「授業」はもう時代遅れなのか - 言葉はていねいに使わなければいけないなあ

授業
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

教師が諸分野の知識,技能を生徒に習得させるために行う活動。講義や一斉教授など教師中心の授業が伝統的であったが,今日では新教育の影響で,生徒の自主性や経験が重んじられ,多様な授業方式がある。また授業の改善,科学化を求めて,授業分析などの授業研究が盛んになってきている。

デジタル大辞泉の解説
[名](スル)学校などで、学問や技芸を教え授けること。「国語の授業を受ける」「教科書なしで授業する」「授業時間」

授業(じゅぎょう)とは - コトバンク

家庭教師は気楽な商売だ。というのは、生徒と一対一で学習を進めるからだ。たまには「きょうだい一緒に面倒見てください」みたいな注文もあって、複数の生徒を同時に指導することもある。三人きょうだいを同時に指導した経験もあって、やってやれないことではないことは知っている。けれど、それはあまりにも負担が大きく、指導の質を著しく低下させる。なので、数年前からはそういう注文はできるだけ水際でことわるようにしている。なんだかんだと口実をつけて、同時指導は避けている。

だから、私は学校の教員に対して、いろいろと文句をつけながらも、「すごいなあ」と尊敬の念は失っていないつもりだ。もちろん、指導内容があんまりにもあんまりでどう考えても尊敬できない教師もたまにはいる。けれど、それであっても、私にはとうていできない複数の生徒の指導、それも二人や三人ではなく、その一桁上の人数の指導を同時にやるのが学校の授業なのだから、やっぱりすごいことだと、素直に思う。生徒にも常々そのことは言うようにしている。商売敵である学習塾の悪口は平気で言うが、学校は商売敵とは思っていない。むしろ、共同して子どもを育てていくパートナーだと、一方的に思っている(学校側が家庭教師をそんなふうに見てくれないのはしんどいのだが、それは長くなる別の話だからやめておこう)。

家庭教師の指導中には、そんなふうに生徒と学校の話もよくする。そして、そういう会話の中で、つい数日前、小学校六年生の生徒がこんなことを言った。ちなみに彼は、ある私立小学校の生徒である。

「オンラインで授業の動画をアップしてくれてるなんて、親切な学校やなあ」

「でも、ぼくは学校の授業のほうがいいな」

「だよね」(そりゃ友だちに会えるからだろうなあ)

「学校での授業だと質問できるでしょ。オンラインだと質問ができない」

「ほう」(おや、けっこう本質をついてるな)

「学校の先生が言ってたんだけど、授業料ってのは無限回数質問ができるチケットみたいなもんだって。何回質問しても料金はかからないんだから、どんどん質問しなさいって」

「いい先生やなあ」

「家庭教師が嬉しいのはそこ。何を聞いても答えてくれるでしょ」

(こら、そこで胡麻を摺るな!)

というような内容である。そして、これは「家庭教師は気楽な商売」の本質をついているだけでなく、実は学習というもののひとつの本質をついている。

現代の学校教育が、近代科学の手法をその基礎としていることは、逃げようとしても逃げられない事実だ。その手法を大雑把にいえば、疑問をもち、仮説を立て、仮説を検証するための実験・観察を企画し、それを実行し、結果を考察して、仮説の妥当性を確認し、そして最初の疑問に戻るというサイクルである。けれど、実はあらゆる疑問に対して実験・観察を行うべきなのかというと、そうではない。多くの人が認めた既知の事実については、その事実が導き出された過程をたどることで、実験・観察を行わなくてもよいとされている。そして、そういう既知の事実を追跡する過程を補助するのが教師の役割であり、その行為が広義の「授業」ということになるだろう。そして、その「授業」の方法として、古代より採用されてきた方法が「対話」である。

たとえばプラトンは、学習の方法として対話を重んじ、彼の学園では教育は基本的には教師と生徒の対話で進行したと伝えられている。その著述も多くは対話形式でまとめられている。孔子の教えは基本的に「師曰」と対話形式で残されているし、江戸時代の安藤昌益の著作にも対話によって学問を深めていったと思しき部分が残されている。

対話がなぜすぐれているかといえば、それが思いもかけない関連性を明らかにしてくれるからだ。ヘーゲル弁証法ではないが、生徒の質問に対する教師の答えは、そこでとどまるものではない。教師が答えることによって生徒には新たな疑問が生まれるし、教師の側にも同時に別な疑問が生まれる。それを解決するためにいずれかが新たな問いを発することになり、それに対する答えはまた新たな疑問を生む。このようにして連鎖的に断片的な知識がつながっていくことによって、それまで見えなかった新たなことが見えてくる。教師は既知の事実を提供するデータベース的な機能をもつが、その知識の連関をつけていく作業は実は教師一人でできるものではない。生徒からの問いかけによって新たなつながりが見えることはごくふつうに起こる。だから、そんなふうに指導するスタイルで家庭教師をやっていると、「いっしょに学ぶ」という言葉がキレイごとでもお題目でもないことが実感される。私は、生徒との対話から、実に多くのことを日々学んでいる。若いころに学参業界で問題集・参考書の編集をしていたときには教科書の隅々まで読み込んでそこに書かれてある内容は完璧に理解していたつもりでいたけれど、いまは毎日のようにそこに新たな発見をしている。そこまでの含蓄があったのかと驚くことも少なくない。

だから、質問ができることに価値を認めているその小学六年生は学問の本質の一部を的確につかんでいるのだと思う。実際、私だって、学会発表なんかで質疑応答の時間がなかったらひどくがっかりする。もちろん、私自身が質問の手を上げることなんかあり得ない(専門分野とよべるものがない私が講演会や学会を覗く機会は多くないし、その場合でも門外漢としてそこにいるので、とても発言の資格なんかない)。けれど、私よりもずっと頭のいい人々が、私の感じた疑問をより適切な言葉で質問してくれる。私がぼんやりと感じていて言葉にできなかったようなモヤモヤをすっきりさせてくれる。質問は本当に大事なんだと思う。

 

さて、「授業」という言葉は、「学問や技芸を教え授けること」と辞書にあるので、その定義どおりに使うのであれば、上記のような対話をふくんだ生徒と教師の相互作用全般を指すことになるのだろう。そのような活動は、おそらく人間社会においてはいつまでもなくならない。人間の知的活動の根本のひとつといってよいように思う。

しかし、「授業」という言葉で思い浮かぶのは、百科事典に「講義や一斉教授など教師中心の授業が伝統的であった」と記述されているように、小中学校からはては大学に至るまで、教室で教師が教壇から行う講義であろう。そして、そのような講義は、多くの場合、決まりきった解説の繰り返しになる。実際、かの小学六年生のように教師を質問責めにするような優秀な生徒は少ないし、特に中学生ぐらいになると教師のほうが、教師が「不規則発言」と判断するような質問を拒絶するケースが増える。これは教科の枠組みをつくってしまう現行の指導方法もよくない。たとえば、例の小学六年生に弥生時代の話をしているとき、「その前は?」「縄文時代」「その前は?」「旧石器時代」「そのもっと前は?」「いろんな食べ物を求めて移動生活していたと考えられているね」「その前は?」「尾のない猿が分かれる前だから、猿を思い浮かべてもらえばいい」「猿になる前は?」と、どんどん話がさかのぼって、ついにはビッグバンまでいったことがあった。こういうのは、現行の科目の枠組みではあり得ない。仮に高校理科まで含めることがOKだとしても、社会科が理科になり、理科の生物領域がやがて地学領域へと進む。そういう科目の枠組みを超えることは授業ではできないから、仮に質問を自由に受け付けるスタイルの授業を行っていても、あるラインからは拒絶しなければならなくなる。

そこまでもいかない。多くの学校の授業では、教師が教えようと思った内容から踏み出すことはない。質問はその内容の細部に関するものに限定され、それも、「理解が不足している」「誤解している」部分を補正するものにしかならない。これは教師が悪いのではなく、ひとつには授業がそのように設計されているためであり、もうひとつにはアウトプットとしての特定の技能・知識がテストの点数として測定対象になっているからである。たとえばいま、ここで比率の知識を教えたいときに、合金の知識や栄養素の知識に踏み込んだ質問をされては困るのである。それでは目的の成果が得られない。いきおい教師の授業は、その授業で伝えることを絞り込んだエッセンスに集中してしまう。そして、そのようなギリギリに洗練されきった教師の言葉には生徒の側もたいした疑問を抱く余地がなく、よって授業は活気を失い、最悪の場合には「ここ、試験に出るから」という情けない一言で生徒の注意力を喚起するしかなくなる。

これが、一般的な「授業」のイメージだろう。そして、そういう授業が実際にはその目的であるアウトプットの測定値にもあまり寄与しないことが明らかになっている。そういう意味で、私は「授業は時代遅れ」と公言してはばからない。けれど、よく考えてみたら、それは本来の定義上の「授業」とは異なったものだ。本来の意味では「授業」が時代遅れになることなんかあり得ない。ああ、言葉はていねいに使わねばならないなあと、反省する。

 

点数をとるための授業は、実際に、私だってやる。具体的に例を上げると去年、大学受験を目指す生徒を担当した。彼女は不登校からのドロップアウトであり、高校に行かなかったから授業はまったく受けていない。高卒認定で受験資格はあるけれど、いきなり対策問題集を解かせようにもあまりに基礎知識がない。だから私は、数学・理科・社会の3教科を大急ぎで講義した。そんな講義では、それこそ試験に出ないようなことに踏み込む余裕はないから、基本的には学校でやるのと同じような授業になる。だから、たとえ時代遅れでも、世の中がそれを基準にして回っているときには、必要があればそれをやる。

学校の教員も、同じことなんだろうと想像する。本当はもっと、知的に興奮するようなことをやりたいのだろう。それをやるだけの力もある。けれど、枠組みが与えられ、目標値が与えられたとき、それを簡便にやっつけてしまう方法として、従来の方法が既に最適化されている。そこから踏み出すことはあえてできない。そういうことではないのだろうか。

だからこそ、枠組みを変えなければいけないと思うのだ。そしてその枠組みの転換は、決して現行学習指導要領をひっくり返すような過激なことを行わなくても可能だと思う。ただし、入試制度だけは変えなければならない。なぜなら、そこが点数主義の極北だからだ。それさえ変えてくれれば、変化は可能になる。可能になるだけで、実際に変化が起こるかどうかは別問題だ。そこは、現場の人々の意識にかかっているだろう。彼らのプロ意識を、私は信じている。