中学受験は、そろそろ根本的に変わったほうがいい

役に立ってない中学受験勉強

中学受験はおよそ害悪だ。私がそう思う理由は単純だ。それが子どもたちの役に立っていないからだ。中学受験制度そのものは、それは何らかの役に立っているのかもしれない。少なくともそれを実施する私立中学校にとっては、メリットがあるはずだ。そうでなければやらないだろう(そのメリットも、後述するように怪しいものではあるけれど)。けれど、当事者のもう一方である子どもたちにとって、得られるものは「合格」以外のものはなにもない。そういうものだと言ってしまえばそれまでなのだが、じゃあ、合格競争のためだけに貴重な時間を無駄にすることはどうなのか、ということになる。私はそれを害悪だと思う。

なぜ、「子どもたちの役に立たない」というのか。それは、家庭教師としての経験からだ。私は中高一貫の私立中学・高校の生徒の指導にあたった経験が過去に何件もある。いずれも中学受験を無事に突破した生徒たちだ。あるいは、失敗して公立中学に進んだ生徒も何人かみてきた。これらはサンプル数としては少ないし、多くがトップレベルではない中の上くらいの私立中高生で、しかも「もうひとがんばり」と発破をかけられて家庭教師のサポートを必要としている生徒である。「成功例」ではないのかもしれない。それでも、彼らを見て、また、彼らからのヒアリングや彼らが持ち帰る学校での授業プリントなどを見て、思うのだ。「あれ? あの難問をエレガントに解いていた中学受験生が数年たってこれなの?」と。

たとえば算数。中学受験であれほど叩き込まれた比の操作、図形の解法のほとんどを、多くの私立中高生は忘れてしまっている。鶴亀算的な操作は使わないから忘れても別にかまわないとして、数値計算の工夫なんかは実用的だからぜひ日常的に使ってほしいのに、通り一遍のところから踏み出せない。すべてがそうではないけれど、家庭教師として実際に中学受験の難問を小学生とともにくぐり抜けてきている身としては、実に物足りない。もっと頭を使えよと言いたくなる。選抜をくぐり抜けた優れた頭脳があるんだろうと言いたくなる。だが、彼らの積み上げたはずのものは、合格の喜びとともにすでに過去のものとなっているのだ。

 

なぜそういうことが起こるのだろうか。中学受験に挑む生徒たちを教えてきて、なんとなく見えてきたような気がする。ちなみに、こちらも数は多くない。私はもともと中学受験生を教えるのは気が進まない。一言でいえばめんどくさいのだ。中学受験にはいろいろお約束ごとがあって、自由な発想で指導計画を展開しにくい。手間がかかる割におもしろくない。だから、なるべく中学受験生は請けないようにしてきた。スケジュールの関係なんかの都合で請けても、何かと口実をつくって他の講師に引き継ぐ機会を伺い、そして手渡してきた。家庭教師も長いことやってると、そのあたりのワガママの通し方もうまくなっていく。そして、地域的にも、このあたりは関東とはちがって中学受験はそれほど盛んではない。近年は(といっても十年単位でいうような「近年」だが)以前に比べると中学受験が一般化してきているが、それでも比率からいえばまだまだ私立中学校へ進学する生徒が少ないのが地域的な特徴なのだ。

だから、もともと中学受験生は年に1人とるかとらないか程度だった。それが今年は、やたらと中学受験生が多い。4人もいる(さらに1人増えそうな)うえ、その多くが週2回、3回と複数コマをとっている。これは上記のようにこの地域でも中学受験が増えてきていること、それを受けて数年前から会社の方でも中受に力を入れるようになっていることに加え、私がオンライン専任に配置換えになったこととかも関係しているのだろう。

ともかくも、家庭教師のお呼びがかかる中受生は、ほぼ学習塾に行っている。学習塾の進度についていくために家庭教師の補習を必要とする場合、学習塾から見放されそうになって家庭教師を頼る場合、学習塾に見切りをつけて家庭教師に切り替える場合と様々だ。学習塾と全く無縁なのはレアケース。なので、学習塾の様子は手にとるようにわかる。これがよくない。有り体に言って、ひどい。

彼らは基本的に、子どもたちを追い立てることしかしない。やたらと精神論ばかり吐く。ひとりひとりをとれば良い教師もいるかもしれないし、実際、子どもの親身になっていろいろとアドバイスを送ってくれる先生がいるのも知っている。しかし、塾全体の空気はそうではない。なぜなら、もともとが学習塾のビジネスモデルが「脱落者は捨てていく」ことを前提に成り立っているからだ。特に、任意性の強い中学受験では、そういうビジネスモデルを展開しやすい。だから容赦がない。

どういうことか。学習塾にとっては、入塾者が増えることがすなわち事業成功への鍵だ。入塾者をどうやって増やすのか。実績が最高の宣伝材料になる。有名校に年間何十人単位で塾生を送り込んだ事実があれば、親は喜んで高額の授業料を払う。「ここに入れば必ず志望校に入れてくれる」とか、ときには「ここに入らなければ合格なんて無理」と思いこんで、子どもを送り出す。この子どもたちに対して学習塾は、とにかく猛烈なプレッシャーをかける。競争に駆り立て、無理なほどの宿題を出し、「そんなことではダメだ! もっと頑張らなければ負ける!」と発破をかける。当然ながら、多くの子どもはそれに耐えられない。脱落者がどんどんと出る。それでかまわないのだ。なぜなら、生き残った生徒たちはそれなりに高得点を叩き出すのに適応できた精鋭であり、さらにそれを鍛えれば有名校合格が勝ち取れる。そうやって合格者の実績をつくりあげることができれば、翌年にまた大量の入塾者を確保することができる。大量の入塾者の中には必ず一定の割合、学習塾の苛烈なやり方に適応できる子どもたちがいるはずだから、同じようにしてふるい落として精鋭部隊をつくっていく。これを繰り返すことで、事業は成長する。

これが基本戦略だが、さらに事業を安定させるための追加的な戦略もある。どんどんふるいにかけて使えない生徒はふるい落としたほうが合格率は上がるとはいえ、収益性からはできるだけ長く在塾してもらったほうがいい。そこで段階別にクラス編成をして、脱落者には下のクラスに回ってもらう。そこで行われる学習指導はひどいものだけれど、そこは単純に資金源でしかないので、学習塾にとっては授業内容はどうでもいい。主要なリソースは生き残りで構成された精鋭部隊に注ぎ込めば、実績はきっちり上がるのだから。

そういったビジネスモデルなのだということは容易に理解できるのだが、子どもの側に立ってみたらこれがクソだということはすぐにわかる。競争を煽り、ひたすら得点ゲットのための技能を身に付けさせることは、子どもの成長にとってなにひとつ利するところがない。

「いや、勉強してるじゃないか」と、素朴に思うかもしれない。「将来の基礎をつくるじゃないか」とか「若いうちに頭を使うことが重要だ」と思うかもしれない。けれど、塾のやり方ではそれはほぼ当てはまらない。その証拠が、中学受験で身につけたはずの技能を一切忘れてしまった私立中高一貫校の生徒たちだ。だが、これではなぜそういう生徒たちが発生するのかの説明になっていない。それを分析するには、塾でどんな指導方法をやっているのかに立ち入らなければならない。

点取りゲームは傾向と対策

入学試験は、点取りゲームだ。これはもうはっきりしている。その人の本質とか適性とか一切関係なく、単純に得点の高いほうが勝利する。もちろん出題者は志願者の適性を見極めようとして問題を設計・作成するのだけれど、いったんゲームとなったら必勝法はそこにない。ゲームの必勝法は傾向と対策だ。そして反復だ。

これはゲーム機やスマホでゲームをやっている人にはすぐに同意してもらえるのではないだろうか。どのタイミングでどういう操作をすればいいのかを習得し、それが完璧にできるように繰り返し練習すれば高スコアが得られる。ゲームのテーマがどうとか、製作者の意図がどうかとか、ほぼ関係がない。たとえばいま話題のGhost of Tsushimaをプレイするのに、元寇の史実を知る必要はない。もちろん、それを知ってプレイすればより味わいは深まるだろう。あるいは、ゲームから興味をかきたてられて対馬の自然をさらに学ぼうと思うかもしれない。けれど、そういった味わいや知的興奮は、ゲームプレイには基本的に無関係だ。ゲームをクリアすることが目的であれば、そういったものは不要だ。そして、全リソースをゲームのクリアに注がなければならないのであれば、味わいや知的興奮はお荷物にさえなるだろう。

これがいま、受験業界で起こっていることだ。その本質は無視して、ともかく点数を上げることだけにフォーカスする。そのためにはまず「出そうな問題」を洗い出し、そしてその解法をパターン化する。パターン化した解法を難易度順に整理し、そのひとつずつを段階的に反復させていく。そうすることで解法パターンを暗記させ、いつでも使えるような道具にする。そうすれば、自動的に高得点が取れるようになる。

そういうものが「勉強」だと思いこんでいる人にとっては、「え? だから何が問題なの?」という感想しか出てこないかもしれない。けれど、こんなものは、単純に「点取りゲーム必勝法」でしかない。だからこそ、受験勉強が不要になった合格後には、速やかに忘れ去られる。

学習は、子どもの成長の発達段階に沿って計画されている。ことに小学校においては、年齢によって理解できる程度がはっきりと異なる。ところが、入学試験は小学校6年生段階に設定されているため、12歳の子どもが理解できる程度の学習内容が出題される。傾向と対策に基づいた反復練習によってそれを身につけるためには時間がかかる。結果として、それを理解できる年齢に達するはるか以前から、理解も何も関係なく、反復を始めなければならない。そして、本質の理解なんてなくても、きっちりとパターン化さえしておいてもらえれば、子どもたちは早い年齢から対応が可能になる。だから「くもわ」「みはじ」の呪文であり、「ことで聞かれたらこと、もので聞かれたらもの」の鉄則であるわけだ。そして、深いレベルでの理解がないものだから、必要性がなくなればすぐに消えてしまう。

多様な技を覚えてそれをいつでも使えるようにしておくことは「深いレベルの理解」ではないのだろうか。それはまったくの別物だ。深いレベルで物事を理解するためには、まず時間をかけてゆっくりと物事のつながりを考えなければならない。「AはBね」という知識を覚えることは理解でもなんでもない。「AはBでBはCなのだとしたら、AはCのはずだ。もしそうでないなら、そこにはほかの条件が隠れているはずだ。ということは、BはCだけなくBはDでもあるのかもしれない」みたいに延々と考え続けることが若い頭の鍛錬には必要だ。たとえ誤った迷路や袋小路に踏み込もうと、そうやって考え続けていれば、そのこと自体が財産になる。けれど、学習塾は絶対にそういうことを許さない。すべてのパターンは「AならB」式に明瞭化されているし、それを素早く、正確に繰り出すことを求めている。迷うのは「時間の無駄だ」と判断するし、その原因を「練習が足りないからだ」と断じるから、考え込むことを評価しないのだ。

孔子も言っているではないか。「学びて思わざれば則ち罔し」と。いくら知識を覚えようが、思索のないところに光は射さない。受験勉強の目的が高得点をゲットすることであれば、それでもかまわない。高得点には思索など必要はない。ただ、パターン化と反復練習さえこなす体力があればいい。だからこれは学問ではない。学問ではないから、あとに残るものはない。

多くの親は、ここを勘違いしている。「受験勉強という名前で子どもにやる気を起こさせれば、そこから先に役立つ重要な学びをその過程で得ることができるだろう。だから、仮に受験に失敗するにしても、そこに挑戦させる意味は大きい」ぐらいに考えている親は多い。学習塾も、そういった誤解を助長するような宣伝をする。しかし、考えさせない学習は学習ではない。「いや、ウチの塾は考えさせる教育をします」「頭の使い方を学ぶのが勉強です」みたいに主張する学習塾もあるだろう。だが、彼らのいう「考える」とか「頭を使う」は、せいぜい「この問題はどのパターンに当てはまるだろう」と判別させるとか「この問題はこのパターンとこのパターンの組み合わせだな」と思いつくとか、その程度のことでしかない。その程度に頭を使うのが教育なら、むしろ子どもをゲーム機の前に座らせておいたほうがいいぐらいだ。学問とはそういうものではない。

なぜ伝統芸能のような中学受験対策が生まれたのか

私が中学受験の指導をつまらないと感じるのは、それが伝統芸能の世界のように閉じた世界になってしまっているからだ。たしかにいろいろな知識はアップデートされている。社会科の総合問題には、最新の時事問題が反映されていたりもする(今年はコロナとかオリンピック中止とかじゃないかな)。けれど、突き詰めていえばそこで問われている内容に大きな変化はない。何なら半世紀前の問題集の問題をそのまま使っても指導ができるほどだ。学問は進歩しているのに、その姿にはほとんど変化がない。

なぜそうなっているのか。それは、中学受験が奇妙な方向に進化してしまっているからだ。まず基本的には入学試験は公平でなければならない。公平性を確保するために、学習指導要領からはみ出した内容は出題しないことになっている。これは中学受験に限らず、高校入試でも大学入試でも同じことだ。ただし、特殊な技能を求めることが前提である学科・コースはその限りではない。一般の中学入試はそうではないので、学習指導要領の範囲を逸脱しないことが前提になっている。しかし、通常小学校で教える程度の問題を出したのでは、全員が正解をはじき出し、差がつかなくなる。そこで、「小学校の範囲ではあるのだけれど、ふつうの小学生には解けない」難問を工夫する方向に受験問題は進化することになった。ただし、実際にはそれ以前に、学習指導要領が変化する前の伝統というものが存在する。

たとえば鶴亀算だ。私が小学生だった半世紀前には、この解法は教科書に載っていた。確か4年生か5年生の授業で出てきたのだと思う。なぜそれを覚えているかというと、私はこれがさっぱり理解できず、母親が半分キレながら特訓してくれた場面が印象に残っているからだ。鶴と亀に飽きてきた私をライオンと人間とか、いろいろに題材を変えてどうにか解けるようにしてくれた。母親は別に算数が得意とかいうことの一切ない人だったので、それなりに苦労したんだろうと思う。ま、思い出話はともかくも、鶴亀算旅人算も植木算も和差算も、その頃には学習指導要領のもとでふつうに教えられていた。だが、なかなか理解することは難しく、それをちょっとひねった形で中学入試に出題しても、それはそれなりに差がついた。ひとつ上の兄が中学入試に挑んでいる(そして敗退している)ので、そのあたりのことは子ども心にもだいたい理解できた。

そして、そんなふうに多くの子どもが理解できない「特殊算」を学校で教えるのはどうなのよという話になり、指導要領の改定でこれらの計算は徐々に教科書から姿を消すことになった。私が学習参考書業界で小学生向けの算数の問題集を編集していた1980年代にはすでに小学校の教科書からこれらの特殊算はほぼ姿を消していた。「こんなんでほんまに大丈夫なんかいな」という古手業界人たちの杞憂をよそに、小学校教育はその後もごくふつうに進行した。鶴と亀が何匹いようがA君がお兄さんに追いかけられることがなくなろうが、だれひとり困らなかったわけだ。

そして、大きな影響を受けると予想された中学入試も、ほとんど変わらなかった。これは、「鶴亀算旅人算も時計算も差集め算も、教科書からは消えたかもしれないが、学習指導要領にある四則計算の応用として解くことは可能ではないか。だったら、指導要領外とはいえないはずだ」という解釈による。そういうことを言いだしたら世の中のあらゆる学問は小学校の国語算数理科社会の応用だといえなくもないので何でもありの世界になってしまうのだが、そこは奇妙な自主規制が不文律として通用するようになった。すなわち、古い指導要領で扱われていた内容はOK、それ以外はダメ、というものだ。だから鶴亀算旅人算で方程式を使ったらアウトみたいな慣例が通用するようになった。正負の数は中学の学習事項だから使ってはダメなので方程式的な操作は不可だが逆算ならやってよろしいとか、四則計算でもよく意味のわからない線引きがある。その割に図形問題はどう考えても中学校の範囲だろうという平行線定理や相似な図形の処理が認められている。国語ではやはり中学の学習範囲である品詞分類はあからさまには出題されないが、実質それに等しい知識を必要とする問題は出る。それでも、「品詞分類を知らなくても『使い方が違うかどうか』は注意すればわかるはずだから」というようなギリギリのラインが引かれている。理科や社会でも一見中学、ときには高校の問題が出題されているが、「ここをたどれば知識がなくても解けるはず」という細いラインが引かれているので、セーフということになっている。

それが何十年、続いている。いったいなにがセーフで何がアウトなのかという外枠は、高校入試、大学入試に比べても非常にわかりにくくなっている。わかるのはその道何十年のベテランと、そこから直伝を受けた塾関係者だけではないかと思うくらいだ。閉じた世界であり、第三者から見ての明瞭な基準がない。ただ、「昔から中学入試ってこんなもんだ」という了解だけのもとに成り立っている世界だ。すなわち、伝統芸能の世界と同じである。非常にやりにくい。

結局のところ、中学入試は古い古い枠組みを温存するためだけに強引で独りよがりな基準が不文律として成立し、そしてそれをすべてのプレーヤーが所与のものとして受け入れることで存続してきた非常にいびつなものである、といえるのだと思う。そして、それを受け入れることが無条件で子どもたちに求められている。学問の体系を考えたら、これでは先に何もつながらないことになる。多くの受験技能が中学以降に忘れ去られる理由は、こんなところにもあるのではないかと思う。

それって優秀な生徒を選抜できてないと思う

中学入試に限らない、私は入試全廃論者である。それでも、私立中学校が入学志望者を何らかの基準で選抜するのは理解できないことではない。私立学校は教育の多様性を確保する上でその存在意義が大きいし、公立の学校と一線を画す以上、生徒に何らかの特性を求めることがあってもかまわないと思う。アドミッション・ポリシーやカリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシーが重視されるこの時代、中学校であっても「ウチではこんな生徒を求めています」「ウチではこんな教育を実施します」ということが明らかになっている。当然、それに適合した生徒を選ぶ必要があるのだし、そのために何らかの試験を実施するのは、道理にかなったことでもある。

たとえば、いま私が担当しているある生徒の志望校には、こんなアドミッション・ポリシーが掲げてある。

  1. 本校の使命や教育方針を理解する生徒
  2. 学力が優秀で知的好奇心が豊かな生徒
  3. 自分で考え、積極的に行動できる生徒
  4. 人間尊重の精神を持ち、社会貢献の意識が高い生徒

1番はまあ当たり前のこととして、2番から4番のような生徒を選考するのに、この学校の入試問題が役立つだろうか。そういう観点から過去問題を見てみると、それなりに頷けないこともない。算数の問題はなによりも「学力が優秀」でないと歯が立たないだろうし、それだけではなく「自分で考え、積極的に行動」する姿勢があって(すなわち試行錯誤を繰り返すことで)解けるような問題だ。理科の問題は「知的好奇心」があってこそうまく解けるだろうし、社会科の問題には「人間尊重の精神」や「社会貢献の意識」が反映しているといえなくもない。たしかに、虚心坦懐に問題を見るならば、これはアドミッション・ポリシーにうたわれた生徒像を反映する入学志望者を選抜するための問題であるようにも見える。

しかし、現実はそううまくはいかない。なぜなら、ごくふつうの勉強をしてきた上記にピッタリと該当する生徒と、上記にはまったく当てはまらないけれど学習塾式の猛特訓で準備をしてきた生徒と、どちらが高得点をとるかといえば圧倒的に後者だからだ。なぜなら、本来は「自分で考え」ることで解決することが期待されている問題も、パターン化し、階層化し、反復によって解法を暗記することで十分に解けるようになるし、そして、その手法はほとんどすべての領域をカバーするからだ。学習塾式の勉強をやらない生徒には、どこかの領域に穴がある。場合によっては、算数や国語はノー勉で解けるが社会科はダメ、みたいなことも起こる。結果として、点取りゲームに勝てない。

結局のところ、出題者の意図がどこにあるにせよ、中学入試の問題では「パターン化、序列・階層化、反復訓練」の学習塾式の勉強を勝ち抜いた者が勝利する。そして、その厳然たる事実を前に、学習塾や親、当事者である子どもたちさえも、誤解してしまう。私立中学校が欲しい生徒は、厳しい塾の訓練に耐えて勝ち残ることができる生徒なのだと。あるいは、すべての解法を知識として詰め込んだモンスターのような生徒なのだと。そうではないということはアドミッション・ポリシーを素直に読めばわかるのに、「あれは単なる建前で、ほんとうはそうじゃないんだろう」と勝手に決めてかかる。だから学習塾は悪びれることもなくまるで正しいことをやっているかのように堂々と親を叱咤し、子どもを激励する。親は言われるままに追加の教材や講習会に投資し、子どもたちは最後のアドレナリンを絞り出す。

さらにわるいことには、中堅の私立中高一貫校あたりになると、彼ら自身があえてその誤解を自己のものとしてしまうことがあるように見えることだ。アドミッション・ポリシーは単なる看板で、ホンネでは彼ら自身、塾の訓練に耐え忍んできた生徒を好んで選考しようとしているのではないか、と見えることだ。これはちょっと怖ろしい。

 

トップレベルの中高一貫校の入試問題が難問になるのには、それなりの理由がある。これらの学校の「難問・奇問」と呼ばれるものを仔細に分析してみると、実は言うほど難問でも奇問でもないことが多い。表面上のとっつきにくさやわかりにくさにかかわらず、素直な心で読めば正答への道筋が浮かび上がってくるものが多いのだ。むしろ良問であったりする。では、なぜそれを学習塾が「難問・奇問」と呼ぶのかといえば、それが過去問題を分析して得られたパターンでは解けないからだ。彼らの必勝法であるパターン化と反復訓練が通用しないから、それをなにか特別なものであるかのように扱う。そして、その対策を無理矢理に自分たちのパターン化の中に当てはめようとする。結果、新しいパターンがそこに追加される。そのようにして、学習塾の「対策」は、どんどん高度化、精緻化していく。しかし、素直に読めば、そんなもの必要ないケースが多い。たとえば、「室蘭の鉄」(室蘭に日本製鐵の重要な工場があること)で解ける問題が、ある中学校の過去問題にある。「室蘭の鉄」は伝統的に中学校の社会科の問題としてポピュラーなものだった(ただし、近年は教科書本文には載らず、図版の片隅をよく見ないと出てこない情報になってしまった)。いわば、古臭い上に高度な問題だ。だが、こういうのが出題されるのを見た学習塾は、それを押し戴いて、「室蘭の鉄」を暗記項目に加えるだろう。しかし、問題をよく読んでみれば、解答への道筋はちゃんと別に用意されていることがわかる。つまり、これは古臭い問題に偽装した読解力を試す問題で、古臭い特殊な知識が必要に見せかけることで読解力のない生徒をふるい落とすために工夫された問題なのだ。ところが、読解力を涵養するのにはとてつもない手間がかかる(ちなみに学習塾で「読解力」と呼んでいるものは正しい意味での読解力ではないと私は思っている)。それよりは、「室蘭の鉄」と呪文を生徒に暗唱させたほうが手間がかからず効果が高い。ただし、それは中学校の教科書でさえいまや隅っこの方の7ポイント文字を拾わなければ出てこない情報だ。つまり、学習塾の観点から言えば、出題頻度の少ない「難問」と分類される。別の道筋を通ってとけばごくふつうの常識で解ける問題なのに、反復練習に頼って解こうとすると、「難問」になるわけだ。

それでもなお、学習塾はその方法論で乗り切ろうとする。そして乗り切ってしまう。トップレベルの学校はそれを避けるために、次々と新しい趣向を考案する。素直に見れば難易度が上がっているわけではないのだけれど、学習塾は「新傾向」として、「これは対策のレベルを上げなければならない!」と力む。そして、(子どもたちに負担をかけることで)乗り切ってしまう。「難関校対策はウチでなければできません!」と、宣伝材料にさえする。学校の工夫は、たいてい塾のゴリ押し的な対策で無効化されてしまう。

それでも、そういう仕組みのなかで学校側が意識して問題を工夫しているのなら、まだマシだと思う。「本当はガリ勉タイプなんかほしくない。自由に発想を展開できる想像力豊かな生徒が欲しいのだ。あらゆる知識に貪欲で、それを活用できる創造的な力を持った生徒が欲しいのだ。単純に知識を詰め込んだり、解決方法をパターンとして暗記している生徒なんかは欲しくないのだ」という意識から工夫を重ねているのなら、まだそれはいい。たとえ、現実には学習塾が生徒のイマジネーションやクリエイティビティを圧殺するような教育を施してその結果として単純に体力・資力・忍耐力のある生徒を選抜して送り込んでくるようなことがあっても、それでもそういう意識があるのなら、やはり何割かは望んだ資質を持った生徒を獲得することができるかもしれない。問題は、ごく一部のトップレベルの学校を除いた多くの中堅私立中高一貫校にそういう姿勢さえ見られなくなっていることだ。

そういった「並」の入試問題を見ていると、それは単純に「生徒の間に点数差をつけやすいように問題の難易度を調整する」という観点でしか作成されていないように見える。情けない話だが実際そういう観点は試験問題を作成するときのポイントのひとつとされていて、得点分布のヒストグラムがきれいな正規分布に近いほど上手な問題作成だといわれていたりもする。ともかくも、これらの学校は、既存の(ということは半世紀も前の学習指導要領下で成立した時代遅れの)中学入試問題の枠組みの中で、「ウチの学校ならこの程度の問題に答えられるぐらいの生徒が適当だろう」的な発想でできている。算数だったら、「計算問題はこんな感じ、特殊算の文章題を入れて、図形の問題を入れて、グラフを読み取る問題と、規則性の問題を配合しておけばまんべんなく勉強してきたかどうかがわかるだろう」的な発想で作られているようにしか見えない。そしてその姿勢は、すなわち、既存の学習塾の対応をアテにしている。それに依存している。だから、彼らが選びたい生徒の資質は、アドミッション・ポリシーにどんな綺麗事が書いてあろうと、ホンネでは「意味があろうがなかろうがやれといわれたことを黙々とこなすことができる従順な生徒」だと読み取れてしまう。なぜなら、こういった学校の入試問題は、ひたすらに学習塾の指導に従っていればたいていどうにかなるからだ。あるいは、そういった手法(パターン化して序列化して反復練習でその階層を上がっていくことをひたすら繰り返す方法)以外では歯が立たないものであると言ってもいい。それをくぐり抜けられるのは、まずは高額な学習塾に投資できるだけの資力が家庭にあることであり、次にそういったバカバカしい作業を受け入れることができる資質が生徒にあることであるからだ。そして、中堅私立中高一貫校がそれを必要としているのだろうというのは、そういった学校で実際に教育を受けている生徒を指導する中で見えてくる。彼らがやっている教育は、一面をとればまさに学習塾式のパターン化して序列化して反復する行為の連続でしかないのだ。

 

子どもたちの数が減る中で、私立学校は生徒を獲得する競争のただ中にある。生徒を安定して獲得するためには評判がだいじだ。世間の学校に対する評価は、どんな大学にどれだけの卒業生を送り込んだかで決まる。つまり進学実績だ。進学実績を確保するためには、現在の受験制度のもとでは、「対策」を実施するのが最も確実かつ投資効果が高い。そういった「対策」とはすなわち大学入試問題の解法をパターン化し、序列・階層化して、反復練習を重ねて暗記していく方法である。これが点取りゲームの必勝法なのだから、しかたない。そして、そういった点取りゲームに参加して好成績を上げる生徒とは、すなわちそれを支える経済力が家庭にあり、無意味かどうかなんて疑問を持たずに命じられたことに取り組む素直な性格とそれをやり抜く忍耐力がある。もちろんある程度の脳の性能がともなわなければならないにしても、それは飛び抜けたものである必要はなく、そこそこ平均的なもの以上であればかまわない。ただし、特性としては持続力、持久力、記憶力、計算力などに強みがある方が好ましい。そしてそういった特性は、中学受験への長距離走の中で学習塾がふるい分けるものだ。それに当てはまらない生徒を容赦なくふるい落とすのが学習塾だ。

だからこそ、世間からの評価を上げることにやっきな中堅私立中高一貫校の多くは、学習塾の価値観をそのまま受け入れる。学習塾を自らに好ましい生徒の選別機関として活用しようとする。その際に、入試問題は生徒のもつイマジネーションやインスピレーション、ロジックやクリエイティビティを測定するものであってはならず、むしろ、学習塾でどれだけがんばったかだけを評価できるものでなければならない。その尺度として伝統的で旧弊な中学入試の枠組みは、それがほぼ無意味であるがゆえに利用しやすい。それはもう、どれだけ学習塾式の教育に順応できたかどうかを測る尺度でしかなくなっているからだ。

 

けれど、だからこそ私は私立教育機関の関係者に問いたい。あなた方が求めている生徒像はほんとうにそういうものなのですかと。

多様性が求められる時代にあって

私の教える中高一貫校の生徒の多くは、学校の指導方法にうまく馴染めなくなっていった生徒たちだ。彼らのほとんどは、学校が指示する膨大な課題、宿題の量に圧倒されている。彼らは中学に入ったその日から、大学入試を目指して地道な積み上げの作業に従事させられる。実に細分化された知識をこれでもかというほどの反復によって確実に自分のものにするように訓練される。多くの生徒は中学受験への道程を通じてそういう作業に慣れっこになっているから、それが勉強というものだと素直に受け入れる。けれど、人間は成長する。成長の過程で、さまざまに疑問をもつ。また、長期間の作業に倦み疲れる。同じことをやっても能率の上がらない日がやってくる。そして、精緻に組み上げられた受験への階梯は、少し目をそらしただけで次の一歩が踏み出せなくなる。成績が下がって、家庭教師にSOSを求めることになる。

そうやって出会った生徒のほとんどは、素晴らしい資質を持った人々だ(だからときどき私は、あんなひどい入試制度でもやっぱり人物を選別する多少の機能はあるのかもしれないという気持ちにもなったりする)。ただ、彼らはその豊かな才能を反復しなければならない課題の量に押しつぶされそうになっている。そして哀しいのは、彼らがその置かれた状況を「勉強のやり方がわかっていない」「時間の使い方が下手くそだ」「問題の解き方を知らない」というふうにしか捉えることができておらず、そもそも自分が受けている教育がどういうものであるのかが見えない場所に追い立てられているということなのだ。自分が点取りゲーム上達のための技術を習得しようとしているのだということに気づかず、それこそが唯一無二の「勉強」であると思っている。だから彼らは、家庭教師からも宿題を期待する。そりゃ、私だってそれが実行可能なら宿題のひとつやふたつ、出さないでもない。けれど、無理だろう、それ。学校からの課題も十分にこなす時間がないのに、どうやって家庭教師の宿題をやる? 睡眠時間を減らしますったって、まずあんたがやらなければならいのは十分な睡眠時間の確保だろうと、思う。そして、睡眠時間を削らなければ消化できないほどの課題を生徒に出して平気な学校のやり方に腹を立てる。それができなければ、「あなたは時間の使い方が下手だ、効果的な勉強ができない」とひとのせいにする教師に怒りを覚える。

だが、学校の教師に多くを求めるべきではないのかもしれない。彼らのほとんどは、点取りゲームの必勝法を「勉強」だと信じて子ども時代を過ごしてきて、そしてそこに勝ち残った人々なのだ。私のように実質受験勉強ゼロで大学に進学したような裏道を通ってきた人々は、ハナから教師なんかにはならない。「いまの自分は子どもの頃の頑張りのおかげだ」と信じている人は、やはり子どもたちに頑張りを求めるだろう。それが幸福への唯一の道であると思うからだ。私はそうではない。

だから、私は子どもたちに、思う存分に寝ることを基本として求める。適切な運動も必要だ。アタマはカラダの一部分でしかない。そのうえで、興味関心のあることに好きなだけ打ち込むことを勧める。勉強なんて、その空き時間でやればいい。大人を安心させることは、子ども時代を幸福に過ごす上で重要なポイントだ。だから、大人が不安にならない程度に勉強している姿を見せるのはたいせつだ。学校教師だって、機嫌を損ねてトクをすることはない。だから学校教師が喜ぶようなこともしてやろう。そのためには宿題なんかも、できるだけ労力をかけずに形を整えてやればいい。その方法なら知っている。時間の有効な使い方とか効率的な勉強の仕方なんて、この世の中にはない(なぜなら、もしあったとしたらそれがスタンダードになっているはずだから)。そうではなく、自分が何をやりたくて、何をやろうとしていて、そして何をやっているのかに意識を向けることだ。そうすれば、自ずと落ち着くところに落ち着いていく。もしもそれでうまくいかないのなら、そのときには小さなアドバイスをすることはできる。5分で解ける数学の問題に15分かかるのなら、まずは1時間かけてそこを整理してあげよう。そうすれば、以後はそんなに苦労をしなくて済むから。

私はそんなスタンスで子どもたちに接している。そして不思議なことに、「家庭教師を始めてからウチの子は前よりも勉強するようになりました」とか、「集中力が高まったみたいです」とか、こっちが何も手を付けてないことでご家庭から評価をいただく。そしてお約束のように、自分が教えたのではない教科の成績が伸び始める。これは自己嫌悪になるほどのパターンなのだけれど、たとえば私が数学を教えたら社会科の成績が伸び、英語を教えたら理科の成績が伸びる、みたいなことばかり起こる。けれど、子どもも家庭もそれでハッピーだ。それがいちばんだと思う。そしていったんプレッシャーが除かれると、抑えつけられていた生徒一人ひとりの特徴がゆっくりと花開いていく。

そういう変化は、家庭教師という触媒を通して、子どもが自分の立ち位置を客観的に捉えることができるようになって起こるのではないかと思う。さらに、それまでは「やらなきゃいけない、怠けてはいけない」と強迫的な思い込みがあったところから解放されることで余裕が生まれ、じっくりと考える時間ができることで起こるのではないかと思う。状況を客観的に把握して深く考えることは、批判的な思考につながる。いわゆるクリティカル・シンキングである。なぜだか日本ではこの言葉は好まれずロジカル・シンキングという言葉で置き換えられるのだが、論理的思考と言おうが批判的な思考と言おうが、同じことだ。批判は論理的でなければならず、また論理を展開する上では必ずそこに破綻がないかを批判的に考えていかなければならない。そして、そういった論理的思考は、実に学習指導要領が求めているものでもある。公的に合意された教育目標なのだ。だからこそ、それを育むことは点取りゲームの必勝法を習得するよりも重要であり、そのためには「ひたすら反復することこそ勉強だ」的な思い込みを子どもたちから取り除いてやらなければならない。

それを最も阻害しているもののひとつが、中学受験の現在の仕組みではないだろうか。私立中高一貫校の競争は、決して進学実績がすべてではない。視野を広める海外研修であったりボランティアなどを通じた社会との関わり方であったりスポーツを通じた身体の育成であったりと、より幅広い活動の中で評価を受ける。もっといえば、「制服がかわいい」とか、「駅で見かける生徒の態度が悪い」とか、どうでもいいようなことが評価を左右したりもする。そしてこの多様性の時代、さまざまな長所を備えたさまざまな生徒が在籍することが、生徒同士の刺激にもなり、また世間からの評価を上げることにもつながるだろう。

だからこそ、多様な教育を確保する上で欠かせない存在である私立教育機関においては、生徒の多様性を花開かせるような教育をしてほしいし、画一的に育てられた生徒を選抜するような現在の入試選考方法を改めてほしい。便利だからと伝統的な方法に寄りかかり、それが進学実績をつくりあげるからと予備校的な教育に傾斜するのは、本質的な意味で公教育に求められているゴールと乖離したものであると意識してほしい。そうではなく、私立であることのアドバンテージを最大限に活かすためにはどういう生徒がほしいのかを改めて意識してほしい。それは決して、無意味なことであっても頑張ったことだけが成果につながる作業にいそしむ生徒ではないはずだ。

中学受験で扱われるさまざまなエレガントな技法は、もしもそれが批判的思考を発展させるためのツールとして自由に使われるのであれば、あるいは役に立つかもしれない。けれど、現在行われているカリキュラム設計の中では、それは中学教育、高校教育のどこにも接続しない。だからこそ、中学、高校で改めて大学受験を最終目標とした受験勉強をスタートしたとたん、忘れ去られる運命にある。結局、中学入試での得点は、「何を知っているか、何ができるか」を見分けるためにではなく、「どれだけ耐えられるか、どれだけ従うか」を判定するためのツールとして使われてしまっている。それはあまりに情けない。

だからこそ、私は、「中学受験は、そろそろ根本的に変わったほうがいい」と思う。伝統芸能なんてクソ食らえだ。宗匠を食わせるために多くの子どもたちが愚にもつかないことをさせられるのは、ほんと、不幸でしかないと思うよ。