中学受験は、やっぱりおかしい - 基礎教育が目指すものと評価基準の乖離

「成長」というとらえどころのないもの

教育が目指すものは、なにはさておき、人間の成長である。人間の成長を支える介入を教育とよぶ、と定義しても差し支えないほどだ。原理的に、これに異を唱える人は多くないだろう。多数の人が教育を人間の権利とし、それを提供することが社会の義務だと考えるのも、それが人間を成長させるからだ。人間は成長する権利をもつのだし、成長を支えるのは社会である。生物はその基本特性として成長するのだし、社会的生物である人類はそれを構成する個人のそれぞれの成長によって成り立っている、ともいえるだろう。

ここに、教育を評価する根本的な困難が存在する。というのは、人間の精神的な成長は、容易に測定できない。さらに、介入が効果を上げたかどうかの測定は、それ以上にむずかしい。というのは、およそ人間は、教育なんか受けなくったって、それなりには成長するからだ。だから、仮に精神的な成長が観測されたからといって、それが一義的に教育の成果であるとはいえない。教育は成長を促進したかもしれないが、成長を阻害したのかもしれない。ひどい教育にもかかわらず、その他の要因によって成長がみられたということだってあり得るわけだ。教育の効果を正確に判別しようとすれば介入の有無によってどの程度のアウトカムのちがいがみられたのかを検証しなければならないが、それは倫理的に無理だ。実験のために正当な権利である教育を一部生徒に対して止めることなどできない。だいたいが、成長は個人差が大きいので、数例のことで検証はできない。大規模調査をしようとすれば、施される教育が均質であることを先に検証しなければならないが、教師の当たりハズレが大きいことは常識であって、そこから発生する影響をコントロールすることは相当な困難だろう。したがって、教育は、「だいたいこんなもんだろう」という思い込みと、「むかしっからやってきたことだから」という保守主義と、あとはマジナイみたいなものの混淆によって支えられているといってもいい。

人間は、教育以外の要因でも成長する

実際のところ、多くの人が見落としがちなのは、人間にはその人自身の力で成長する能力があるということだ。もちろん、社会的生物である人間は単独では成長できず、つねに他者とのかかわりのなかで成長するのだけれど、それが制度としての教育である必要はない。むかしは「テレビばっかり見てるとアホになる」、少し前なら「ゲームばっかりしてると…」、さらに最近では「スマホばっかり…」と言われるのだけれど、実際に起こったことは、それらのメディアを通じてさえ、人は成長できるのだということだ。それがベストかどうかとか、他のものと比較してどうだということではない。人はあらゆる外部刺激をベースに自律的に成長する力をもっている。教育は、それを補助するだけである。

家庭教師をやっていて、「あ、ここはいくら訓練してもいまはダメだな」と思うときがある。そういうときは、その局面は一旦退却して、他のことに力点を移す。そうしておいて1年とか2年たって、改めて同じ課題に取り組むと、驚くほどにうまく理解が進むことがある。放置していたあいだ、「教育」としての介入はおこなわれていない。それでも、生徒は日常生活をとおして、あるいは他の教科の学習をとおして、しっかりと成長する。だから、成長の結果として、過去にはわからなかったことがわかるようになる。そういうことが、しばしば観測される。放っておいても時間の働きで人間は成長するのだなあと、感じる。ときには、その成長は人為的に外部から働きかけるものよりもずっと強く本質的なのだなあとも思う。

だからこそ、カリキュラムに発達段階を考慮することが重要になる。以前にこのブログでも指摘したのだけれど、たとえば比率の概念は小学生には理解しにくいのだけれど、中学2年生以降になると飛躍的に理解する素地が高まる。これなんかは典型的に年齢による発達段階が学習項目の理解に影響する例だと思う。なぜ小学校の算数で中学校的な代数を扱わないのかとか、小学校の国語で文法をやらないのかとか、理科の量的な把握は主に高校になってから扱うこととか、小学校の歴史は人物本位なのに同じ時代を扱う中学校ではそうではないこととか、なるほど、学習指導要領は(上記の比率のようにどうしても無理のある部分はあるにせよ)、よくできていると思わせてくれる。年齢相応の理解というものが、カリキュラムの作成には欠かせない。それは、教育とは無関係に年齢に応じて人間が成長するという事実をベースにしてはじめて、納得できることだろう。

成長=知識・技能の獲得?

これに対して、「いや、教育の力はそんなもんじゃない」という異論もある。つまり、発達段階は教育的介入によってどんどん進めることができる、というものだ。5年生で比率の概念がしっかりつかめないのは教え方がわるいからであって、きっちり教えれば5年生どころか、4年生でも3年生でも比率は理解できる。国語の文法も、中学にはいってから習うのはもったいないことで、小学生にでも教え込めばちゃんとわかる。理科計算が小学生にできないのは教えていないからだけで、筋道立てて教えたら密度でも濃度でも、あるいは力学的な計算でも熱量の計算でも、ちゃんとできるようになる。そういう主張がある。直接的な主張として聞くことはめったにないけれど、「ああ、そう考えているんだな」と思わざるを得ない現象がある。それも、相当に広範囲な社会事象として観測される。中学受験のことだ。

受験業界の端くれにいる者として、中学受験の常識とされているものはだいたいわかる。5年生からでは遅い、最低でも4年生からスタートさせるべきだし、3年生や2年生から、なんなら小学校入学から準備をスタートさせたってけっして早すぎることはない、というのが受験産業の言い分だ。その根拠は、中学受験で主に出題される小学校5年生、6年生の学習範囲の問題を、実際に5年生、6年生で学校で習ってから練習したのでは、絶対的な時間が足りなくなる、ということだ。合格に必要な高得点を取れるだけの精度を上げるには反復練習が必要であり、そのためには時間がかかる。その時間を確保するためには、3年生、4年生のうちから5年生、6年生の学習内容を先取りして覚えさせ、学校で学ぶよりはるか前から練習させなければならない、という発想だ。そして、多くの学習塾では、そいういった考え方にもとづいてカリキュラムが組まれている。そして実際に、「得点力」をアップさせている。そういう意味で、彼らの言葉に矛盾はない。そして、多くの親もそれを信じる。信じる人がいるから、受験の風習は成り立っている。信じる人が多ければ多いほど、その行いの実利は保証され、信じることは明確な価値をもつ。ある意味、宗教と同じ構造がそこにある。

ともかくも、こういった「年齢が低くても、教え込めば高度なことができるようになる。むしろ、年齢がひくいときから始めたほうが上達がはやい」という発想は、たとえばピアノやバイオリンといった楽器演奏やバレエやフィギュアスケートといった運動に関する幼児英才教育の発想と同じものであるだろう。しかし、学問と技芸は、似たようなところはあるけれど、やはり根本的に異なるものだ。学問で扱うさまざまな概念は、物理的な脳の成長が伴わなければ意味を成さない。これは古くはルソーが「エーミール」で観察したことでもある。

にもかかわらず、学習塾をはじめとする受験産業は、「先取り学習」で成果をあげている。つまり、中学受験時点での「得点力」を、遅れてスタートした生徒よりも高いものにしている。そういうふうになる要因はいくつかあるのだけれど、もっとも根底にある教育観がちがうことが最大のものであるように思われる。すなわち、冒頭で述べた「教育が目指すものは人間の成長である」という教育観ではなく、「教育が目指すものは、どれだけの知識を獲得し、どれだけの技能を身につけたかである」とする教育観だ。あるいは、「人間の成長とはすなわちどれだけの知識を獲得し、どれだけの技能を身につけたかを意味する」という観念といってもいいだろう。そうすれば二者に矛盾はなくなる。受験産業の人間であっても「人間の成長」の重要性を等閑視する人は多くあるまい。ただ、そこでそれが知識や技能に置き換えられると信じ込んでいるケースが多いのではないだろうか。

そういった誤解を生み出しているのは、学力テストだ。なぜなら、学力テストが測定するのは知識と技能だからだ。測定基準が知識と技能であれば、それを向上させることが目的であると短絡的に結びつけてしまうのも無理はない。そして、知識と技能の伝達は、特別に人間としての成長がなくても実行することができる。早くに始めて練習量をふやすことは、まさにそういう発想から直接に生まれてくる。

考えさせることと技能を教えることと

受験数学の「特殊算」の入門編として、植木算というものがある。これはたとえば、

道にそって、6mおきに木が10本うえてあります。道のはしからはしまで何mありますか。

というようなものだ。このような問題が教育現場に導入されたのはずいぶんと古い。その経緯は知らないが、たしかにこのような問題は、正しく扱えば人間の成長を促すツールとなるだろう。もしもそういうことを念頭に置いて私がこの問題を使うとしたらどんなふうにするか。生徒は小学校5年生ぐらいだろうか。まず、なにもヒントを与えずに問題を出す。たいていの場合、生徒は

    6×10=60

と計算して、「60mです」と答えるだろう。そこで、図を描いて、もう一度考えさせる。それでも「60m」と答える生徒がいるはずなので、実際に図の上で数えさせる。そうすると、54mだということがはっきりする。ここで、生徒が「掛け算は信用できない」と思ったとしたら、それはひとつの進歩だ。次に類題を出す。4mおきに12本とか、数字や設定を変えるわけだ。生徒は用心深くなっているから、図を描いて数え、正解するだろう。それを受けて、さらに類題を出す。ただし、今度は3.7mおきに100本、みたいに、ちょっと図に描いて数えるのが現実的ではない数字にする。ここで生徒は考えはじめる。ときにはギブアップするから、そういう場合にはもう1回、数えて答えが出るタイプの類題に変えてみる。長考を続ける生徒には、様子を観察しながら、考えさせる。行き詰まった場合には、やはり難易度を下げた問題から再出発させる。そのうちに、やはり掛け算を使わなければ計算がたいへんすぎることに気がつくだろう。けれど、最初に掛け算をやったらうまくいかなかった。ここから「掛け算を使うんだけれど、なにか罠がある」と気づいたら一歩前進だ。それでもまだ、「掛け算の前に1をひくという下処理をすればいいんだ」と気づくまでには、かなりの距離がある。その距離をうまくサポートしながら渡らせるのが教師の役割ということになる。できるだけ口出しは控えることだ。ヒントよりも、諦める気持ちをさらに奮い立たせるような介入が望ましい。そして最終的に計算によって正解が出る道筋ができたときには、うまくいけば、複数の演算を組み合わせた関数的な考え方にまでたどり着くことができるだろう。数学的な思考力が少しだけ鍛えられる。これは成長といっていい。

しかし、実際にはここまでのていねいな指導はできない。なぜなら、上記のことをやろうと思ったら、1時間から2時間、場合によっては2日分の指導をしなければならないからだ。一方、技能として植木算を5年生に教えるのはかんたんだ。スタートは同じでも、そのあと、手品の種明かしをするように、「ここは間隔の数だけ掛け算することになります。だから、本数から1をひいて掛け算すれば答えが出ますね」とまとめればいい。10分もかからないだろう。そして、生徒は、2時間かけたときと同じぐらい正確に、あるいはもっとよく、この計算技能を身につける。残りの時間を反復練習に費やせば、長時間試行錯誤をさせた場合よりもテストの点数は遥かに上がるだろう。

つまり、中学受験に出題されるような特殊算がわるいのではない。そういったものを活用して、子どもたちの成長を促すことは、適切な時期と方法で行えば十分に可能だ。けれど、最終的な関門として待ち構えている入学試験は、点取りゲームだ。点数が1点でも高いものが勝ちになるルールだ。そういうものが結果を判定するとき、やるべきことはどれだけ成長したかではなく、どれだけ技能を身につけたかだ。あるいは知識があるかだ。成長という個人的な営みは、もともと外部からの評価になじまない。そういうものを追求するよりは、もっと客観的な評価が可能なものを求めるほうが正しい。功利的な意味では、明らかに正しい。そしてそれを、受験制度は利用している。

受験制度は社会的損失

このブログでも、過去に中学受験を批判してきた。ただ、その批判は受験生の親に対して向けられたものでも、まして受験生当人に対して向けられたものでもない。何らかの選択によって何らかの利益が得られることが明らかなとき、その選択をするのは、個人として何ら責められるものではない。仮に受験によって中高一貫校に入り、それによって将来の生涯賃金が増えると判断するときに、受験のための投資と生涯賃金の増加分を比較して受験すべきだと判断するのなら、それはそれで正しいだろう。その他のメリットを考えた場合も同じだ。そのために支払う犠牲と得られる利得が釣り合うものであれば、その選択をすることは何ら不当なことではない。

また、入学試験を実施する中高一貫校に対しても、試験を行うことそのものについては同様に批判するものでもない。公教育のなかで学校の多様性は重要だと思うし、その中で特色を出す学校がその学校にふさわしい生徒を選抜するのは何らおかしなことではない。ただし、その選抜方法として、古色蒼然とした問題、半世紀以上も前から伝統的に用いられてきた問題を使い続けるのは、いったいどうなのかと以前の記事で批判した。それは子どもたちに対して有害であるだけでなく、本来の目的である「自分のところに来てほしい生徒を集める」上でも学校にとって役立っていないのではないかと思うからである。不文律のもと、受験産業との馴れ合いで成立している受験文化は、あまりにも珍奇で時代遅れだと思う。

最終的に、批判は受験制度を許容している社会全体に向けられるものだ。なぜなら、本来の教育の目的である「人間の成長」を「特定の知識・技能の習得」に置き換えることは、最終的には社会の成員の能力を低下させ、社会の活力を削ぐことになると思うからだ。誤解されやすいがわかりやすい表現を用いれば、「国力の低下」といってもいい。

いろいろと実践上の問題、あるいは考え方の問題はあるにせよ、公教育の指針である学習指導要領は、活力のある未来に向けて、かなりの程度、広く合意された教育カリキュラムを示している。そこでは、もちろん知識・技能も習得すべきものとしてあげられているが、もっとも重視されているのは「考える力」であり、「コミュニケーション能力」であり、さらには「情報を活用する力」である。こういった人間の基本的なコンピテンシーは、「教える教育」からは十分に育たない。内発的な成長を促すような「育てる教育」が必要である。そして学習指導要領も、(解釈次第では)それを推奨している。しかし、競争的なテストをめざした「勉強」では、前者が圧倒的に勝ってしまう。故に、受験制度を当然のものとして受け入れることは、学習指導要領にある教育目標を建前だけのものにしてしまい、実質を失わせることになる。

だから、政策として、あるいは社会的な合意として、中学受験、すくなくとも現在おこなわれているような中学受験は徐々に排除されるようになるのが望ましいと思う。さらにいうならば、なぜ中受がこれほどもてはやされるかといえば、それは大学受験が後ろにひかえているからであるし、さらに大学を就職予備校的に扱う一部の風潮があるからでもある。そういった諸々のことを考え合わせれば、結局行きつくのは入試全廃論ということになる。

学問を学びたければ自由に学べるようになるのが理想だ。もしもキャパシティの問題があるのなら、くじ引きでかまわない。優秀な人が学問を学ぶべきだという考えは、本当に合理的なのだろうか。優秀でない人が学んで底上げすることも、優秀な人が突き抜けていくことと同じくらい重要ではないのだろうか。教育について考え始めると、いくらでも疑問が出てくる。こういうことに悩み続けることができるのは、私の受けた教育が良かったからなのか、わるかったからなのか…

 

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追記1:上記、「知識・技能の獲得」と「成長」を対比させて書いているが、知識・技能のトレーニングによって人間が成長する可能性を否定しているのではない。受験をくぐり抜けてきた多くの人は、実際に、そういう修行を通じて成長したのだと思う。ただし、それはたとえば貧困の中から貴重な学びを得ることができる人がいることと似たようなものだと思う。貧困が得難い経験となるからといって、貧困こそがあるべき姿であるなどといえるわけがなかろう。人間は、あらゆる経験をつうじて成長する。だから、これは成長を促すべき介入者側の立場から見た対比である。介入者としては、知識・技能の獲得に傾斜することは、明らかに成長を手助けすることと矛盾する。

 

追記2:この記事は、今日、ブックマークコメントした2つの記事、

topisyu.hatenablog.com

なぜ「中学受験は親の受験」と言われるのか - 斗比主閲子の姑日記

及び

davitrice.hatenadiary.jp

サンデル教授の「大学入試くじ引き論」 - 道徳的動物日記

にインスパイアされて書いたものである。