「はらぺこあおむし」の思い出 - ひとの趣味にはケチをつけないでおこう

絵本作家のエリック・カールさんがしばらく前に亡くなったそうで、「そういえばお世話になったよなあ」と追悼の思いを抱いた。お世話になったといっても、私自身が読者としてお世話になったというニュアンスではない。いま大学生の息子が小さい頃、よく読み聞かせた。ずいぶんと読んだ。代表作の「はらぺこあおむし」なんかは、たぶん100回以上は読んだはずだ。

記憶違いでなければ、そのころ世話になっていたある編集者の方から贈っていただいたうちの1冊だった。最初の印象は、「やたらと派手な本やなあ」だった。それから、「いったいなんやねん?」というのが次に来た。デフォルメされた絵は、もちろん写実ではない。だから、空想世界、ファンタジーなものとしてうけとるべきだろう。けれど、その割に、この青虫、食ってばかりだ。ファンタジーってのは、現実世界で表現できない主張があるからこそ、書かれるものだろう。じゃあいったいなに? 食いすぎて腹痛を起こすこと? まさかねえ。

ということで、私の中の評価は低かったのだけれど、なぜだかこの本、当時2歳だった息子にはウケた。一種の仕掛け絵本だから、そういう小細工がおもしろいのかもしれないとも思った。だとしたらあざといなあとも感じた。本に穴をあけたりポケットをつけたりというのは、私みたいな古臭い人間からみたら邪道に思える。なんだかなあと思いながら、それでもせがまれるままに何度も読んだ。

読むからには、こっちだって工夫する。たぶん私のなかでのベストの読み方は、毎日、メニューがふえていくところ、どの曜日も同じだけの時間をかけて読むことだ。当然、増えれば増えるほど、早口になっていく。これは読む方もそれなりにテンションが上がるし、聞いてる方も楽しいようだった。

そのうち、「はらぺこあおむし」の小型本もウチにやってきた。これはどうやって入手したのか覚えていない。もらったのか、それとも、本屋で息子が欲しいと言ったのか、どちらかだと思う。後者だとしたら、「それはもうあるから」とかなり頑張ったときのことかもしれない。子どもは、なぜだか既にもっているものと同じものを欲しがることがある。このあたり、大人とは理屈の立て方がちがう。

以後、息子は私が「はらぺこあおむし」の読み聞かせをするときに、となりでその小型本をひろげ、そしてそのうちに私の声に唱和して読むようになった。もちろん、2歳の子どもが文字を読めたわけではない。単純に、ストーリーを全部逐語的に覚えてしまっていたのだ。このときの様子が(やたらと解像度の低い)動画に撮ってある。他の人がどう思うかしらないが、親にとってはこの上なく可愛らしいシーンだ。本当はアップロードして他の人にも見てもらいたいのだけれど、全文を読み上げているから、まちがいなく著作権的にアウトだろう。2歳の子の朗読はなかなか上手で、親バカとしては自慢したいのだけれど。

 

人が何かの本を好きになるとき、その感じ方は実にさまざまだ。理屈っぽい私は、「はらぺこあおむし」を好きになることはついになかった。けれど、多くの幼児はそうではない。彼らは、彼らの感性で、あのカラフルな絵本を好きになる。実際、その後、何人もの小さな子どもにあの本を見せたり、ときにはもらってもらったりもしたのだけれど、多くの子どもにウケた。私に贈ってくれた人も、それをよく知っていたのだろう。

同じエリック・カールの作品であれば、私はもっとべつの本のほうが好きだ。月をつかまえにいく話とかは印象にのこっている。けれど、息子の心を掴んで放さなかったのは「はらぺこあおむし」だ。名作とはそういうものなのだろう。

そして思う。自分が理解できないからといって、他人がいいと思うものを否定にかかるのはやめておこうと。あるいは、理解できないものに無理やりな解釈をこじつけるのも、やめておこう。わからないものは、わからないでいい。ただ、それを他の人が気に入ったら、そのことは尊重しようよと思う。自戒をこめて、そう思う。