「共同親権」の議論を思うにあたっての個人的経験

ブコメの言い訳

先日、こちらのツイートにくっつけたブックマーク・コメントに対して、たくさんの黄色い星を頂いた。ただ、短いコメントなので、けっこういろいろな受け取り方をされているのではないかと、あとになって思った。

猫さん on Twitter: "やばいやばい。前澤さんのシンママ向けマッチングアプリあれ予想以上にやばい。一般社団法人 日本シングルマザー支援協会って、、、わたしがだいぶ前から怪しんでた「離婚後共同親権運動してる妙な新設シンママ団体」だよ。しかも団体住所が離婚や不倫の公正証書作成を得意といってる行政書士事務所。"

「支援」というのは、「ひとり親でもちゃんと生きていけるように支援しよう」じゃなくて、「ひとり親状態をなくそう」という意味なんやね。そういう意味では、世界観は一貫してるわ。なるほど、時代錯誤

2023/02/01 11:41

b.hatena.ne.jp

自分で自分の書いたものに解説をつけるのはなんかおかしいような気もするのだけれど、誰かが解説してくれるわけでもないから、しかたない。これは「シングルマザー限定婚活アプリ」が公開1日で停止された件に関する流れなのだが、私はこの報道にあまり興味はなかった(とうの昔に婚活とか関係ない年齢になってるわけだから、興味がある方がおかしいわ)。ただ、どこかで「日本シングルマザー支援協会」という名称を見て、「奇妙だなあ」とは思っていた。だって、なんで婚活アプリと「シングルマザー支援」が結びつくの?

それがこのツイートをみて、「あ、そうか」と合点がいった。

私の理解として、シングルマザーに関連する問題は、確かに存在する。それはシングルマザーの生きにくさだ。2人親がスタンダードで設計された社会で一方が欠けていることは、さまざまな不都合を生む。具体的にはさまざまな不利益が報告されている。シングルマザーの平均年収は同年代の他の女性と比べて明らかに低く、それでいて出費は明らかに多い。子育てに費やさねばならない労力を考えれば、非常に不利な立場に立たされていることは明らかだ。これは問題だろう。だから行政は特にそこに支援を行うべきであるし、「支援」の名を冠した社団法人があっても不思議ではない。

ただ、不思議なのは、なぜシングルマザーの婚活が「支援」になるのかということだった。だが、それは問題の所在の目の付け方が違っていたわけだ。つまり、私はシングルマザーの困難が問題だと感じているわけなのだけれど、世の中にはシングルマザーの存在そのものが問題であると感じる人もいるわけだ。存在そのものといってしまうと語弊があるが、つまり、シングルマザーが生きづらいのであれば、結婚すればシングルマザーではなくなる、つまり問題は解決するではないかという発想だ。これには気づかなかった。そしてそういう世界観でみてみると、確かに婚活アプリはシングルマザーである状態を「解決」してくれるだろう。つまり、そういう世界観では、これは「支援」に相当する。なるほど。

シングルマザーではないのだけれど、ここで思い出す人がいる。私が大学をやめて数ヶ月ぶらぶらしていたあと、編集プロダクションでアルバイトを始め、やがてそこでフルタイムで働くようになっていく中で、知り合った人だ。社長の以前の部下で、よく仕事をサボって会社に遊びに来ていた。彼は、小学1年生と保育園児の2人の娘を抱えて、奥さんに先立たれたばかりだった。いろいろあって私は彼の子育てをごくわずかだけ手伝うことになったのだけれど、そのときに彼が愚痴のように話してくれたのは、その少し前に彼が1週間だけの「再婚」をした件だった。葬式が済むとしばらくして、親戚から再婚話がやってきた。独身男性1人で子育ては無理だろうから後妻さんをもらいなさい、ということなのだ。亡くなった奥さんを愛していた彼は全く乗り気ではなかったのだが、2人の娘の幸福のためにと、世話をされるままに結婚をすることにした。ろくろくに相手の顔もみないような見合いで、式などあげる余裕もなく、結婚という形になった。だが、あたりまえのようにうまくいかない。1週間でその結婚は破綻した。

こんな具合に、「独り身は具合が悪いから結婚しなさい」という人々が、昭和の昔にはごく当たり前にそこらにいた。いまではそういうことを言うのは親ぐらいだろうが、かつては親戚一同、何なら近所の人から職場の上司まで、「結婚しなさい」はふつうに言った。そういう価値観から見れば、「ひとり親」の困難は、「困難があるから支えてあげよう」ではなく、「困難があるならひとり親をやめればいい」となる。つまりは、上記の「婚活が支援になる」という発想と全く同じだ。私はそういうおせっかいな考え方が社会の主流から外れたことをいいことだと思っているから、いまだにそういう発想で支援事業をやってることに対して、素直に「昭和だなあ」と思った。「昭和」と書くとまたそれはそれでいろいろ別な意味も呼び込んでしまいそうなので、「時代錯誤」と書いたが、ま、似たようなもんだろう。

 

驚いたのは、これに対して、次のようなコメントを頂いたこと。

猫さん on Twitter: "やばいやばい。前澤さんのシンママ向けマッチングアプリあれ予想以上にやばい。一般社団法人 日本シングルマザー支援協会って、、、わたしがだいぶ前から怪しんでた「離婚後共同親権運動してる妙な新設シンママ団体」だよ。しかも団体住所が離婚や不倫の公正証書作成を得意といってる行政書士事務所。"

<a href="/mazmot/">id:mazmot</a> 父母ともに健在なのに、片方の親権を認めない事こそ、子供を親の所有物扱いする時代遅れの感性だと思うが。EUこそ時代遅れだというなら、止めはしないが。 <a href="https://gentosha-go.com/articles/-/28316" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://gentosha-go.com/articles/-/28316

2023/02/01 13:17

b.hatena.ne.jp

私は自分のコメントの中に「共同親権」の言葉はひとつも入れてない。そして、上記のように、別段共同親権のことを考えてコメントしたわけでもない。さすがにこれは言いがかりだろうと思った。けれど、よく考えてみたら元ツイートはこの「支援団体」を「離婚後共同親権運動してる妙な新設シンママ団体」と書いてる。だから、まあ文脈からいったらそっちの話と思われてもしかたなかったかなと、あとから思った。100文字のブコメではよくあることだ。

で、ここで話を終わっておいてもいいのだけれど、では私に「共同親権」に関して何ら思うことはないのかといえば、そうではない。そこまで書いておかないと、やっぱり後でややこしいかとも思う。ただ、この問題、国際標準であるとか政治の思惑であるとかそこに関わってくる人々の真意であるとか、いろいろややこしいことも多いので、旗幟鮮明にするのもはばかられる。なので、そこにまつわるいくつかの個人的な話をしておくにとどめておきたい。

「親権」の法的根拠

まず最初に、「親権」なる言葉を(小説以外で)初めて聞いたのは、10年近くも前になるか、友人が離婚した際だった。私は彼らの媒酌人も務めた間柄なので、いろいろ話も聞いた。最終的に家庭裁判所で決着をつけたのだけど、そのときに一人娘の親権についてのことも聞いた。

で、私の反応は「親権? そんなもの、ないやろ」というものだった。もちろん、これは間違いだ。あとになって調べたら、ちゃんと民法にひとつの章を割いて規定されている。ただ、私が「親権というのは俗な理解であって法律的根拠がない」と思い込んだのは、それが憲法に規定されていないからだ。基本的人権はすべて憲法に根拠がある。そして、憲法は中学・高校の社会科でしつこいぐらいに教える。そこに「親権」が規定されていない以上、そんなものはないのだと、私は思い込んでいた。もちろん、これは単なる勉強不足だ。

ただし、憲法にない権利が法令で定められているのは、たしかにおかしい。いや、おかしくはない。たとえばルールに則って生活ゴミを出すのは住民の権利だが、憲法のどこをみても「ゴミを出す権利」は書いていない。ただし、これは第二十五条第2項の「国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」の規定にもとづいて成立している「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」の規定によって地方公共団体に課せられた責務の上に実現している。つまり、憲法に規定されていない権利は存在してもかまわないが、それは必ず憲法内にその根拠をもっていなければならない。

そうすると、親権の憲法上の根拠は何だろうか。実は憲法内に、未成年者に関する項目は1箇所しかない。それは第二十六条第2項の「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」という部分だ。けれどまた、未成年が保護され、健全に育成されねばならないというのは、憲法以前の常識でもあるだろう。さらに、その権利の執行にあたっては制限がかかるのも常識的に判断できる。しかしその一方で、憲法内の基本的人権の規定は、年齢を制限していない。生まれた瞬間から人であり、国民である。すべての条文は生まれた瞬間から適用される。

このような前提のもとに規定されているのが、民法の「親権」であろう。したがって民法には、親権について「親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う」と規定されている。つまり、人権をもった未成年者に対して、その権利が制限される部分を代弁し、そこで失われる利益が生じないようにはからう義務を負うというのが、まず第一義的な親権の意味だ。そういう意味では、「権」というよりも、「義務」といったほうがいい。日本語をふつうに読む限り、この規定はそう読める。ただし、子どもの権利を代理することはその代理者としての権利の行使を意味する。すなわち、この義務には、権利としての側面も伴う。よって、「親権」という言葉には、それなりの合理性がある。

いずれにせよ、「子の利益のために」行うものが親権であるから、それが毫でも子の利益を損なうときには、その権利は合理的根拠を失う。親権とはそういうものであるから、なんだか私のような部外者から見れば、それを巡って争いが起こるなんて、実に不思議にしか見えなかった。争ってまで取りに行くもんかよ、それ。

「ひとり親」を卒業して

まあ、世の中はわからないもので、「離婚なんて他人事」と思っていたその頃、突然、妻が別れると言い出した。いろいろと思い当たるところはあるので、「そんなん、さみしいやん」といった感情論以上の反論はできなかった。このあたりのことを詳しく書いたらおもしろいのだろうけど、さすがにまだまだ笑い飛ばせるほどには傷は癒えていない。話し合いの結果、お互いそれがベストでしょうということになって、妻は時間距離にして1時間ほど離れた街に引っ越した。あとには私と息子が残された。

だから私はそれ以来、「ひとり親」の当事者であったわけだ。実際のところ、10年間、息子の面倒を見てきて最終的にどうにか自立してくれて、ホッとしている。もっとも10年がずっと子育てでしんどかったわけではない。高校の3年間は寮だった。もしもコロナがなければ、もっと早くに私のサポートは不要になっていただろう。コロナ対策で高校のときにも大学に通うことになってからでも、車での送迎や在宅での生活で手がかかることが多かった。けれど、それは小中学校時代の手のかかりように比べたらたいしたことではない。だんだんと楽になって、そして去年の秋からは月に1回顔を合わせればいいぐらいの関係になった。子育ては完了したといっていい。

そのしんどかった小中学生の時代でさえ、私が孤立無援だったかといえばそうではない。私と妻の結婚生活は終わったにせよ、妻は私を息子の父親と認めていたし、私は妻を息子の母親として頼りにしていたからだ。だから私が仕事で忙しいときには、妻に頼んで飯を食わせてやってもらうこともできた。息子の学校の行事(不登校になってからはフリースクール関係のあれやこれや)も妻が進んでやってくれた。衣替えの時期には衣類の不足を買いに息子を連れ歩いてくれるのも妻だった。そういう折には、私は日常の家事の中で少し息をつくことができた。

息子にとって、決して理想的な両親ではなかったと思う。けれど、お互いやれることをやった。それは認めてくれている。そしてその過程で、「親権」というものを意識したことは、私には一度もない。確かに、彼には居住の自由はなかった。それは親の住所に限定されていた。そういう意味では、私は彼の権利を制限していた。あるいは、彼の財産権も制限されていた。お年玉を溜め込んでいた貯金を「使うな」といったのは私だ。けれど、どのみち、彼には特に欲しい物もなかった。欲しいものがあれば自分の貯金を使わずともある程度は手に入れる手段をもっていた。進学に関しても、確かに干渉はした。しかしそれは、物理的に可能な範囲と選択肢を示しただけだった。それはこちらが制限しているというよりも、世間的にもその程度が限界だからだ。もしもそれを突破したければ、自分で頑張るがいい。それは人権とは別の次元の話だ。

妻との間でも、「親権」を巡って揉めることはなかった。どこにそんな問題が発生する余地があっただろう。子どもがどうやれば幸せに過ごせるのか、それが核心にあるときに、話し合って解決できない問題はない。複数の選択肢があるときに、私と妻の考え方が異なることは、なかったとはいえない。けれど、選ぶのは私でも妻でもなく、息子自身だった。そんなときに、私と妻の間で何を争うというのだろう。

 

家族には、さまざまな形態がある。夫婦を中心にその子どもで構成された家族、即ち核家族が現代のスタンダードではある。けれど、夫婦が夫婦としての機能をやめてしまっても、子どもを中心に据えるなら、やっぱり同じメンバーで家族の機能は維持できる。家族の機能の重要なひとつは再生産だ。この言葉も変な人の変な使い方で奇妙な色がついてしまったが、ブルデューまで戻ってみれば、再生産機能はやっぱり家族の基本機能のひとつだということは否定できまい。そして、再生産の過程では、生み出されてくるものが最も重要だ。だからこそ、子どもが主体になるのであり、親はそのサポートに回るのが本来だ。そう考えるときに、「親権」は権利だろうか? 義務だろうか? どちらでもない。それは単純にめぐり合わせであり、担うべき役割であり、それがうまく担えないときには降りてしまってもかまわないものではないだろうか。降りたほうが子どもの幸せを確保できるのなら、降りてもいい。ただしそうやってサポートが手薄になる子どもには、社会が別の種類のサポートを差し伸べねばならないだろう。

共同親権」の議論に、違和感を覚えるのは、このあたりの感覚の違いなのだ。親が子どもにあえないのがさみしいとか、そんなことは子どもの幸せとは無関係だろう。さみしいといえば、私は妻と離れるのがさみしかった。けど、さみしさを超えてでも離れたほうがいい場合だってある。「親権」を行使して親が決められることなんて、ごく僅かだ。もしもそれが僅かだと思えないのなら、それは既に越権行為に踏み出しているのだと思ったほうがいい。親権は、年齢によって制限された子どもの権利を親が代理して執行するに過ぎない。その代理が正常に行われている限り、親権が意識されることなどないだろう。

 

とはいえ、家族の様相は、形態以上に多様だ。世の中には、また別種の考え方で成り立っている家族もあるだろう。それはそれ。他人のライフスタイルまで口を挟むまい。だから私は、「共同親権」議論には、距離をとる。もちろん、国際標準なら、齟齬のないようにあわせてったらいい。けど、それは専門家、政治家に任せておけばいい。何も正義を振りかざす必要はなかろう。我々はただ、子どもを愛すればいい。