個別の優秀さは全体がクソであることを救わない - 神戸にもいい教師はいる

神戸市北区の小学校教師が「忘れ物」に対して理不尽な対応をして処分を受けたことが報道された。以前のエントリで「忘れ物を叱っても意味はない」みたいなことを書いたばかりということもあって、暗澹たる気持ちになった。

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消しゴム忘れた児童、3時間半立たせる 体罰で教諭処分:朝日新聞デジタル

神戸市の学校では、カレー強要事件とか、いろいろと不祥事が相次いでいる。少なくとも報道ではそういうふうに見える。だから、この記事にも早速「また神戸か」みたいなコメントがたくさんついていた。だが、神戸市に勤務する多くの学校教師の名誉のために言っておこう。神戸の教員が特にクズばかりということはない。私の生徒は(去年からはオンラインのおかげでさらに全国区に広がったけれど)基本的に兵庫県大阪府にしかいないから公平な比較はできないのだけれど、少なくとも、神戸市北区に素晴らしい教師が存在することだけは言える。なぜなら、私の息子は問題の神戸市北区で小中学校を過ごした9年間に6人の先生に担任をもってもらったのだけれど、そのほとんどが尊敬にあたいする人々であったからだ。私の書く文にはよく「n=1でそんなことを言うな」的な批判がつくのだけれど(「事例」はあくまで代表例としてあげているだけで本質的には一般化できる場合が多いことを読み取ってほしい、とは思うのだけれどそれはともかく)、「素晴らしい教師がいる」ということを断言するのにn=1で不足することはないだろう。全員がそうだと言うつもりはまったくないのだし。

実際のところ、「あ、これはハズレだな」という教師もちょくちょくとはいた。息子と同じ保育園に通っていた子どもたちはほとんど兄弟みたいなノリで付き合っていたので、私は授業参観に行くとそういう子どもたちの姿を見たくてよその教室も(あまり邪魔にならない程度に廊下から)のぞくのが常だった。そういうとき、「あ、この先生には当たらなくてよかったな」と思う教師も実際にいた。生まれもって「運のいい男」である息子は、どういうわけだか常にそういうハズレの教師を避けて、アタリの教師ばかりを引き当てた。これは、息子にとってのアタリという意味であって、そのときそのときの彼のニーズにぴったりとマッチした担任に不思議とめぐりあう運命であったようだ。唯一、中学1年のときの担任はまったく彼のような存在に対する理解のない人ではあったけれど、それにしても、おかげで学校を飛び出してフリースクールに逃げ込むきっかけをつくってくれたのだから、やっぱり必要な人を引き当てたといえなくはなかろう。ちなみに、不登校中の2年間を担任してくれた教師は、息子がフリースクール生活をエンジョイするのを全面的にサポートしてくれたのだから、やっぱり大当たりだったと言えるだろう。

小学校で世話になった先生方はいずれも思い出深いのだけれど、特に、5、6年生のときに担任してくれた先生は授業もうまかった。その頃には私はもう家庭教師の仕事をはじめていたので、「なるほど、プロの仕事はこういうものか」と感心させられたものだ。実際、私は生徒と一対一だからなんとか仕事ができるのであって、30人もの生徒の前で同じことができるかと言われれば、とても無理だと頭を下げるしかない。素晴らしい指導方法には素直に拍手する。それは、生徒から聞いた学校教師の教え方の場合でも同じだ。「あ、これはいいな」と思ったら、生徒の前で「その先生はうまいな」とすかさずに褒めるようにしている。

 

ただし、それであっても、私は学校に対しては批判的だ。これもまた、生徒に対してはっきりという。たとえば一律に宿題を強制するところ、別なやり方を認めないところ、本質的でない些末なところにやたら力を入れること、手書き・手計算への異常なこだわりなんかは、批判の定番だ。テストの問題の作り方とか、下手くそだったらまっすぐにそう言う。あるいは、なぜそんな苦しいことになっているのか教師の手のうちを説明したりもする。

概ね、現在の義務教育、特に中学校の指導には、相当な歪みがある。これはシステムとして歪みきっているのであって、そのなかで一人や二人の個別の優秀な教師がいたところでそのおかしさは解消されない。いや、それどころかほとんどの教師が優秀であり、また職務に情熱を燃やしていたとしても、やっぱり歪んでしまったものはなおらない。そしてそのなかにたまたま優秀でも情熱的でもない人、あるいは優秀さや情熱がおかしな方向に向けられた人、つまりは普通にどこにでもいるような人が混じると、たちまち歪みがそこに集中して問題化する。それが「また神戸か」といわれるようなものとして現れているのではないだろうか。

システムのおかしさは、方法論のおかしさでもある。たとえば、お金がほしいとき、人は「お金をください」と言うだろうか。そうではなく、「仕事をください」と考えるのが多くの社会人だろう。そうでなければお金はもらえない(まあ、はてブなんかは「スターください」とダイレクトに言ったほうがもらえたりするんだけど、それはふつうじゃないから)。目的があるときに、その目的を直接に求めるのは方法論としては往々にしておかしい。であるのに、学校ではテストの点数をあげるためにテスト問題を繰り返し解かせようとする。アホちゃうかと思う。それ以前にやることがあるだろうがと思う。忘れ物をなくすために、「忘れ物をしません」と誓わせようとする。それ、無意味だから。しかし、学校という場には、そういった誤った方法論が満ちている。言っとくけど、これはn=1の話じゃなくて、その気になればいくらでも事例は出てくる。そのぐらいに普遍的な話だ。

場がそういうことであれば、いくら個別が優秀であっても、アウトプットはおかしなものになる。あるいは、ぎりぎりアウトプットをおかしくしないためには、個別の死ぬほどの頑張りが必要になる。大きな流れを変えようとせずにそういう個別に頼ろうとするのは、滅びへの道だ。戦局打開のために神風特攻隊を出すようなものだ。個別の特攻隊員がたとえ敵艦を大破させようと、そんなことで流れは変わるものではない。いたずらに人々が消耗していくだけだ。変えなければいけないのは戦いを続けなければならない状況そのものであり、結局は政策ということになるだろう。だが、政策は、人々の支持がなければ無力だ、となれば、教育に何を求めるのか、社会的な議論をして明らかにして、義務教育に対する要求仕様をまとめ直さなければいけないのではないかとも思う。ああ、たいへんだ。

 

とにもかくにも、神戸市の教職員の皆様の名誉のために繰り返したい。そりゃ、なかにはひどい教師もいるだろう。けれど優秀な教師、尊敬すべき教師も少なくない。それは、あらゆる職場と同じことだ。ことさらに神戸市の学校がひどいわけじゃない。それでもなお問題が起こり続けるのであれば、それはもう個別の責任じゃない。

何度もここで書いているけれど、個別と全体は切り離して考えなければならない。社会学は、その事実に気づいた人々によってつくり出された。社会学者叩きがここのところ流行っているそうだが、個別と全体が異なった原理で動いているという社会学の知見は今後ともますます重要なものとなっていくはずだ。そうでなければ、いつまでも人類は「あいつがわるい」「あいつのせいだ」という責任のなすりつけ合いから先に進めなくなる。それではほんとうに、誰も救われないと思うから。