息子が不登校になったときの思い出

学校は行っといたほうがいい。これはもう大前提だ。その上で、実際には学校なんてそこまでのもんでもない。だから、命がけで行くようなもんじゃない。しんどかったら行かなければいい。新学期のこの時期、こどもの自殺が有意に増える。死ぬくらいなら休めばいいし、何なら不登校になったっていい。私の息子は中1の夏休み明けに不登校になった。それでもおかげさまで二十歳になったいまも元気に生きている。

ただし、彼は絶賛無職アルバイト中で、世間的にいう安定した人生への道からは大きく外れている。たぶん、外れっぱなしのままでいくんだろう。だから、一般には学校に行っといたほうがいいのはまちがいない。命、とまでは言わなくとも、健康(心の健康も含め)に大きく被害が出ない範囲であれば、まあガマンして行っといたほうがいい。

もちろん、いったん路線を外れても復帰する道はある。実際、私がこれまで教えた生徒でも、半年不登校やってましたとか1年不登校やってましたとかいう事情で家庭教師を選んだケースはけっこうある。不登校真っ最中の生徒だっていた。ただ、彼らのほとんどは中3生で、高校受験をしっかり乗り越えて高校から普通の人生に復帰していった。そういう道筋もある。

息子の場合は、フリースクールの2年半ですっかり独自路線に突き進んでしまったから、いまさら戻ることもできず、高校もかなり特殊なところに進んでどんどんと落ちこぼれのエリートコースを歩むことになった。まあ、そこは結果論だ。それなりに楽しい人生であるようだから、そこはよしとしよう。人生、楽しいのがいちばんだという価値観だって、あってかまわない。とりあえず今日書きたいのは、息子が不登校になった顛末だ。特に書き立てるようなケースでもないから、単なる思い出話と思ってほしい。

 

中1の夏休み、息子はひたすらダラダラと過ごした。基本的に体力のないやつだし、小学校の高学年頃から朝が起きられなくなっていたから、寝ている時間が長い。まあどうやって過ごそうが本人の好きにすればいいし、中学校に入って選んだ吹奏楽部で楽しくやっていたから、その反動で疲労も溜まっていただろう。長い人生、ダラダラ過ごす夏があってもいい。というか、中1の夏休み以外のどこにそんな機会があるんだ?

ただ、夏休みの宿題だけは、もう早いうちから「やっておけよ」と口うるさく言ってきた。夏休みの宿題なんて、特に中学1年生の夏休みの宿題なんて、その後の成長に対してはほとんどどうでもいい程度の意味しかない。あんなもの、やってもやらなくても、学校の学習内容の理解にはほとんど影響しない。ただし、やらなかったら相当に面倒なトラブルになる。それは経験則的にわかっていた。だから、単純にトラブルを避けるために、夏休みの宿題はやっておかねばならない。それも、ギリギリでとりかかったら地獄を見るだけなんで、早い段階からやっておくべきだ。これはもう家庭教師という商売上、絶対に忘れてはならない基本中の基本だ。

だから、息子には「宿題やったか」を連日のように言った。ただし、そこで商売として、家庭教師として言うのとは違った難しさがある。なぜなら、私自身が小学校から高校までの12年間を通してほぼ宿題の提出がゼロだったという実績があるからだ。それは、息子もちゃんと知っている。なので、その私が単純に「宿題をやれ」というのは説得力がない。

なので、そこはていねいに歴史の流れから説明せねばならなかった。私が子どもの頃は1学級45人、1学年10クラスというようなマンモス校が普通にあって、教師の目が行き届かなかった。また、学校もそこまで教師に管理を求めていなかった。だから、夏休みの宿題をやっていかなくても、体育祭が終わる頃にはだいたいウヤムヤにできた。けれど、その後の教育に対する社会の考え方の変化やら「学力」に対する考え方の変化の中で、クラスの人数は減り、小学校では副担任制がとられるようになり、教員には生徒に対する「サポート」が求められるようになった。その「サポート」は、現実には管理主義と結びついている。だから、自分一人が他の生徒と違ったことをして通すことが難しくなっている。宿題に対する考え方も変わってきている。だいたいがいまの教員は、ほぼ全員が宿題を当たり前だと捉えるような学校を通過してきているから、そこに疑いをもつなんてことはしない。彼らにとって宿題をしないことは犯罪行為に等しく映るはずだ。そういうところで、宿題をしないというのは本当にヤバい。ヤバいことになりたくなければ、とにかく形だけで構わんから宿題をしてくれと、そういう順序で説得するしかなかった。だが、そういう論理で中学生を説得するのは無理がある。

ふつうなら、説得しなくったってやるんだろう。なんで息子にそれができないのか。理屈ではわからないが、感覚的にはものすごくわかる。私の息子なんだ。私自身、「なんでおまえは宿題をやらないんだ」と言われたら、答えられなかっただろう。けれど、できないものはできない。やろうとしても、できないものはできないのだ。自分自身の身体性として、宿題はできなかった。理屈では説明できない。だから、息子が宿題をできないのも、理屈では理解できないけれど、私にはわかってしまう。これは厄介だ。

結局のところ、夏休みが終わる日になっても、宿題はできていなかった。それでも息子は私よりは遥かに上等の人間だ。なんとか間に合わせようと最後の数日は頑張っていた。いくつかの教科は提出できる状態になっていたと思う。ただ、完璧ではなかった。完璧には程遠かった。

そして、新学期が始まった。近頃の夏休みは、短いことが多い。9月1日を待たず、8月の最終週にはもう登校ということになる。そして、そこが宿題の提出期限だ。息子は宿題を提出できなかった。そして放課後に居残りさせられ、担任に一対一で説教された(ということは、彼以外の生徒は全員宿題が提出できたのだろう。家庭教師として生徒を教えている感覚からいえば、それはいかにもありそうなことだ。いまの生徒は信じられないほど真面目に事を運ぶ)。その説教の中で、息子は担任から部活の禁止を申し渡された。宿題の耳を揃えて提出するまで、部活に行ってはならない。それが担任が彼に与えた処罰だった。

息子は激怒した(メロスではない)。帰宅して、「もう学校をやめる」と宣言した。いや、キミの言うことは筋が通らない、キミは吹奏楽の部活に行きたいんやろ、学校をやめたら部活に行かれへんようになるやんか、と、私は筋道立てて説得したのだが、「けど、どっちみち部活がでけへんのやったら同じことやん。禁止やって言われたんやから」と反論する。いや、宿題だしたら済む話やんかと思うのだけれど、それがどれほど難しいか、私はよく知っている。遅れてでも出せるぐらいなら、私だって中学時代、宿題を出していただろう。できないものはできない。ヘンな性格を遺伝させてしまったよと思うが、ここは張本人として同情するしかない。

いずれにせよ、私は仕事に出なければならない。家庭教師という仕事、生徒が在宅している時間帯が仕事時間帯だ。息子が帰宅しているということは、私の仕事時間帯だということを意味する。しかたないので、別居している妻にメッセージを送って、あとを任せた。とはいえ、どうしたらいいのか、私にもさっぱりわからない。押し付けられた彼女もかわいそうだ。

ところが、彼女は実に息子のことをよく知っていた。「あんた、それやったらフリースクールに行き。調べたあるから、いまから連絡するわ」と、早手回しに段取りをつけたのだ。なんでも、「あの中学じゃ長くはもたないと思ってた」らしい。母親の勘はおそろしい。

そして翌日、息子は学校を休み、午後から母親とフリースクールの見学に行った。そして、そこが気に入ってしまった。私としても、これ以上、学校とトラブルを続けるよりは、とりあえず緊急避難したほうがよかろうと思った。だが、緊急避難が平穏に進むだろうか。私は担任の顔を思い浮かべた。体育の教師で、熱血漢だ。これはちょっとヤバい。まあフリースクールにまで押しかけて修羅場を演じることはなかろう。だが、生憎なことにフリースクールはまだ夏休み中で、「1週間後に来てください」と言われている。その間は自宅待機だ。そこを平穏に放置してくれるだろうか。面倒が降り掛かってくるのが目に見えるようだった。

そこで私は、北海道に住む兄に電話をした。「ちょっと亡命者を預かってくれんか」。こういうときに兄弟は話が早い。二つ返事でOKがくると、私は翌朝、息子を車に乗せて敦賀港に向かった。そこからフェリーに乗せてしまえば、もう追っ手はかからない。「水を渡れば追手をまける」と、トム・ソーヤだったかどこかに書いてなかったか。

そして翌日、私は学校に電話して、担任との面談を取り付けた。穏便に事を済ますには、なによりも情報の共有だ。予想通り、担任は息子と話をするのが先だ、連れてこいという感じの対応だったが、残念ながら彼はもう亡命している。向こうもある意味プロだから、生徒に罪悪感を抱かせてコントロールする技術にはたけているだろう。そういう対応に引っかかるような息子じゃないから、それが状況を悪化させるのは目に見えている。なので、同席させずに担任と私で交渉したかった。だが担任からは、「ルールを守るのがだいじです」みたいな頭の硬い繰り言しか聞けなかったので、「こりゃだめだ」と思った。息子は単純に吹奏楽部に参加したいだけなのに、宿題を盾にとってそれを阻む。宿題提出以外の条件で部活への参加を認められないのかと思ったが、交渉の糸口はつかめない。これでは学校に戻れそうにない。北海道に亡命中に学校が考えを変えてくれればという望みは消えた。

ということで、彼は晴れて不登校生となったわけだ。単純に宿題が提出できずに部活を禁止されたというだけの事情だから、身体的な理由(主に起立性調節障害)や人間関係(主にいじめ)などによって不登校になった他のフリースクールの生徒とはちがって、皆勤賞がもらえるくらいに熱心にフリースクールに通った。いわばフリースクールの優等生になってしまったから、そこから抜けることもできず、結局は、「落ちこぼれのエリートコース」に進むことになってしまったわけだ。

 

何のオチもない思い出話だった。その後のこともいろいろあるのだけれど、とりあえずこのぐらいにしておこう。さ、仕事、仕事。