「貧困」という言葉を誤解していたらしい

「実家が太い」と言ってしまっていいと思うのだが、私は貧しさと無縁な生活を送ってきた。無縁というのもちょっとちがう。いろいろな局面で貧しさと隣り合わせになりながら、そこにつきものの苦しみから本質的に遠いところにいた。事業がうまくいかなくなって畳むときには現金が足りなくて本当に困ったが、それでも三度の食事を欠かすことはなかった。定収入なしで結婚したときも、どうにかなると思っていたらどうにかなった。不景気の風が吹いて仕事がなくなったときにも、安い給料でかまわないやと思ったら雇ってもらえるところがあった。実家が太いと、「親の老後のために貯金をしとかなければ」というプレッシャーがない。子どもができていろいろと金がかかるだろうといっても、高価なものは頼まなくてもやってくる。祖父母の楽しみなのだから、そこは譲ってもかえって親孝行ぐらいなものだ。結局、自分が食べていければそれで十分であり、食べるだけなら1日あたり数百円あればどうにかなる。安上がりの生活をしていると、収入が低いことが貧しさに直結しなくなる。だから私は、自分のことを貧しいと思ったことがない。

類は友を呼ぶ、似たような低空飛行で暮らしている友人はすくなくない。高度成長期にしこたま儲けた世代の子どもたちである私や少し年下の友人たちは、実家の親のことを心配する必要もなく、低収入でもどうにかやりくりしている。だが、同じような仲間のなかには、たしかに低収入が生活を直撃している人たちもいる。そのせいで(といっていいのか実際にはわからないが、おそらく直接でなくとも間接的な影響があって)離婚したひと、自ら命を断ったひと、ホームレスになったひともいる。だから私は、自分自身は貧しさと無縁であっても、それと隣り合わせで生きてきた実感はある。貧困という言葉から遠い外国のことを連想するひとよりは、貧困の実際に近いところを知っている自信はある。

それは、その後の仕事でもそうだ。家庭教師を依頼するのは金持ちばかりでしょうと思うかもしれない。けれど、かつて訪問指導を行っていた頃、業務で訪れる家庭のいくらかは、明らかに貧しかった。もちろん、信じられないほどのお金持ち家庭を訪れることもあったが、カップラーメンの空容器の山と大五郎が転がっているキッチンを通り抜けて生徒の勉強部屋に入るようなパターンだって、ふつうにあった。そういった生活が貧困の定義にあてはまるのかどうかは知らないが、明らかに物質的な欠乏が正常な生活を蝕んでいた。貧しさは強く感じられた。

実際のところ、貧困は単純に収入が一定の水準を下回った状態として定義される。少なくとも私はそう解釈してきた。そのあたりは、かなり以前に書いている。

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このときは、英語の辞書に日本語の「貧困」にあたるpovertyを「通常もしくは社会的に受容できる量の金銭もしくは物質的所有物を欠いた人の状態」と定義してあったことにもとづいて、「日本語の〈貧困〉に〈困〉の字が入っているのはおかしいじゃないか」と論じた。結論としては、

貧しい人々に困っている人々の比率が特に多いのであれば、そこを研究し、その問題を解決するために知恵を絞るのは当然だ。それが「貧困問題」を捉えるときの正しい立場だろう。

と書いた。社会問題を考えるとき、アプローチはさまざまにせよ、最終的には政策論に行き着く。なぜなら、社会の問題と個人の問題はちがうからだ。個人の問題であれば、金がなければなしで済ませる方法を考えるか、あるいは稼ぐ方法を考えるかのどちらかになる。どちらのアプローチでも、うまくすれば困難は乗り越えられる。けれど、それではそういう方法がとれない場合、あるいはそういう方法がうまくいかなかった場合の個人を救えない。そういうひとを放置するのは社会として問題だ。だからこそ貧困は社会問題であるのだし、社会問題の解決は個人の問題とは別な次元で行われねばならない。仮に百歩譲ってそれが「自助・共助・公助」なのだとしても、それを支えるのは政策である(たとえば「自助」ができるような職業安定政策をとるとか、バリアフリーを支援するとか、「共助」が可能なように地域社会を支援する政策をとるとか)。したがって、政策は困窮者を特定して行うのではなく(もちろんそれも重要だが、それは政策以前の話だ)、困窮しているひとが偏在する社会層を対象に行うことになる。その際に、一本の貧困線をひくのは合理的である。なぜなら、低収入の集団に困窮者が圧倒的に多いのは明らかだからだ。

そういう意味で、「貧困」は単純に「貧困線以下の収入で暮らすこと」と定義すればいい、というのが私の理解だった。その時点では、まさか自分が貧困を真正面からテーマとしてとりあげた本を訳す立場になるとは思ってもみなかった。世の中はわからないものだ。昨年の後半、私の机の上にあったのは、まさにそういう専門書だった。監訳者がつくとはいえ、なかなかたいへんな仕事だった。そしてこの本、冒頭から私の理解を完全に否定するものだった。

貧困の定義では、貧困である・貧しいという状態と、貧困ではない・貧しくはないという状態とをなにで区別するかということが、さらに正確に述べられるべきである。ただし、これは、「貧しいことと貧しくないことのあいだにかっきりと境界線を引くこと」を意味するのではない。

と、序章に入ったばかりのところで明確に貧困線で2分割する定義が却下されていたからだ。「え? ちがうの?」と慌てた。だって、辞書にはそう書いてあるじゃない。その疑問に対して、「貧困とはなにか」を捉えるには、3つの異なるレベルでの理解が必要なのだと本書は進んでいく。つまり、「概念」と「定義」と「測定基準」だ。そして、貧困線は、その「測定基準」の一部としてかろうじて入ってくるに過ぎない。

なぜかといえば、測定基準を定義としてしまうと、マズいことが起こるからだ。たとえば、政策目標に「貧困の撲滅」をあげる政権があるとする。これはこれで正しい目標だろう。もちろん「撲滅」は遠い目標だから、とりあえずは貧困率が下がれば政策はうまく機能していると評価できる。そこまではいい。貧困率は社会の構成員を分母として貧困にカウントされる人数を分子にして算出される。たとえば収入の中央値の2分の1を貧困線に設定するとする。たとえば中央値が年400万円だとしたら、収入が年200万円以下の人々の数を減らせばいい。最低賃金を底上げすることや生活保護・年金など社会保障を充実することで、年収200万円以下の人々の数を減らすことができるだろう。これは貧困対策としては説得力のあることである。ところが、全く別な政策をとっても、貧困率は下げることができる。たとえば年収の中央値を300万円に下げるような政策を行ったらどうだろう。これは、高所得者はそのままにしても、中央値付近にいる人々の年収が一気に下がるような政策をとれば実現できる。そうすると貧困線は150万円になる。中央値付近にいる人々の年収が下がっても底辺にいる人々の年収に影響がないような政策だとすれば、年収200万円以下の人数よりも150万円以下の人数のほうが少ないのは当然だ。よって、見かけ上の貧困率は大きく下がるだろう。つまり、2極分化を進めることで見かけ上は貧困率を下げることができる。その際、年収200万円以下の当初貧困と分類されていた人々の生活が苦しいことに何らの変わりはない。

それは貧困線の決め方がよくないのであって、たとえば国際的な尺度、たとえば1日あたり2ドルの収入を基準にすればそういったごまかしは効かないだろうという考え方もある。たとえば1ドル130円なら2ドルは260円だから、年収にしておよそ9.5万円程度になる。かなり少ないが、それを基準にしても貧困率は計算できる。そして、その場合、年収の中央値を変えるような政策では、貧困率は変化しない。年収の極度に低い人々に生活ができる程度の収入を与えることだけが、貧困率を下げるだろう。そうだろうか? たとえば、政府が貿易政策を変更して、為替レートが1ドル100円になるとする。すると、貧困線は7.3万円に下がる。当然、貧困率は下がる。そのときに、貧困に相当する人々の暮らしは良くなるだろうか。残念ながら、影響を受けないだろう。

このように、貧困線という測定基準で貧困を定義してしまうと、現実と指標が乖離してしまう。ちなみに、このことで思い出したのは、かつてここで書いた記事。

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貧困率を指標にしてしまうと、それをターゲットにした政策を組むことができる。ところが仮に指標が現実をよく反映するものであったとしても、ターゲット化されて操作された指標は、どんどんと現実を反映しないものとなっていく。貧困政策として富の偏在を加速させるとか為替操作をするとか、およそ本質的ではないことが見かけ上は成立してしまうわけだ。

したがって、測定基準を定義の代用にしてしまってはならない。そして、定義そのものも、独り歩きさせてしまってはならないというのが本書の主張だった。たとえば、私が調べた辞書にあるように、貧困の定義を「通常もしくは社会的に受容できる量の金銭もしくは物質的所有物を欠いた人の状態」としたとする。では、ここでいう「社会的に受容できる量の金銭もしくは物質的所有物」はどのように決めればいいのかという問題が出てくる。さらに、同じ金銭でも実現可能な暮らしは異なる。たとえば私は上に書いたように1日あたり数百円の食費があれば十分に健康的な暮らしを営むことができるが、それは私に料理をする時間的・空間的余裕があるからである。もしも私が毎日都心部のオフィスに勤務しなければならなくなり、眠い目をこすって通勤電車に飛び乗り、残業をしてから帰宅するような生活を送っているとしたら、どんなに工夫しても1日あたり1500円ぐらいの食費は必要になるだろう。もしも同じだけの低賃金しか得られなければ、現在の私の暮らしは貧しくないが、通勤する私の暮らしは明らかに貧しい。つまり、「受容できる量の金銭」は、明らかにライフスタイルによって異なる。また、私は現在、ジャケットをGUで3000円ぐらいで買った安物2枚で済ませているが、これはオンライン授業をやるのにジャケットの良し悪しなんて見えないし、何ならシャツが擦切れていても画面には映らないからだ。もしも私が通勤する仕事をしているなら、仮にスーツが不要の職場であったとしても、もうちょっと多くの「物質的所有」が必要になるだろう。つまり、一律の定義では、貧困を捉えきれない。

そもそもが、この「金銭・物質的所有」に関しても、収入(訳語としては「所得」を選んだが、税務用語からいえば「収入」だろう)で正しく経済状態を把握できるのかという問題がある。いくら収入があっても、使えなければ意味がない。たとえば学費ローンの返済に一定金額が必ず失われる場合、それは明らかに利用できる金額の減少を意味する。そういう意味からは可処分所得を把握する必要があり、むしろそれよりは日々の消費支出を「金銭・物質的所有」の目安とすべきではないかという考え方が合理的に見えてくる。このように、着目すべきはむしろ生活水準であり、生活水準が一定を下回ったら貧困とするほうが定義としてはよいのではないかとの議論もある。

「定義を独り歩きさせてはならない」というのは、こういう議論が生じるからだ。もちろん議論はすればいい。けれど、そこで抜け落ちるのは、「何が問題なのか」という視点だ。本書はそう主張する(ように私には読めた)。

なぜ貧困が社会問題となるのかといえば、そこに困窮が生まれるからだ。政治の目的が究極には人々の幸福であるのは、現代では(というよりも古代から)論をまたない。人々のなかに困窮者が生じるのであれば、それは政治が正しくないからだ。論語にだってそう書いてある。では、困窮は収入をみればわかるのか。消費支出をみればわかるのか。何らかの方法で生活水準を調査すればわかるのか。わかるかもしれない。けれど、根本には困窮者自身の声を聞かなければならない。そうでなければ、定義は独り歩きを始める。定義上は貧困を撲滅できても、現実には苦しむ人々が存在し続けるといった状況が生まれてしまう。

実際、日本では1980年代、既に貧困は撲滅されたものと考えられていた。公的な統計はとられなくなり、人々の関心は薄れた。貧困という言葉で連想するのは遠い外国の報道であり、身近な現象ではなかった。それは世紀の変わり目頃に貧困が再発見されるまで続いた。けれど、実際には1970年代後半から90年代前半に日本に貧困がなかったわけではない。それはその時代を生きてきた当事者として、ふりかえってみればよくわかる。人々が貧困だと思うものが、実際の困窮者の姿にあてはまらなかっただけだ。あるいは定義上は貧困とされなかったものが、実際には貧困であったというわけだ。このような段階での「貧困ってこういうもの」というつかみかたを、この本では「概念」(あるいは「概念化」)とよんでいる。

そして概念化される「貧困」は、すなわち、「金銭・物質的所有物」の欠乏ではなく、それを前提とした困窮の状況である。たしかに、政策を提案し、策定・実行するうえで最も肝心なのはそこなのだ。けれど、ここで私の以前の理解が完全にひっくり返される。英語の辞書的に、povertyには「困窮」の意味はなかったはずなのだ。けれど、そこが重要だという。

実際、本書を読み進めると、私が辞書的に受け取っていた「povertyは金銭・物質的な欠乏の意味で、とくに困窮の意味はない」という理解が現実の用法として誤っていたことがわかる。これは実社会では価値判断をふくんで用いられる語であり、「p word」として形容詞形のpoorとともに(こちらには「哀れな」とか「貧しい」という価値判断をともなうことが辞書にも記載されている)ネガティブな意味で用いられることが多い。したがって、そこからそれにともなう困窮のリアルを取り去ってしまうのは、現実を見誤らせるというのが本書の主張であったわけだ。

 

では、貧困とは何か。一言でまとめてしまえるものならば、このような本は要らないわけだ。しっかりと知りたければ、発売を待って買って読んでほしい。概要が決まったらアナウンスはする。それはそれとして、本書の主張のなかでとくに印象に残ったのは、貧困を考えるうえで当事者の経験は欠かせず重要である、というものだった。貧しさの何が困るのか、それは当事者がいちばんよくわかる。当事者の経験をもとにすると、いろいろと明らかになることがある。たとえば、公的な支援策の多くは、ほとんど役に立たない。生活が困難なぐらいに金銭・物質的な欠乏が甚だしければ、多くの国では公的な支援を仰ぐことができる。ところが、そのためには役所の窓口にいって手続きをしなければならない。貧困下の人々にとって、その手続きのためのハードルは高い。まず、時間がない。貧しければ働かねばならず、働くことで時間のすべてを奪われて、窓口が開いている時間帯に役所に行くことができない。あるいは、条件のわるい雇用のもとで疲弊してしまい、僅かな時間を有効に使って窓口に向かうことができない。欠乏がひどい場合には、役所に行くための電車賃・バス代にも事欠く。手続きをするための有効な身分証明ができない場合もある。必要な書類(たとえば前年度の所得証明など)を揃えられない場合もある。そういったさまざまな障害物を乗り越えてようやく手に入れる支援策は、それだけの犠牲に釣り合わないものである場合だってすくなくない。私たちは気軽に「生活に困ったら生活保護を受ければいい」と言うが、それすらできない状況は、当事者にならなければ見えない。

当事者の経験から明らかになることは、他にもさまざまある。その中でもとくに本書で強調されていたのは、他者からの視線だ。その視線にふくまれる差別の構造だ。他者から「p word」でもって烙印を押され、ステレオタイプ化されて主体性を奪われることだ。これこそが貧困の最も本質的な問題のひとつであると、本書は主張している。

 

ただ、どうにも切れ味がよくないのは、実はこの「当事者」のとらえどころのなさなのだ。たとえば、(どのような定義にせよ)定義上はどうみても「貧困」であるひとに「貧困問題」について質問すると、ほとんどの場合、「アフリカではたいへんらしいね…」とか「ロンドンのアンダークラスについて新聞で読んだよ」(本書はイギリスの本だ)とか、他人事として返事が返ってくる。こと貧困問題に関しては、当事者に当事者意識が非常に小さい。そして、当事者意識があるぐらいに現状認識がしっかりしているひとは、さまざまな戦略によってそこから抜け出す道をみつける。結果としていつの間にか、定義上は当事者でなくなってしまう。では、貧困は当事者にとっては一過性の状態であって固定的ではないのかといえば、貧困が再生産され、いったん陥ると抜け出すのが困難である状況が多くの研究によって示されている。しかし、状況は当事者ごとに大きく異なる。一律にいえない。結果として、他の差別構造では被差別側の人々が団結して声を上げることができるのに対し、貧困当事者には団結した行動があまりみられなくなる。

貧困が社会問題でありながら個人の問題に還元されやすいのは、このように当事者性が失われがちであるからだ。しかし、実はほとんどの社会構成員は貧困問題の当事者であることが本書によって示されている。それは、上記のように、貧困の問題の根本に差別構造があるからだ。すなわち、貧困下の人々を「他者」としてまなざし、そこに枠をはめていく社会の動きだ。そして、そういった差別は、差別する側があってはじめて機能する。そして、差別する側にいるのは、貧困当事者以外のすべての人々だ。つまり、貧困問題を差別問題としてとらえる限りにおいては、すべての人々が問題の当事者であるととらえることができるわけだ。

 

以前書いたブログで、私は

用語を正しく定義し、誤解のないように保つのは学者の基本的なマナーだ。「貧困」に対して定義上不要な「困」の字が混入していることで社会的に大きな誤解と、それにもとづいた見逃せない問題が発生しているのなら、まずそこを訂正することが学者のできる最も単純で手間のかからない対応だ。

最もよいのは、「貧困」という言葉を、より誤解の少ない別の用語に置き換えることだ

と書いた。そのときにはまさかそういう学者と正面から仕事をするとは思ってもいなかった。そして、その仕事をすることで、このイチャモンが無理筋だったのだということを学んだ。povertyの訳語である「貧困」に「困」の字が入っていることは、辞書的には多少マズいのかもしれない。けれど、貧困の現実を考えるとき、2つの意味でこれは妥当である。まず、第一には貧困問題を考えるときに最終的に解決すべきなのは「困」の方である。そこから目を離さないためにはpovertyの訳語に「困」が入っているのはむしろ好ましい。

実際、重要なのは「困」のほうである。これは、以前のブログでもちゃんと書いている。

物質的な欠乏による不幸がこの世に存在するからこそ、povertyが問題になるのである。とりあえず定義としては客観的事実にもとづいて測定可能な「貧」のほうだけにしか着目できないが、そこを定める本当の目的は、それによって発生する社会問題、すなわち「困」を解決することである。そういう意味では、「貧困」という言葉はこれからなお重要だ。ただ、それが招く誤解をどうにかしてほしいと思うだけだ。

だが、「定義」だけでは貧困問題の本質に迫れない。そして、「困」という言葉が誤解を招くと私は捉えたのだが、実はそうではない。これが第2の意味だ。なぜなら、誤解は文字面だけから生じるのではない。むしろ、そんなことは些末な枝葉に過ぎない。ひとが貧困問題に接して個人の態度や性格、ライフスタイルや選択をことさらに叩くのは、貧困に「困」の字が入っているからではなく、この問題が差別問題としての性格をもっているからだ。差別は言葉の問題ではない。「えた・ひにん」を「新平民」と呼び替えようが「同和」と呼ぼうが、そこに「あいつらは」と属性で括って他者として自分たちと対置する姿勢がなくならない限り、被差別部落問題は消えない。「女」を「婦人」と呼ぼうが「女性」と呼ぼうが、属性で決めつけて「こうあるべきだ」と強要する態度がなくならない限りはいくら法制度が進んでも性差別はなくならない。たしかに、言葉の問題ではない。

ということで、「貧困という言葉はpovertyの訳語として不適切だ」という主張は、ここで取り下げようと思う。というか、取り下げないことには、どうしようもない。だって、自分が訳した本のタイトルにも出てくるんだもんな、貧困。