ごく個人的な、ランドセル問題

ランドセルの話が出るたびに、もやもやする。ランドセルという製品そのものについてではない。いや、用途によってはいいものだろう。弾薬を運ぶとか、そういう物騒な話でなくとも、あのカチッとした形状がフィットする用途はあるだろうし、持つ人が持てばオシャレにも見える。ああいったカバンが世の中に存在することについて、何一つ文句をいうつもりはない。

ただ、個人的にはランドセルにいい思い出がない。というのは、半世紀も前の古い話なのだけれど、自分自身が小学生だったころ、まだ品物がよくなかったためなのか、たぶん小学3年生のどこかであっさりと壊れてしまったからだ。壊れたのが残念だったのではない。壊れたあと、もっと軽い布のカバンで登校して、それが快適だったことが自分の印象に強い。たぶん当時のランドセルなんてみんな同じように耐久性が低かったのだろう、高学年になるとみんな思い思いのカバンで登校していた。そういうもんだと思っていたし、実際にもっと軽いカバンをもってみて実感したのは、「ランドセルなんて奇妙なもんだよなあ」ということだった。同じことなら1年生のときからもっと持ちやすいカバンにしたかったよと、思った。

その後、ランドセルという言葉はその概念とともに私の関心からすっかり抜け落ちた。ただ、新聞のどっかで「最近はランドセルの代わりにリュックサックを使う自治体が出てきている」みたいなことを読んだ若いときに、「そりゃそうだよ」と意を強くした。あんな重くて重心のバランスがわるいもの(そのころには私は山登りを趣味にしていたので、ザックの重さや重心にはとくにこだわりがあった)、滅びるのが当然だよなと思った。そして、私の中では「ランドセル=時代遅れ」という図式がかたまった。ああいうのは高度成長期の遺風であり、フジツウさんがアメリカのビジネスを支配して未来へ帰るような時代には似合わないのだと、勝手に断じた。

だから、自分の息子が小学校に入るころになって、実家の両親から「ランドセルを買ってやろう」という話が出たときには、正直、びっくりした。「え? いまどきランドセルなの?」と。そこでその話を妻にすると、「なに言ってるの。ランドセルは絶対必要だし、買ってくれるんならお願いしたらいいんじゃない」と。「いや、現代はランドセルじゃないだろ」と言うと、「じゃあ、朝にそこの角に10分でも立ってみたら」と言われた(いや、そういう言葉じゃなかったかな)。たしかに、登校する小学生を見たら、100%、ランドセルを背負っている。いかに私が自分の想念のなかで生きていて現実世界を見ていないかの証明となった。人は関心のないものは見ないものなのだ。妻が妊娠するまでは世の中の妊婦が見えていなかったし、息子が生まれるまでは赤ん坊なんて世界には存在しなかった。保育園に進んで初めて保育園児がこれほど跋扈していることに気づいたのだし、息子が小学校にいく直前まですぐ近所で朝に小学生の行列ができていることがわからなかった。それも全員がランドセルを背負っていることに。

そういうふうに決まっているのなら、ランドセルは買わねばなるまい。だが、ランドセルとはどういうものだ? そりゃ、百貨店なりショッピングセンターなりの売り場に行けば「これがランドセルです」と明確に示してあるだろう。だが、ここで「規則」に奇妙にこだわる私の性格が頭をもたげた。ランドセルをもっていくことが決まっているとしても、もしも学校で決められたものとちがっていたらいけない。それは、私自身が子どもの頃に他の生徒と微妙にちがう所持品を持たされることがしょっちゅうだったことも影響している。「他の子とちがう」のは、子どもにとってはとても負担になる。だから、私は「学校からの通達を待とうよ」と言った。小学校入学に際しては、必ず小学校の方から「こういった物品を用意してください」と通知があるはずだ。実際、それはあった。お道具箱やら算数セットやら、さまざまなものが指定された。だが、膨大なプリントの隅から隅まで読んでも、ランドセルに関する規定はなかった。これこれの寸法で、これこれの色で、みたいな規格が必ず指定されていると思ったのに、ランドセルのラの字もなかった。

「ほら、やっぱり現代はランドセルなんて要らないんやで」

と、私は言ったけれど、現実にみんなランドセルを背負っている。「一生に一度のことやのにいったいあなたは何が不満なの」と責められては、私もなにもそこまで反対することもない。自分自身のネガティブな記憶は、それは時代が古かったからなのだろう。現代のランドセルはきっともっといいものにちがいない。ということで、息子は祖父母に深緑の上等なランドセルを買ってもらった。

ただ、この顛末で、私はランドセルに関して非常にセンシティブになった。自分がランドセルに関する規定を見落としたのではないかと不安になったのだ。そこで、息子が小学校に通うようになってから、ことあるごとにランドセルには注目した。そして、奇妙なことに気がついた。

学校は、ランドセルに関する規定を何らもっていない。規定がないにもかかわらず、「今日はランドセル登校です」とか「今日はランドセル不要です」みたいな通知がくる。いや、最初っから「入学前にランドセル用意してください」と言ってないじゃないかと思うのだが、全員がランドセルを用意していることが大前提になった運用をしている。それって、絶対におかしい。

実際、ランドセルの規格は自由だった。だから、よくよく目を凝らしてみると、いろんなランドセルがいた。そして、私が子ども時代に(ランドセルではないが他の物品で)経験したのと同様に、「他と変わっている」という理由でなにかといじられている子どもも見た。これも、実際にはなにも決めごとはないのに、あたかも決めごとがあるように運用されていることからくる不条理であるのかもしれない。ランドセルの色が何色でもいいじゃないかと思うのだけれど、そこに根拠はない。色や形がちがうからとあだ名までつけている子どもたちにも、根拠はない。ああ、こういう世界は嫌だ。

 

息子が中学校に進み、不登校になっていくなかで、当事者としてはランドセルや制服や、そういったものからはどんどん遠くなっていった。けれど、あのときのもやもやした感覚は、いまだに私のなかで「ランドセル問題」として残っている。これは世間が問題にしているものとはまったくちがうだろう。地域によっても、ランドセルへの対応は異なる。学校によってはおそらく事情もちがうだろう。だからこれは、ごく個人的なものだ。そういう個人的な「ランドセル問題」だから、永遠に解決しないだろう。きっと墓場にまで、持ってく。