「宿題論」を書く前に - ある生存者バイアス

子どものころから宿題ができない。いまだに宿題となると、とたんに進まなくなる。実は、数年前から書こうとして書けていない文がある。自分にとっての宿題なのだけれど、これがなかなか仕上がらない。忘れたわけではない。デスクトップの目につくところにずっとファイルを置いてある。やらなきゃなあと、いつも思う。けれど、進まない。ファイルを開いて、ここまで書いたところを読み直して、続きを考える。ときには文をすこし手直ししたり、一行、あるいは一段落と、書き進めることもある。ほとんどの場合は、そこまでだ。開いただけで閉じてしまうことも少なくない。

どんなテーマについて書いているのかといえば、それは「宿題」だ。宿題は、私の仇敵だ。子どものころにそれで嫌な思いをして、それでもそれを黙殺することでどうにかやり過ごし、学校から離れてようやく宿題のない世界で生きてきたというのに、気がついたら家庭教師として今度は宿題を出す側に回っている。黄金則は「自分がされて嫌なことは他人に対してするな」だから、私は宿題を出したくない。けれど、宿題を出すことは業務規程の中に組み込まれている。ぜひともそれに抵抗して、宿題から自由になりたい。抵抗するためには理論武装が必要になる。そのために、「宿題論」を書かねばならない。書ける。だって現在行われている宿題は、あまりに非論理的で、あまりに非科学的なのだ。そこを突くことはできる。勝ち目はある。

けれど、書きはじめると、これが進まない。宿題は私にとって嫌な存在だ。嫌な存在に向き合うのは楽しくない。だから、たとえそれを打ち砕くためとはいえ、そのことにかかずらわるのは気が進まない。無意識にも避けたくなって、結局は宿題として積み上がる。情けない話だ。

 

だから、宿題批判はそっちの方でいつかまとまる予定として、今日は自分の思い出に絡んだ話でも書こうかと思う。中学3年で習う因数分解だ。

因数分解は、現行の学習指導要領では中学3年に配当されている。これは多項式の展開とセットになっていて、まずは「展開公式」を覚えるところからスタートすることになっている。私はこの展開公式について、生徒に「これは、無理に覚えなくても、総当り式でひとつひとつ項をかけ合わせていったほうがまちがいが少ない。公式を暗記して点数を取ろうなんて考えないほうがいい。ただ、じゃあなんで教科書に公式として載ってるのかってことだ。実はこれ、このあとに逆向きの計算をするときに必要になる。だから、公式は展開で使うんじゃなくて、次の因数分解で使うために覚えるわけだ」みたいな説明をすることにしている。つまり、なんだかんだ言って公式を覚えるように生徒に勧めている。そして、それにもとづいて、因数分解の問題をパターン別に反復練習させる。パターン別にやることが肝心で、それによって、公式の暗記だけでは解けないタイプの因数分解もできるようになる。このあたりの方法は、学校や塾でやることとほとんど変わらない。ある意味、ごくごくオーソドックスなものだといえるだろう。

たとえば、

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というような式を因数分解しろというような問題があったとする。もちろんこの問題は、

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と、2項ずつ括りだして、

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因数分解するわけだ。中学数学の教科書記載の範囲内では最も技巧的な因数分解だと思う。実際、学校で一度は習うとはいえ、何の対策もせずにこれが解ける生徒はあまり多くない。そこで、反復練習を実施する。類題を次々に解かせる反復を、2セットぐらい実施すると、だいたい解けるようになる。

多くの教師にはそれがわかっているから、こういった問題の反復は宿題に出したくなるだろう。私は自分のポリシーとして宿題には出さずに授業中に反復させるけれど、ふつうだったら宿題に出す。だから、もしも宿題をサボる生徒がこういうタイプの問題に遭遇したら、点数はとれない。基本的に教師はそんなふうに考えている。宿題にするかどうかはさておき、私もそういう観点から反復練習をする。それを否定するつもりは毛頭ない。

けれど、数十年前を思い出してみて、自分がそういう反復をやったかといわれると、確信をもって答えられる。否だ。なぜなら、私は小学1年生のときに宿題プリントをやろうとしてうまくできなかった一件以来、ずっと「宿題ができない子」だった。小学校低学年のうちはまだたまにはがんばって宿題を(ごくごく中途半端に)やったこともあったけれど、高学年以降、中学高校大学を通じておよそ宿題を一切やらなかった。当時の中学校の数学では、いまとちがってあまり問題演習みたいなことはしっかりやらなかったから、授業中に反復したこともないだろう。学習塾とかも行かなかったし、宿題もしない生徒が自主的に問題集を開くわけもないので、あらゆる教科に関して、問題集の反復練習はやったことがなかった。これはまちがいがない。

では、この因数分解の問題は解けなかったのかといえば、中3の実力テストだったかなんだったかで、解けずに悔しい思いをした記憶が残っているから、やっぱり解けなかったのだと思う。いまでもペケのついた答案用紙が目に浮かぶような気がするから、よっぽど悔しかったのだと思う。じゃあ、その悔しさをバネに反復練習をしたのかといえば、そんなことはない。コツコツと机に向かって勉強するのが最も苦手だった私は、「ちくしょうめ、次は負けるもんか」と思うだけで、何もしなかった。

では、次に同じような系統の問題が出たときに解けなかったのか? いや、「負けるもんか」の負けん気だけで、本番試験では正解を叩き出した。そのときの思考回路はこうだ。「どうせ、()×()の形に因数分解できるにきまってる。aとxがかかっているから一方のカッコの文字はaで、もう一方がxにちがいない。一方、6という数があるから、これは2×3だろう。ということは、a+3とx+2じゃないだろうか。やってみよう。えっと、符号がちがうな。符号を変えてみよう。えっと、係数が合わない。じゃあ、3と2を入れ替えたらどうだろう。あ、うまくいった。よし、これでOK」という具合だ。負けん気でアドレナリンが出まくりだから、このぐらいのことを考えて正解を書くまで、ものの1分もかからなかったはずだ。

一時が万事、そんな具合で、反復練習の効果が最も高い放物線問題も、そんな対策はひとつもなしのまま、当て推量と概算と検算の繰り返しで正解に達してしまった。他の教科も似たようなものだ。だから、中学校の教師たちから全力で「お前はあの学校を受けるな。通らないんだから志望校を変えろ」と止められていた進学校に、奇跡の合格を果たしてしまった。

 

私は、こんなアホな方法を自慢するつもりはない。まして、生徒には絶対に勧めない。ただ、あのころの自分の感覚はよく覚えている。受験勉強をしろと、教師からも親からもいわれる。一つ上の兄がいるから、受験勉強には問題集を用意して、それを繰り返し解けばいいんだということもわかっている。けれど、自分にとって、もっと大事なことがある。そのころの私にとって、最も重要なことは、小説を読むことだった。読書家の友人に影響され、それに負けてはいけないと、毎日毎日文庫本を抱え込んでいた。特に太宰治は繰り返し読んだ。いくらまだまだ昭和の頃だったといえ、戦争前に書かれた小説を中学生が1回読んだくらいでは何も理解できない。だから、何度も何度も繰り返し読んだ。腹に落ちるまで読まなければ、安心ができなかった。そういう駆り立てられるような気持ちでいるときに、勉強なんてできるわけがない。受験勉強と読書と、自分にとって重要なのがどちらなのか、自分自身の感覚としては火をみるよりも明らかだった。だから、受験勉強は何一つしなかった。できなかった。

そして、最終的に役に立ったのは、そうやって得た「読む力」だった。その後社会に出るまで一切の宿題を拒否し続けた私がそれでもなんとか生きのびてこれたのは、「日本語で書いてあるものなら、基本的に何でも理解できるはずだ。なぜなら自分は日本語が読めるのだから」という自信のおかげだ。「物理学の教科書だろうが数学の教科書だろうが、それが正しい日本語で書かれている限り、理解できないはずはないだろう」という過剰な自信があるから、どうにかやってこれた(もちろんそれが通用しない本当に高度な学問の前では、あっさりと敗退を続けたのだけれど、それはそれで生きていく上で特に不都合にはならなかった)。その後は、これに英語が加わった。「英語で書かれていることは基本的に理解できるはずだし、それを日本語で表現することも不都合なくできるはずだ」という思い込みだけで専門書や論文の翻訳をやってきた。これもまあ自信過剰なうちではあるのだけれど、あながちインチキばかりでないことは、クライアントたちに聞いてもらえればわかるはずだ。

 

結局のところ、私のような家庭教師が、「この単元で点を取るためにはこういう訓練がベストだ」と経験上で力説し、そして(私のような宿題アレルギーでなければ)「じゃあ、生徒のためにこれだけの宿題を出してやろう」と設計し、課題を出すことは、たいして意味がないのだ。教師の知識・経験から、おそらくその言葉にウソはない。彼がいうとおりに宿題を実施すれば、たぶんまちがいなく点数は上がるだろう。だが、それが生徒本人にとって本当に正しいかどうかは別問題だ。

私は、反復練習をさけることで、確かに本番入試の問題を解くときに、余分な時間を空費したかもしれない。いくつかのミスもしたと思う。合格は(後で聞いたところでは)ぎりぎりのボーダーラインだった。勉強してればもっとラクに合格できたのかもしれない。けれど、その犠牲を払うことで、私は反復練習に費やさねばならない多くの時間を手中にした。その時間を使って自分の本能がこっちだと示すことに集中することができた。それが私という人間をつくりあげ、ここまで生きのびさせてくれた。

だから、宿題を出す側の論理がいかに正しくても、それは絶対ではない。なぜなら生徒の人生は生徒自身のものでしかなく、それがどのように展開するのか、教師には絶対に読めないからだ。だからこそ、教師は宿題を出す上で慎重でなければならない。それが生徒に与える影響をしっかりとモニタし、常に最適になるように調整してやらなければならない。それができないのなら、宿題なんて出さないほうがよっぽどマシだ。なぜそうなのか、詳しくは、書きかけの「宿題論」で書くつもりだ。そのつもりだ。つもりなんだけど、書けるかなあ。なにせ、宿題ほど苦手なものはないので…