解釈すること

「一を聞いて十を知る」という言葉がある。利発さを表す言葉であり、私の兄などはよくそんなふうに褒められていた。子どもの頃のことだ。私の方はといえば「あんたは何遍言ってもわからん」と呆れられる方で、利発さとは程遠かったのだが、だが、そこは遺伝、同じような性質は備えていたように思う。

どういうことか。「一を聞いて十を知る」というのは、つまり、一の情報から正確に事象を解釈し、十に至る未知の事象を正確に予測することだ。つまり、そこにはかならず解釈がともなう。事象を解釈するというのは、つまりそこに何らかの法則性を認め、その法則性に基づいて「一」の事象が説明できることを把握することだ。法則性がわかるから、それを「二」以下の事象に当てはめることができ、そして法則の理解が正しければそれが正しい結果を示すことになる。優等生であった兄はそういう「正しい解釈」をきっちりと自分のものにしていた。一方の私は、割と短絡的に「あ、そういうことだからこうなるんだ」と表面的な関連だけを見て、理解した気になる。事象を解釈するプロセスは同じなのだけれど、そこが甘いから、誤った法則性を見つけてしまう。さらにわるいのは、そういったショートカットに自己満足してしまう。結果、「何遍言ってもわからない」と、「一を聞いて十を知る」から遠く離れた評価を受けることになってしまうわけだ。

なぜ遺伝と思うかといえば、年老いた母親を見ていて、そういう誤った解釈が頻発するのを感じているからだ。それも加齢のせいというよりは「そういえば、この人は昔っからそうだったよなあ」という思いを新たにする。振り返って、自分の中にもそういうのがあることに気がつく。ああ、親子は似るもんだなあと思う。DNAとか環境要因とかそういった科学的な話は抜きにして、「遺伝だよなあ」と思う。

具体的なエピソードでいこう。2週間ほど前、母親はメガネを失くした。昔っからモノを失くすのは得意技で、そのことはまあ、「らしい」といえばそれまでだ。どうせどこかから出てくるだろうと大きく構えていたのだが、1週間が過ぎてもどこにも見当たらない。突拍子もないところ(たとえば生ゴミの中だとか畳まれた洗濯物の間とか)から出てくるのはふつうなので、まあそういうことなんだろうと思っていたが、しかし、メガネがないのは不自由する。いや、実際のところ、そこまで読書家でもないし米寿にもなって事務仕事もないもんだから、実務的にはたいして不自由しない。ただ、認知症で忘れっぽい人がメガネを失くすとどうなるか。
「あれ? メガネしてくるの忘れた」
「メガネは失くしたやんか」
「そうやったね。さがそうか」
となって、探索が始まる。いや、同じ探索はもうここまで何十回もやっている。たまたま失くした前日には兄夫妻が来ていて記念写真を撮っているから、まずはiPhoneからその写真を探し出す。写真を撮ったことはちゃんと覚えているのだ。そして、そこでメガネをかけていることを確認して、「このあとは出かけてないから、絶対に家の中にあるはずやね」と、どこまでもまっとうな推論を働かせる。そこから家の中をさがし始めるわけだが、上述のように、この携帯の写真を確認するからのサイクル、1日に何回も繰り返しているわけだ。それをやったことを忘れているから、何度も同じことをする。これは見ていて痛々しいだけでなく、ウロウロするだけで一日が終わることになって、実害があると言ってもいいだろう。

それを防ぐためには、事態を一歩前に進めるしかない。そのために、先週、眼鏡屋に行った。「もうちょっと探せばきっと出てくるから」と、たぶんそこは正しいことを言う母親を「いや、これはマジナイの一種やで。だいたいが、探しものなんてのは諦めたときに出てくるって、歌にもあるやろ。諦めたことをはっきり宣言するために、メガネを買うんやで。たぶん、買ったとたんに出てくるから」と、わけのわからない説得をして、眼鏡屋にひっぱっていった。それでも渋る母親を、「予備やんか。いつものが出てきても、今回みたいにちょっと失くなることはこれから先もあるやろ。そのときに予備があったら便利やん」と、無茶苦茶な理屈で説得し、店員の加勢も得て、ようやくのことで1つ、老眼鏡を注文した。明日には仕上がる予定だから、明後日に取りに行くことになっている。

前置きが長くなったが、ここからが本題だ。一昨日のこと、いつものように母親を訪問すると、メガネを前に、暗い顔をしている。
「あの眼鏡屋には騙された。あんな店はあかん」
と、ぷりぷりと怒っている。わけがわからない。そこでいろいろ事情を尋ねてみると、下記のような流れだったと判明した。
「メガネがないので不自由する」
    ↓
「古い眼鏡をさがして出してくる」
    ↓
「眼鏡が合わない」
    ↓
「眼鏡屋に行ったことを思い出す」
    ↓
「この合わない眼鏡は眼鏡屋で買ったものだと誤認する」
    ↓
「あの眼鏡屋はあかん!」

つまり、すべてを忘れるのではなく、またすべてに無能なのでもない。不自由だという現状認識はできる。それに対応しようとして知恵を絞り、使っていない古い眼鏡があることを思い出すのも堅実だ。古いメガネが合わないのは、加齢によって視力が変わってるんだから、もうどうしようもない現実だ。そして、消失することが多い新たな記憶である先週の眼鏡屋訪問も、ここではしっかり覚えている。つまり、ここまでの経過におかしなことはひとつもない。高齢者にしては上出来だろう。ただ、そこで、目の前にある事実、「ここにあるメガネは度が合っていない」と「先週眼鏡屋に行った」を独自に解釈する。そして、「メガネが合わないのは、眼鏡屋の責任だ」という結論に達する。「一」の事実から、誤った結論が導かれてしまう。そして、「あの眼鏡屋はあかんからイオンの眼鏡屋に連れてってくれ」という見当はずれの要望が出てくる。いや、先週注文したメガネ、まだ工場やから。

 

限定された情報から誤った解釈をするというのは、実に母親らしい。今回は加齢によって記憶力が落ちているから、その誤った道筋がこちらから見てよくわかった。だが、思い起こしてみれば、若いころから彼女はそういうことをずっとやってきていた。そのたびに「いったいこのひとは何をやってくれるんや!」と腹を立てていたのだけれど、こうやって改めて振り返ってみると、実はそれは利発さと紙一重の、「限られた情報から世界を解釈する」というプロセスが発動していただけなのだなあということがわかる。

たとえば、母はいつも、私が絶対に着たくない服ばかり買ってくるひとだった。それは、私が着ている服を見ての行動なのだ。私は、嫌いな服から優先して着る。嫌なものはさっさと着潰してしまいたいからだ。けれど、母は、「ああ、この子はこの服ばっかり着るから好きなんやな」と解釈して、同じような服を買ってくる。勘弁してくれよと思うのだけれど、やがてそういう服ばかりになると、もうそういう系統を着るしかなくなってしまう。

ある意味、母は非常に気のつくひとであるわけなのだ。ごく些細な情報にも敏感に反応して、それを手持ちの他の情報と組み合わせる。そして解釈をし、そこに法則性を見出す。残念なのは、その法則性が往々にして誤っていることだ。誤っていても、本人の中では辻褄が合っている。辻褄が合っているから、世界に対して、自信満々でいられる。そういう自信が、幸福な人生をつくりあげてきたのだろうと思う。

 

振り返ってみると、私も中学生ぐらいの頃にはそんな自信を感じることもあった。世界のすべてが自分が学校で学んだ法則性に当てはめて理解できるような気がしていた。全能感といってもいい。やがて学ぶほどに自分が知らない世界が無限に広がっていることを知るようになり、不安がそれにとってかわった。だが、何かを勉強すると、「お、これであれも、これも、うまく説明できるじゃないか」と思ってしまうクセは、いまだに抜けない。そしてその瞬間だけは、あの中学生の頃の全能感を一瞬だけ思い出す。もちろん現実世界はそんなたやすいものではない。やっぱりそれでは説明できないこともいくらでもあって、振り出しに戻る。「世界には知らないことばっかりだなあ」と、すぐにいつもの無力感の基底状態に落ち込んでいく。それでもやっぱり、新たな情報がやってくると、それをなんとかして解釈しようとする。

もしも中学生の頃の自分にタイムマシンかなんかで出会うことができたら、「おまえはなんでもわかってると思ってるようやけど、それはたとえていえば座標上の2点を知っていてその間を直線でつないですべての値がわかると思いこんでいるようなもんなんやで。実際には2点の間はグニャグニャの曲線かもしれないし、折れ線でつながってるかもしれないし、なんならつながりが切れてるかもしれない。そういことも思わずに定規で一本の線を引いて得意になるんちゃうで」と警告するだろう。だが、まったく同じことが、おそらくいまの自分にもいえる。何かを見つけたような気になって、得意げにブログなんか書くけれど、たぶん、もっとわかっているところから見たら、ぜんぜん、ここもあそこも抜けている穴だらけのお話にちがいあるまい。

けれど、それがわかっていても、どうしようもない。もっと高いところから見たら、私なんて、無限に失くしたメガネを探し続ける存在でしかないんだろう。けれど、それが無意味だとは、少なくとも私自身のレベルからでは思えない。せんもなく同じことを繰り返すだけでも、そうやってしか進めない存在もある。ちなみにメガネは、母親の家庭菜園から見つかった。なんでピーマンの枝に引っかかっていたのか、永遠の謎だ。