PCR検査を受けた話

ここ1週間ばかり、ちょっとした騒ぎがあった。発端は高校3年生になる息子の発熱である。

息子は、箱入りで育てたせいか無理のきかない性質があって、フル稼働運転を続けるとどこかでダウンして熱を出す。そういう人だとわかっているので、今回、熱を出したのも、結局はコロナ後に再開した学校のスケジュールが詰みすぎていたのが原因なのだろうと振り返って思う。だが、最初に発熱の報告を聞いたときは、不意をつかれてとまどった。私が仕事中、「しんどいけど、どうしたらいい?」と電話がかかってきたのだ。考えてみたら、そこからが奇妙なことだった。

息子は、大学入学関係の何かがあって(どういう趣旨で大学に招集されたのだかいまだによくわからない)、志望する学校に行っていた。少し遠い場所にある大学で、片道3時間ぐらいかかる(なので来年からはもう少し学校に近い私の実家に彼は拠点を移すのだろう)。遅くに帰るという話は聞いていたし、なにを親に連絡してくる必要があるのだということでもある。体調不良であればなおさらのこと、さっさと帰ればいいだけのことだ。電車に乗れないほどしんどければ、救急車でも呼ぶしかないだろう。そうなったらそうなったでその旨を連絡すればいいわけで、もうじき18歳にもなろうという一人前の男が「どうしたらいい?」もないものだ。だが、後で考えたら、その時点でもうそういう判断もできないくらいに調子が悪化していたのだろう。それを察知できなかった私も、ずいぶんな間抜けである。

ともかくも、帰宅してすぐに寝かせた。その時点で38度を超える発熱があった。私は「またいつもの発熱だ。寝てりゃ治る」式に放ったらかして仕事をしていたのだけれど、妻は別のことを心配していた。

「保健所に連絡したほうがいいんじゃない?」

 

この時代、息子の発熱がいわゆる新型コロナによるものかもしれない、という可能性は、私も感じていないわけではなかった。けれど、息子は若いし、若い人は安静にして経過をしっかりと観察しておけば、たいていはふつうの風邪と同様に回復するという。こちらが感染しないように気をつける必要はあるにしても、たとえコロナでもしっかり寝ることがまず第一だ、と私は判断していた。

患者個人に関してはそれでもかまわないのかもしれない。しかし、感染症は社会的な病でもある。妻の言うように、家庭内だけのことで放っておいていいものではない。そこで、「帰国者・接触者相談センター」に電話をした。渡航歴の有無、感染者との濃厚接触の有無等、いくつかのチェック項目を尋ねられ、かかりつけ医の受診を勧められた。いろいろな報道で聞いていたとおりの対応だ。だが、実際に我が身に起こると、「ほう、そういうものなのか」と、改めて感じた。

翌日、早速近所の開業医に電話をした。ちなみに息子の熱は40度近くまで上がっている。この時点で素人判断としては「コロナじゃないな」とは思った。そこまでの高熱でもないと聞いていたから。けれど、シーズン外れのインフルエンザかもしれない。どっちにしても安静がいちばんだけれど、相談センターは受診を勧めるし、そこは時代の流儀に従うべきなんだろう。医院の方では、「通常の待合室から入っていただくわけにいかないので、時間になったら電話しますから、まずはインターホンで呼び出してください。裏口に案内します」とのことだった。いよいよコロナっぽくなってきた。

医者には妻が付き添って行った。それによると、単なる裏口で、いったん入ったら他の患者がいる場所も平気で通るし、診察室も同じ、医師も防護服を着ているわけでもなく、特別な対応はほとんどなかったらしい。そして診断は、「コロナに関してはウチでは検査もできないし、検査の必要もないでしょう。コロナかどうかがはっきりしない以上、インフルエンザの検査もできない。季節的にいってインフルエンザではないでしょう。解熱剤と抗生物質を出しときますから、安静にして様子を見てください」とのことだった。これもまた、ある意味、常識的な対応だと思う。医院内の防御体制はどうかとは思うが、リスクの低い患者は安静と経過観察というのは、判断としては正しいのだろう。

 

だが、話はそれでは済まなかった。というのは、妻が「これでは仕事に行けない」と主張したのだ。そして、私も困った事実にようやく気がついた。私も家庭教師として生徒宅を訪問することができなくなっているのだ。

息子は、親の感覚からいえば「いつもの発熱」であって、コロナではない。けれど、その可能性は否定できない。インフルエンザである可能性も否定できない。まあ、医者はインフルエンザじゃないっていってるし、コロナの時代でなければどうということはない。けれど、このご時世、家族内に発熱者がいる人に接近されるのは、多くの人にとって迷惑でしかないだろう。

事務職である妻の現在の勤務先は病院だ。高齢者をはじめ高リスク群が集まる病院は、コロナを持ち込まれて最も困る場所だ。欠勤の連絡を入れて事後を相談すると、「PCR検査を受けてくるように」との指示があったという。だから妻は、近所のかかりつけ医からPCR検査への流れを想定していた。ところが、「検査の必要なし」と、そこは否定された。「検査して欲しい」とかなり食い下がったらしいのだが、そこは突っぱねられたのだという。

 

世の中には、PCR検査派と検査不要派がある、らしい。もちろんそういう大雑把なくくりは現実を反映しないものであり、そこにはさまざまな温度差がある。おそらく現在最も一般的に認められた考え方は「検査は必要なときに必要なだけ行うべきであり、その判断は医師が行う」というものだろう。そういう基準に則ってPCR検査が行われており、そういった運用からはPCR検査は十分に足りている、と現状を分析することもできる。そして、相談センターのアドバイスも、それを基準にしたものだといえるだろう。ウチの近所の開業医の判断も、そういう考え方にもとづいていえば概ね妥当なものだといえると思う。

PCR検査拡大論者からみれば、それは手ぬるいということになるのだろう。検査はどんどん行うべきであり、少しでも疑わしければどんどん検査してウィルスの発見に努めなければならない。そのためには日本のPCR検査は絶対的に不足している(キャパシティが不足しているのか実施数が不足しているのか、そのあたりは論者によって異なるように見受けられるが)。保健所の判断、医師の判断などといわず、希望者は全員検査を受けられるようにすべきだ、というのがそこから出てくる主張だろう。そういう考え方にもとづけば、検査を希望した妻が拒否されたのは、「だから日本はダメだ」ということにつながるのだろう。

私は概ね、前者の立場に賛同している。むやみやたらと検査数を増やしたって消耗するだけだし、医療リソースは重症者や高リスク群に割り当て、リスクの低い集団はおとなしく風邪対応にしておけばいいのだぐらいに思ってきたし、基本的にはいまでもその考えは変わらない。けれど、個別の事例としてそれが自分の身に降り掛かってくると、やっぱり困ってしまう。仕事、どうするよ?

 

実際、公的には「医師の判断によって検査を行う」立場をとっている病院でさえ、現実には「疑惑を消すため」の検査を必要とする。妻は特段の要職というわけではない単なる事務職員だが、それでも休まれると仕事が滞る。とはいえ、濃厚接触者である疑いを抱いたままで出勤されても困る。そこで、病院は、「息子さんにPCR検査を受けさせてください。もしも近隣で検査できなければ、こっちまで息子さんを連れてきてください。ウチでPCR検査するから、それで陰性だったら出勤してください」と解決策を示してきた。検査が勤務の前提である、という条件を示してきたのだ。これは、非正規雇用である妻にとっては抜き差しならない問題になる。公欠であれば賃金は保証されるが、検査を受けずに疑いだけで欠勤したのでは、休んだ分だけ給料が失われる。私だってそうだ。疑いがある以上、生徒宅への訪問はできないし、訪問しなければ収入にならない。だいいちが、生徒に迷惑をかける。ラッキーだったのは大半の生徒がオンラインに移行していたことだ。それでも数名は、訪問指導の生徒がいる。放置はできない。

再度、相談センターに電話をかけると、「他の医療機関セカンドオピニオンを求めることは患者の権利ですし、自費で検査を受け付けている機関もあります。そういうところを利用されるのも権利です」と、これもまた教科書的な返答。それはそうだろうと思う。けれど、高くもない時給で得られる僅かな収入のために自費で検査を受けるのもバカバカしいし、また、検査のために相変わらず熱の下がらない息子を遠方まで連れて行くのも本末転倒だ。遠方ということでいえば妻の勤務先病院も決して近隣ではないので、やっぱり熱を出して苦しんでいる息子をそこに連れていくのは躊躇される。

セカンドオピニオンを求めるとすれば近隣の医療機関ということになるのだけれど、これは結局、同じことになる可能性が高い。というのは、近所の医院の反応が、現在の対コロナ戦略からいって正統派であったからだ。状況から見て、どうもコロナではない可能性が高い。高リスク群でもない。だったら検査するよりも安静にして経過観察というのは、いちばんありそうな判断だ。医療としてはそれでいい。そういうもんだろうと私も思う。だが、私と妻のニーズは、そこにはない。仕事に行けるかどうか、その担保が必要なのだ。

そういった担保としてPCR検査を求めることがバカバカしい話だというのは、私も妻も認識している。検査なんぞクソ喰らえだ。いま最も大事なのは熱を出している息子が楽になることであって、検査したってそれで病気が治るわけじゃない。ところが、仕事となると、そのバカバカしいところにどうしたって巻き込まれざるを得ない。笑って2週間の休みがとれるほど、世の中気楽にはできていない。

そりゃ、私や妻が休んだからといって、それで仕事が全て止まるわけではない。代わりの人員はいくらでもいるだろう。だが問題は、休んでいるうちに自分の仕事が失われてしまう可能性がゼロではない、ということだ。非正規雇用とはそういうものだ。実際、私だって、喘息の発作が起こって去年の暮れに生徒の大部分を手放したあと、復帰までに長い時間がかかった。月収が通常の2割程度まで落ち込んだ月が続いたのだ。他の講師に交代してもらった生徒は、ふつう、取り戻せない。コロナのおかげでオンラインの生徒が一気に流れ込んでくるまでの数カ月は、半分は失業状態だったわけだ。

 

医療とは根本的に異なった事情から、PCR検査が必要だ。とはいえ、「お願いします」「じゃあやりましょう」という状況にはない。私は半分諦めかけていたが、それでも妻は「一応、あたってみてよ」と言う。半分は、もう職場の病院まで連れて行って検査を受けさせる気になっているわけだ。だが、嫌な言い方だが、その際の前提として「近所の医療機関で断られました」という事実を積み上げておかねばならない。アリバイ工作のようでなんだかなあと思いながら、近所の病院に電話した。

相談センターで聞かれたのと同様の教科書的な質問リスト、渡航歴や感染者との接触履歴を聞かれるなかで、「同居の息子さんが発熱したということですね」という言葉に「いいえ、息子はふだんは高校の寮に住んでいます」と答えたとき、電話の向こうの空気が変わった。気のせいかもしれないが、私にはそう感じられた。そして「医師の判断を求めますので、追って連絡します」という返答が得られた。夕方になってからの連絡では、「明日、午前、PCR検査をします」とのこと。「発熱からの時間経過の関係で、今日ではなく明日のほうがいいでしょう」と。求めていたものが得られた。どうにもこうにも複雑な気分だった。

あくまで推測でしかないのだが、「寮=クラスターの発生」という可能性が、担当看護師の頭をよぎったのではないだろうか。大規模感染の芽はつぶしておかなければならない。それは患者個人のリスクの高低とは別の話だ。そういう判断ではなかったのかと思う。

病院の指示に従って、改めて先に受診した開業医から紹介状をもらい、検査に備えた。

 

翌日、車に息子を乗せて近所の病院に向かった。通常の受付ではなく通用口に回るように指示され、受付も車から降りずに済ませた。汚染を防ぐためにボールペンさえ持参するように指示されていて、医師の診断も専用の小ブースに取り付けられたインターホン越しという徹底ぶりだった。検体は、唾液を小さなガラス容器に入れて提出するように言われた。息子の検査中に別の女性が同様の検査でやってきたが、車に乗っていない彼女はプレハブづくりの仮設待合室で同様の対応を受けていたようだった。

そして、結果は晴れて陰性。医師の診断は電話連絡で、「結果は陰性でしたので、熱が下がらないようなら改めてかかりつけ医を受診してください」というものだった。そのころには、まだ熱は下がらないものの息子の様子も少し安定してきており、「この調子なら引き続き安静にしていればだいじょうぶだろう」という判断もできた。そして、最終的に、時間薬で熱は下がり、どうにかこうにか息子は健康を取り戻しつつある。妻も私も仕事に復帰することができ、まずはめでたし。

 

しかし、どうにも割り切れないものが残る。「検査をしたからオッケーよ」とはとても思えない。検査がなければ仕事も学校も休まねばならないという現状と、うかうか休んでばかりもいられないという状況と、本当に改善しなければならないのはどっちなのだろう。

「いついつまでにこれこれのことをしなければならない」という縛りが、人間の生活の中には存在する。それは、「種まき時を逃せばその年の収穫はない」という農業に依存していた昔から、人間にとって逃れられないことであるのかもしれない。けれど、食っていくだけなら、たとえば田植えの時期を逃してしまったら、蕎麦を播けばどうにかなるのだ。それでどうにもならないのは、年貢を米で納めなければならないからだ。結局のところ、われわれの「いついつまでにこれこれのことをしなければ」は、社会的な圧力によるものだとも言えるだろう。そして、社会的な歪は、社会の仕組みを変えることである程度まではどうにかなるのではなかろうか。

すぐに休むことばかり考えるのは、根性がないのかもしれない。けれど、根性なしに生まれついたものとしては、休みたいときに休めるような社会のほうが嬉しい。そうなればいいな、いつかそうなればいいなと思いながら、今日も安い時給で働くことになる。