのだから。

 

思い出はまだまだあるのだけれど、振り返ってみて、やっぱり絶対量としてはそう多くないなとも思う。あくまで仕事の上での関係だったし、少なくともその時代には個人的なかかわりはほぼなかった。けれど、私にとっては初めての担当編集者であり、なにかと目をかけてくれた人でもあって、またあこがれの人でもあった。なので、エピソードと呼べるほどのものがほとんどないにも関わらず、なにかにつけて思い出す。いまの私は40年前の若者ではない。それでも、思い出の中の秋吉さんの前では、私は相変わらず頼りない若造で、そして秋吉さんはそれを導いてくれる人だ。

今回、ブローティガンの「風に吹きはらわれてしまわないように」が出版されて、いくつか読者の感想も目にした。インターネットの時代だ、書名で検索すると、それなりに「買った」とか「読んだ」みたいなポストを目にすることもできる。その中に、「昔のほうがよかった」という、ちょっと身も蓋もない感想も見つけた。せっかく苦労して、筑摩書房の担当の人とああでもないこうでもないとがんばった成果がこれだ。けれど、私はちょっと嬉しかった。いまの自分を評価されるのも嬉しいが、過去の自分を褒められるのはもっと嬉しい。そして、秋吉さんの少しだけ笑みを口元に含んだ顔を思い出す。

「ああいうのが好きな人もいるんだよなあ」

それを的確に見出してくれたから、私はいま、ここにいる。

*1:既にこのブログの過去記事で「Oさん」として登場している。

*2:やめたきっかけは東北の大震災だった。あの震災があった次の正月を前にして、私はどうしても「おめでとう」を言う気になれなかった。私の身近にはあの大災害で亡くなった人はいなかったけれど、それでも多くの人が喪に服するその時期に年賀でもなかろうという気がしていた。そんな中、「生存確認の意味だけでも年賀状ってだいじだよね」みたいな話も聞き、それはそうだよねとも思ったのだけれど、「生きてることを知らせることに意味はあるのだろうか」「だいたいが生きてることそのものに意味はあるのだろうか」みたいに悩みはじめて、収拾がつかなくなった。最終的に、仕事関係の年賀状以外はやめてしまい、数年のうちには仕事関係の年賀状もやめてしまった。あの震災が私に与えた影響は、案外と大きい。

*3:なんのかんのいって、それなりに好きだったのかもしれない、といまになれば思わなくもない。

*4:余談になるが、後に看護学の本を翻訳したときに仕事をくれたプロダクションの人が、「この仕事は安いけど、これひとつやったらあとは食うに困らないから」みたいなことを言ってた。それは単価が低いことへの言い訳であったのだけれど、実際、そこで「看護学の専門家です」と称してあちこちに売り込みをかけていくというのが一般的なやり方だったのだろうと、いまにして思う。

『風に吹きはらわれてしまわないように』

ひさしぶりの翻訳書が明日書店に並ぶ。

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1週間ほど前には見本も届いたし、昨日あたりから書店への配本もはじまっているようだ。奥付の発行日は12月10日だし、「12日発売」という情報がどの程度の意味を持つのかよくわからない。紙の本は即時性がポイントではないので、まあぼんやりと「このあたりで読者の手に届く」という理解でいいのだろう。

今回の出版に関しては、既に前回記事でも告知している。

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そのなかで、私とこの本の関わりについても書いた。だから、そこは繰り返さないでおこう。ただ、いよいよ発売となって、およそ40年前、同じように自分の本が書店に並ぶにあたって感じたことを思い出す。そんなことから書き始めてみる。

当時の私は、大学の中退者であり、家出人であり、非正規雇用の身の上だった。世間に対して気兼ねすることばかりの多い日陰者で、おまけに恋人と別れたばかりだった。世の不幸を一身に背負っているような気持ちになることもあったけれど、それは全部自分で選んだことであったし、私の事情がどうであれ、世間は無関心で、外見上は気楽なフリーター(という言葉はまだ一般化まではしていなかった)に過ぎなかった。引け目はただただ自分の中にだけあった。

なぜ、エンジニアになる道を捨てて学校をやめたのか、なぜ理解のある両親の元を離れたのか、なぜ800円の時給で得体のしれないアルバイトをしているのか、なぜ将来を約束した恋人を傷つけたのか。どういうわけだか私は、そんな答えがすべて、この1冊の本の出版にあるような気がしていた。初めて自分の名前が本の背に載ることに、嬉しいとか、晴れがましいとか、そういう気持ちにはなかなかなれなかった。ただ、少し救われた気にはなった。どうにかこうにか、これで世間に言い訳が立つんじゃないかと、そういう気持ちがしていた。

なので、確か5冊の著者献本に加えて、20冊だかの著者買取をしたと思う。印税からの天引きなので懐はいたまない。その20冊を、あちこちに配った。まったく関係のないようなところにも置いてきた。自分が自分である証明だと思うから、初対面の人にでも手渡した。25冊はすぐに手もとからなくなった。

けれど、それは私に何一つもたらさなかった。感想を言ってくれた友人もいたけれど、そこまでだった。世間は、私の個人的な悩みに無関心であるのと同じくらい、私の仕事にも無関心だった。あたりまえのことだ。

価値観は時代とともに変化する。それは21世紀のいま、この10年を見ていても感じるが、私の若い頃も価値観は急速に変化していた。だから小学生の頃に親から与えられた価値観と、二十代のその頃を生きる私のなかで形作られていく価値観はやっぱりずいぶんとちがっていた。自分の根っこにある価値観では、ひとは成長し、「何者かになる」べきものであった。それは「立身出世」的な価値観と言ってもいいし「故郷に錦を飾る」的な発想といってもいい。あるいは、こんな歌の世界だろうか。

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その一方で、私自身がたどりついていた価値観は、そこから遠いところにあった。おそらく80年代には珍しくもないことなのだろうが、「まずは自分がおもしろいと思うことをやるべきだ」というのがその根幹であったように思う。未来がどうだとか、そんな先のことは知らない。ただ、直観が「これだ」と示すものに向かっていけばいい。私はそれを信じるようになっていた。

根っこにある価値観と、自分を動かしている価値観は矛盾する。そういった価値観の相克のなかで私は迷っていたのだろう。そして、自分が「これだ」と感じた翻訳が形になったことで、両者を同時に満たせたような気がしたのかもしれない。けれど、だからどうだというのだ。1冊の本が世に出ても、それは森の木の葉が1枚落ちたことと何ら変わりはない。私の日常になにか変化が起こるかといえば、まったくそんなことはなかった。ま、そうだよねと、私は肩をすくめて時給800円のアルバイトを続けるばかりだった。

 

今回の出版にあたって、出版社から「献本先のリストを送ってください。著者買取は8掛けでOKです」みたいな連絡があった。2年前に出た訳書でもその前の訳書でも、同じようなことはあった。けれど、そのときは監訳者がいた。なので、監訳者と出版社のやり取りを私は傍観するだけだった。なるほど、やっぱり大学の教員ともなればいろんな人脈があるもんだなあと、ずらりと並んだそのリストを見ては感心していたものだ。さて私はといえば、だれひとり思いつかない。1件だけは外せない献本先があるけれど、それは手紙をつけたいから自分から送る。結局、「すみません、友だち少ないもんで…」と、勘弁してもらうしかなかった。

友だちと呼べる人がいないわけではない。ただ、あんまり関係なさそうな人に贈ってもなあと思うようになった。若い頃のように「私の仕事を見て! 私を見て!」と思えなくなったと言ってもいいかもしれない。一緒に薪を調達するストーブ仲間とか、いきなり小説を渡されても困るだけだろう。音楽仲間は本なんか読まないかもしれない。近所の人にはいまでも十分に怪しい人認定されてるのに、これ以上怪しくなってどうするんだ。まして仕事で教えてる生徒たちなんか、教師のことなど知りたくもないだろう。

それでも、本当は知らせたい人もいる。もう連絡をとることもできなくなった人に、こういう機会だからと、「元気にやってるよ」と知らせる意味でも、新刊案内ぐらいはしておきたい。実際、ここ数年は、そういう案内を口実にそっとBCCに古いアドレスを忍ばせてメールの送信ボタンを押すことを心の支えにしてきたところがある。出版(publish)とは公(public)な行いであって、プライベートで会えなくなった人でもそういう機会になら連絡をとってもいいよねと、自分自身に言い訳をすることができるから。

そうやって、今回も「新刊お知らせメール」を用意していたのだけれど、結局、送らないことにした。世間は、自分が思っているほど、自分に興味をもたない。いや、私が知らせたいあの人は、少しぐらい何かを感じてくれるかもしれない。けれど、それでどうになる。なにもなりはしないではないか。私の思いはどこまでいっても私のものでしかなくて、たとえそれが誰かにつながるものだとしても、それはそのままの形では伝わらない。場合によっては悲しませたり怒らせたりするかもしれない。大切にする思いがあるのなら、それはそのまま自分の中にとどめておくべきではないかと、思いなおした。

 

人間は、はかないものだ。ましてその内面に神経の電気作用で生じた幻に過ぎない感情など、あっという間に消えてしまう。砂嵐の中にぼんやりと浮かび上がった砂塵がつくる幻影のように、気がついたときにはもう吹きはらわれてしまう。それが人生というものなのだから、それはそれでいいのだろう。

それでも、のこしておきたい記憶がある。のこしておきたい気持ちがある。だから、風に吹きはらわれてしまわないように、詮のないことを書き続けるのかもしれない。それが巡り巡って誰かのもとに流れ着き、そして誰かの人生の一部になることだって、あるかもしれない。少なくとも、リチャード・ブローティガンの残した言葉は、そんなふうにして私の人生の一部になったのだと思っている。

老人の繰り言について

世の中を引退した年寄りなんて暇なものだろうと思うのだけれど、老母に言わせればとんでもないということになる。年寄りは忙しい。そういわれて改めて老母の日常を観察すると、それはたしかにそうだ。たとえば先週訪れたときには「寒くなってきたから衣替えに冬物を出した」と言っていたのだけれど、昨日は冬物のジャケットを手にとって、「もう少し置いておくか」と呟いていた。置いておくも何もつい数日前に出してきたばかりじゃないかと指摘すると、「え? いま何月?」と驚いた。どうやら季節は春だと思いこんでいたようだ。このときにはそれで済んだわけだけど、もしも「これはもう片付けてしまおう」となって、翌日に「寒いから出さないと」みたいになってたら、毎日、衣類の入れ替えだけで時間がなくなってしまうことになる。

買い物に出るときもそうで、まず財布の中を改めるところからスタートする。クレジットカードとか、必要なものはいつでも財布に入っているはずじゃないかとこっちは思うのだけれど、「いや、うっかり出したかもしれない。最近、自分のやったことも覚えてないことがあるから」と、たしかに事実認識としてはあっている理由を述べられるとやめておけともいえない。そして内容チェックの済んだ財布をポケットに入れ、部屋を出がけにカバンの中を探して「あれ? 財布もってない」と立ち止まる。いや、さっきポケットに入れたと指摘すると、ポケットを探し、そして「こんなところに入れといたらあかんね」と、カバンに入れ直す。そして、カバンの中を見ながら「ティッシュ持っていかないと」と言って、ポケットティッシュを取りに行く。戻ってくると「よし。お財布もある」と、ポケットを探って、「あれ? カバンかな」と、カバンを確認する。そして次に帽子を選び、帽子をかぶって、また財布を確認する。その頃には財布の中身が気になって、「ちょっと待ってね」と、財布の中にクレジットカードが入っているのを確認する。そして、「診察券は今日はいらないね」と、財布からいつも行ってる病院の診察券を取り出して、引き出しにしまい、「念のために現金も入れといたほうがいいかな」と紙幣をたたみ、そして、準備が整ったところで「えっと、携帯は?」と…

こんなことをやっていると、時間がいくらあっても足りなくなる。傍から見ていると単純にそれは無駄な動きを繰り返しているからに過ぎない。財布の確認をするのはいいけれど、1回やったら十分なところを3回も4回もやるから忙しい。ただ、やってる本人からすれば前にやったことを忘れている以上はやらねばならないことなのだし、やらねばならないことをやることに何の無駄もない。だから、「もうそんなんはええからさっさとしようや」みたいに言われたら、「何を焦ってるんや、慎重さが足りない」と思うだけだ。行動するには段取りが重要で、その段取りをすっ飛ばすのは無謀でしかない。ただ、記憶がもたないから段取りに時間がかかるだけ。

もっとも、買い物は週に1、2回、私が訪問したときしか行かない。じゃあ、それ以外の時間は暇なのかといえば、そうでもない。たとえば、先日、午後に顔を出したら、「テレビがつかない」と悩んでいた。何のことはない、チューナー部分の電源が抜けていただけだった。大型テレビが壊れて以来、運用の関係でポータブルタイプのテレビを使っているのだけれど、チューナー部分と無線でつながるモニタ部分が完全に独立している。だから「テレビ」と思ってるモニタ部分だけをいくらいじっても、改善しないわけだ。「朝からずっと格闘していた」というのだから、ずいぶん忙しかったにちがいない。

だが、そんなトラブルはめったに起こるものではないし、また、たいていのことには「それがダメならこっちで間に合わせましょう」と機転を利かせるのが好きな人なので、こういうことが原因で忙しくなるケースは稀だろう。じゃあやっぱり暇なのかといえば、そうではない。

老母は、私が訪問すると、よく昔の話をする。それも、同じ思い出を何度も繰り返す。いわゆる「老人の繰り言」というやつだ。そのテーマはだいたいそのときによって決まっている。小学生のときに入院していた頃の思い出であったり、新潟の田舎町の中学に転校生として迎えられたときのことであることもある。結婚して新しい親戚と付き合いはじめた頃のこともよく話すし、自宅に工場をつくって仕事をはじめた頃の思い出も尽きない。中年以降にはずいぶんと世界各地に旅行も行っているのだけれど、そのあたりの思い出話はほとんど聞かない。もったいない話だ。お金をかけていろんなことを体験してもそれは記憶に残らず、お金のなかった若い時代の苦労のほうがいい思い出になっているのだから、人生は皮肉。

ともかくも、そういった様々な思い出がランダムに出てくるのではなく、おそらく数日の周期で特定のテーマが決まっている。たとえば昨日は高校生のころに住んでいた家と駅のあいだの光景がテーマだった。

「駅からガードをくぐって小川みたいなのがあって、郵便局があったね。そのこっち側かな、いつも自転車がたくさんとめたあって、中で人がなんかやってた。あれ、なにやってるんやろと思ってたけど」

だいたいこれが主旋律だ。これに副旋律が入ってくるのだが、これに関してはかなり事実関係が怪しい。

「あそこって、いま私が行ってるジムやんね。ということは、あの頃からあのジムはあったんやな」

「いや、いま行ってるとこはビルの1階やろ。あのビルができたんはもっとずっと最近や」

「ビルちゃうやん。平屋の建物で」

「だからお母さんが高校生のころは平屋の建物があったんやろ。そこに人が集まってたのは、そうなんかもしれん」

「そうなんかなあ。あれがジムやと思ったんやけど」

ちなみに、「ジム」というのは先月から通いはじめたデイサービスのことだ。一般的なデイサービスは本人の性格上合わないと思ったので、リハビリ的な機能訓練中心のサービスを選んだ。運動をやる場所だからジムと呼んでいるのだけれど、まあ、あながち間違いでもない。ただし、それが70年以上も前からあったというのは完全に事実誤認だ。

「いっつもその自転車がたくさんとめてあるとこの前を通って、駅に行った。心斎橋のとこに写真をならいに行ってたから」

「いや、高校生のころに写真の趣味はない。写真屋はそれこそ、あのビルの建ってるとこのこっち側にあったけどね。写真教室に行きはじめたのは私が大学生になってから」

「そうなの? あんた、ようおぼえてるね。俳句教室やったかなあ」

「俳句は写真のあと。写真の先生が写俳がどうたらとか」

「ああ、そうやった。あの先生にはお世話になったわ。じゃあ、何を習いに行ってたんやろ」

老母は若い頃からいろいろ習い事をしていた。私が知っているだけでもフラワーデザイン、洋裁、料理など、実にいろいろ雑多に習っていた。その中でも中年になってはじめた写真は、最も長く続いて、それなりにいい作品もできるぐらいには打ち込んでいた。本人が高校生の頃ならお茶かお華ぐらいじゃないんだろうか。

「ジムのところから大通り渡って上がったとこが私の家やったね」

「そう。結婚してここに来るまで住んでた」

「あんたおぼえてる?」

「小学校1年までおじいちゃんとおばあちゃんが住んでたからね」

「こないだ、あんたの車で連れてってもらったね。おじいちゃんが建てた小屋が残ってて懐かしかったわ」

「いや、行ってない。だいたいがあそこ、家の前にあった池も埋めて、いまは住宅地になってる。おじいちゃんらが引っ越したあと、すぐにあのあたり潰してボーリング場ができて、それも数年で潰れて、そのあとは住宅地になった」

「でも、こないだいっしょに行ったやろ」

「行ってない」

「うそ」

実際のところ、これはその前に私も驚いたのだけれど、数日前の日記に「昔の家を見に車で行った」と記載がある。ただし、その日は私は来ていないので、完全に偽の記憶。

「(日記を見せながら)これのことやろ。けど、この日は私はこっちに来てない」

「そうやね。だったらイチローに連れてってもらったんやろか」

「兄貴もこの日は来ていない」

「じゃあ、夢でも見たんやろか」

おそらくそうなのだ。夢で見たことがきっかけになって、それから数日間、このテーマが繰り返されている。上記の会話は、まるでそのまま録音したものが再生されるように、この日、何十回も繰り返された。

同じ話が何度も繰り返されるだけなのだから、聞いている方は無意味に感じる。けれど、注意して聞いていると、すべてのバージョンが必ずしも同じではないことがわかる。我慢して聞いていると、徐々に内容が変化していくことがわかる。

おそらくこのテーマが浮上したきっかけは、先月からその駅近くのデイサービスに通い始めたことだ。デイサービスは送迎付きだから、はじめ、老母はどこに向かっているのかわからなかったようだ。だんだんと場所がはっきりしてきて、それが娘時代に住んだ家の近くだったことがわかってきた。その場所の風景は、当時とすっかり変わっている。だから余計にピンとこなかったのだろう。けれど、むかしの思い出と現在の風景を重ね合わせて場所を確認する作業を繰り返し行うなかで、頭の中にはっきりしたイメージが形成されていく。その段階で夢を見て、そしてその夢をもとに思い出が頭の中を占領していく。

「年寄りのことを〈同じ話ばかり繰り返すようになって、おばあちゃんもボケた〉みたいに言う人がいるやろ。それで年寄りは怒るわけやけど、なんで怒るか、ようやくわかったわ」

老母はそんなふうに言う。

「あれは、同じ話を繰り返してるんと違うねん。そういうふうに話しながら、むかしを思い出してるんやわ」

客観的には同じ話を繰り返している事実に相違はないのだけれど、実際に高齢者の頭のなかで起こっていることは、過去の記憶と現実との間にある微妙なズレのすり合わせなのだと、老母は主張する。少なくとも老母の言葉を私はそういうふうに受け取った。駅から「ジム」までの短い道のりは、確かに自分が若い頃に歩いた駅までの道と同じだ。鉄道の下をくぐるガードレールは、その頃からひとつも変わっていない。けれど、それ以外のすべては変わってしまっている。郵便局もなくなり、小川はコンクリートで打ち固めた排水路になった。「ジム」がいまある場所はどんなふうだったのだろう。そんな記憶の底にある風景を探し求め、そしてそれをいまの光景に重ね合わせる。その作業を延々と繰り返す。そしてその作業中には、ほかの記憶も紛れ込んでいく。いったい自分は駅まで何の用事で行ったのだろう。大阪の方に出る用事がそれほどあったわけはない。いや、そういえば心斎橋で教室に通っていた。あれは何だっただろう。写真かもしれない。そんなふうに記憶がつながっていく。

ゆっくりと、そうやって現実世界が確実なものになっていく。その作業には時間がかかるし、また、その作業が何の役に立つのだと言われても返答に困るだろう。けれど、高齢者はそうやって時間をかけて現実を取り戻していく。その世界の中に自分自身を再構成していく。その営みは、高齢者にとって無意味なことではない。

「むかし、看護学の本を翻訳したとき、〈高齢者の発達課題〉っていうのがあって、高齢期ってのは〈人生を回顧して受け入れることが課題〉って書いてあった。つまり、年寄りは思い出すことが仕事、っていうことやねん。そうやって自分の仕事を一生懸命やってるときに、それを〈ボケた〉とか言われたら、そら、腹立つかもしれんな」

「そやろ。年寄りは、一生懸命思い出してるねん。同じことを言うてるんやなしに、そういうことを言うことでむかしを思い出してるねん。あんたも年寄りを〈ボケた〉とかバカにしたらあかんで」

「そやな。そやけど、さっき何食べたかも思い出せんようなんは、やっぱりボケてるんやと思うで」

「そこは、それやん」

「年寄りの頭はまだらやな。最近のことは思い出せん。これははっきりと頭の機能の衰えや。けど、むかしのことは思い出せる。というか、いまから75年前の駅のあたりのことをはっきり思い出せる人はもうあんまり残ってないんやから、そういう意味ではお母さんは貴重な記憶の保持者やで。それを思い出すことにかけては、それはボケとか関係ないわな。そこは若い人間には真似のでけん芸当や」

「そうやろ。でけんへんこともようさんある。けど、私の役目もあるということや」

 

ちなみに、「老年期は人生を回顧する時期である。大きな世の中や人類の秩序や意味の伝承と、自分自身の人生を回顧して受け入れることが発達課題である」というのは、エリクソンの説であるらしいのだけれど*1、これは高校の教科書(たしかひとつ前の指導要領まであった現代社会の教科書だったと思う)にも掲載されている。「発達」というと幼児や少年期、せいぜいが青年期までのことだと思うのがふつうだけれど、エリクソンはそれを人間が死ぬまで続くものとして捉えなおした。まあ、このあたりは私もよくわかっていないので受け売りでしかない。

実際、もう20年ぐらい前、仕事で看護学の本を翻訳したときにこの概念にぶち当たって「はあ?」と思ったのを覚えている。ただ、それは、私の記憶だ。今回この記事を書くにあたって当該の訳書を引っ張り出してみたけれど、どこをどんなふうに「はあ?」と思ったのかはもうわからない。確かに上記のエリクソンの発達課題は表組みの中に記載されているけれど、そこまで悩むようなものでもなさそうだ。けれど記憶では、このあたりでだいぶ混乱したことになっている。

そういうことを、私自身がやっぱり思い出している。この仕事は東京の怪しげなエージェントからもらったもので、実務翻訳を請け負う事務所を開いてまだ2年目だったから不利な条件にも関わらず飛びついたんだよなあとか思い出す。なにせ分量の多い仕事だったから途中で飽きてきて、最後の方はけっこう辛かったとか、内容以上に、そんな周辺のことばかり思い出される。いくつかトラブルもあったような気もするが、あのおかげで食えてたのも事実だし、ありがたい案件だった。

こんなふうに、私たちは過去のことを思い出し、その事実を確認するだけでなく、そこに新たな意味を付け加えていく。振り返ってみたらあの仕事がなかったらいまこの家にも住んでいないわけだし、その後の案件を受けるときにもクライアントの信用が得られたかどうかわからない。現在にさまざまにつながってきている。老母との会話でエリクソンを思い出すこともなかっただろう。現在を生きることで、過去の事実に対してどんどんと意味が追加されていく。その作業を行う過程で、意図せず、事実の誤認や身勝手な解釈、美化や矮小化が紛れ込む。だから思い出というのは決して事実そのものではない。けれど、事実関係だけが重要なのかといえば、当人にとってはそうではない。自分の過去が現在の自分にどうつながっているのかを確認し、現在位置を定め、自分自身を確立する。それが思い出すという作業だ。

 

事実関係がひとつでも、だからこそ、そこに複数のストーリーが生まれる。たとえば、私が翻訳の仕事で初めてお金をもらった翻訳書がある。なぜ23歳の大学中退者が名の通った小説家の著書を翻訳できたのか、それはそれなりに興味深い話でもあるので、断片的にあちこち書いてきた(たとえばここ)。それが、どれもちょっとずつ違う。もちろんそれはそれぞれの原稿がどういう文脈に置かれるのかによって着目点が変わるからではあるのだけれど、私自身の主観からいえば、そうやって少しずつ異なる視点にずらしながら同じ過去を見ることで、次第に自分の中での位置づけが変わってきているのは感じている。

渦中にあった23歳の私は、正直、事態をどう捉えていいのかわからなかった。詩人としても知られたリチャード・ブローティガンという小説家の作品なのだけれど、私は自分自身の修行としてその生前最後の小説を翻訳していた。だから、その原稿はあくまで私的なものであり、どこに行きつくあてもないものだった。ただ、その秋、ブローティガンの訃報が新聞に載った。その段階で私が感じたのはただただかなしみだった。それはそうだろう。翻訳という作業はある意味イタコ芸であって、気持ちの上では作者になりきって日本語の文を書く。その作者が死んだのだ。ショックでないほうがおかしい。数日そのショック状態があり、そしてようやく気がついて、自分の原稿を出版社に送った。すぐに返事が来て、話が動きはじめた。

私はプロの翻訳家になりたかった人だ。だから修行として小説の翻訳もやっていたのだし、その最初の試みがたまたま運命によって仕事になるというのだから、これはほぼありえないほどの僥倖だ。だが、それをラッキーと喜ぶことは到底できなかった。人の死にかかわることだ。しかも、なぜ私が翻訳家を目指していたのかとか、なぜ修行として1冊の小説を訳そうとしたのかとか、そういったことを遡っていくと、いくらでも「笑ってる場合じゃないだろ」という事情に突き当たる。そういうことを書き始めたら1冊の本になる*2。私はなんとも冴えない顔をしながら、この出版に至る時期を過ごしていた。

この小説は、「ハンバーガー殺人事件」という邦題で出版された。刷り上がった本を手にすると、複雑な気持ちの上に、やはり無理もない喜びが重なった。けれど、「プロの翻訳家」なんて、1冊の本を訳したからなれるものではない。編集者の人が目をかけてくれたこともあって時間をあけながらも次の本、その次の本と翻訳の仕事をまわしてもらうことにはなったけれど、ブローティガンの小説がそこに何らかの実績として重みを加えてくれたようには思えない。徐々に、私はその小説から目を背けるようになった。それは過去の栄光に過ぎない。そんなものにいつまでもすがっていてもしかたないだろうと、自分を鼓舞するしかなかった。

それでも、私はこの小説が好きだった。なので、いくたびかの引っ越しでもずっと手もとから離さなかったし、ときどきは読み返していた。友だちに貸したまま行方不明になってしまったこともあったけれど、別方面からまた新たに贈ってもらうようなこともあった。好きな小説だから手もとにあるという意識が強くなっていき、自分自身と結びつけることは、ほとんどなくなっていった。たしかにあの小説がなければ、自分は別の人生を歩んでいたかもしれない。けれど、だからどうしたというのだ。そんな感覚が徐々に若さが失われていく私の中にあった。別の人生を選べるものならそのほうがどれほどマシかと思うような日々を過ごしていたせいかもしれない。

やがて、家庭をもつようになり、自分の選んだ人生が正しいかどうかまではわからないにしても、ささやかな幸せを手に入れた結果につながったことだから否定はできないよな、みたいなことを感じる時代になった。それまでの仕事にひとつ整理をつけて、改めて翻訳で食っていこうと決めたのもその時期だ。自分との関係で考えることがほとんどなくなっていたブローティガンの小説は、「業務実績」として再び自分の経歴に書き込まれるようになった。その頃からのような気がする。ときどき、夢のなかで「あの単語はちゃんと訳したのだろうか」という疑念が湧き上がる。冷や汗をかいて目覚め、そして「ハンバーガー殺人事件」を開く。いつのまにか原書は失われていた。だから確実にはいえないのだけれど、「ああ、そんなに変な翻訳はしていないな」と安心する。そういうことが何度か起こるようになった。インターネット以後、標準的な翻訳の質は飛躍的に上がった。その流れに取り残されないように仕事を続けるなかで、徐々に私は若い頃の自分の英語の能力がいかに低かったかを思い知るようになった。だからこそ、若い頃に何を見落としていたのか、ひどく気になるようになったのだろう。「ハンバーガー殺人事件」は悪夢になった。

やがて翻訳の仕事が徐々に減り、日常の業務は十数年前からはじめた家庭教師としての仕事が主体になっていった。機械翻訳からAIの時代に進むにつれて、実務翻訳の仕事はどんどん減っていった。それでも書籍を1冊訳すような仕事は完全に失われたわけではなく、とぎれとぎれにやってくるそんな仕事も私にとっては重要なものであり続けた。「ハンバーガー殺人事件」を悪夢に見ることもだんだんとなくなってきていた。そしてそんななか、思いもかけないメールが届いた。リチャード・ブローティガンの作品を一気に文庫化する企画が進んでいる。ついては「ハンバーガー殺人事件」をそこに含める許可をもらえないかという話だった。

なぜ、この作品、原題So the Wind Won't Blow It All Awayを新たに翻訳することを私が望んだのか、いまさら説明の必要もないだろう。それは自分自身の過去に再び向き合うことであった。何度も繰り返し、繰り返し、同じひとつの事実、ひとりの詩人が自殺を遂げ、それがひとりの若者の人生のスタートとなった、40年もむかしに起こったその事件を、私は頭のなかで反芻してきた。起こったことは起こったことだ。過去は一切の変更を拒む。時間が前へ進んでも、過去にあったことは何一つ影響を受けない。それでも私は同じひとつの事件に、常にその時その時の自分の状況を投影し、新たな意味を与えてきた。そうすることで、いまの自分自身と過去の自分との折り合いをつけようとしてきた。それが人間のすることだ。だから、人は何度でも過去を振り返る。同じことの繰り返しに過ぎないとわかっていても、やっぱりそれを繰り返す。その必要があるのだし、それをやらなければ前に進めない。

そうして私は、今度は本格的に腰を据えて、過去の自分と向き合った。そこにはさまざまな発見があり、学びがあった。その詳細はここには書かないでおこう。別の場所、別の機会があると思うからだ。ただ、それを通して、私は過去の自分を以前よりは客観的に見ることができるようになった気がすることは、報告しておこう。そこにいるのは自分自身ではあるが、自分とは全く違う個性を備えた若者だ。小生意気で、知ったような口をきくけれど、一方で確かに才気を感じさせる不思議な男だ。そういう自分に出会えたこと、その機会をつくってくれた筑摩書房には、感謝するしかない。

www.chikumashobo.co.jp

ということで、このブログ記事は、新刊の告知だ。種明かしをすると、そういうことだ。「ハンバーガー殺人事件」は、「風に吹きはらわれてしまわないように」と改題した。それはかつての自分を否定するものではない。そうではなく、若い頃の自分に対して敬意を払いながらも、「いまの私はこうだよ」と微笑みかけるものでもあるのかもしれない。

 

そして、この小説は、やはり過去を振り返る話でもある。少し抜粋すると、

あの日のことは何度も何度も心の中の再生ボタンを押してきた。映画の編集でもするように。ぼくはプロデューサーであり、監督であり、編集者であり、脚本家であり、出演者であり、音楽もやる。そのほかも、すべてがぼくの映画なのだから。
心のなかには巨大な映画スタジオがある。一九四八年二月十七日以来、ずっとぼくはこのスタジオでこの映画の制作を続けている。ひとつの映画に三十一年間取りくみ続けてきた。ちょっとした記録だろう。そして永遠に完成はないのだろう。

これは、主人公が少年時代に引き起こした人身事故についてのことだ。事件そのものは非常に単純で、事実関係には一点の曇りもない。けれど、主人公は、繰り返し繰り返し、そこに意味を探す。そうすることでしか、彼は前に進めない。けれど、

あのころ、カレンダーを見るたびに、じいさんのことを思った。時間の国で迷子に
なった老人だ。けれど、そのうちにそんなことも気にかからなくなった。遠からず自
分も同じような迷子になってしまうのだとも知らないままに。

と、そういう繰り返しは「時間の国での迷子」につながるだけだということもわかっている。それでもそこを離れることはできない。なぜなら人間は、そもそも本質的に「迷子」である存在なのかもしれないからだ。明確な「こっちが正しい」標識なんて、人生にはない。それでも人間はそこに何らかの方向性を見出そう、意味を見つけようとするのだ。そのためには、繰り返し、繰り返し、記憶の中に沈んでいって、過去と現在を対比させるしかない。

 

老人の繰り言には、そういう意味があるのかもしれない。それとも、そこまでの意味もないのかもしれない。ただ、さっきまで考えていたことを忘れて、また同じことを考えているだけなのかもしれない。けれど、そうすることが無意味だと、誰に言えるだろうか。老人の人生はその人固有のものであり、そこにどんな意味を見つけようが、それはその人のものなのだから。

*1:上記の引用はネットで拾った孫引きなので正確ではないと思う。良い子は原典に当たりましょう

*2:事実、ずいぶん前にそういう本も書いている

短期記憶をなくすということ

ここのところ連続して90歳を迎えた老母の話を書いている。

mazmot.hatenablog.com

 

mazmot.hatenablog.com

 

ほかにネタはないのかと言われそうだが、ネタはある。ただ、タイミングを見計らっているうちにどんどん逃げていく感じで、記事にあげていない。それでもひとつは遠からず書くはず。

ともかくも、今回もその老母のことだ。相変わらず私は数日おきに顔を出して、買い物その他の日常のサポートをしている。だから、高齢者を抱えた世間の人々が経験している介護の苦労のようなものとは、いまのところ無縁だ。基本的な日常生活は、自立している。私の介助は必要としていない。この先、日常の動作が自立できなくなったら、そこからはかなりたいへんだろうと予想できる。だから、できるだけ自立を失わせないようにと、そこは心がけている。

それでも徐々に失われていくものはある。小さなことではある。たとえば、この夏には長年続けてきたヨーグルトづくりがついにできなくなった。本人の感覚としては「できなくなった」ではないのだけれど、やっても失敗するし、実際にやらなくなったのだから、「できなくなったこと」のひとつといっていいのだろう。買い物に出ると「ヨーグルトの種菌を買わなきゃ」と言う。「いや、買い置きが家にあるから」と言うと納得するのだが、その買い置きの菌を使ってヨーグルトをつくるのかといえばそれはやらない。それがもう数ヶ月続いている。たぶん1990年代の「カスピ海ヨーグルト」ブームの頃から続けている習慣、もっというなら1970年頃にヨーグルトメーカーを買ったときから断続的に続けてきた習慣が、ついに終わりを迎えた。

それでもヨーグルトは買えば済む。家庭菜園の世話は、すっかりできなくなった。これは意外だった。田舎に住んでいたころ、高齢の婆さん方の畑に対する情熱にはいつも感心させられたし、いろんな知恵を授かることも多かった。身に染み付いた農作業の感覚はどれだけボケようと失われないのだろうと思っていた。けれど、これが見事に失われた。どういうことか。

短期記憶が失われるということは、日付の感覚がなくなるということだ。認知症の検査で「いまは何年の何月何日ですか」と聞くのがあるが、老母はだいぶ前からこれに答えられなくなっている。いや、ちゃんと対策はあって、そういうときには必ずiPhoneを見る。けれど、自分の中ではもういまが何月なのか、春なのか秋なのかということがさっぱりわからなくなっている。なので、つい先日も、「そろそろ夏野菜の苗を植える時期かな」みたいなことを言っていた。「いま11月」と言うと「えっ、これから寒くなっていくの?」と驚く。こういう感覚で、野菜の世話がうまくできるはずはないだろう。季節外れに野菜くずから伸びてきた西瓜のつるを大事に育てていたのはついこの夏のことだ。もっとも、これは今年の異常気象のもとでどういうわけだかうまく育って10月の末に美味しい実をつけたのだけれど、同様に伸びていたカボチャのつるは実をつけないままに枯れた。去年はトマトが「さあこれから」という時期に抜かれていたし、今年の夏野菜が早くに終わったのも(猛暑のせいだとは思うが)早くに見切りをつけてしまったせいなのかもしれない。日付がわからなくなり、季節感が失われると、いまどういう世話をすれば野菜が喜ぶのかがわからなくなる。

老母の認知症で、失われているのは短期記憶だけだ。短期記憶が失われても長年の蓄積で獲得してきた知識は失われていないし、目の前のタスクに対する判断能力も処理能力も失われていない。だったらなんとかなるだろうともいえる。実際、なんとかなっている部分は大きい。食事の支度は冷蔵庫をあけて適当なものをつくれるし、床が汚れていたら掃除機をかけることもできる。ただ、技能と判断力だけで解決がつかないこともある。

たとえば洗顔や歯磨きだ。どちらも長年やってきたことだから、何不自由なくできる。ただし、やったことを忘れる。なので、ときには二度、三度と同じことを繰り返す。まあ、歯なんて何度磨いたってかまわないだろう。たとえば入浴だ。短期記憶が失われても、完全になくなるわけではないから、「昨日、風呂に入った」というぼんやりした記憶は残る。ただし、時間の見当識が失われているため、その「昨日」が、カレンダー上で1日前なのか2日前なのか、あるいは1週間前なのか10日前なのか、それが不明になる。なので、何日も風呂に入らずシャワーも浴びないという日が続くことになる。

このことに気づいたのはつい最近で、それは何の気なしにテーブルの上に置かれていたガスの伝票を見ていたときだった。老母がどれだけの光熱費を使っているのか、私はほとんど気にとめたこともなかった。なにせ全てクレジットカードの引き落としだし、口座には現金が十分すぎるほどある。エネルギー効率のわるい広い家なので一人暮らしにしては余分にかかるけれど、まあそれは私の知ったこっちゃない。なのでこのときも、特にチェックするつもりもなくぼんやり見ていたのだけれど、そこではたと気がついた。ガスの使用量が、同じ一人暮らしである私の使用量の半分しかない。私はどちらかといえばケチって使っているし、月のうちに何回かは老母の家に泊まっているわけだから、その分は使用量は減っている。それなのに老母の方の使用量が半分しかないのは、明らかにこれは風呂・シャワーを使っていないのだとわかる。

毎回、私は来るたびに「風呂は入っているか」と確認はしていた。そのたびに「昨日は入った」と返事が来るから安心していたわけだが、短期記憶がなくなった老母にとっては、以前のことはすべて「昨日」であり、必ずしも「カレンダー上の前日」ではないのだ。だからおそらく、月に数回しか風呂・シャワーを使わなくとも、「昨日入ったから大丈夫」となるのだろう。

洗顔・歯磨きを何度も繰り返すのと、風呂・シャワーに入らなくなるのと、現象としては真逆に見えるが、結局は同じことだ。どちらも短期記憶が失われることによるものであり、洗顔や歯磨きは繰り返す負担が小さいから「わからないのならやっとけばいい」になるし、風呂・シャワーは負担が大きいから「わからないならやめとこう」となるだけのことだ。同様に、薬はいつも処方された量の半分くらいしか飲まないのだけれど(毎回の通院で残薬調整をお願いしている)、それも「わからないなら控えておいたほうが安全だ」という判断から来ている。このように、短期記憶がないという現象に対するその場その場の判断は適切に実行しているので、なんとか日常の自立を保っているともいえる。10日も風呂に入らないのは「なんとかなっている」のうちなのか? だいぶとギリギリのところまできているとはいえるだろう。

 

問題なのは、そういった日常のタスクではない。それ以外のことだ。それはたとえば見舞いであったり葬式であったりという非日常のことである。このことは以前にも書いた。非日常のことは社会との関わりでもあるし、ある程度の社会との関係性を保つことは高齢者といえど重要だと思うので、そこを遮断すべきではない。親戚の若い人たちがたまに子連れで老母を訪問してくれるのだけれど、それはいい刺激になるので本当にありがたい。思えば両親は彼らが子どもの頃に夏休みに長期に滞在させてあちこち連れ歩いていた。そんなことが思い出となって訪ねてきてくれるのだから、人の世話が巡り巡って自分のところに返ってくるのだということでもあるのだろう。そういった人と人との関わりは、長寿をささえるものでもある。

ただ、こういった非日常には、その対処に必ず記憶を必要とする。一般にというわけではない。老母にとっては、「事後にすべきこと」が重要なのだ。

「写真を送ってやらんといかんのやけど」
「いや、もうLINEでデータ送ってるから」
「そうか。もうそれでええんやね」

この一連のやりとりを何十回繰り返すことか。老母は若い頃、写真を趣味にしていた。なにせ、専用の暗室をもっていたほどの入れ込みようだったのだ。その時代、なにかイベントがあったら写真を選定し、トリミングし、プリントし、配列を工夫してアルバムをつくって関係者に贈るのが彼女の楽しみだった。そこまでするだけの体力がなくなってからでも、ベストショットを大きめの判にプリントして郵送するのは当然のことだと考えていた。世の中からDPEショップが姿を消していくと、性能のいいプリンタを買った。物理の形にして保存するのが常識の時代を生きてきて、その後は老境に入った。

だから、いまだに写真はプリントして郵送するものだし、その際に「ここをカットしてこのぐらい角度を直して」みたいなことを考えるのはあたりまえだ。だから、「ちょっとお願いがあるんやけど、この写真、こんな感じでプリントして送って」と言ってくる。いや、いまはそういう時代じゃないし、デジタルだから大量に撮れるし、だったらそのままデータを送っときゃ済むんだし、実際にもう送ったのだからということを説明しなければ納得しない。

そんな説明ぐらい、どうということはない。けれど、それを「写真を送ってやらんといかんのやけど」からはじまる依頼に対して1日に10回も20回もやらねばならなくなると、ちょっと「どうにかしてくれよ」という感覚が生じてくる。禁句だとわかっていても「さっき言うたやないの」と文句を返したくなる。そして、そのうんざりした顔が老母の感情を傷つけることになる。なんでこっちがうんざりしているかなんて覚えていないのだから、ただ「お願いしたことに嫌な顔をされた」という事実だけがそこに発生する。そして、そういうネガティブな記憶だけは不思議と消えない。

 

高齢者と付き合っていく上で、バテないためにはできるだけ多様な支援のオプションを用意しておくことが重要だ。だからこの春には「要支援」の認定もとったし、この夏には具体的に動かす相談もして、10月の頭からデイサービスの利用もはじめた。これに関してもいろいろと老母の思い込みと現実のズレみたいなことがあって、事細かに書いてもそれはそれで話にはなるのだけれど、とりあえず1点だけ書いておく。それはデイサービスに通いだしてすぐ、「あそこの支払い、あんたが出してくれてるんやろ。それは私が払わなあかん」みたいなことを言うようになったことだ。それもほぼ3分おきぐらいに。

もちろんそういう事実はなくて、利用料金は老母の口座から引き落としの契約になっている。その書類に記入・押印してサインしたのは老母自身だ。説明を受けて書類を渡されたら、そのぐらいのことはできる。そういった判断力、対処能力に何ら衰えはない。ただし、その事実を覚えていられない。即時に忘れる。

けれど、「何らかのサービスを受けたら対価を支払わねばならない」という長年の間に身に着けてきた生活技術は失われていない。そしてデイサービスは現金払いではない。よって、デイサービスに行くたびに、「支払いはどうなってたっけ」という疑問が湧く。そして、私に尋ねる。その返事に納得する。そしてすぐに忘れる。ただし、「支払いはしなければならない」という感覚は残る。よって、またすぐに尋ねる。これを永遠に繰り返す。

メモをすればいいのだ。実際、それは本人もわかっているからメモを取る。同じことを書いたメモがどんどん蓄積していく。蓄積するメモは、もはやメモの用をなさない。さらに、私がいないあいだには、「支払いどうなってる?」「立替えてもらってる分を払うこと」みたいなメモが蓄積している。それをすべて廃棄しないことには、いくら正しい状況を書いたメモがあっても意味がない。

あんまりにも面倒になったので、引き落としの契約時に受け取った控えを渡して「これに書いてあるから」と言ったこともある。すると書類を仔細に読み始め、
「へえ、あそこって会社の名前は屋号とちがうんやねえ」
みたいなやたらと細かいことに感心する。そして、
「それはそうと、支払いはどうなってる?」
「その先に書いてある」
しばらく読み進めて、
「この口座って」
「お母さんの銀行口座。そこから引き落とすことを書いた書類や」
「これ、私の字? 下手くそやね」
「自分の字くらいわかるやろ。私の字はもっとこんなふうや」
「そやね。私の字やね。下手くそになったなあ、って、もともとか。ところで、支払いはどうなってるの?」
「その支払いを引き落としするのに、そのサインがしてある」
「ああ、そういうこと。ふうん、いろいろ細かい説明もこっちに書いたあるわ。なるほどね。ところで支払いは?」

と、こんな調子だ。それでもようやくに理解できて、その書類を定位置にしまって、じゃあお茶でもいれようかとその支度をはじめて数分後、
「ところで気になってるんやけど、金曜日に行ってるところの支払い…」
と、新たな波状攻撃が始まる。正直、やってられない。

 

福祉関係の人の話を聞くと、「何を聞かれても、何回目でも、気にせずに〈そうですね〉と答えておいたらいいんですよ」みたいに言う。それはそうだろう。プロだ。

高齢者は、基本的にほぼすべての社会的責任から免除されている。もちろん法律を守ることとか契約に従うこととか、そういうレベルで責任を免れるものではないけれど、たいていのことは周囲が代行してくれることになっている。高齢者が最も気にかけるべきは自分自身の日常であり、「生きのびること」である。それが怪しくなっている要介護・要支援の人々はなおさらだ。それ以上のことはたいていは家族をはじめとする周囲の支援者が段取りしてくれるのだし、それが不可能な場合は福祉が手を差し伸べてくれる(はずだ。そうあってほしい)。だから、責任を負う必要のない高齢者には、当たり障りのない「そうですね」程度の無難な返答を返しておけばそれで足りる。ひどい言い方かもしれないが、どうせ3分たてば忘れるのだ。それよりは、その瞬間に幸せであるほうがよっぽど重要だ。「そうですね」という肯定の言葉には、それだけの力があるだろう。

一般論としてはそうだ。けれど、息子として老母に対峙するときに、それは通用しない。期待されていることが全く違う。外部のプロであれば、「あの人はなんかようわからん返事をするけど、とにかくちゃんと仕事はしてくれるし、いろいろ助かる。ありがたいわ」という印象になるだろうけれど、息子に対しては「人が尋ねたことにはちゃんと返事しなさい」と、教育的指導が入るだろう。いくら老境に差し掛かろうが、親は親だ。子どもには過度な期待をかけるし、期待通りに動かなければ「私の育て方が悪かった」ぐらいの惨めな気持ちになるだろう。

息子としては、親の疑問に対しては真摯に納得のいく答えを返さねばならない。それぐらいはわけはない。ただし、それが何回も同じ繰り返しになると、耐えられなくなる。悪気はないのはわかっている。それだけに、「どうにかしてくれよ」という気持ちになってくる。

 

老母を見ていて、人間は短期記憶なんかなくったって生きていけるものだなと思うようになった。自分の記憶がもたないような人生を、以前私は想像もできなかった。けれど、たとえ5分前のことを覚えていられなくなっても、自分自身がしっかりと状況に対応できるだけの判断力と行動力を備えていれば、生活はできる。自分のめんどうを見ることぐらいはできる。

その一方で、社会と関わるときには、短期記憶は重要だ。だから短期記憶が怪しくなったら仕事はできなくなる。それはもうしかたないとして、短期記憶がないと他人との関わりに支障をきたすようになる。なかなかたいへんだ。

たとえば、かつて田舎でかかわった高齢の婆さんのことを思い出す。そういえば、畑で「あんた、よかったらウチで使ってない備中あげるで」みたいに言われたことがあった。もらえるものはなんでももらいたいからと後で取りに行くと、「あんた、何しに来た」みたいな顔をされた。その頃の私に認知症の知識はなかったから「話の辻褄が合わんなあ」と思いながらも、特にほしいわけでもなかったから「いや、いいんですよ」みたいに帰ったのだけれど、あとでその家の人が「なんかうちの婆さんが変なこと言いましたか」みたいなことを言っていたな。

あるいは、私が東京から引っ越して2年ぐらいたった頃だったか、以前住んでいたアパートの前を通ったときのこととかも思い出す。まあ、懐かしいからちょっと回り道をして通ったのだけど、たまたま管理人の婆さんが表に出ていた。挨拶すると「まあ、珍しい」と話が盛り上がり、「急ぐのかい」「いえ」「じゃあ、お茶でも飲んで行きなさい」みたいな感じでアパートの裏の婆さんの家に通された。「あんた、今夜はどこに泊まるんだい」「まだ決めてないんですよ」「じゃあ、うちに泊まればいい」なんて話があって、なんとなくそのまま泊めてもらうことになった。それが晩飯もごちそうになって、テレビを見てる最中に「で、あんた、今夜はどうするんだい」と尋ねられて、ぎょっとした。いや、泊めてもらえるという話だったんじゃないのか? まあいまから安宿でも探すかと思っていると、「あんた、もう遅いから泊まっていけばいい」と、いま思いついたように言う。それで結局泊めてもらったわけだけど、あれも結局は短期記憶がなくなっていた状態だったんだなと、いまにして思う。

ただ、あの婆さんが豪快だったのは(他人を一人暮らしの自分の家に泊めるところもそうだけど)、忘れてしまっていても別に何も困らない鷹揚さがあったことだろう。そして常に相手が何を必要としているかを感じ取り、自分ができることを提案した。そのことを改めて考えてみると、短期記憶がないことがそこまで支障をきたすものでもないような気もしてくる。自分自身の芯がしっかりしていれば、短期記憶なんて、なくったって人と関われる。自分自身の言動が一貫していれば、記憶によって一貫性を保つ必要なんかないのかもしれない。

いまでも私は、あの夜、婆さんに聞いた話を覚えている。第二次世界大戦直後の復興期の東京を婆さんは文字通りもろ肌脱ぎになって土方仕事をやって支えた。この腕で舟いっぱいのコンクリを撹拌したんだと見せてくれた。そんな婆さんの思い出話は、私の宝物でもある。

短期記憶をなくした高齢者でも、そうやって人に宝物を与えることができる。それは高齢化が進んでいくこの国にあって、ひとつの希望ではないだろうか。うんざりする気持ちのなかにあっても。

電脳の幻想に迷う時代

ひとつ前のエントリで、老母のことを書いた。認知症が進んで実際にやっていない行動(この場合は入院している人のお見舞い)を事実と誤認してしまうという、それだけとりあげればかなり悲惨な状況だ。ただ、本人に悲壮感はなく、また、虚構を事実と言い張ることで周囲を困らせるわけでもない。「不思議やねえ」と頭をひねるだけだ。そしてこちらも、同様に「まるで怪談でも読んでいるような気になる」と、夢幻の境地に至る。そんなことを書いた。

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残念なことに、兄のパートナーのお父さんは、その後に亡くなった。立派な人であったし、実際、私も晩年に兄が手伝ってまとめたという著書からいろいろと勉強になる経験を読ませていただいた。数えるほどしかあったことがないとはいえ、母の気持ちの上では大切な人でもあったのだろう。このときも、「お見舞い」に次いで「お悔やみに行った」との主張をしばらく繰り返していた。もちろん、90歳になろうかという老人を往復10時間もかかる遠方まで連れていくつもりは私にも兄にもない。なので、これは現実ではない。ただ、母の記憶の中では、「お悔やみに行ってご遺体を拝ませてもらった。忙しいのか〈兄のパートナー〉さんもお母さんも出てこなかったけど、イチロー(兄の名)は出てきて、がらんとした葬儀会場とかを案内してくれた」という事実が確定している。それはそれで別に「事実ではないかもしれないが、事実であったとしても何ら不都合のないこと」なので、「どうやって行ったかは知らんけど、年をとるといろんな超能力が使えるようになるんやな」と、あえて否定はしていない。肯定もしないけど、「不思議な話やなあ」で、それ以上は追求しない。

 

「お見舞い」の一件も「お悔やみ」の件も、そういうふうにしてだんだんと過去の記憶に整理されていき、だんだんと母の生活も落ち着きを取り戻してきた。そして今日のことだ。

イチローが帰ったの、いつやったかな」

と言う。前回記事で書いたように兄は月に1、2回は来てくれるので、こういう会話はふつうのことだ。ただ、前回は兄のパートナーのお父さんのお弔いの関係でこっちには来れなかった。なので、「1ヶ月ぐらい前になるかなあ」と言うと、

「そんな前になる? ヤスオカに連れてってもらったのは、ついこないだやろ」

と言う。ヤスオカというのは、母が小学生時代を過ごした場所で、母の「ふるさと」といっていい土地だ。もちろんそこには地縁も何もない。軍人であった祖父の赴任地であったので一般的な意味では故郷ではない。けれど、母はなにかにつけてその場所の思い出を語る。

「ついこないだって、もう十年以上も前やん。まだこの家に車があったとき、イチローが運転して連れてってくれたとかいう話をよくしてくれたな」

「いや、そんな前のことじゃなくて。こないだイチローが来たとき、連れてってくれたやん。あんたは知らんかもしれんけど」

このあたりで私は、これは母の偽の記憶なのだということに気づく。ただ、否定してなにか得ることがあるわけでもない。とはいえ、積極的に話を合わせるのも違うだろう。

イチローは、お葬式とかあったから1ヶ月は来てないで。あっちの方に行ったのは、トモコおばさん(母の兄嫁で母より少し高齢)のとこに行った去年の11月やね。けど、そのときはヤスオカには行ってない」

「去年にトモコさんとこに行ったのはおぼえてる。そのときではない。もっと最近に、ヤスオカに行ったんよ。ミキちゃんに会って。小学校のときの同級生ね」

「その人に会った話は、十年前だかに行ったときのことでいろいろ聞いてるよ」

「そんなむかしの話じゃなくて、10日ほど前かな、ミキちゃんに会ったのよ」

「いや、10日前はお葬式の直後で、兄貴は北海道に帰ってる」

「じゃあ、もう少し前かな」

「それはよけい無理や。亡くなる直前やから」

「じゃあ、あとか」

「その後は来ていない」

「じゃあ、もう少し前なんやろか」

ここで母は、おもむろにiPhoneに手を伸ばした。そしてカメラロールを開き、スワイプをはじめた。

「私のことやから、写真撮ってるはずや。写真見たら日付がわかる」

熱心に保存された写真をめくっていく。

「ミキちゃんね、しょっちゅう外国に行くんやって。ヤスオカの山の景色とか、坂のあたりとか、むかしとおんなじやった」

そして、スワイプを続け、やがて呆然とする。

「ないねえ。ということは夢を見てたんやろか」

 

ここまでなら、電子デバイス認知症の記憶補助に役立った話としてまとめられるのかもしれない。けれど、熱心にカメラロールを捜索する母の姿を見ていた私は、別のことを思っていた。AIだ。

もしも母がつぶやく思い出がプロンプトとなって、それをAIが自動処理するような時代が来れば(そしてそれはそう遠くない)、カメラロールを捜索する母が、いつかその画像を発見してしまう日が来るのではなかろうか。実際、母の日記には、既に「お見舞い」の件はいつの間にか書き込まれている。同様に、母の記憶を補強する写真が、母の願ったとおりに、いつの間にかスマホに保存されてしまう。そういう日が遠からず来るのではなかろうか。

そんなとき、私達が生きている現実とは、いったいどれほどの重みを持つのだろう。たしかにそこにあることと、たしかにそこにあると信じていることの間には、何ほどの違いがあるのだろう。私はおそれ、おののくばかりだ。

認知症の雨月物語的解釈

Virtual realityという言葉はだいぶ古くから使われている。確かな記憶ではないのだけれど、VRなんてものが実質的になかった1990年代にはもうあちこちで目にしていた(だからジャミロクワイのVirtual Insanityなんて曲も生まれたわけだろう)。Virtualという英単語は「実質的な」という意味だと高校時代に習ったから、「実際には現実ではないけれど現実と実質的に同じ状態」という意味なんだろうとすぐに理解できた。なので、「バーチャル」が「現実ではない」「デジタル上だけの」という意味で急速に広がっていくのにはずいぶんと違和感を覚えたのが記憶に残っている。たとえば「近頃の若者はバーチャルな世界だけで現実を見ていない」みたいな言い方ね。1990年代には(確か00年代にも)そういうふうな「バーチャル」の用いられ方は普通だった。いや、virtualっていうのは「実質的に」だから、決して「ウソっこの」っていう意味ではない。確かに現実そのものではないのかもしれないが、ある部分では現実そのものといってもいいぐらいに実質的である。この違和感がだんだんと解消されてきたのは、VR技術が進歩してきて、「確かに現実ではないけれど現実世界と同じぐらいに雑多で卑猥でどうしようもない部分までを含んだ仮想空間」が日常的に体験できるようになってきたからだろう。

だいたいが、「現実」とはいったいなんなんだろうと考えると、「バーチャル」を「ホンモノではない」みたいな意味で使っていたのが妥当ではなかったことがすぐに理解できる。「現実」とは、人間の神経が脳に投影した像でしかない。いや、その投影する情報を与える元になった物質・物体・事象は人間とは無関係に独立して存在するのかもしれない。ただ、人間はそれを神経系の働きを通してしか知覚できない。それが幻でないことは同様の感覚器官と情報処理システムを備えた他人とのコミュニケーションの中で確信できるわけだけれど、そのコミュニケーションによる情報交換そのものが、どこか確固としたところのない、曖昧さを含んでいる。いま見ている世界が胡蝶の夢ではないという保証はどこにもないし、それでもなおというのなら、せいぜいが「疑っている自分がいることは疑えない」と詭弁を弄するぐらいしか方策がないだろう。

 

なぜこんなことを思っているのかというと、この8月で満90歳を迎える予定の老母の近頃の言動だ。このブログにも何度か登場してもらっているが、かなり認知症が進んでいて、先日、めでたく「要支援1」の認定をもらった。ちなみに身体機能は年齢の割に衰えが少ないので、この認定はほぼ完全に認知機能の衰えのみが評価されたものと見て間違いない。とにかく短期記憶がもたないのは、見ていて痛々しいほどだ。

それでも相変わらず基本的には自立生活が続けられている。買い物は私が連れて行くが、だいたいは中3〜4日ごとに訪問して1泊して帰るというのが基本になっているので、日常生活はほぼ完全に自力でこなしている。いまのところはヘルパーさんの世話にもなっていない*1。それがどうにか続けられているのは、生活のパターンを単純にして、大きな変化のない日常を送るようにしているからだと思う。短期記憶がもたないということは、その場その場の判断ができないということにつながる。いや、一瞬の判断は記憶に関係ないからきっちりとできる。ただ、その判断、決断を覚えていられない。ということは、突発的な出来事に対して突発的な対応まではできても、それをもとにした継続的な行動ができないということだ。たとえば、親戚の誰かが訪問したいと電話してくるとする。その電話に対して、「じゃあ、お昼はこっちで食べたらいいよ」みたいな即応の受け答えはできる。そのことをメモに書くこともできる。けれど、記憶がもたない。メモを見て、悩み始める。お昼をどうすべきなのだろうかと。そして、「じゃあ、お寿司でも取りましょうか」と決断する。ところが忘れる。また悩む。メモに「お寿司」とか書いてあったら、「お寿司の準備しなけりゃいけない」と焦り始める。魚を買わなきゃいけないと、メモをする。そのメモを見て、「なんのお魚だったっけ」と悩む。無限にそんなことを繰り返す。一貫した行動にならないまま、疲れ果てる。

だから、そういう非日常的なことの対応はすべてこっちに任せてもらって、ただ、毎日の同じことの繰り返し、同じ朝食を食べ(もう何年もヨーグルトと餡パンと決まっている)、いつもの菜園の世話をし、同じ昼食を食べ(ほぼインスタントラーメン)、亡夫の霊前に花を活け、菜園の野菜と冷蔵庫の在庫から夕食をつくり、風呂に入って寝る。この繰り返しだと、いくら短期記憶がもたなくったって、どうにかなる。そのうちどうにもならなくなるかもしれないが、いまはまだどうにかなっている。洗濯物を干すのを忘れても、それは目の前に干してない洗濯物があれば干すだけのことだから、何も悩まずに済んでいる。眼の前の床が汚れていたら掃除機をかけるだけだし、ひとつの動作がそれだけで完結するうちは、特に不自由はない。

ただ、非日常的な出来事があると、そうはいかない。それが先週起こった。それを持ち込んだのは、北海道という遠隔の土地に住んでいる兄だ。

兄は以前には気まぐれに出張仕事のついでの実家訪問みたいな感じでやってきていたのだけれど、少し前からは「おまえも負担やろから」と私を気遣って、月に2回ぐらいの割合で母親を訪問してくれるようになった。だから私も3回か4回に1回ぐらいの割で実家訪問を飛ばして家でリフレッシュすることができる。これはとてもありがたい。けれど、兄には兄の生活もある。生きていればいろんなことが起こるもので、しばらく前からパートナーのお父さんが高齢のため入院し、だんだんと容態が悪化しているという、ちょっと落ち着けない状況に陥っていた。そして先週の訪問時に、老母にもそのことを話した。「いよいよという日がいつ来るかもしれんし、そのとき突然に『死んだ』と言われてもショックやろから、『入院してて具合があまり良くない』とだけは言うとこうと思う」と兄は説明していた。それはたしかにそうなんだろうとは思う。ただ、これが老母にはかなりガツンときた。人の死は(いや、まだまだ死ぬと決まったわけではないが)非日常の最たるものだ。たちまち毎日のルーチンがかき乱された。

兄がそのことを告げるとすぐに、老母は「見舞いに行きたいから連れて行ってくれ」と兄に頼んだ。兄は即座にことわった。もともとそれほど親しいわけでもない(何度か会って、会食もしてるし、盆暮れの贈答も一時は互いにしっかりやっていたが、まあその程度の)相手にお見舞いというのもどうかという気はするのだが、まあ、そこは「そうするもんだ」と思っている、いうなれば母の個性だから、否定まではできない。それでもなお、物理的に無理だということがある。兄のパートナーの郷里は日本海側の地方都市で、車を使おうが鉄道を使おうが、片道5時間ぐらいはかかる。空路なら少しは早いかもしれないが、1日1便しかないため宿泊抜きで往復するのは不可能だ。そして、90歳近い老人に宿泊を伴う旅行をさせるのも、往復10時間の長旅をさせるのも、現実的ではない。下手をすれば命にかかわる。単純に「遠すぎるから見舞いには行けない」というのは、掛け値のない現実だ。兄がていねいにそこを説明すると、そこは理性的に老母も納得する。

ただし、それをすぐに忘れる。そして、しばらくすると、「明日、お見舞いに行くのになに持っていったらええやろか」みたいな話が始まる。無理なんだということを説明すると、また理解はしてもらえる。けれど、しばらくして「明日は何時に出る?」という話が始まる。「なにを着ていったらええやろね」と、すっかり行くつもりになっている。もちろん兄は説明し、またも納得してもらう。けれど、またそれがひっくり返される。それが就寝時まで続く。

これに対処するために、兄は「見舞いに行くことが物理的に不可能であること」をメモに箇条書きで書いて、母の座る食卓に置いておくことにした。翌朝に目を覚ました母親が最初にそれを見ることで「見舞いに行かなければならない」という思い込みを抑え込むための方策だ。兄によるとこれはそれなりに功を奏したようで、「なんかしばらくはブツブツ言うとったけど、どうにかおさまったわ」とのことだった。その日は天気も良かったので、車で1時間ほどのところにシャクナゲかなにかの花を見に出かけたらしい。私は実家訪問しても基本は家事しかやらないのだけれど、兄はドライブ好きなので、こういう遠足担当になっている。その程度のことは、日常ルーチンを乱すほどではない。適度な刺激となっている様子がある。そんなふうに、ようやくショック状態から日常を取り戻したように、いったんは見えたようだ。

そして、数日後、私が訪問した朝のことだ。老母はぐったりと疲れて食卓に座っていた。いつもならとうに朝食を食べ終わっている時刻だ。まだ食べかけの皿が食卓に残っている。どうしたのかと尋ねると、

「昨日、お見舞いに行ってきてん」

と言う。ほんまたいへんやった、疲れてしまった、というわけだ。

「病院までは行ったんやけど、結局、(兄のパートナーの)お父さんには会えなかった」

とも言う。いや、それ、絶対におかしい。

「どないやって行ったん?」

と聞くと、兄の車で行ったのだと言う。そこで、まず兄が来たのは4日も前であること、したがって昨日ではないこと、さらに兄が来たときには近場に花を見に行ったのであって見舞いには行っていないこと、見舞いに行くには時間が足りなかったことなどをていねいに説明すると、

「じゃあ、夢でも見てたんやろか」

程度のことは言う。けれど、

「病院の入口も、それからお家の方も、はっきり覚えてる。あのあたりの山の感じとか。車に乗っていったことも覚えてる」

とも主張する。病院なんてどこも同じような造りだし、この日本、どこにいっても山はある。兄貴の運転で車に乗ったのは事実だし、ただ一点、その日に見舞いに行っていないのは疑いようのない現実だ。そのことを、往復にかかる時間のような物理的な根拠を示し、さらには机の上に置いてあったパンフレット(花を見に行った先の寺社の案内らしい)を示し、スマホに保存されていた写真(そこで花を写している)を見せて、

「たしかにそうやねえ」

と納得させるのだが、そのすぐあとに、

「でも、病院の前までは行けたのに、なんで病室に入れなかったんやろ」

と話が戻る。病人を直接見舞えなかったことを繰り返し悔やむ。そういえば、机の上にはその日本海側の街の名物のお菓子やお茶の袋も置いてある。いやいや、これは実家に来る直前に兄貴が見舞いに行ったときのお土産だ。老母が買ってきたものではない。けれど、そうなってくると、こちらが揃えた物証だって怪しくなってくる。たしかに花を見に行ったのは事実かもしれない。けれど、それと見舞いは別の話だ。

「この日は、写真もあるし、行ってないね。だったらお見舞いに行ったのはその次の日かな」

と、考え始める。いや、その次の日には兄貴は北海道に帰っている。

「ほんまに?」

「間違いない。兄貴から電話ももらってる」

みたいなやり取りがどこまでも続く。話をそらそうとしても、繰り返し戻ってくる。病室まで行けなかったことが残念でしかたないというのだ。わざわざ遠いところまで行ったのに、せめて一言、お見舞いの言葉をかけたかったと。

老母の中で、「車で往復10時間かけて見舞いに行ってきた」というのは、動かせない事実として定着している。それを否定する証拠をいくら挙げても、それをするりとすり抜けるように、「見舞い」は成立する。どうやらこれは老母にとっての現実だ。現実を否定することはできない。

「ようやくわかったわ」

私は母にこんな話をした。

「江戸時代の作家に上田秋成というのがいるんやけど、その小説に、遠くにいて絶対に来れるはずのない人が約束の日に愛する人を訪問するというのがあるんやわ。不思議な話なんやけど、身体は遠くにあっても、魂なら何百里でも旅をすることができる。魂なんて幻みたいなもんや。けれど、それは実際に訪問するのと、当事者にとっては全く同じこと。身体が行けなくても魂が行けば、それで十分なんやわ。つまりそういうことやねんな。お母さんも身体はここにずっとおった。それはもう、まちがいない。兄貴も私もおらんのに、車で行けるはずがない。この家から一歩も出ていないのはたしかや。けれど、見舞いに行ったのも本当やとしたら、それは魂が旅をして見舞いに行ったとしか考えられへん。そして、魂が行くことと、身体が行くことと、そこになんの違いもない。お見舞いをしたいという気持ちが強いからこそ魂だけでもそんな遠くまで行ったんやし、それだけの強い気持ちが伝わらんはずがない。雨月物語でも、魂はちゃんとメッセージを伝えてるんや。そして、それだけの思いがあればこそ、お母さんも実際に旅をしたんと同じくらい疲れたんや。だから、私は、お母さんはお見舞いに行ったんやと思うわ。ただ、身体は行ってない。ここを動いてない。変な話と思うかもしれんけど、それでええやん」

これが私の結論だった。母は、半ば納得したような、半ば呆れたような、奇妙な笑顔でこれを聞いていた。そして、もうそれ以上、この話を追求しようとしなかった。

 

これで話を締めくくれたら私も小説家並みに上手なウソのつき手ということになるのだけれど、実際には、一段落したのはしばらくの間だけだった。たしかにその場はそれで収まったけれど、朝食を切り上げて食後の薬を飲み、身支度をして買い物に行く頃にはまた「見舞いに行ったけど、病室までは入れなかった」という話をするようになっていた。ただ、もう私はそれをいちいち咎め立てしようとは思わなくなっていた。これは間違いなく老母のリアリティなのだ。なんなら物証だってある(お菓子とかお茶とか)。現実がここまで確固に確立されている以上、そこを争う意味はない。なによりも、その老母にとっての現実で、本人が納得し、安心しているのならば、そこを覆す意味などない。仮にそれで兄貴のパートナーやその家族と話が噛み合わなくなっても、そこを説明して受け入れてもらうのは困難ではなかろう。そしてその際に、そこまで思い込むほどに強い思いがあったことは十分に伝わるのだ。ならばこれはもう、実質的に現実と寸分違いない。

そして、最終的に、非日常を打ち消すのは非日常だった。この日、連休で老母にとっての甥や姪がたくさんの一族を連れて老母のもとに集まってくれた。それはたまたまこの時期に訪問したいという何件かの話を私の都合で同じ日にまとめてもらったことから実現したのだけれど、赤ん坊を含めて14人もの人々が自分のところにやってきてくれたというのは、老母にとって涙が出るほど嬉しい大イベントだった。彼らがやってきて、そして散会したあと、老母の頭はその楽しかった一日のことばかりで埋め尽くされたようだった。

「見舞い」の一件は、決して記憶から消えたわけではない。ただそれは、過去の「もう済んでしまった思い出」のフォルダーに移動してしまったようだ。だから、ついでで言及することはあっても、そのことで「病院までは行ったのに病室に入れなくて残念」みたいな後悔を蒸し返すことはない。遠いところまで見舞いに行った。その事実を懐かしそうに振り返るだけだ。

そう、認知症が見せる現実は、実際には現実ではないのかもしれない。けれど、それは実質的に現実だ。実質的に現実であるときに、それを現実と区別する意味はほぼ存在しない。物理的に不可能なことは、仮想的に実行すればいい。VRなんか使わなくても、想像力だけでそれが実行できてしまう。これが認知症の婆ぁちゃるリアリティ…*2

 

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*1:「要支援」をもらったから近いうちに何らかの支援は受けるようになるはず

*2:それが言いたいだけかい!

数学教育における四則演算指導の意味

大学の授業で四則演算を教えることの是非について、最近よく議論を見かける。これは文部科学省が「それってどうなのよ」と指摘したことに端を発して、「そんなことを大学で教えるべきではない」「いや、高校までの教育でそれができていないのならどこかで補う場所が与えられるべきなのは当然だ」的な論争から、さらにはもっと大学の本質とは何かとか、算数的な基礎がいかに重要であるかとか、さまざまな議論に発展している。

そういう議論が起こるのはいいことだ。ただ、現実に四則演算の指導を日常に行っている家庭教師としては、「なんかズレてるよなあ」という感覚が拭えない。そこでこのエントリになるわけなのだけれど、大仰なタイトルを掲げた割に、中身はたいしたことはない。あるいは、大仰なタイトルに一言で答えると、こんなふうになるだろう。

コンピュータが活用できるこの時代、四則演算の実行能力そのものを人間が備えようとすることに実用的な意味はほとんどない。よって、それを「鍛える」必要はまったくない。その一方で、四則演算について深く考えることは数学に要請された推論の能力や論理的な考察の能力を高めるので、それを学ぶ価値は高い。そして、そういう観点からの四則演算は、決して「小学生のやること」と軽んじるべきものではない。

これだけ書けばもう言いたいことは終わるのだけれど、もうちょっと具体的に、それが私の仕事の中でどのような位置を占めているのかとか、実際にそれがどのような面で役立つのかとか、そういったことをいくつか書いていこうと思う。

数学のスタートは四則演算から

これは以前にも書いていること(こことかここ)なのだけれど、私は小学生はもちろん、中学生、高校生の指導も(数学を教えない場合や緊急のニーズがある場合など特殊な場合を除き)全て「小学1年生の算数の復習」からスタートする。大学生を教えることは滅多にないが、教職免許を目指して基礎教育を学び直したいという学生を教えたときには、やっぱり「小学1年生の算数」からスタートした。何をやるのかといえば、十進法の基礎から四則演算までだ。小学校で扱う範囲とはいえ、図形や比率には踏み込まない。そういうのは必要に応じて中学や高校の範囲内でも扱える。ただ、四則演算だけは独立してやっておかないと、他で片手間に扱うことが難しい。といって、それほど難しいことをやるわけではない。この授業は、だいたいは90分かける。それ以上になる場合もあるし、60分ぐらいで終わる場合もけっこうある。最近、やたらと理解の早い生徒がいて30分で終わったときには驚いた。

「小学校四則演算の復習」というと計算ドリルとか解かせるのかと思うかもしれないが、そういうことは一切しない。まず私たちが「ふつうに」計算している基礎が十進法にあることを意識させる。これは明示的に小学1年生で教えているわけではないのだけれど、「十までの数」とか「いくつといくつで10」みたいな学習内容の組み立ては、まさに十進法が計算の基礎であることを表している。そこで、特に高校生以上には明示的に、それ以下ではエピソードトークなんかも交えて軽く、十進法と位取り記法について説明する。その上で足し算の繰り上がり、引き算の繰り下がりの概念について説明する。「繰り上がり」「繰り下がり」に関しては、筆算の用語であると誤解している生徒がけっこう多いので、これは位取り記法で桁を上げたり下げたりするときの概念であることを改めて意識させる。次に乗法を加法を発展させた累加という概念で整理し直す。余裕があれば分配法則から改めて筆算の原理を再確認する。除法では、複数の定義により概念が変化することを「余りのある割り算」と「分数による解」の比較から意識させる。そのまま分数計算に進み通分の概念を図形的に把握させ、逆数の導入によって乗除の計算を整理する。

こんなふうにざっと書いただけでは、何やってるのかよくわからないと思う。実際に授業すると、ほとんどの生徒が食いついてくる。「つかみ」としてはベストだし、そしてここで確認したことが先々の授業で活きてくるので、初っ端でやらない手はない。と、言われても、「そうなのか?」と疑ってしまうだろう。ここは実際に授業を受けてもらえば納得してもらえるのだけれど、それをここで再現するのは難しい。なにしろ、家庭教師の授業は一対一のジャム・セッションのようなものだ。その場の空気感がなければ、言葉だけ並べても伝わらないだろう。

計算ドリルのようなものをやらないのは、実際のところ、ほとんどの生徒が飽きるほど学校でそれをやらされているからだ。もちろん、そこで躓いている生徒には、立ち止まって練習をやる。過去には、小学3年生で足し算の繰り上がり、引き算の繰り下がりから練習して掛け算までしっかりたどり着けた生徒もいた。中学生で分数の計算に躓いていたのをこの「小学校の復習」で発見し、ドリル的な練習でそこを修復した生徒もいた。けれど、そういうのは(私に関しては)数年に1回発生する特殊なケースだ。ほとんどの生徒は、練習量は十分だ。

それでもこの「小学校の復習」をやるのは、そうやって半ば無意識に手を動かすだけでも計算できるぐらいに訓練されている生徒の多くが、「実際に自分は何をやっているのか」を意識できていないことを家庭教師としての指導を通じて痛感してきたからだ。いくら正解が出ても、それが何を意味するのかが理解できていなければ先につながらない。計算式の意味がわからなければ、そもそも立式ができない。「ここでその数値を使うんだよ」というのが見えなくなって、問題が解けなくなる。結果、点数が下がる。

四則演算の理解は重要だ。だから学校では(そしてその補完とされる学習産業では)さかんに反復練習を課す。だが、それは「理解」を理解していない。たとえば「筆算がきちんと理解できているとはどういうことですか」と学校の教師に(あるいは学習塾の講師に)尋ねたら、多くの場合、「それはきちんと桁を揃えて書けること、きちんと繰り上がりや繰り下がりができることでしょうね」という答えが返ってくるだろう。それを実現するために最も有効な方法がドリルによる反復練習であることは自明だ。だからそういう課題が子どもに出される。けれど、私から見れば(そして学習指導要領を素心で読めば)、そんなものは「理解」でもなんでもない。筆算の理解とは、まずは筆算がどのような原理で成立しているのかを理解することだ。その際に、加法の原則から容易に導かれる交換法則、結合法則、分配法則が(その正式な配当は3年生であるにせよ)基礎としてなければならない。そして、それらの法則の理解の根本には十進法にもとづいた位取り記法の理解がなければならない。そういった理解からまっすぐに筆算の原理を導くことは容易だし、実際、教科書の進め方はそうなっている。何なら上記のような教師だって、「そこはちゃんと指導要領どおりにやっていますよ」と胸を張るだろう。けれど、そこに重きを置くなら、あれほどの反復練習は必要がない。もちろんある程度の練習は必要になるだろう。だが、練習したら、ちゃんと元に戻って、「難しい計算を筆算で解くことにはどんな意味があるのか」を振り返らなければならない。なぜなら、そうすることによって、さらに「筆算よりもっと合理的に解く方法はないだろうか」と発展が見込めるからだ。

そういった発展につなげてこそ、算数・数学の教科目標に近づけるのではないだろうか。ドリル一辺倒の算数指導は、そこを阻害している。数学で最も重要な概念の1つ、「あらゆる定理は基礎的な定義から演繹的に導くことができる」という信念を身につけることができるのが、四則演算の本質的な「理解」なのだと思う。そのぐらいにこのあたりの教科書の記述は洗練されている。なぜそういった本質を無視してドリルばっかりやらせるのか、私にはどうにも解せない。

人間の頭は計算が苦手

だいぶ以前、家庭教師を数年やった頃に気がついたのだけれど、そもそも人間の頭は計算には全く向いていない。おおまかな傾向として、こういうことがいえる。

加減乗(除法はいったん除く)算において、1桁の数と1桁の数の計算は、ふつうは間違えない。1桁の数と2桁の数の計算は、少し注意すれば間違えない。2桁の数と2桁の数の計算は、注意しないと容易に間違える。3桁の以上の数が関わる計算は、よっぽど注意深い人でもいつかどこかで間違える。

あくまで経験則だけれど、多くの生徒の計算過程を見てきて、ほぼこの傾向はあてはまる。つまり、ごくかんたんな1桁の数と1桁の数の加減乗算を除けば、人間、必ず何らかの計算間違いをする。それは確率的に発生するのであって、その発生を防ぐ方法は原理的に存在しない。

これが本当に真の命題であるかどうかは、かなり疑わしい。ただし、実用的には、これが正しいという前提で算数・数学を考えるほうがよっぽど合理的だ。なぜなら、計算ミスはどれほど反復練習を積もうが、必ず発生する。確かに練習を重ねれば発生頻度を減らせる部分はあるが、やがてそれもどこかで飽和する。ところが、数学の解答は、1箇所の計算ミスですべての点を失う可能性を常に秘めている。学校のテスト問題だけの話ではない。実社会でも、1つの計算ミスが大きな損失につながるケースはいくらでもある。なので、計算ミスは絶対にあってはならない。

確率論的に必ずミスが発生するのが自然の与えた条件であり、100%ミスがあってはならないのが人為の要請であるとき、どう対処すればいいのか。答えは案外とかんたんで、

ミスが発生することを前提として、

  • ミスの発生を早期に検知してエラーを訂正する
  • ミスの発生が致命的な損失につながらないようなシステムを構築する
  • 検証によってミスの存在を明らかにして訂正する

といった、工学的手法によって、「必ず発生する計算ミス」が「ミスによる機能不全」につながらないようにしておくことができる。これが人類の知恵であり、科学技術による発展の基礎となってきたことは歴史を振り返るまでもなく明らかなことだろう。

具体的には、計算を行ったら、必ず計算過程に齟齬がないことをチェックすること、計算結果を問題全体の意味に照らして吟味すること、解が得られたら問題の意味に沿って順に整合性がとれていることを確認していくことといった、ありきたりの手順を遵守することだ。だが、これが一筋縄ではいかない。

計算の苦手な生徒に「確かめ、しときなさいよ」と言ったらどうするか。さっきやったのと同じ計算を同じような手順でやり始める。それはほとんど意味がない。倍の時間を費やすだけでなく、もし計算ミスがあったとしても、同じところで同じミスをやらかす可能性が高いからだ。人間の頭は計算に向いていないだけでなく、同じことをすると同じパターンを繰り返そうとする傾向がある。なので、間違えたところは同じように間違えるわけだ。だから同じ計算を何回やってもたいした意味はない。

じゃあどうすればいいのかといえば、別の道筋で計算を確認することだ。このときに、計算の原理がきちんと身についていることが重要になる。なぜなら、原理をおろそかにして身体的な訓練だけで身につけた計算力は、その方法以外の方法を受け付けない。筆算なら筆算でしか掛け算ができないことになる。

こういうことを指導するとき、私は「好きな数を2つ言ってください。かたっぽうは3桁、もう片方は2桁とか、大きな数の掛け算をやってみましょう」みたいにいう。たとえばいま、時計を見ると14時32分36秒だから、

   1432×36

を計算してみよう。もちろん、最初はストレートに筆算でやればいい。けれど、その「確かめ」をするときに、同じ手を使うことは厳禁だ。だったらどう計算するのか。

筆算の原理は分配法則だ。つまり

   1432×36=(1000+400+30+2)×(30+6)
                 =2×6+30×6+400×6+1000×6+2×30+30×30+400×30+1000×30

と分解して計算することだ。つまり、基本的に計算ミスのない「1桁の数と1桁の数の計算」に還元しているわけだ。だったら、これは別の方法で分解しても構わないと気づく。たとば、

   1432×36=(1400+32)×36
                 =1400×36+32×36

と計算しても構わないわけだ。「かえってややこしいじゃないか」と思うかもしれないが、先ほど書いたように、2桁の数と2桁の数の計算は、3桁の以上の数が絡む計算に比べれば計算ミスの頻度が下がる。1400をかけるのは実質的に14をかけるのと同じだから、14×36だと、人間の脳でもそれほど大きな負担ではない。おまけに14のように2で割ると1桁の数になる掛け算は、まず半分を計算してから2倍すると暗算でもできる。つまり、36×7をやっておいて(これは252だと容易に計算できる)その2倍をすれば(すなわち504)、結局、前半部分が50400だというのは実は下手な筆算なんかやるよりも素早く計算できる。後半部分も同様に工夫すれば、1152とかんたんに出るだろう。この2数を合計すれば、(これも広義でいえば筆算のうちなのだが、伝統的な意味での)筆算を回避して、51552という計算結果を得ることができる。これを筆算の答えと照合すればいい。

もちろん、分配法則はさまざまに使えるのであって、例えば

   1432×36=(1500-68)×(40-4)
                 =60000-2720-6000+272

と計算してもいい。この場合、68×4だけ計算しにくいが(70×4-2×4で計算するのが楽だ)、同じ計算が2回出てくるから手間は省ける。いずれにせよ、「筆算は分配法則」と理解できていれば(「分配法則」という用語は知らなくても「別々に分けて計算して最後に合わせる」という理解で十分)、「別の道筋で計算をする」ことが容易になる。

もちろん、さらに結合法則がしっかり理解できていれば、「36をかける」のは「9をかけてから4をかける」と同じだと気がつく。ちなみに、少しだけ訓練すれば「2倍にする、半分にする」はどんな数であっても容易に計算できるようになるので、「4倍する」は「2倍しておいてから2倍する」で、大体は片付く。「9をかける」は「10倍してその数を引く」でだいじょうぶだから、

   1432×36=(14320-1432)×4
       =12888×2×2
       =25776×2
       =51552

と計算することもたやすい。このように実例をあげると長くなるが、要は、計算の原理を理解していれば、「いまやったのと別の道筋で計算をして確かめをしなさい」という要請に応えるのは何ら難しくないということである。

計算をするたびに検算をしてミスの発生を早期に検知してエラーを訂正するのは、不完全な生物的頭脳を持った人間がおよそ向いていない計算に頭を使うときに、ぜひやらねばならないことだ。だが、それでもミスは発生する。そのミスを検知する方法として、「答えの吟味」という過程がある。これは多くの教師が軽視したり無視するプロセスだが、特に重要だ。ちなみに私が高校のときの数学の教師が「計算ができた人は得意顔で自分のノートを鑑賞してください」と言ってたのだけど、ひょっとしたらこのことだったのかもしれないと、年をくってから思い至っている。

たとえば、奇数と奇数の加減算では答えは偶数になる。奇数と奇数の乗算では答えは奇数になる。これは誰でも知っている知識だが、計算結果を見て「ああ、偶数だな」「なるほど奇数だな」みたいに吟味することに使っている生徒はあまり見ない。もったいないことだ。一の位の数が5の乗算なら、答えの一の位は5か0のはずだ。こういう基礎的な知識は、吟味に使える。

それ以上に答えの吟味で重要なのは、概算だ。これもまた学習指導要領にちゃんと入っているのだが、それを本来の意味で活用していると思われる事例にはあまり巡り合わない。どういうことかといえば、たとえば上記の例だと

      1432×36≒1400×40=56000

と見積もりをつけられるから、これと答えを比較することで「だいたいあってるかな」というのがチェックできる。「だいたいあってる」なんてネットミームかと思ってしまうかもしれないが、実は工学部的に言わせてもらえれば最も重要なことだ。機械設計なんかだったら、どうせ安全係数かけるんだから、細かい数字は比較的どうでもいい。ただ、オーダーが間違ってたら機械は壊れる。なので、概算で押さえておくことはこの上ない意味をもつ。そして、小中高生の計算でも、最も多いミスは桁の間違いだから、計算ミスの発見にも十分に意味がある。

なお、概算では発見できないミスが多発するのが、実は筆算の繰り上がりミスだったりする。こういうのは10とか100だけ狂うので、概算では発見できない。ただし、概算でおよその値があっていると確認できていたら、近いところまで数値は出るので、問題によってはそこから類推して正解にたどり着くことができる場合もある。このあたりは相当に慣れた生徒でないとできないけれど、数学のセンスとは実はそういった非論理的な部分を論理に無理やり組み込んでいく力技にもあらわれるのではないかとも思う。

そして、計算ミスの被害を防ぐ最後の関門は、最終的な解答の検証になる。これは中学の数学では方程式の文章題で必ず「解が問題に適している」と記入することとしてまるで儀式のように指導されているのだけれど、問題の設定に合わせて論理的に整合がとれているかどうかを調べる手順として、具体的に、しつこくやらねばならない。何も方程式に限ったことではなく、たとえば一次関数や放物線の問題でグラフの略図を描いて座標平面上で辻褄が合うことを確認したり、図形問題で略図を描いて角度や長さが適切かどうかを考察するなんかも含めて、検証の段階だ。数学のような理詰めの世界では、検証を行うことによって数値計算に関してはほぼ正解か不正解の判断ができる。判断がつかないような数値を出してしまったときは、だいたいはなにか間違いがあると思ったほうがいいくらいだ。その間違いが計算ミスである場合には、ここで最終的に発見と訂正ができるだろう。

こうやって、根本的に計算に不適合な人間の頭でも、実用に十分耐える正確性でもって計算する方法が確保できる。重要なことは、こういったエラー訂正のためのプロセスは、いくらドリルで計算練習を反復しても身につかないということだ。あるいは、反復練習で身につけようと思うなら、まずはこれらのプロセスを意識的に実行する手順を学んでおかなければならない。それをしないでドリルばっかり解いて勉強した気になっているから、いつまでたっても計算ミスは減らない。算数・数学が苦手という生徒は、だいたいそういうところをウロウロしている。

改めて四則演算を学校で学ぶ意味

「読み書きソロバンはすべての基礎」みたいな意識は、基礎教育に対して長年抱かれてきた大前提だろう。けれどその本質は時代とともに大きく変わる。江戸時代から明治時代にかけての「読み書き」はなにより毛筆で書かれた文字を読み、毛筆で文字を書くことであって、「読解力」みたいなものは重視されていなかった。なんなら「素読百回自ずと意味通ず」ぐらい、とにかく読んでれば大丈夫、みたいに考えられていたわけだ。ところが時代が進むと活字を読むことが基本の位置を奪い、毛筆の崩し文字は読めなくて当然という風潮になった。書く方だって鉛筆や万年筆・ボールペンで楷書を書くのが当然とされるようになった。さらに現代では、スクリーンで文字を読み、タイピングやフリックで文字を入力する。学校教育はそれをまだ評価対象にまではしていないが、そのうちに変わってくるだろう。

「ソロバン」は、江戸時代には文字通り算盤だった。徐々にそ実際に算盤を使った計算は衰え、20世紀には筆算が計算の中心を占めるようになった。電卓の学校教育への導入は案外に古く、1980年代にはもう「電卓の一部使用可」が通達されている。けれど、それでも現在に至るまで、学校教育の現場では筆算を中心とする手計算が頑固に守られている。

それは、結局のところ、大学入試を最終関門とする学力テストに対応するためなのだろう。テストに電子製品の持ち込みは不正や不公平の原因になるし、それを排除する専用機器の導入はコストに見合わない。「テスト」を手っ取り早く実施するにはすべて手計算を原則とすることに統一するのが現実的だ。なので、電卓の教育現場への導入の初動以降40年がたっても、いまだに学校教育は伝統的な手計算を異様なほどに重視し、その技能を高めるための反復練習に著しく傾斜している。

しかし、何度も言うように、そもそも人間の頭は計算には全く向いていない。ことにコンピュータを内蔵した電子機器類には絶対にかなわない。であるならば、苦手な部分はコンピュータに任せ、人間はもっと自分の肉体的制限の中で適性のある方向に努力を向けるべきである。私は強くそう思う。

ただし、それでもって、小学校の算数で教えられる四則演算が不要になるとは思わない。むしろ逆だ。なぜなら、数学・算数の根本的な魅力は、身の回りの現象、世界の現象を数値の変化として把握し、それを演算という抽象的な操作で展開してくことにあるからだ。そのためには、四則演算の原理はしっかりと理解しなければならないし、その基礎的な操作も安定して行えなければならない。だから、ある程度の練習も必要になるだろう。

けれど、重要なことは原理の理解であり、操作の習熟ではない。電子機器が未発達の時代には演算の操作に熟達することに価値はあったが、いまは煩雑な計算はコンピュータにさせたほうがよっぽど合理的だ。ただ、そういった計算ができること、そういった計算で何をどのように求めようとするのかを意識しないで意味のある活用はできない。コンピュータに何をどのようにさせるのかを指示できなければ、宝は持ち腐れとなる。だからこそ、四則演算に習熟することは重要になるし、それを柔軟に、さまざまな方法を工夫して実行する練習は積むべきだということになる。

そして、たとえ小学校程度の四則演算の計算問題1つにしたところで、王道の筆算で解くこともできれば、裏道の方法で解くこともできる、という体験をすることは、その先のもっと高度な数学的思考へと直接つながっていく。表から裏から、あらゆる方法を試し、それが等価であることを論理的に証明し、その先に展開していくという頭脳の働きは、高校数学には欠かせない。そのためには小学校の四則演算はしっかりと理解していなければならないし、その理解が浅ければ、改めて復習をして、小学校の教室では気づかなかった深い意味を改めて噛みしめるべきだ。

だから私は小中学生だけでなく、高校生が相手であっても小学校の四則演算の授業はするし、もしも大学生を相手に教える機会があったとしても同じように「小学1年生の算数のいちばんはじめには何を習いましたか?」から授業を始めるだろう。けれどそれは、「基礎教育がなってないから」ではない。だいたいが、大学に入ろうかというようなおとな(そう、18歳成人だから彼らは「おとな」なのだ)に対して、「大学教育を受ける基礎ができてないからやり直します」みたいな言説は失礼極まりないだろう。たとえ義務教育時代に落ちこぼれていたり、途中どこかで不登校になっていたりした人だとしても、そういう人々はそういう人なりの貴重な学びを経てきている。それは実際にそういった人々と接してみればすぐにわかることだ。そういった学びを基礎としてその上に専門性を乗せていくのが大学教育だ。筆算ができない人なら電卓を使わせればいいし、方程式が解けなければ方程式をとくプログラムをコンピュータ上で走らせればいい。そういった個別の技能の不足は、大学教育において何ら足枷にはならない。

そうではなく、大学教育で展開する学びのスタートとして、ある分野においては四則演算の振り返りはいい出発点になるだろう。そしてそこから、欠けていた何かが見えてくる人もいるだろう。それを意識することで、高い専門性につながるヒントが見つかる場合もあるだろう。そういった観点から「義務教育でやった算数や数学」を大学教育で再度取り上げるのなら、それは外部からとやかく言うことではないのではないか。

 

結局のところ、百数十年続いた義務教育の中で、私たちが無意識に教育課程に対して本来以上の文化的な意味合いを付け加えてしまっているのが問題なのではないだろうか。分数の割り算ができなくったって、べつに世の中で胸を張って生きていくことはできる。けれど、実用的な意味とは無関係に、「そのぐらいやっとかないと一人前じゃない」みたいな、通過儀礼的な意味をそこに付与してしまっているのではなかろうか。それは、学問本来の意味からいえば、ずいぶんとおかしなことだ。

学問は、身近にあるものから展開して、どんどん自分自身の視界を広げていくものだ。その身近にある出発点が小学校の四則演算であっても、それは何の不足もない。嘘だと思うなら、小学校算数の教科書を買ってきて、じっくり時間をかけて眺めてみてほしい。そこからいくつもの疑問が浮かび上がってくるだろう。そしてそれを解決するためにはなみなみならぬ思考力が必要だということがわかるはずだ。算数、決してバカにしてはならない。問題集の編集を20年、家庭教師を10年以上続けた私でさえ、未だに新たな発見があるぐらいなんだから。え? それは単純に能力が低いからだと…