「結果」は解釈抜きに成り立たない、という話 - 成果主義のマヤカシについて

私の生業の半分を占める家庭教師では、結果がすべてだ。それがいちばんシビアに出てくるのが入試結果で、合格すれば「ありがとうございます! 家庭教師をお願いしてよかった」となるし、不合格なら「高いお金を払ったのになんだよ」と、たとえ面と向かって言われなくとも文句をこらえているのがわかってしまう。結果を前にしては、どんな言い訳も成り立たない。

合否がはっきり出る入試までいかなくても、テストの点数はひとつの結果になる。点数が上がった、下がったに敏感な家庭もあって、テストのたびにヒヤヒヤする。ただ、こちらには多少は逃げ道がある。「素点は下がってますけど、平均も下がってますから」「順位は少しあがりましたね」と言えればむしろこちらの勝利だし、「今回の範囲は苦手なところだったので…」みたいに中身に逃げ込むことも場合によっては不可能ではない。それでもやっぱり、あらゆる逃げ道をふさがれて「スミマセン」と頭を下げるしかない場合も少なくない。結果はかくもシビアである。

 

しかし、結果がすべてなら、それをコントロールすることも実は可能である。たとえば、入試の結果として「合格」が欲しければ、合格が確実な学校を受験させればいい。実際、たとえば公立中学校の高校進学に向けての進路指導なんかはそういうスタンスで実施されていて、決して冒険をさせない。合格確実なところに輪切りで落とし込んでいくようにする。そういう学校の進路指導をうまく利用すれば、家庭教師も必ず結果を出せる安全側にいることが可能になる。ふだんのテストでも、最初から「次のテストは点数がとれませんが、長期的な計画の中では織り込み済みです」と説明しておけば、「予告通りの結果です。順調です」と胸を張ることができる。

そういうごまかしをやらなくても、結果での評価にはちょっと落ち着かないところがある。なぜなら、ひとつの方法を実施してある結果が出たとして、もしもその方法をとらなかったらどういう結果になったのか、そこを判定する方法がないからだ。

たとえば、私はだいたいは「D判定からが勝負」と思ってるクチで、模試の結果がわるくても気にしない。最後の3ヶ月で一気に仕上げる戦略で、割とうまく乗り切ってきた。そんな自信がある。その細かいノウハウは書くつもりはないけれど、綿密な計画を生徒とともに練り上げ、着実に実行していく。言葉を替えれば、そこに至るまでの長い時期は、その最後の作戦を実行できるようにするための下準備である。特に高校入試に関しては、こういうやり方にはそれなりの実績も根拠もある。

けれど、自分自身の中にさえ、疑念はある。それは、「もしも別のやり方でやったら、もっといい成果が出たんじゃないか?」というものだ。この疑い、決して消すことができない。

 

もしも科学的にその疑いに取り組むなら、やるべきことはかんたんだ。2グループの同じような生徒を用意し、一方に対してはある手法、別のグループに対しては別の手法で受験準備を実施して、その結果を比較する。しかし、これは一人の家庭教師ができることではない。なぜなら、まず「同じような生徒」が2人といないということがある。一人ひとりの生徒は個性や能力がちがう。それ以上に、人生に対して求めているものがちがう。ある生徒に対してベストなことは、別な生徒に対してはマイナスであったりもする。そして、統計的にそれを薄められるほどの人数を一人の家庭教師は受け持つことができない。では複数の家庭教師が協力してデータをとればいいのかというと、家庭教師にもまた一人ひとり個性があり、同じことをやっているつもりでも生徒にあたえる影響はすべてちがう。結局のところ、客観的なデータなんて、実験の設定からして無理になる。

まして、生徒を実験対象にするなんて、倫理上、問題だ。家庭教師は職業上、生徒のベストになる指導を実施する。自分がベストだと信じている方法があるときに、そうではない方法と比較するため、ベストではないことを生徒に対しておこなうのは、正義ではないだろう。結局、実験はできない。実験はできないから、疑いは解消できない。

極端なことをいうと、自分がやっていること、あるいは自分の存在そのもの(つまり家庭教師を雇うこと)が、プラスに働いていると断言するだけの客観的根拠はどこにもない。それでもプロである以上、「いや、それでもこれは役に立っている」と主張しなければならない。主張できるだけの(たとえ客観的ではないにせよ)根拠がなければならない。それは、「経験」というきわめてあやふやな中から導き出されたものということになる。

 

経験から生まれた確実な方法で、家庭教師は仕事をする。そして、テストの点数が上がらない。そんなとき、家庭教師の心の中に去来するのは、「点数が下げ止まったのは自分が頑張ったからだ」という思いだったりする。実際、放っておけばもっと底なし沼のようなところに落ちていくはずの生徒を、なんとか現状維持にとどめることができたのなら、それはひとつの「成果」だと誇れるだろう。

しかし、それが本当に正しいのか、疑いを晴らすことはできない。なぜなら、実際、放置しておいたら成績が本当に下がったのかどうか、確認することはできないからだ。あるいは、もっと別の方法をとったら現状維持どころか点数が上がったかもしれないという疑問を否定することができないからだ。歴史は繰り返さない。たったひとつの経過をたどるたったひとつの事象に関して、「こうしていたらどうだったか?」「こうしなかったらどうだったか?」という問いかけを実証することはできない。

だから、家庭教師が「対策をしたからようやく下げ止まりました」と胸を張って「結果」が出たと主張しても、「点数が上がってないじゃないか」と「結果」を否定する家庭側の主張を打ち消すことはできない。あるいは、打ち消すためには口八丁手八丁のあまり本筋ではない技術が必要になったりする。うまく言いくるめられるかどうかが家庭教師の実績につながるというのも、なんともやりきれない実情。

 

「結果」というのは、観測される事象として確実に存在するようにだれもが思う。けれど、それは「れば、たら」の集積の上に成り立つ単なる解釈に過ぎない。

たとえば、一方に「医者に殺された!」と医療の結果を恨む人がいるとき、同じ事実を前に「医者のおかげであそこまで生き延びた」と評価する人がいる。「景気がこれだけ上向いたじゃないか」と数値を並べる人に対して、「それは自然循環であって、余分なことをしてなければもっと景気は上がったはずだ」と主張する人も出てくる。そういった解釈を、実証的に裏付けることはできない。

もちろん、多くの事象を学べば、そこに共通する変化の中で、ある程度のことはいえる。「この治療にはこの程度の延命効果がある」「この景気対策にはこのような効果が見込める」などの知見は蓄積されている。けれど、それでもなお、歴史的な一回こっきりの事象に対しては説得力が十分ではない。「先生、そういいますけど、糖尿病だけじゃなくて肺も悪かったんですよ」とか、「産業構造がちがう時代の景気対策と現代では本質的に同じじゃないでしょう」とかいう言説に、完全に理詰めで反論することはむずかしい。

 

「結果」というのは、しょせんはそれをどう解釈するかということを抜きにしては成り立たないのだ。だから、結果にもとづいて人を評価するというのは、厳密な数値や事実をもとに評価しているようで、実は恣意的に評価を行っているに過ぎない。「成果主義」がむなしいのは、そういうところなんだろう。

とはいいながら、家庭教師としては、ほかの部分で評価してくださいとはクチが腐ってもいえない。いや、言いたいことはある。たとえば生徒がどれだけ指導時間を楽しんだかとか、どれだけ考える習慣が身についたかとか、どれだけ批判的な態度を身につけたかとか。けれど、そういうものは目に見えないし、もしも目に見えるようになったとしても、やっぱりそれは「結果」として解釈の対象になるだけなんだ。だから、最後にはやっぱり、「でも、○○くん、よくがんばったじゃないですか!」みたいな精神主義でごまかすんだろうな。やれやれ。