信用と疑念の連続体の上を歩きながら

“You were about to confide it to Monsieur Bonacieux,” said D’Artagnan, with chagrin.

“As one confides a letter to the hollow of a tree, to the wing of a pigeon, to the collar of a dog.”

「ボナシュー氏なら信用して託そうとしていたのに」ダルタニャンは悔しそうに言った。

「木のうろ、伝書鳩の羽、犬の首輪に手紙を託すくらいには」

(「三銃士」18章より)

「信用する」とか「信頼する」という言葉の意味をあまり深く考えずに使っていた中学生の私は、この一節に遭遇したときに新鮮な驚きを覚えた。「信じる」というのは全面的にそれを真実である、間違いがないとみなすことだと思っていたのに、「この程度までなら期待できるだろう」という推定でも、人は信じることができる。信じることと疑うことは2つの対立する概念ではなく連続体である。そのことをこの19世紀の大作は若かった私に教えてくれたわけだ。

実際、「絶対的に正しい」とそこに依存をするのは宗教でしかない。この複雑怪奇な人間社会を渡り歩くときには、疑いながら信じ、信じながら疑う態度がないと大怪我をする。人間相手の話だけでもない。3月の高山の稜線を歩くとき、足もとの雪の安定性を信じなければ一歩だって踏み出せないし、同時に常に疑わなければ雪崩や雪庇の崩落は防げない。デカルトは自分自身が疑うことは疑えないと詭弁を弄したが、そんなものは屁理屈でしかなくて、疑っている自分自身が誰かの夢の中の存在でしかないという可能性は、けっして捨てられるものではない。ま、その夢を見ている存在がその場合は実存してなきゃならんのだけれど。

そんなふうに疑いを捨てきれない世界を生きていくときに重要なのは、常に情報を更新し続けることと、その情報をもとに自分自身の頭を使うことだ。いわゆる「まなびてこれをおもわざれば…」というやつだ。考えることが重要なのは言うまでもなく、ただ考えているだけなら非常に危うい。新たな学びがなければならない。そして学びをもたらす情報は、多くの場合、他者の言葉としてもたらされる。人間は半分くらいは言葉でできている生物だといっても過言ではない。

 

はてなブックマークはてブ)を使うようになって長い。これはどっちかというと悪癖とか悪習に分類されることではあると思う。タバコとかパチンコとかに依存するのと類似の行動であるような気もする。どのくらいに依存しているかというと、はてブを3日も見ないと体調が悪くなるぐらいだ*1。ブックマーク・コメント(ブコメ)についた「はてなスター」を数えるのは最も低俗な趣味である。けれど、「お、今日は3桁に乗ったな」みたいなのが半分生きがいになってるのは、情けないけれど事実だ。そして、自分でコメントするだけでなく、ブコメをじっくり読む。もちろん興味のある記事についたものだけなのだけど、コメント数が少ない場合は全部、多い場合はスターのついたものを拾って、あまりに多すぎる場合は人気コメントだけでも読むことが多い。

何のためにそんなことをやってるのかというと、(まあ暇つぶし、気分転換のためではあるのだけれど)それは他者の言葉に触れるためだと言ってもいいのではないか。自分が思うこと、考えることと似たような言葉が見つかる場合もあれば、まったく異なる言葉が並んでいることもある。自分では思いつかないような言葉の中には、「ああ、そこまで考えないといけないんだなあ」と思えるものもあるし、「なに考えとんねん、こいつは」と思ってしまうものもある。けれど、後者のような場合であっても、「じゃあいったいどういう思考回路でそういう言葉が出てくるんだろう」と想像を巡らせてみるのはおもしろいし、また思いがけない発見をもたらしてくれたりもする。ときには完全に誤読していたり、誤解しているようなコメントにスターが集まっていることもあるけれど、そういう場合でも、「ああ、こういう文脈でこういうことを言うとこういうふうに受け取られてしまうんだなあ」と気づかせてくれたりもする。もちろん、そういうことの一切感じられない罵詈雑言や偏見の言葉に接することもあるが、そこは黙って目をそらす。いちいち突っかかっていてもしゃあないもん。戦うべき場所があるとしたら、それはコメント欄ではない。

 

そんなふうにブコメを見ていると、こういうことを考え、比較する人がいるのに驚く。いや、それ、比較の対象とちゃうやろと。

fromdusktildawn.hatenablog.com

いや、何を比べてもそれは自由だ。そういう視点があってもいい。けれど、「どっちが信用できるか」と信用度を比較するのは、そもそも「信じる」が「疑う」との連続体であるという立場からしたら、あまりにも問題の立て方がおかしいのではなかろうか。

そりゃ、論文に書かれたようなエビデンスなら、どの程度信用できるかは統計学でもなんでも動員して数字を出したらいい。そういう場合に「どっちが信用できるか」は、意味のある(significant)問いの立て方だろう。けれど、一方は単なるコメントであり、もう一方は世の中に流れている情報を継ぎ接ぎしてそれっぽくまとめた計算結果だ。どっちも連続体の任意のどこかに位置するのであって、それがどこに所在するかは「場合による」としかいえないのではなかろうか。

 

世の中、定量的に物事を語ることが唯一の正解であるという風潮があって、それはそれでとても有用だと思う。けれど、こういうときこそ定性的に物事を捉えるべきではないのだろうか。世界はそのぐらいに曖昧で、模糊としている。それでも私たちはそこを歩んでいかなければいけない。雪庇を踏み抜かないことを祈りながら。

 

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【追記】

上記の引用ブログを読んだときの違和感を「問題の立て方がおかしい」とまとめたのが本記事なんだけど、その後、ひょっとしたらこれは日本語に冠詞がない構造のせいではないかと思い至った。そっちで書いたほうがおもしろかった気もするが、ひとつのネタで2つの記事を書くと粘着してるみたいで嫌だし、めんどくさいので概略だけ追記しとく。

英語なら基本はすべての名詞には冠詞がつく。もちろん例外のほうが多いのだけど、原則はそうだ。それによっかかって論理が展開する。特定されているときは定冠詞のtheで不特定の場合は不定冠詞のaとか、この辺は長く引っ張るネタも多いのだけど、まあ広く知られたことでもある。複数形の場合はaがつけられないので、見かけ上は冠詞のない名詞になる(が、本質は不定冠詞がついている)。

で、「ChatGPT(の出力結果)」と「はてブの人気コメ」を比較しているのだけれど、これが定冠詞付きか不定冠詞付きか、不特定なら単数か複数かで、英語の論理的にはテーマがまったく変わってしまう。ところが日本語では、そこを曖昧にすることで、よくいえば議論をふくらませる、悪くいえば炎上にガソリンを注ぐことができるようになっている。この記事の場合、特定の元記事に対するブコメとそれを検証するChatGPTの出力なのだからある意味、定冠詞付きになるべきものだ。ただ、それが「1サンプルを出しましたよ」なら不定冠詞でもいい。あるいは複数形なら(それはこの記事には相当しないのだけれど)複数のサンプルを用いたことになる。このあたりが文法的にはっきりしているかどうかは、実はとても重要だ。

ちょうど昨日、「aとtheの違いを教えてください」という質問を受けた直後だったんで、タイミング的にはおもしろいのが書けただろうにな。ちょっと悔しい。

*1:これは典型的な相関関係と因果関係の誤謬で、つまりははてブを3日も覗けないぐらいに忙しいと、忙しさのせいで体調が低下するということであるわけだけれど