「ライフチャンス」って?

最初、この「子どもの貧困とライフチャンス」の原本を受けとったとき、「なんじゃいな、これは」とおもった。というのも、門外漢の私にとってlifechanceといえば生存機会であり、すなわちそれは生きるか死ぬかの問題であるようにおもえたからだ。「そんな御大層な本なのか?」とおもったら、どうもそうではない。なんなんだろうとおもって序文を見た。

www.kamogawa.co.jp序文は、貴族院の議員だかなんだかの長老政治家が書いている。保守党で閣僚も務めたことがあるらしい。彼のいうライフチャンスは、単純に直訳したそのまま、「人生のチャンス」であるらしい。つまり、保守的政治のいう「平等」とは、「機会の平等」である。なんでもかんでも平等にするのは合理的ではないし、自由でもない。努力したひとが報われるのは当然で、その結果として不平等が生じたとしてもそれは公正なものだ。もしもそれが公正ではないとすれば、それは努力以前に機会が不平等にあたえられたときだ。努力したくてもその場があたえられなければ、結果としての貧困は公正ではないといえるだろう。だから、平等な社会というのは機会が平等にあたえられる社会のことであると、これが自由主義的な平等観であろう。人には豊かになる権利と同様に貧しく生きる権利もある。それが選択できることこそ自由であるといってもいいだろう。選択の余地がなく、その結果として貧富の差が生じるときに、それは自由でも平等でもない、ということになるはずだ。

「ライフチャンス」の「チャンス」は、まさにそういう意味で政策に盛り込まれてきたようだ。保守系の政治家が「子どもたちのライフチャンス」といったとき、「チャンスをしっかりあたえれば、あとは個人の努力で幸福はつかむものだ(幸福をつかめなければそれは自己責任だ)」という考え方があるようにおもう。この本は、そういう冷たい話なのだろうか。

序章にすすむと、どうもそうではない。序章はこの本全体の要約になっていて、ある意味、そこを読むだけでだいたいの主張がわかるようになっている。それによれば、「政府はライフチャンスの概念を社会移動に従属するものと考えている」が、「社会移動の概念だけでは狭すぎる」と、それに異議を唱えるのがこの本の論調であるらしい。

そして、第1章を読むと、「機会均等」とはまったく別な概念としての「ライフチャンス」が説明される。この概念は、社会学の元祖の一方とされるマックス・ウェーバーにまでさかのぼるのだという。社会学は、「社会」という実体が存在するとして、その力学をさぐるものだ。人間の目には、「社会」は見えない。それはちょうど、ニュートン力学において「力」が目に見えないのとおなじことだ。目に見えないものは扱えないとするのが穏当な人間の態度なのだけれど、見ることも触れることもできない「力」を測定可能な量でもって定義し、それが存在すると仮定することによって、ニュートン力学は多くの物体の挙動を説明するのに成功した。おなじように、社会学は目には見えないし触れることもできない「社会」の存在を定義づけることによって、その挙動を明らかにする。社会は目に見えないが、その構成要素である個人やその集団は見ることも触ることもできる。だからときどき私たちは、社会学に個人の運命の帰結を説明することをもとめてしまいそうになる。しかし、それは社会学ができることではない。なぜなら集団を構成する個人は、統計的、あるいは確率論的にしか社会の挙動に関係しないからだ。だから、個人は、その属する社会経済集団によって財を手にできるかどうかがかわってくるのだけれど、その帰結は確率としてしか語れない。すなわち、人生における運命の確率が社会階級に関連してくる。もちろんそれは、個人の立場から主体的に関与することもできる。そういった確率論的な運命のとらえかたが、すなわち「ライフチャンス」である、ということらしい。

別段、上記のような解説が事細かに書いてあるわけではない。だが、ウェーバーを持ち出しての学者っぽい説明を、私はそういうことだと理解した。おそらくこういう理解が、「聖なる」ライフチャンスなのだろう。その一方で、「貧困から抜け出せないのはそのチャンスがあたえられないからだ。チャンスさえあればあとは自助で豊かになれるじゃないか」という理解は、「俗な」ライフチャンスなのだろう。この俗な理解に立てば、ライフチャンスを改善することは、社会の固定化を打破することになる。市民革命以後の民主社会の基本的な出発点は、「人間は生まれながらに平等である」という観念だろう。平等であるがゆえに身分制度は廃止されねばならないし、出自による差別はなくさなければならない。しかし、ある社会階級に生まれたことがそのまま有利になるような構造は現にあるのだし、生まれながらに不利な立場に立たされてしまう人びとも少なくはない。しかし、たとえば貧困家庭に生まれてもきちんとチャンスをあたえられるのなら、あとは努力次第で豊かになれるのだから、平等性は確保される。つまり、憎むべきは社会的に有利な立場、不利な立場が存在することではなく、それが固定化することなのだ。固定化させないためには、不利な立場の人びとにつねにチャンスをあたえて、そこから脱出できるようにしてやらねばならない。これが「社会移動」の概念であって、だからこそ、「ライフチャンス」は「社会移動」に従属するものとなる。これが現にイギリス政府が2010年代なかばに採用した態度であり、貧困撲滅のための政策の文言の中に「ライフチャンス」が盛り込まれたゆえんであると、そういうふうに第1章は展開していく。

ウェーバー以来の「聖なる」ライフチャンスの概念を引っ張り出して、それに真正面から異議を唱えることもできるのかもしれない。だが、第1章を読んで、この本はそういう展開をしないのだとわかる。たぶん、「いや、そのライフチャンスって言葉の使い方、ちがうから」みたいにいいたい気持ちはあるのだろう。けれど、あえてそうはいわない。もちろん、フェビアン委員会の報告書を引用して、「ライフチャンスに取り組む前提としての社会移動の概念を明示的に拒絶している」と、真っ向から「ちがうよ」といってはいる。けれど、既に政策として文言化されたものをちゃぶ台返ししようとしてもむなしいのが実務的な態度だ。だから、この章では、「社会移動一辺倒の狭い先入観から」ライフチャンスをもっとひろいものとしてとらえようと提言している。つまり、聖と俗を対立させるのではなく、俗な理解をつつみこんだうえで、「でも、そのためにはそれだけじゃダメでしょう」とひきとっていこうというわけだ。

「個人のライフチャンスはその人の特性、努力、態度によってのみ形作られるものではなく……、ハシゴの高さや勾配、桁の間の距離によっても形成される」とし、「加えて、理由はなんであれ、社会移動の階梯を登れない人」がいることにも注意をはらうべきだとしている。結局、「もしもライフチャンスという言葉を社会移動を促進する機会均等の意味で使いたいんならそれもいいでしょう。けれど、だとしたら、そのライフチャンス政策はそれでいいんですか」と、「あえて相手の土俵に乗ることで」(と、監訳者が何度も言っていたのだけれど)、もっと根本的な問題に目を向けさせようということであるようだ。

ここまで読んできて、ようやくおぼろげになんの話をしたいのだかが見えてきた。そもそもこの本を企画した「子どもの貧困アクショングループ」は、子どもの貧困をなくすことを目指して活動している組織だ。よくある慈善事業ではない。慈善事業は個別の事情に対して支援するものであって、「困っているなら助けましょう」というのが基本スタンスだ。それはそれで美しいものであるし、あるべきものだろう。だが、社会学が相手にする「社会」という存在は、個別の事情の集積ではない。あるいは、個別の事情の集積を分析することによって見えてくるものだ。「社会」の挙動や性質が見えてくるとして、それをかえていくのは個別の事情を個別に解決していくことではない。そうではなく、社会のしくみや動力に変更を加えることで個別の事情が発生する力学をかえようとするものだ。だから(日本語版向けに追加された前文によれば)、「子どもの貧困アクショングループ」は政策提言や裁判をつうじて判例をつくる活動(イギリスでは判例は法令とならんで重視されている)など、しくみをかえる活動に力を入れているわけだ。個別の事情に対しては、慈善ではなく、「研修、相談、情報提供」で改善をはたらきかけている。そういう組織が、理想をたもちつつも、実務的、実利的に保守党政権に政策提言をねじこんでいくために書かれた本がこの本で、だからこそ、怪しげな「ライフチャンス」の概念を怪しげなままに、「でも、それならもっと必要なことがあるでしょう」と引っ張っていこうというわけだ。

奇妙な本に関わったなとおもった。だが、すこしうらやましいなともおもった。この日本では、貧困の話になると、とたんに「それは生活がだらしないからだ」式の自己責任論がとびだしてくる。統計的に発生する事象の発生確率を減らそうという議論をしているのに、事象の個別の細かな事情をあげつらう。そんな言葉がとびかうのにうんざりするのだけれど、イギリスでは政府でさえ、子どもの貧困撲滅が最優先課題であることをみとめている。そういった共通認識が成立しているからこそ、「それを達成するのにライフチャンスが必要だっていうんだね。だったらそれをやりましょうよ。で、そのライフチャンスって、単純に成功へのチャンスをぶら下げることだけじゃないですよね」って議論が成り立つわけだ。

じゃあ、そういう議論がどんなふうに展開していくのか、それは第2章以下ということになる。

 

(次回につづく)