「高三の夏休み」の比喩がわからない

はてなの有名人のシロクマ先生のブログは、語り口が柔らかくて、読んでいて気もちがいい。だから割と楽しみにしていて、私がいつも見ている「お気に入り」のリストにあがってくるとたいてい読んでいる(そしてシロクマ先生の記事はたいてい誰かがブクマしている)。読者であると言って差し支えないと思う。ただ、ときどき、シロクマ先生の感性がよくわからないことがある。以前、このブログでも、シロクマ先生の記事に触発されてひとつ書いたことがある。生きる世界がちがうこともあって、どこか理解し合えないところもあると思っている。

それはほとんどの人がそうなのであって、そのこと自体にどうという感慨もない。私は自分自身の親きょうだい、息子とでさえ、わかりあえない部分をもっている。人間と人間はそういうもんだし、また、そういうことがなければ人生おもしろくもないと思う。ちがっている人間同士がたまに重なるから、「ほう!」と膝を打つわけだ。そういう楽しみは、ちがっていることが前提だと思う。私がシロクマ先生のブログを楽しみにしているのも、そういうことなのだろう。

ただ、読んで、よくわからなければ上記のようにブログにも書くし、ブックマークした際のコメントにも書く。今朝も、こちらのブログ記事にこんなコメントを残した。

p-shirokuma.hatenadiary.com

高3の夏休みが何の比喩だかわからなくて、何度か行きつ戻りつして、「ああ、受験勉強で頑張ることが当然の世界に生きてた人なんだなあ」と思い至った。数百年後の国語教師が注釈をつけるんだろうな。 - mazmot のブックマーク / はてなブックマーク

私としてはブックマークのコメントでだれかと会話をしているつもりもなく、単なる独り言やメモに過ぎないのだけれど、これに対して、驚いたことにシロクマ先生からコメントを頂いた。

ひつじ雲を見上げ、今日も明日も生ききろうと思う - シロクマの屑籠

<a href="/mazmot/">id:mazmot</a> この文章のうちには受験という単語は登場しないのに、なぜそういう推測になったのかわかりませんでした。私の高校三年生の夏休みは楽しく忘れがたいものだったので、そのようにありたいと思っています。

2022/11/04 15:33

b.hatena.ne.jp

これは恐縮で、私が誤解をしていたことを指摘されて、まあ、恥ずかしくもある。ただ、なんか釈然としないものは残る。楽しい思い出があったとして、それが比喩として成立するものだろうかと。比喩というのは共有されているイメージがあって、それによって成立するものではないのだろうか。つまり、「高校三年生の夏休み」は、そのまま「楽しかったひととき」の比喩になりうるのだろうか、ということだ。

正直、ここはわからない。なぜなら、私はたぶん、私の周囲の人々とは明らかに異なった高校三年生を過ごしたからだ。そして、それは当時の私の周囲の人々(つまりは進学校の同級生)以外の高校三年生ともちがう。ひとことでいって、それはなにひとつ変わったことのない、ごくあたりまえな夏として過ぎていった。そして、たぶんそれは多くの人の経験とはちがう。

振り返ってみたらけっしてそうではないということがわかるのだけれど、そこを生きていた当時の感覚として、私は極端に「何事も起こらない」人生を生きていた。すべての事件は、すべて私とは無関係な場所で起こり、無関係に終わっていった。学校にまつわるさまざまなエキサイティングな出来事はすべて私の頭の上を通り過ぎていき、私の近くには着弾しない。まるで周囲にバリアがはられたように、私のまわりは無風地帯で、私は世の中に対して何の働きかけもできず、そして世の中から何の働きかけもされない存在だった。

だから、高校三年生の夏休みといわれても、それはその前後の一学期、二学期の生活とほぼ同じであり、またその前年の夏休みとも、そして感覚としては山岳部に入って山に入り浸っていたはずのその翌年の夏休みとも、感覚的には同じだった。私はどこまでも無風地帯にいて、退屈しているか、さもなくば見えない恐怖におびえるか、それを紛らすためにひたすら本を読んでいるか、うまくならないギターに絶望しながら指先に傷をつけているか、まあ、そのどれかだった。いずれもけっして楽しいものではない。もちろん、苦しいものでもなく、ただ、恐ろしいぐらいに「なにひとつ起こらない」感覚だけが日々に累積していた。

そういう自分の日々を振り返ったとき、「高校三年生の夏休み」がいったい何の比喩になるのだろうと、本当にわからなかった。もちろん、世の中にはとうてい信じられない「高校三年生」のイメージはある。古い話で恐縮だが、橋幸夫舟木一夫の「高校三年生」はラジオからよく流れていたし、「青春」の文字はむかしも変わらず苦かった。だが、あらゆる興奮が素通りしていく私の人生においてそういうものが信じられるわけもなく、「あれは虚像」という思い込みが私のなかに刷り込まれている。実際、赤い夕日が校舎を染めてバカヤローと走り出すような人がこの世に存在するだろうか。私は信じない。

ただ、年齢を重ね、いつの間にやら自分がもっとも縁遠い受験勉強を指導する側にまわって、「ああ、あの高校三年生の夏休み、だれも遊んでくれなかったのはやっぱりみんな勉強していたんだよなあ」と、いまさらながらに思うようになった。そして、私がやったこともない受験勉強に燃えるのも、またひとつの思い出になるのかもしれないと想像するようになった。だから、ひょっとしたら「高校三年生の夏休み」はそういうことの比喩なのかなあと思った。そう思って読むと、前半の方の「残された時間があんまりない」みたいな部分とよく共鳴するのかなあと、思った。結果的にそれが誤読だったのだ。自分にない尻尾はふれない。

 

しかしまあ、これで現代文の指導なんかやってんだから、家庭教師なんていい加減なもんだよなあ。よくこれで世間が許してくれるよとか…

 

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追記:

書き終わってしばらくして見たら、シロクマ先生にブログに追記まで頂いている。恐縮だ。そして、楽しかった夏休み、うらやましいな。それが訪れないのが自分なんだと、もうこれはある意味、私という人間を構成する基本要素なので。