中学受験は子どもの成長に寄与するのか

逆境は人を成長させる?

「中学受験は子どもの成長に寄与するのか」という大仰なタイトルにいきなり答える形でいうならば、「それは場合による」。さらに言うならば、たいていの場合は寄与する。ただしそれは、人間というものがそういうものだからだ。人間は、どんなバカバカしい状況にあっても、それを成長の糧とすることができる。逆境にあればあるほど成長するとさえいえる。たとえば、戦争は大きく人間性を蝕むものだが、ときにそのなかで人間を大きく成長させる場合もある。だから、いきなりで申し訳ないが、このタイトルの問いは立て方をまちがっている。いや、そりゃ、何らかの寄与はあるでしょうと。

ただ、それでもあえて、ときにこういう自問をしてしまうのは、多くの中学受験生の親に見られる言説を聞くシーズンに入ってきたからだ。家庭教師にとって、この季節はそれまで抱えていた受験生(私の場合は中学受験生と大学受験生が今年は合計8人いた)の手が離れ、次の年度の生徒が入れ替わるように入ってくるときだ。そういうときに受験生の親と話すと、(あくまで感覚だが)半分くらいの親は「別にいい学校に入ってもらいたいとか、そういうことじゃないんですよ。もちろん、志望校に合格したら嬉しいですけどね。けど、失敗したっていいんです。目標に向かってがんばることで、勉強に取り組む姿勢が身につくじゃないですか。それが子どもを成長させてくれると期待してるんですよ」みたいなことを言う。ニュアンスはそれぞれだいぶとちがっていて、「がんばること」に力点がある人や「頭が良くなる」ことに力点がある人や、そこはさまざまだ。ただ、「受験勉強には合格以上の価値がある」と考えている人が多いことに驚いてしまう。そして、そこはきちんと正しいことを伝えなければならないと思う。

カリキュラムの組み立てからいえば中受の勉強は異端

受験勉強に、「合格するための点取りゲーム」以上の価値はない。「いや、さすがにそれは言いすぎだろう」という反論はすぐに予想できる。たとえば、中学受験を目指して塾に通った生徒は、明らかに計算が上手だし、漢字もよく知っている。図形の扱いにも慣れているし、慣用句にも通じている。さまざまな知識・技能を身につけていることは、その生徒にとってプラスではないのか。たしかにそれはそうだろう。けれど、これに対しては、私はいくつかの点で再反論できる。

まず1つは、そもそも中学受験で極める高度な知識のほとんどは中学・高校の学習内容に接続しないという事実だ。カリキュラム上、これはウソでもなんでもない。たとえば鶴亀算の解法は、中学に入ったら役に立たない。なぜならまったく同じ問題を連立方程式を使ってはるかに容易に解くことができるからだ。あれほどエレガントな解法を身につけた図形問題は、高校にいけば多少無骨でも三角比を用いてより一般的に解決できるようになる。虚構新聞ではないが、いくら入試向けの高度な知識を獲得しても、それは先に行けばほとんど役に立たない。多くの父母が中学受験生の子どもが使っている問題集を見て「私の頃はこんなことは習わなかった」と焦るのは、実際にそれが教育カリキュラムの中で不要だからであり、なんなら(特に自分自身が中学受験を経験したような人の場合は)使わない知識としてすっかり忘れてしまって、そして何不自由を感じなかったからでもあるだろう。

もちろん、計算を正確に実行することのようないくつかの技能、漢字や熟語・慣用句などのある種の知識のように、中学・高校の学習カリキュラムに直接接続するものがないわけではない。だが、ここで2つ目の反論ができる。それらの基礎的なコンピテンシーは、実際には中学受験準備のような「いかにしてテストの点数をあげるか」で勝負が決まるような状況下でなくとも十分に学習できるし、なんならそういった状況がないほうがしっかり学べるという事実だ。これに対しては「目標がなければ勉強なんかできないでしょう」という反論がくることが予想されるのだけれど、それはそういうやり方しか知らない学習塾みたいなとこが言ってるだけだ。そんなプレッシャーがなくても成長期の若い人はいくらでも新しい知識を受け入れていくのだし、適切なマイルストーンを置くことで訓練的な部分にもよく耐える。学習産業は「◯◯中学合格!」みたいなわかりやすい実績がないと客が呼べないから、そういうプレッシャーを与えることに意味を見出す。けれど、それは商売の都合でしかない。このあたり、詳しく書くと長くなるので端折るのだけれど、「効率的な点のとり方」は、必ずしも「基礎として役に立つ技能・知識」と同じではない。

3つ目に、(これは1つ目に書いたことと関連するのだけれど)中学受験の準備で詰め込もうとする知識の中には、子どもの発達段階から考えて明らかに不適切であると思われるようなものがふくまれていることだ。いや、確かに子どもだからといって知識に制限を設けてはならないし、どんな高度なことでも柔軟な頭で掴み取ったほうが先々に大きな果実を付けるケースだってある。だとしても、学問で扱う多くの概念は積み上げの上にある。積み上げるうえで無視できないのは、人間の頭の成長だ。物理的な肉体としての脳はどうやら9〜10歳ごろに大きな変容を遂げるようで、それ以前の「勉強」は、以後の基礎としてはあんまり役に立たない。だから多くの中学受験は小学4年生か5年生からスタートするわけで、さすがにここを通り越して1年生や2年生からの入塾を勧めるところは信用しないほうがいい。ただ、この大変容ほどでないにせよ、やっぱり中学生の思考方法と小学生の思考方法はかなりちがう。まちがいなくそこには単純に時間を経過することによる成長が存在する。高校生ぐらいになると批判的な思考が強まってくるから、やっぱり成長というものはある。これは、長いこと同じ生徒を教えていると特によくわかる。(家庭教師の特権だと思うが)小学生から高校生までずっと見ていると、その人の個性は基本的に変わらないのに、頭の使い方がまるで異なっていることに驚かされる。人間にそういう変化が起こるのが前提でカリキュラムが組まれているときに、当人のニーズとはまったく別の「合格のために必要だから」という理由で先取りを行うことにどれほどの意味があるのだろうか。

このことを別な言葉で言い換えれば、「早いうちから仕込んでおいたほうが有利だ」という考え方そのものがおかしいということでもある。確かに肉体的な技能、たとえばバレエだとかピアノだとか、そういうものは小さいうちから身につけたほうが圧倒的に有利であり、大人になってからスタートしたのでは絶対にムリな地平があるというのはよく知られた事実だ。大リーグボールを投げたければ小学生のうちから養成ギプスが必要になるのかもしれない。けれど、学問ということに関しては、そういった「早くからスタートしたほうが有利だ」という事実はまったくない。古くはルソーの「エミール」でも指摘されている。人間には抽象的な概念を受け入れるための肉体的な発達段階というものがある。適切な時期に適切な学習行動をとれば、早期に出発した生徒の達成度を易々と超えていくのが人間だ。そういう観点からみると、中学受験で生徒に教え込まれる知識、特に理科・社会の知識は、「ちょっとそこまで小学生に求めるのは焦り過ぎじゃないの」と思えてしまう。

精神論は時代錯誤

学習内容だけ考えたら、中学受験のための勉強にあまり意味はない。それを納得してもらっても、それでもなお、「いや、それでもそうやって受験に挑むことでがんばる姿勢が身につくはずだ」とか、「毎日勉強しなければならない環境におけば勉強する習慣ができるでしょう」と考えて、中学受験を決断するご両親もいる。だが、「がんばること」や「学習習慣」に過剰な意味を見出すことには、それ自体の危うさがある。

まず、「がんばること」のような精神論が重視された昭和という時代を考えてみよう。そういう時代の組織のあり方は垂直的であり、集権的であった。つまり、いったん「上」で方針が決まったら、末端の駒はその命令に従ってその遂行にのみ全力を注ぐべきであった。たとえそれが辛かろうが、誤っていようが、無意味であろうが、上が決めたことを黙々と実行すれば、必ずその報いが得られた。それが「がんばり」を称揚する意識を生み出した。けれど、これは現代、そして何よりも子どもたちが生きていく未来にあてはまるだろうか。この時代、そしてここから先はますます、組織は所属する個人を守ってくれない。なぜなら、適切な判断を行うだけの能力が個人に備わっていることが前提になった高コンピテンシー社会だからだ。上司の命令で公共の植栽に除草剤を撒いても、やっぱり実行犯は器物損壊に問われるだろう。それが犯罪行為だぐらいはあたりまえにわかるからだ。だから、むかしのように、「自分がやるべきことをがんばってさえいればそれでいいのだ」という生き方はもうできなくなる。社会がそれを歓迎しなくなる。そして、自分自身が好き好んでやること、自分の利得になると思うことに対しては、それは精神論なんかなくても人間はどこまでも熱心にやるのだから、そもそも「がんばり」の精神なんて必要はない。「がんばること」は、他者の評価を前提にした依存体質そのものであるともいえるだろう。そんなものを子どもに植え付けて、どうするんだと思う。

「学習習慣」だってそうだ。人間は、習慣で学ぶのではない。本性として、人間は学ぶ存在である。邪魔さえしなければ人間は自主的に学んでいくものだ。あるいは邪魔になるものを取り除いてやりさえすれば、自ら学ぶ。小学生の親は自分の子どもを見て「この子は怠けてばかりで勉強しない」と思うだろうが、それは親が「勉強」だと思っている類の行動を子どもが示していないだけで、子どもは(もしも阻害する要因がなければ)必要なだけのことはしっかり学んでいる。何のために学校で毎日何時間も座っていると思っているのだろう。まあ、教師の中には子どもたちのニーズに十分に応えられずに自らが阻害要因になってしまっている人もいないわけではない。しかし、多くの教員の質は、外野で思っているほどはひどくはない。ともかくも、そんなときに「学習習慣がないとできない」と親が思うような行動、たとえばドリルを毎日何ページもやるとか書き取り練習を欠かさないとかは、本来、その子どもにとって不要なことである場合がほとんどだ。やらねばならないときがくれば(何度も繰り返すが阻害する要因がなければ)、子どもは自分からやる*1。人間は、そもそも必要があるから物事を実行するのであって、習慣だからといって物事を実行するのではない。必要かどうかは、自分でわかる。子どもを馬鹿にしてはいけない。むしろ、習慣で物事を実行することが習い性となれば、それは害悪だろう。仕事をやっていて本当に困るのは、それが必要かどうかを判断もせず、ただ「いつもやってるから」と仕事に割り込んでくる人々だ。あるいは、必要な行動があるときに「習慣」から抜け出せない人々だ。そういう人々を再生産するのが「学習習慣」であるとさえいえるのではないだろうか。

「無意味だけれどがんばったからエラい」「効果はなくても習慣になればそれは尊い」みたいな心性は、およそ人をどこにも連れて行かない。私は決して結果主義に傾倒するつもりはないのだけれど、それでも「がんばること」「毎日続けること」そのものには、いくら考えても価値は見いだせない。特に、それが学習や成長という観点から見て、けっしてプラスにならないことがわかっているときに、それを評価する気には到底なれない。

マイナス面も多い

袋小路に向かう「勉強」は、ときには素直な成長の阻害要因となる。その最大の要因は、単純にそれが時間とエネルギーを奪うからだ。もっとやるべきことが他にある成長期の人々を机の前に縛り付けることのマイナスは、いまさら論を重ねなくても十分に明らかだろう。実際、アメリカ合衆国では、1950年代のスプートニク・ショック以前、あるいは1980年代の日本製半導体の躍進まで、そういう理由で宿題を禁止する条例が各地にあったと聞く(文献あたってません。すいません)。子どもは外で走り回らせておいたほうが成長に好影響を及ぼすというのは、根拠はなくとも長年の間に多くの人々がそう認識してきた常識のひとつだろう。

さらに細かいことをいえば、受験勉強の中心を占める大問単位、ときには小問単位の練習が、せっかくの教材をだいなしにしているという事実がある。たとえば悪名高い「妹が出発して5分後にお姉さんが追いかけ…」みたいな算数の問題があるとしよう。これもまた、どうせ中学に入ったら連立方程式でササッと解ける問題なのだからカリキュラムの組み立てからいえば無意味ではあるのだけれど、ただ、これを小学生の手持ちの知識と技能で考えさせることは、頭の体操としては悪くない。タイミングさえ合えば、こういうのが子どもの成長に寄与する場面も、そりゃあるだろう。だが、受験勉強では、なかなかそうはいかない。なぜなら、問題単位で思考がぶった切られるからだ。

たとえば、「なるほど、妹の速さとお姉さんの速さがわかってたらうまく解けるのか。じゃあ、たとえばお姉さんが1時間後に出発したらどうなるんだろう。あ、追いつく前に駅に着いちゃうな。お姉さんの速さがわからないとしたら、どうだろう。いや、解けっこないか。でも、もしも追いついた時刻がわかるなら…」みたいに、そこからどんどん空想を膨らませ、そして、その空想に対して論理で追いかけ、論理が世界のどこまでを支配できるのかを確認していくような展開は、実は興がのれば子どもは言われなくたってやる。自分でそういうふうに展開できない生徒でも、教師がそういった「おもしろさ」を引っ張り出してやれば、やはり同じように効果はあるだろう。だが、それがどう展開していくかはその場その場の流れによる。ジャズのセッションが同じ曲をやっても実は毎回異なっているように、そのときの空気感によって展開は2つとして同じではない。だが、中学受験をゴールに指導していると、そんな自由な展開、ときにはまったく見当違いの方向への展開(たとえば「お姉さんとケンカしてたら?」みたいな発想)に費やす一見してのムダ(だがそれがどれほど貴重なことか!)な時間をかける余裕がなくなる。よって、「まずは距離がわかっているときの追いつき、次に出発点からの時間経過と速さから2者の距離を求めさせるタイプ、次に向かい合わせのすれ違い…」みたいな誘導順序をこちらで立てて無理矢理にもそこに当てはめていくことになる。そこにうまくノッてこれる生徒ならいい。おもしろみは減るが(その分だけ成長への寄与は少ないが)、それでも生徒の論理的な思考の成長に寄与することはできるだろう。だが、そういう展開とはまったく別な方向へ展開する指向をもっている生徒になると、この指導は空回りする。下手をすると、単なる苦行になり、もっと悪い場合には「暗記しなければならない教条」となる。そこに意味を見出さないでひたすら暗記する知識が何らかの成長に寄与するだろうか。私はそうは思わない。だが、受験勉強の要請は、「いったんこのタイプの問題が解けたら次のタイプの問題へ」と、問題単位に分割され、統合されている。そもそも本番入試の設定がそうなっているのだ。その対策である以上、ひとつのことから連鎖的にどんどん踏み込んでいくような学習はそぐわない。

特に国語の問題を子どもに解説しているときに、そういうことを強く感じる。典型的な国語の出題は、論説なり文芸作品なりの数ページを抜粋して掲載し、その読解を問うものとなっている。その元ネタになった文章はけっこうおもしろいものが多く、ときには出題者の深い見識を感じさせるものであったりもする。ただ、それはほんの数ページ、時にはわずか数段落の抜粋で終わってしまう。ちょっと待てよ、ここからが本番じゃないかというところで終わる。ときにはたまたま私自身がその作品を知っていたりする場合もある。そういうときには、「この前のパートがよかったのに」とか、「ここの話はあそこの話と結びついてるんだよなあ」とか、言いたくてうずうずする。けれど、「次の文を読んで問いに答えなさい」という設定のものとでは、そういった感情や情報は一切が余分なものとなる。提示された文によってのみしか、問題は成り立たない。それが約束事だ。なんともったいないことではないか。ここから世界が広がる可能性があるというのに、その枠を超えてはならない。もちろん、「問題を解く」という枠組みを離れれば、そういう制約はなくなる。けれど、問題集の文がおもしろかったから大元の作品を図書館で探して読んだ、みたいな殊勝な生徒には、いまだかつてお目にかかったことがない。たまには私の方から、「この作家の作品はおもしろいから読んだらいいよ」みたいにアドバイスすることさえあるというのに、実際に読んでくれた生徒はいない。なぜなら、受験勉強に時間を奪われている生徒にとって、それは不可能だからだ。このようにして、せっかくの含蓄のある文に触れても、それが断片以上のなにものももたらさないことに慣れてしまう。それが習い性となってしまえば、文章とはそういうものであるとさえ錯覚するのではないか。これは先々、大人になっていく道程で大きな損失になるだろう。

受験勉強に夢は見ないこと

それでも私は、中学受験を完全に否定するつもりはない。大局的・長期的に見ればああいうものは社会にとって大きな損失だぐらいには思うが、局所的・短期的にみるならば、そうとも言い切れない。まず、私立中高一貫校のような通常の公立中学・高校ではできない教育をする場が存在することそのものはいいことだと思うし、そういった学校が独自に入学者を選抜することも許されるべきだと思う。その手法が伝統芸能的な現在の入試である現実はあまりにもバカバカしいとは思うが、そこに頼ってしまう学校側の事情もわからないではない。そして、そういう学校を目指す生徒やそれを良しとする親がいてもかまわないと思うし、そのために入試で点数をとらねばならないのなら点取りゲームのこなし方ぐらい指導してもかまわないとも思う。

ただし、それはこの状況を正しく認識した上でのことだ。現状の中学受験はいびつなことになっている。だから、特定の中学に進学することが目的であるならば、その目的のために最小のエネルギーを費やすだけで済むようにすべきだ。中学受験生を持ったときに、志望校がはっきりしている生徒はこの点、やりやすい。なぜなら、獲得目標がはっきりしていれば、最も効率的な戦略が立てられるからだ。だが、世の中には、「本当は◯◯中学校に行けたらいいと思うんですけど、ムリだったら△△中学校でも。けど、もしも成績が上がったら、もっと上の◇◇中学校もいいと思うんですよ」みたいに、まるで八百屋で大根でも買うみたいに「あっちが安いから、こっちは高いから」みたいな感覚で志望校に迷う親御さんもいる。そういうもんじゃないだろう。どこでもいいんなら公立に行っとけばいいのだ。そうではなく、「この学校に行きたい」というから、無意味でときには害悪でさえある受験勉強でも耐えてやることになるわけだ。それだけの覚悟はしてほしいと思う。

マクロで見たら害悪でも、ミクロで見たら最善手であるような行動は、確かに世のなかにある。その最善手を個人として選択することを、人間は否定してはならない。妙な道徳やら倫理観を持ち出すことは誤りだ。そういったものが結局は自己矛盾に陥る図式を人間は何度も見てきた。中学受験は問題だらけだが、もしも1人の小学生の親となったときには、「やはりこの子にはあの学校に行ってほしい」と思うこともあるだろう。それはひとつの合理的な選択だし、私の商売はそういう選択を支えることである。ただ、勘違いはやめてほしい。受験勉強そのものには、何ら価値はない。唯一の価値は、それが合格につながるということだけだ。「合格しなくてもいいんです。がんばることがこの子のためになるから」みたいな思い込みは捨ててほしい。それは事実ではない。「やらなくてすむならやらないほうがいいけれど、目的のためにはあえて我慢してやること」が受験勉強だ。まずはそれを真っ直ぐに見つめてほしい。

 

まあ、そんなことは言っても、こちらとしてはその受験勉強をできるだけ生徒の成長に役立つようにしてみたいと思うし、なんなら楽しくてワクワクするものに変えてみたいとも思っている。ただ、そんな芸当は、ほんとうにむずかしくて、なかなか現実のものにならない。そして、そんなヘボな指導のもとでも、生徒は実にたくましく成長していく。結局、どんな劣悪な条件のもとでも人間は成長するのだ。煉獄は、やがて魂を浄化していく……、のだろうか?

*1:たまたまだけど、こういうまとめ記事を見た。

togetter.com

どうやら、教師が阻害要因にならないように心がけるだけで、必要性を感じる場合にはちゃんと行動ができるのが人間のようだ。