歴史の本を書いた - 身の程知らずではあっても

家庭教師は基本的にナンデモ屋だから、生徒が必要とするものはなんでも扱う。小学校の算数から高校数学まで教えるし、国語だったら平仮名の練習から漢文の解釈まで、英語だったらABCから英検1級まで、どんな教科でもどんな難易度でもやる。もちろん数学Ⅲとか漢文の正確な解釈、英検1級レベルの単語とか、正直、「教える」なんてレベルに自分がいないことは十分にわかっている。ただ、家庭教師の仕事は生徒が学ぶのを助けることだ。教えられなくてもアシストはできる。それで十分に存在価値がある。自分では細かいところまでわからなくても大まかな方向性をヒントとして示すこともできるし、周辺の知識を提供して理解を助けることもできる。いまはWebで調べるのも簡単だから、生徒が悩んでいるあいだに先回りして語源や発音を調べておくこともできる。どういうふうにアシストすれば生徒がうまく伸びるのかを考えるのが仕事だといってもいい(だからむずかしいのは高等学校の生徒よりもむしろ小学生だったりする。その話は長くなるので、別途機会があれば)。

理科や社会科も同様に小学校から高校まで、あらゆる学年を相手にする。ただ、このあたりは広範な知識が必要になるので、多くの場合、教科書を一緒に読みながら解説することになる。だいたいが、私は未だにオリオン座以外の星座を見分けられないし、PH試験紙の色の変化もわかっていない。歴史だったら大仏がいつ建立されたのかもモンゴルがいつ攻めてきたのかも、西暦何年と正確には言えない。そういう個別の事実を暗記するのが実はひどく苦手で、覚えているのは語呂合わせが有名な「794ウグイス平安京」と「894に戻す遣唐使」のほかは、キリがいい1600年の関ヶ原合戦ぐらいなものだ(「1192つくる」は最近は流行らないらしいので、4つしか覚えていないうちの1つが失われて残念だ)。ともかくも、そういう細かい正確性は教科書に任せてしまう。

といっても、教科書を読むだけなら家庭教師は要らないわけで、そこはそれなりに、いろいろと解説を加える。暗記もできないような者が何を解説するんだとツッコまれそうだが、そこは亀の甲より年の功、けっこう長く生きてきたおかげで世の中のことをいろいろみてきているから、話をひろげたり膨らませたりすることはできる。理科で登場する炭酸水素ナトリウムは山菜のアク抜き、ミョウバンはナスの漬物の色出しに使えるなんて、若いひとは案外と知らないものだ。昔はホウ酸水で目を洗うなんて野蛮なことをしてたんだよと、現代では溶解度の実験以外でお目にかからないホウ酸のことを喋ったりもできる。原理の理解にも得点力アップにも役には立たないのだけれど、そういう余分なことが案外と強固な基盤をつくってくれたりもする。正体不明の白い粉よりは、多少なりとも素性がわかっている方が覚えやすいものなのかもしれない。歴史だってそうで「惣」なんて聞き慣れない用語を単体で覚えるよりは、「お惣菜」の説明から入ったほうが印象が深かろう。俵物を解説するときに、沖縄料理のクーブイリチーに触れれば興味も増すはずだ。

歴史は小学校6年と中学で学び、選択によっては高校でも学ぶ。史実が2通りも3通りもあるわけではないから同じ歴史を学ぶのだけれど、力点はそれぞれちがう。小学校の歴史が人物本位になっているのは、そのほうがとっつきやすいからだろう。もちろん、歴史は偉人伝ではない。そこは教科書はちゃんとわかっていて、人物が出てきてもユニークなエピソードはあまりとりあげられず、その人物が象徴する時代の動きに焦点があたるように工夫されている。たとえば聖徳太子は、十七条憲法を通じての内政の制度化や遣隋使を通じての国際関係を語る文脈で用いられている。源氏なら武勇伝の義経よりも幕府を開いた頼朝に注目する。

中学の社会科になると、登場人物が増える反面、人物描写はどんどんと少なくなる。歴史の教師のなかにはそれを補うようにいろんなエピソードをどんどんと追加する達人もいて、それはそれでけっこう生徒の興味を引っ張り、歴史への関心を高めていく。だが、歴史で重要なのは断片ではなく変化だ。土地の利用と課税が律令制からどのように変化していったのかとか、仏教の受容がどのようにはじまってやがて日本独特の宗教へと変容していったのかとか、貨幣の利用がどのように広がっていったのかとか、そういった流れをつかむことができれば、暗記が苦手でも歴史は楽しむことができるようになる。ひとりひとりの顔を見ることもだいじなのかもしれないが、社会科は群れとしての人間を観察する学問だ。だから私は、歴史に関しては教科書を読みながら、特に変化に注意を促す講義をする。「以前と何が変わったのか」が教科書にはっきりと書いていない場合には、ページを戻らせて図を比較させたりもする。写真や絵に描かれた人びとの服装や行動の共通するところ、相違するところを指摘したりもする。

ただし、そういう講義ができる機会はかぎられている。家庭教師はつねに全体を見渡してもっとも効率的に目標を達成する方法を考える。理科や社会科は本来暗記教科ではないのだけれど、それを暗記教科として力技でこなしてしまう生徒は少なくないし、そうやってどうにか得点が維持できている生徒に「いや、それは本筋じゃないから」と介入するのは(学年トップを狙うとかよっぽどの事情でもない限りは)得策ではない。たいていの場合は数学や英語、ときには国語の補強のほうが全体のバランスから言えば重要で、主要なリソースはそちらに割くことになる。社会科の補強に比較的時間が取りやすいのは学校の授業がはじまる前の春休みから4月にかけてだけれど、1回か2回で進められるのはよくて奈良時代平安時代半ばぐらいまでなので、中途半端な感覚は否めない。あるいは「江戸時代が苦手なんですよ」みたいにいわれてそこを集中講義しても、前後のつながりが不十分に感じてしまう。だいたいがなんで将軍が威張ってるんだ?

この春、中学受験を控えた小学6年生を2人教えている。いずれも4年生、5年生から準備を進めてきた生徒だから、基本的には長期計画を順調に遂行中というところだ。だが、理科と社会をどうするか、昨年秋あたりからちょっと悩んでいた。というのは、どちらの生徒も受験科目としては、理科も社会もない。一方は算数と国語プラス総合問題で、もう一方は教科指定のないいわゆる「適性検査問題」だ。適性検査問題は学校によって実に千差万別だが、志望している学校では細かな知識や技能が問われることはない。そういう前提があるときに、社会科をまったくやらないのは対策として不十分だけれど、入試対策レベルまで詳しくやるべきかといわれればそうではない。3大改革の判別みたいな細かなことはどうせ出ないのだ。それよりは、算数の図形の処理とか国語の読解とか、点数に大きく影響するところに力を注ぎたい。とはいえ、ある程度の流れを掴んでいないと総合問題も適性検査問題もリスクが高すぎる。

だったら、いつも講義で喋ってる内容をテキストに落とし込んで読んでもらえばいいじゃないかと思いついた。2人とも国語の力はしっかりしているから、読むことに苦痛は感じない。講義で聞くのと読むのとでは同じ効果は得られないかもしれないが、人間には同じ内容の話に別形式で何度かふれると理解が高まる傾向がある。読み物として読んでもらったうえで学校の授業で話を聞いたら、必要とする程度の理解は十分に得られるのではなかろうか。

そして、この生徒を念頭に、彼女らに講義しているつもりで日本の通史を書き上げた。これは小学校・中学校の歴史が基本的に日本史であることによるものだ。学校で習わないことまで教えてもいまのところはあまり役に立たないから、なるべくそこからはみ出さないように心がけた。結果、1冊の本ができ上がった。

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世の中に、教師が生徒に手渡す手作り教材はあふれかえっている。代表的なものは授業で配られるプリントだ。正直なところ、私はそういうものをつくる教師の心理がわからない。なぜきちんとした教科書があるのに、より不完全な手作りプリントを生徒に押し付けるのだろうか。確かに教科書には実に多くの情報が記載されていて、それを全部覚えるのは実質的に不可能だ。その一方で、テストに出る項目はそこまで多くない。であるならば「重要事項」だけまとめてプリントにしてやったほうが生徒のためだ、という親心なのかもしれない。けれど、そういうのは小さな親切・大きなお世話だ。教科書の記述は、歴史を理解するためには最低限そのぐらいの言葉がなければ足りないから印刷されているのであって、何も一言一句を暗記しろという意図で記述されているのではない。もしも暗記リストだけで歴史が十分に語れるのであれば、むしろ教科書がそうなっているはずだ。歴史とは人びとの営みの変遷であって、その理解のためには、それが語られねばならない。語る際にいくつかの用語は必須かもしれないが、用語はツールに過ぎず、重要なのは語ることによって得られる理解である。理解のためには、まずは語られることが必要であり、語る言葉こそが必須であるともいえる。

だから私は、「重要事項」を羅列したプリントのようなものをつくりたいとは思わない(ついでにいうと、そういうタイプの参考書も信用しない)。そういうのが役立つ場面もあるかもしれない。たとえば、そういう抜き書きを自分で作った場合だろう。ひょっとしたらプリントを配布する教師は自分がそれを生徒の頃に作った過去があって、それが役立ったという実体験があり、だからこそ、その役立つツールを共有したいと思っているのかもしれない。だが、実際には作る過程が役立つのであって、でき上がった無味乾燥の要点集にはほぼ意味はない。もちろん、暗記リストで取れる点数もあるから、テスト対策として完全に無意味ではなかろう。だが、学問はテストのためにあるのではない。テストの点数なんて、ついでで取れるぐらいが理想なんだから。

だから、私の講義はいきおい用語や人物名なんかの重要暗記項目はすっ飛ばしてしまう。今回の本でも、可能なら歴史用語なんかは一切抜きで書きたかった。けれど、それはそれで学校の予習としての意味をなさなくなる。だからネタにさえなる「墾田永年私財法」とか「承久の乱」とかの用語は適宜入れた。ただ、そういう言葉の定義まで踏み込む必要はなく、中学校で「そういえばそんな言葉をどこかで見たなあ」程度に思い出せれば十分だと思って、サラッと流しているものが多い。用語にはあまりこだわらず、重要な用語で抜けているものは多い。そのあたりの整合性の欠落は、教科書や、あるいは暗記リスト的なプリントであれば重大な欠点になると思う。この本は、そういうものとは性格が異なる。そういう意味では、用語や正確性を教科書に任せてどんどん喋りまくるいつもの講義と同じだ。講釈師、見てきたようなウソを言い、という川柳があるが、まあそれに近いものだと思ってもらってもいい。ウソすれすれでも、ウソとは言い難い教科書を際立たせるためであれば意味はある。

 

書きながら、ときどき頭をよぎったのは、数年前に話題になった「日本国紀」だ。私は読んでいない。ネット上の猛烈な批判をみれば読む気も失せる。だいたいが、「教科書が教えない」式の「真実」をうたう売り文句ほど警戒心を呼び起こすものはない。学習指導要領は最低限、現代の社会に合意された通説を扱うものであって、ときに「そうはいってもなあ」という部分があっても、それは通説をしっかり踏まえた上で「そこで止めたらアカンやろ」的なものでなければならない。読んでいない本の批判をするのは避けるのだけれど、「神話とともに誕生し、万世一系天皇を中心に、独自の発展を遂げてきた、私たちの国・日本。」みたいな売り文句は、それだけでアレな本だと主張しているんじゃなかろうか。

そうであってもこの本を思い浮かべることがあったのは、読み物として楽しめる通史という位置づけだ。そういうものがあってもいい。とくに、子ども向けにあってもいいと、これは家庭教師をはじめたころからずっと思ってきた。なぜなら、私自身が、そういった通俗的な歴史書から歴史に近づいていった子ども時代を経験しているからだ。通史としてみると相当なボリュームになってしまうのだけれど、何巻にも分かれて各時代のトピックスを扱った子ども向けの歴史書が、かつては多くの出版社から刊行されていた。執筆陣もいまふりかえってみればけっこう一流の学者や作家が起用されているケースもあったようだ。内容は、ときにはかなり俗流であったりもするけれど、興味をかきたててくれるものが多かった。何冊か飛び飛びにしか読まなかったけれど、小学校高学年の頃に読んだそういう本が私の歴史への入り口だった。やがて高校時代になると、大人向けに書かれた通史を何種類か読んだ。翻訳物とかを読むと同じ世界史を扱っているのにずいぶんと視点が異なっていて驚かされたりもした。分厚いものも薄いものもあったが、過去から現在へと歴史を通して見ることで、社会を見る視点がさまざまだと学んだように思う。

こういう話をすると、多くの人が小学生のときに読んだマンガの話をする。実際、最初の「まんが日本史」みたいなシリーズが発刊されたのが(私の個人的な記憶がもしも正しければ)私が子どもの頃だったと思う。その時代にはまだ「マンガなんて」みたいな風潮もあったのだけれど、たちまちのうちに「子どもの歴史入門はマンガから」みたいな常識ができあがってしまった。いま、たいていの生徒の家にはそういった歴史のマンガ本が置いてある。けれど、活字中毒者の私からいわせれば「それはちょっとちがう」。一般に画像は文字よりも多量の情報を伝えるが、文字に比べれば自由度が低いものだ。歴史のような抽象的な概念を伝えるのに、ストレートなマンガはあまり適していない。コマの印象は強いからそれが効果的にはたらくケースもあるが、その一方で、断片的、エピソード中心、人物本位になりがちで、せっかくの経時的な流れをつかみにくくする。そういうもので育った人にはまた別の主張があるだろうが、そこを回避して子ども時代を過ごした私のような人間からみれば、およそ歴史とマンガの相性はよくない。マンガはもっと文学的なものであるように思う。

文学は文学で貴重なものだ。だが、そこからもう少し外れた領域で、それでいて厳密な学問までいかないあたりに、なにかとっかかりのいい歴史への入り口があってもいい。そういう本があれば生徒に与えたいと思って書店に行くたびに書棚を見ていたのだが、これというものには遭遇しなかった(存在しないとはいわない。私もそこまで徹底して調べてはいない)。だから、大人向けではあるけれど「読みやすい通史」である「日本国紀」の話を聞いたときに、ある部分では「そうそう、そういうことだよ」と思い、ある部分では「やられた!」とも思った。学問としては厳密性を欠くのだけれど、あたかも社会を1つの有機体のようにみて、その物語を叙述するという手法は、歴史への入り方としてメリットがある。そういう意味で、学問としての歴史研究とは別な、語りとしての歴史があってもいいと思う。その場合、そこに独自研究を盛り込むべきではない。独自研究はあくまで学問としてやるべきで、それは専門家に任せるべきだ。もちろん郷土史家のような在野の研究者を専門家家から除外するつもりはない。しっかりと一次史料にあたり、エビデンスを積み上げて議論をおこなうひとはすべて専門家と言ってよかろう。一方、それを語るのは、講釈師であり小説家であってかまわない。ただし、その語る内容は専門家によって確立された通説であるべき。通説から踏み出す部分は明らかにフィクションであるとか、あるいは感想として語られるべきだ。「私はこう感じた」は、話を面白くする。そういう工夫はあってもいい。

だからこそ、「教科書が教えない」式の歴史本には眉に唾をつけねばならない。もちろん、教科書なんてしょせんは先端の研究のずいぶんあとから足を引きずりながらくっついていくものだから、専門家からはいろいろと批判があって当然だ。ただし、歴史全体の専門家なんてなかなかいないのだから、通史を書くとなったら一歩退いて、通説のレベルはおさえておかないといけない。まして、専門家でもない講釈師・小説家のレベルであれば、話を面白くするためだけに珍説を持ち出すべきではない。あるいは、持ち出すならばフィクションとして創作すべきだろう。そのうえでなお、語り口によって話を面白くすることはできるはずだ。

そういう本があれば私はぜひ読みたいし、生徒たちにも勧めたい。実際、そういう本はある。ただ、小中学生には荷が重い。とくに、学校で歴史を学ぶ前、あるいは学んでいる最中に、そことうまく整合するようなものはなかなか見かけない。だから書こうということになったわけだが、残念ながら私は講談師でも文学者でもない。どこまで面白く語れたのかは、まるで自信がない。とはいえ、当面、これ以上のものが書けるとも思わないので、電子書籍としてリリースすることにした。これが黒歴史になれば、それを打ち消そうとする努力もまた生まれるだろう。そんな努力がいい方向に作用すれば、それはそれでいいではないか。

身の程知らずだなあとは思う。ふつう、歴史、それも通史なんて、相当な大家じゃなきゃ書けないだろう。一介の家庭教師のやるべきことじゃない。それでも、私は自分の生徒のためにこれを必要としているのだし、そのときにリンクひとつ渡して済むのなら、それに越したことはない。ここまで生徒にはPDFで渡してきたのだけれど、いずれもプリントアウトして読んでくれた。それはそれで嬉しいけれど、A4で50枚以上ある文書をコンビニでプリントしたらずいぶん高くつくし、自宅のプリンタだとしてもランニングコストを考えたら数百円はかかる。それよりはAmazon電子書籍に代金を払ってもらったほうが安くあがるし、なんならプライム会員無料のはず。もちろんもっと完全に無料で配布する方法もいろいろあるにせよ、とりあえずはアマゾンの電子書籍の最低料金に設定しておくのがベストなのかなあと考えた。

私が必要とするのと同じように必要とするひとが見つけて、利用してもらえたら嬉しい。そして、この本が不要になるようなもっといいものが見つかれば、そのときにはこの本はディスコンにしてもいいと思う。今回のリリースが、それを見つけるきっかけになれば、それはそれで役目を果たしたことにもなるだろうから。