地頭の良さと受験勉強と

学習塾的な教育が「本質的に」役に立ってるのかという増田(Anonymous diary)記事があった。

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SAPIXみたいなのって本質的に役に立ってんの?

老子によればおよそこの世の中無用のものはないのであって、そりゃ、この世に存在するものであれば役に立ってないわけはない。ただ、記事には「本質的に」とある。じゃあ、「本質」って何かって考えたら、そこはわからなくなる。まあ、難しく考えるからわからなくなるのであって、ひらたく考えたら、「子どもに教育を受けさせる意味」みたいなことかもしれない。だったら、これは「本質的には役に立たない」と断じてかまわないだろう。少なくとも現代社会に合意されている意味では、役に立たない。

なぜなら、日本国憲法にあるように教育を受けるのはすべての人に認められた権利であり、基礎教育は国が無償で提供する。無償で提供する教育内容は、「本質的に」役立つものでなければならない。現実がどうなっているかはさておくとして、理念としてはそうなっているはずだ(でなければ国会で法改正が議論されるはず、ってのが民主主義だよね)。そして、教育基本法以下、学習指導要領までを読めば、たしかに(それが正しく実施されるなら)、公教育は本質的に役に立つように設計されている。

公教育の外側に位置する受験産業は、多くの場合、公教育で認められなかった教育を施すものだ。特に、中学受験のさまざまなテクニックは、かつては指導要領の中で認められながら、それが洗練されるとともに次第に排除されるようになっていったものだ。もしもそれらが本質的に役に立つものであったなら、排除されるはずがない。本質的ではないから排除されたのだ(ただし、受験業界には、序列をつける上でそれらのテクニックを利用する価値がある。だから公教育の外側で生き残った。そのあたりの批判は、別記事でも書いたところだ)。受験産業のやってることの多くは、「本質的な」意味では役に立たない。

もちろん、このブログでも何度も書いているように、全体の話と個別の話を混同してはいけない。個別には、そういったテクニックを学ぶことで本質的な成長を遂げる生徒もいるだろう。だが、そうなってくると、教育が目指す本質的な成長とはどういうものだという話になってしまう。そして、この少し前に目にした別の増田記事が思い浮かぶ。これだ。

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いや、この記事そのものよりも、そこについたブコメ群のほうだろう。

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コメントを見ていて思ったのは、「地頭」のイメージがずいぶんとひとによってちがうのだなあということ。まあ、元増田のイメージはかなり極端なハズレ値だと思うのだけれど、それにしても幅が広い。

私のイメージだと、「地」なのだから、余分な介入をしない時点での利発さのことかなあと思う。そして、「余分な介入」の大部分は、私にとっては受験勉強に代表される反復訓練だ。それをしなくても「一を聞いて十を知る」ような回転のはやい生徒に当たったとき、「ああ、こいつは地頭がいいなあ」と思う。そして、「これはラクができるな」とホッとする。家庭教師にとってはアタリの生徒だ。細かいこと言わなくても、軽いアドバイスでどんどん点数をあげていってくれる。実際のところ、「できるやつは何をやってもできるし、できないやつはどうがんばったってできない」。この絶望的な事実は、家庭教師を数年もやればイヤでも気づかされることだ。伸びる生徒は家庭教師なんぞつけなくったって伸びるし、底辺を這いずる生徒は家庭教師がいくらムチで叩こうが成績を上げない。結局は地頭の良し悪しが結果を左右してしまう。ミもフタもないことではあるが、ある部分は、否めないことだ。

この「地頭がいい」生徒、意外にも小学生時点では珍しくない。それが中学生になると、減ってくる。ということは、外部から感じられる「地頭の良さ」は、決して遺伝のような生得的に決まるものではなく、あるいは幼児期の英才教育のようなもので決まるものでもないのではないかと思えてくる。もしもそうなら、年齢によって出現率が変化するのは奇妙だということになるからだ。そして、だとするならば、「地頭を良くする介入」ができるのではないかという推論が生まれてくる。変化するものなら、その変化への介入はできるはずだ。地頭の良くない生徒の成績を伸ばすことは困難だけれど、地頭を良くすることはできるんじゃないかという希望が生まれてくる。

ということで、私はできるだけテスト対策なんかには時間を潰さずに、「どうやったらこいつの地頭を伸ばせるだろうか」という課題に焦点を当てるようにしている。もっとも、そのあたりはいろいろ兼ね合いもあるので難しい。それになにより、「地頭」というものの正体がいまひとつ判然としないため、それを伸ばすためにどういう対策がベストなのか、生徒によっては狙いを定めきれないことも多い。それでも、そういう観点で取り組むことで、どうやらこうやら「家庭教師なんてあってもなくても同じ」というところから少しだけは抜け出せているのかなと思う。

 

ちなみに、「地頭」を伸ばす方法として、おそらくこれまでの研究の蓄積の中でほぼ唯一エビデンスが得られているのは、「読書」であるようだ。ただし、読書なら何でもいいのかというとどうもそういうことでもないし、読書が唯一の方法であるのか、それがベストの方法であるのかということも、何一つエビデンスがないようだ。私がもう一つ注目しているのは「対話」なのだけれど、これも方法論として確立しているわけではない。いずれにせよ、こういうことは「本質的」な教育効果につながると思うし、学習塾ではまずやらないことであったりする。ということは、まあ、やっぱり学習塾とかには、「本質的な」意味はないのかなあ。もちろん、中受の合格勝ち取りたければ、ヘンな家庭教師なんかにつくよりはよっぽど役に立つと思うけどね。