若い頃の本棚の中身が出てきた

死んだ父親は営業職から早い退職をして以後の人生後半を自宅の片隅にしつらえた町工場で製袋加工を営んでいた(ちなみにこの工場はもともと母親の個人事業だったから、「どっちが社長か」というのは微妙だ)。しっかり稼いでいたのだけれど、マラソンを引退してしばらくして、事業の方からも引退をした。ただ、事業をすっかり畳むのではなく、従業員として有能だと目をつけた人に場所・機械とも引き継いだ。だから以後、現在に至るまで、私の親の家では、同じ敷地内に別の人が営む小さな工場が営業している。

個人事業で生活と事業の境目が曖昧になるのはよくあることで、両親は工場を改装するために子どもの部屋を撤去した際にそこにあったガラクタ類を一時的に工場内に置いた。そのほとんどは後に別の場所に移されていたのだけれど、私の部屋にあった書棚の内容物の一部が天井の梁の上に取り残されていた。数日前、この工場で設備更新があって、長らくホコリまみれになっていた古本が返却された。最も興味深かったのはホコリよけに被せてあったポリエチレン袋の劣化具合で、「なるほど、ポリエチレンは紫外線が当たらなくても30年も経つとこんなふうに分解していくんだ」と、認識を改めた。本そのものは、まあ高校生から大学生ぐらいの時期に毎日のように背表紙を眺めていたものばかりだから珍しくもなかった。それでも、自宅に持ち帰ってホコリを払っているうちに、いろいろと思うところもあった。なので、ちょっとそこのところをメモしておこうと思う。私以外の人が読んでも、別に面白くもないだろうな。以下、出てきた本をすべてリストアップして、それぞれにコメントをつけていく。

 

赤毛のアン」「アンの青春」「アンの婚約」「アンの愛の手紙」(モンゴメリ、訳・村岡花子、中村佐喜子、新潮文庫・角川文庫)

これを読んだのは大学生のときだ。私の中でこういう小説は「女の子の読むもの」であって自分とは縁がないと思っていたのだが、高校の同級生の勧めで読んでみたらやたらと面白かった。「騙された!」と思った。もっとも、誰かが私を騙したわけではなく、「世の中には男の子向けと女の子向けの2つの世界がある」という常識を受け入れていた自分自身に自分が騙されていたわけだ。以後、私は自分の思い込みを疑うようになった。そういう意味では私に与えた影響は非常に大きい。また、この本を読むうちに、「これって原文でどうなっているの」と興味が芽生え、そこから英語の本を読むようになった。私が最初に読了できたペーパーバック本がAnne of Greengablesだ。そういう意味でも、私の人生に与えた影響が最も大きい本といっていいのかもしれない。ただし、このシリーズは巻が進むにつれて鼻につくようになっていくので、最後までは読み切っていない。

「ブラウン神父の知恵」「ブラウン神父の不信」「ブラウン神父の秘密」(G・K・チェスタトン、訳・福田恆存、中村保男、創元推理文庫

中学生の頃から高校1年生の頃にかけて、ブラウン神父は私のヒーローだった。小学生の頃に子ども向けバージョンのシャーロック・ホームズにはまり、中学になると新潮文庫でそれを完全になぞり返した。そうやって推理小説の基礎を学んだ次に新たな展開をもたらしてくれたのが、これらチェスタトンの名作だった。その後、読みたくなってもなかなかめぐりあうことができなかっただけに、この発掘は嬉しい。

ムーミン谷の彗星」「たのしいムーミン一家」(ヤンソン、訳・山室静、下村隆一、講談社文庫)

子どもの頃に「たのしいムーミン一家」の本を親からプレゼントしてもらった。まだムーミンのアニメが始まる前で、そういう意味では純粋なムーミンに触れることができた私は、その本をとても気に入っていた。それが、なぜかその本はあるときに処分されてしまっていた。事情はもう覚えていない。けれど強烈な印象を私に残したので、後に文庫本で手に入れたのだと思う。ちなみに「彗星」の方は後になってから買って読んだのだけれど、そのときは初めて読んだような気がした。そういう意味では、当時の私にとっては印象の薄い話だったのかもしれない。

月世界旅行」「地底旅行」「八十日間世界一周」(ヴェルヌ、訳・赤坂長義、石川湧、江口清、角川文庫)

八十日間世界一周は何度も読んだ。たぶん高校一年生の頃だと思う。大学生になっても読み返していて、そのときの記憶、たとえばインド横断のエピソードや開国期日本の描写、アメリカ人の気質なんかは、たぶんその後の世界史の講義をするときの私の中の基本的なイメージの一部を形作っている。時差と日付変更線のネタは、いまでも中学理科で使うし。地底旅行の方も冒険が始まるまでのエピソードは割と印象深いのだけれど、そこから先がぼんやりしているのは、やっぱり時代が古びるといまひとつ山場がショボくなるからなんだろう。月世界旅行の方はまったく印象がない。カバーがかかっているので、ひょっとしたらこれは兄の蔵書であったかもしれない。私は買ってすぐに本屋でかけてくれるカバーは外す方だった。兄はむしろそれを補強するぐらいのタイプだったから。

「失われた世界」「地球最後の日」(ドイル、訳・永井淳、角川文庫)

コナン・ドイルは、もちろんシャーロック・ホームズものの著者として知っていたのだけれど、高校時代に入手したこのチャレンジャー教授シリーズの2冊は推理小説以上に私のお気に入りだった。チャレンジャー教授ものはもう1冊あったように思うのだけれど、記憶違いなのかなあ。

百億の昼と千億の夜」(光瀬龍、ハヤカワ文庫)

萩尾望都の漫画で有名な作品だけれど、その原作。妻と結婚したての頃にこの話題になって、彼女が原作があると知らなくて、私は漫画があると知らなかった。ぜひ原作を読ませたいと思っていたのだが、ずっと見つからなかったのが、こんなところにあったのかという感じ。内容はほぼ覚えているけれど、もう1回、読み返してみようと思う。

注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」(宮沢賢治、角川文庫、新潮文庫

宮沢賢治は息子に読ませてやろうと実家から昔の自分の蔵書を回収してきていた。いくつかお気に入りの話が抜けているなあと思っていたのだけれど、そうか、ここに3冊まぎれこんでいたのか。

「ノックの音が」「声の網」「おみそれ社会」(星新一講談社文庫)

文庫本を買うようになったのは中学1年の頃だと思っていたのだけれど、小学生のときの友達に星新一の面白さを力説して「ボッコちゃん」の文庫本を貸した記憶まであるので、ということは小学校の6年生頃からそろそろと文庫本に手を出していたのだろうか。最初に買った本屋は市場の片隅にあった小さな本屋で、それでも岩波文庫が並んでいたのだから昭和の本屋文化というのはなかなかたいしたものだった。星新一は最初は新潮文庫で集めていた。講談社文庫が一気にシェアを広げてきたのは私が高校生の頃なので、この3冊は最後の方で買い足したものなのかもしれない。

「そこなし森の話」「名なしの童子」「おばあさんの飛行機」(佐藤さとる講談社文庫)

佐藤さとるは、コロボックルのシリーズに魅せられた。中学2年生の頃だと思う。コロボックルのシリーズは完結してしまったので、他の作品をさがして、この「ファンタジー童話集」を見つけたのだと思う。いまの分類だと、こういうファンタジーはロー・ファンタジーになるのだろう。そういう世界で長く遊んだことで、やがて「指輪物語」というハイ・ファンタジーの大作が読めるようになったのだと思う。

「われら動物みな兄弟」「ムツゴロウの結婚記」「ムツ・ゴーロの怪事件」(畑正憲、角川文庫、文春文庫)

畑正憲は、小学生の頃から読んでいた。たぶん、当時毎朝聞いていたラジオ番組、朝日放送の「おはようパーソナリティ」で北海道に移住したばかりの畑正憲ことムツゴロウ氏が登場して、両親のどちらかが「おもろいやんか」と「どんべえ物語」のハードカバーを買ってきたのが最初だと思う。ちなみに、両親はどちらも読書家ではない。なので、買ってきても実際に読んだのは兄と私で、ハマったのは私だった。ただし、畑正憲が後の売れっ子時代から思えばまだ下積み時代ともいえる頃に書いた名作「われら動物みな兄弟」の方は、本屋のカバーがかかっていて兄の丸っこい字で背表紙に表題が書いてあるから、兄の蔵書だ。ハードカバーの何冊かと文庫本の主要部分は以前に回収していたが、まだここに3冊残っていたんだな。

「山のむこうは青い海だった」(今江祥智、角川文庫)

高校2年生の頃に読書はスランプに落ち込んだのだけれど、その頃に買った本。なにかスランプ脱出のヒントになればと思ったのだろうけれど、こっちの方向には進めなかったようで、あんまり印象もない。

「ねこに未来はない」(長田弘、角川文庫)

こちらも同様に、読書がしんどいくなって、「なにか軽くて楽しいものが読みたいな」思ってタイトルに惹かれて買ったのだと思う。ただ、やはり、タイトル以外にはあまり印象に残っている内容ではない。なぜ「ねこに未来はない」のかの説明だけは、覚えている。

星の牧場」(庄野英二、角川文庫)

小学生の頃に親に買ってもらった本で、「雲の中のにじ」という小説がやたらと気に入っていた。いや、いまでも戦後のある時代の日本や西アジアの様子をイメージするときにこの小説の中身を思い出したりもする。よくできた物語だと思って、これは早くに実家から回収してきていた。その同じ作者の作品ということで、書店で見つけて喜び勇んで買ったのだと思う。ただ、案に相違していまひとつ惹かれなかった。だから内容は覚えていない。年齢を重ねてどう感想が変わるのか、読み返してみたいな。

れとると(なだいなだ、角川文庫)

今回発掘されたシリーズにはないのだけれど、私の最初の文芸ヒーローは北杜夫だった。なぜだかわからないが、親の本棚に1冊「幽霊」という初期の小説があって、やがてそれがユーモラスな「どくとるマンボウ」と同一人物であるとわかって、そのギャップから惹かれたのかもしれない。その北杜夫からの連関で読むようになったのが辻邦夫であり、なだいなだだった。もっとも、大作を多く遺した辻邦夫にくらべれば、なだいなだはエッセイストという感じが強い。この「れとると」は小説なのだけれど、残念なことにまるで印象に残っていない。最後まで読まなかったのかもしれない。新書の「権威と権力」はだいぶ読み込んだんだけどな。

「龍の子太郎・ふたりのイーダ」「日本の伝説」(上・下)(松谷みよ子講談社文庫)

以前に回収した本の中にグリム童話全集やアンデルセン童話全集、ペローの童話なんかもあったから、高校から大学の頃には民話・童話の類を割と読んでいたのだと思う。そういった物語の原型になるものを探し求めていたのだろうけれど、結局自分のものにはならなかったと思う。柳田國男の本ぐらいなのかな、その後に自分の中で印象に残り続けたのは。

「全訳 源氏物語」(中・下)(与謝野晶子、角川文庫)

なぜか上巻が欠落しているのだけれど、これは以前に回収していたかもしれない。私はこれを読むまで、恥ずかしい話だけれど「源氏物語」は「平家物語」みたいなものだと思っていた。たぶん高校生だったと思うのだけれど、源氏物語は十分以上に衝撃だった。なんでこんな大作が平安時代に存在できたのかと呆然となった。もちろん古文で読むだけの力はなかったので、以後、谷崎訳とかあるいはサイデンスティッカー訳とかを漁るきっかけになった。図書館で見つかる範囲だったけれど、源氏物語の研究書なんかも読んだなあ。

金閣寺」(三島由紀夫新潮文庫

読んだのは読んだのだけれど、正直なところ、あまりおもしろいとは思わなかった。肌に合わなかったんだろうな。この時期、「どんな本でも3度読むまでは読んだうちに入らない」という主義だったので無理をして3度は読んだのだけれど、最後の方はちょっと苦痛だった。

「さまよえる湖」(ヘディン、訳・岩村忍、角川文庫)

これは兄の蔵書のはず。ただ、内容はいまでも思い出す。特に最近の世界史はユーラシア大陸全体で語ることが多いので、この本を読んだことはその理解を助けてくれている。

「東方見聞録」(ポーロ、訳・青木富太郎、教養文庫

これを読んでいたとは思わなかった。もっとも、途中まででカバーを折り込んであるので、そこまでしか読んでいなかったのかもしれない。実家を出る直前の大学生の頃のことかもしれない。

「死者の博物誌・密告」(ヘミングウェイ、訳・谷口陸男、岩波文庫

ヘミングウェイも「老人と海」とか、いくつか読んだのだけれど、いまひとつピンとこない作家だった。確か洋書でも別の作品を読んでる。アメリカの夏目漱石みたいなとこがあるから「このくらい読んどかなきゃ」という義務感で読んだんだろうな。この本の中身も覚えていない。

ギリシア神話」(アポロドーロス、訳・高津春繁、岩波文庫

幼年期に親が子どもたちにと買い与えてくれていた物語の全集(昭和の昔にはこういう「全集モノ」が流行した)に「ギリシアの神話」という巻があった。それを見ても「なんのこっちゃ?」だったので、ギリシア神話はもっとちゃんと知りたいとずっと思ってきた。いまも思ってはいるが、やっぱりよくわからない。この本もそういうつもりで買ったのだと思うが、いまだによくわからないということは、ちゃんと読みきれずに挫折したのかもしれない。

「饗宴」(プラトン、訳・山本光雄、角川文庫)

教養を身につけたくとも、まずは出発点となる教養が必要なのだなあと思う。たぶん、「学校でいろいろ哲学者の名前は聞いたけど、結局何を言いたかったのかよくわからんわ。やっぱり原著を読まなきゃ」と思って、プラトンの名前でこの本を買ったのだろう。けれど、「饗宴」はプラトンの入門書にはふさわしくない。なぜこれを買ったのかはだいたい想像がつく。薄いからだ。薄いから、門外漢の自分でも読めるんじゃないかと思ったにちがいない。それから、題名だ。宴会の話なら気楽に読めるんじゃないかと思ったのだろう。基礎になる教養がないから、こういうトンチンカンなことをする。内容の記憶がまったくないから、そういうことなんだろうな。

「日本音楽の再発見」(團伊玖磨小泉文夫講談社現代新書

坂本龍一の訃報に際してその師匠筋にあたる小泉文夫の名前を目にした。私はそっち方面の音楽には詳しくないのだけれど、「あ、この人、知ってるわ」と思った。なぜ知っているのかまったくわからなかったのだけれど、そうか、高校生だか大学生だったかのときにこの本を読んでいたわけか。とはいえ、内容、まったく覚えていない。

「物理の世界」(湯川英樹・片山泰久・山田英二、講談社現代新書

高校生に物理の講義をするときには、かなり緊張する。ニュートン力学は大学が機械系なんでわからないわけはないのだけれど、20世紀以後の物理学はきちんと学んだことがないからだ。それでもどうにかこうにか「おはなし」として講義をまとめ上げられるのは、(もちろん教科書があるからではあるけれど)、若い頃にこういった一般向けの読み物をいろいろと読んでいたおかげかもしれない。当時、内容をしっかり理解していたかはだいぶ怪しいし、またその怪しげな理解がいまにつながっている気もしない。けれど、言葉や概念について「ああ、これ、見たことあるわ」的な感覚が、どこかで役立っているのだろう。

マックスウェルの悪魔」(都筑卓司講談社ブルーバックス

熱力学の話なのだけれど、大学の授業で学ぶ熱力学とあんまり結びつけて考えずに「なんか面白そうな読み物」的に消費していたような気がする。バラバラの情報をまとめ上げていくだけの素養がなかったわけだ。とはいえ、いま多少なりともそういう力があるとすれば、それはやっぱりこういった断片的な情報に若い頃にたくさん触れていたことがなんらかの基礎をつくってくれたのだろうと思う。これはまちがいなく高校生の頃の読書。

「飛行機はなぜ飛ぶか」(近藤次郎、講談社ブルーバックス

大学では航空工学科にいたのだけれど、この本がそれ以前の高校生のときに買ったものだか、それとも大学生をやってたときに買ったのだか、よくわからない。もともと小学生の頃は軍事オタクだったので、第二次世界大戦中の日本の軍用機の諸元をほぼソラで言えるぐらいには飛行機に関心があった。ただ、そういったマニアックな関心は中学3年生ぐらいから急速に薄れ、航空工学科に進んだのもたまたまそこに合格したからに過ぎない。だから、なぜ「飛行機はなぜ飛ぶか」みたいな本を買ったのかもさっぱりわからない。ひょっとしたら大学の講義があんまりにもわからなかったものだから、「せめて一般向けの入門書ぐらいの知識は仕入れておかないと」みたいに思ったのかもしれない。いずれにせよ、中身はまったく覚えていない。

錬金術」(ユタン、訳・有田忠郎白水社文庫クセジュ

魔法とか忍術とかの怪しげな世界に惹かれるのは若い頃ならではなのだけれど、錬金術関係の本は何冊か読んだ。これはそのうちの1冊だ。牽強付会すればこれは高校生に化学の講義をするときにいくらかの役に立っているのだけれど、具体的な書物の内容は完全に忘れている。その頃は、たとえば硫黄がどういう物質なのか見たことも触ったこともないと思っていたし、歴史に関する理解も浅かった。だから書かれてあることが断片的な情報としてしか入ってこなかったのだろう。

「教師」(国分一太郎岩波新書

いま私はオンライン家庭教師をやっているわけだけれど、いままでの生涯で「教師になりたい」みたいに思ったことは一度もなかった。むしろ、教師は敵であり、滅ぼさねばならないものだと一貫して思ってきた。なのに、この本が出てきたのは不可思議だ。読んだ記憶もまったくない。でも、たぶん読んでいるんだろうな。奇妙だ。

「宇宙と星」(畑中武夫、岩波新書

天文学は私が最も苦手にする分野のひとつだ。まず、星の名前が覚えられない。距離や時間が「天文学的」に巨大で、イメージがわかない。おそらくそういう自覚があったことがこの本を買ったことにつながったのだと思うけれど、いまだに苦手感が消えないということは、たいした効果がなかったのだろう。

「時間」(滝浦静雄岩波新書

今回の発掘で、いちばん「あっ」と驚いたのはこの本だ。1年あまり前、目標、努力、成功、成長について - 流れ去る時間と円環する時間という記事を書いたのだけれど、そのなかで、

ずいぶん古い読書で得た知識なのでもう出典も定かではないのだけれど(調べたら案外と簡単にわかることなのかもしれないけれど)、近代西欧的な時間の観念は、直線的なものなのだそうだ。(中略)その一方で、人類の歴史の中では西欧近代的な時間の観念は特異的なものであると、その書物には記されていた。もともと人類は、円環する時間の中を生きていた。

と書いた。このネタ元がこの「時間」という本だったのだ。ただ、ここでは直線的な時間はキリスト教的であり、円環する時間はそれ以前の古代ギリシア的なものであるみたいに書いてある。ということは、もう少し別のネタが合わさっているのかもしれない。いずれにせよ、この小むづかしい哲学に関する議論の大半は忘れ去っていたのだけれど、断片的な記憶が何十年を経て残っていたのは驚きだ。

アメリカ南部の旅」(猿谷要岩波新書

アメリカの公民権運動の話なのだが、もともとそういった社会的な事象に興味がなかった私がなぜこの本を手にしたのかわからない。ひとつ推測されるのは、オールマン・ブラザース・バンドやレナードスキナードなんかの「サザン・ロック」が好きだったから、その背景を知りたいと思ったのではないかということだ。そこまでも考えていなかったのかもしれない。具体的な内容は何一つ覚えていないけれど、たぶん、いまの社会理解の基礎ぐらいにはなっている。

「イタリア人」(山崎功、講談社現代新書

これはアメリカ南部の旅以上に謎で、イタリアに対してなにか知りたいと思うような動機はたぶん何もない。動機がなにもないぐらいに未知の世界だから、逆に気になったのかもしれない。ただ、あとにはなにも残らなかった。

「ヨーロッパとは何か」(増田四郎、岩波新書

ヨーロッパについても、イタリア人ぐらいにはなにも知らない。だからこういう表題に惹かれたのだと思うが、もっとちゃんと中身を理解して読めば勉強になったはずなのに、あんまりわからないままに字面だけ追いかけたのだろう。なにも印象に残っていない。

「ヨーロッパの言語」(泉井久之助岩波新書

この本だけでなく、ドイツ語、フランス語などをテーマにした新書を高校生時代に好んで読んでいた。ちょうど、「英会話学習法」みたいなサイトを好んでブックマークするようなもんではないかと思う。いろいろな言語に興味はあるのだが、地道に基礎から勉強しようという根気はない。なので、いきおい、通俗的な新書に手を出す。この本は通俗書の範疇を離れたかなりごっつい専門書なので、たぶん読み通せてないのではなかろうか。これが理解できていたら、もうちょっとマシな翻訳者になれていたような気がする。

ルネサンスの思想家たち」(野田又男、岩波新書

これも相当にしっかりした本なので、ちゃんと読みこなせていたら後の私にかなり有益な基礎になったはずだ。けれど、たぶん斜めに読んできちんとした理解はしなかったのだろうな。何も残っていない*1

「十字軍」(樋口倫介、岩波新書

十字軍はヨーロッパ史においていろんな角度から興味深い現象なのだけれど、世界史の教科書なんかだと「いったいこれは何なんだ?」と疑問が膨らむばかりでさっぱりわからない。このぐらいしっかりした本を読めば多少は理解できるのだろうけれど、これを読んでも私にはやっぱり何のことかよくわからない感覚だけが残った。読む側の実力不足だ。ただ、これに関しては、読んだことも、内容の断片も、かすかには記憶に残っている。

騎馬民族国家」(江上波夫中公新書

有名な本だし、「おもしろかった」という読後感だけはおぼえている。けれど、いまパラパラとめくってみたら、まったく予想していた内容とはちがう。読み直してみなければならない。

「悲風の大決戦」(伊藤正徳他、集英社

今回発掘されたものの中では珍しく親が子どもたちに買ってくれた本だ。インパール作戦とか載っている。子ども向けの「ジュニア版 太平洋戦史」のシリーズで、確か「開戦百日の栄光」という巻を読んで感銘を受けた兄が頼んで買ってもらったのだと思う。ちなみに、インパール作戦はけっこう美化されている。

「丸グラフィッククォータリー20」(潮書房)

小学生の頃に「戦記モノ」にハマった私は、中学生になる頃には立派な軍事オタクだった。その頃に愛読していたのは「丸」という雑誌の「エキストラ版」という月刊誌だった。ちなみに「丸」本体のほうが書店には多く見られたのだが、なんだか敷居が高かった。「エキストラ版」のほうが読み物や写真が多く、中学生にはとっつきやすかった。とはいえ、そこに掲載されていたのは残酷で野蛮な戦争の回顧録であり、そういった残虐行為を懐かしい青春を振り返るように書く人間の心理の複雑さを学ぶことにもなった。今回の発掘でいちばん期待していたのは実はこの「丸 エキストラ版」だったが、1冊も出てこなかった。たぶん「こんな雑誌、価値はない」と思って軍事オタクを卒業していた私は未練もなく廃棄したのだと思う。「あなたが無価値だと思ったものほど価値がある」とは、すべてのオタクに言っておきたい教訓だ。あの残虐行為を赤裸々に語った「エキストラ版」の記事たちは、確かに戦争というものの本性を表していると、ウクライナパレスチナの戦争を見るにつけ、思う*2

「グラフィックアクション ノルマンジー上陸作戦」(文林堂)

軍事オタクにも専門はあって、私は帝国海軍にしか興味がなかった。ついでのように陸軍の飛行機ぐらいはチェックしていたが、ヨーロッパ戦線にはたいして興味がなかった。その私の興味をヒトラーロンメル将軍に向けたのは、中2のときの同級生の宮田くんだ。彼は彼で旧ドイツ軍のオタクだった。だからこの本は、まちがいなく中2のときに買ったものにちがいない。このあたりの基礎知識は、後に3冊めの本を訳したときにすこしは役に立った

チャタレイ夫人の恋人」(上・下)(ロレンス、訳・飯島淳秀、三笠書房

これは親の本だ。私の両親にはどちらも読書の習慣はなかった。家に文学全集はあったが、それは単純に当時そういうのが流行っていたからであって、一頁も開かれた形跡はなかった。まったく読まなかったのかといえば、父親の方は松下幸之助の書いたビジネス書みたいなのをチラチラと読んでいたし、母親は年をとってからは俳句の会に入って会報なんかを読んでいた。だから読書と無縁とまではいえないのだけれど、それにしてもなぜこの「チャタレイ夫人の恋人」みたいな本が親の書棚にあったのかは謎だ。案外と、当時「チャタレイ裁判」が話題になっていたから、好奇心だけで買ったのかもしれない。たいして面白そうでもなかったので、私は子ども時代に手にとったことはなかったし、いまも読みたいとはあんまり思わない。

「女の日記」(林芙美子河出新書

これも親の本だが、たぶん母親が結婚前に読んでいたのだろう。母親は古臭い人間ではあるが、それは単純に時代が変化しているからであって、若い頃はかなり進歩的な人間だったようだ。進歩的というよりも常識にとらわれない、むしろ常識を破ることを痛快だと思うようなひとだった。だから現代ならフェミニストぐらいにはなっていたかもしれない。そういう片鱗が、この本に見えるような気がする。とはいえ、中身は知らない。

「パズル大学」「ロス五輪がビッグに楽しめるおもしろハンドブック」

親の書架にあったのは、だいたいがこういった毒にも薬にもならないような本だった。もっとも、こういうものでも百年置いておけば価値が出るかもしれないな。

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実に雑多な本たちだが、これで当時の私の蔵書の1割ぐらいだろうか。全部並べたらもっとカオスだろう。混沌のなかから、いまの自分が形作られてきたのだなあと、改めて思う。あと、「若い頃は買った本は必ず3度は繰り返して読んだ」と思っていたのだけれど、これだけ覚えていない本が多いということは、読もうとしても読めなかった本も少なからずあるのだろう。積読の数はいまよりは少ないかもしれないが、なに、若い頃だってそこまで体力があったわけでもないんだな。

さて、これを置く場所が、あるんだろうか?

*1:その後、再読し始めたのだけれど、こちらも「あ、そうだったのか」と驚いたことがあった。20年少し前、妻と結婚した後に「マトリックス」のRevolutionが公開された。それを機会に見逃していた「マトリックス」とReloadedを一緒にビデオで見たのだが、「え、これって自由意志論やん」と思って、新婚当時の妻にキリスト教神学の自由意志論争について講釈を垂れた。その知識はどうせネットから拾ったのだろうと思ってたけど、考えてみたら当時はまだいまのようにインターネットは普及していなかったし、そう思えば「あれはいったいどこから来たんだろう」と改めて不思議になる。その源が、どうやらこの本だったようだ。多少は意識の奥底に残ってたんだなあ

*2:これを書いて数日後、古本屋で「丸」のエキストラ版を見かけた。平成になってからのもので、版元も判型も変わっていた。内容も、著者陣の世代が変わってしまったようで、だいぶ異なっていた。やっぱり昭和はカオスだったなあ