認知症のことはよく知らないけれど - 老母との日々

老母、その後

去年の春、生活のパターンを変えた。年老いた母親の体調が急速に低下したからだ。3年半ほど前に父親が死んで以来、母親の住む実家には週に1回ぐらいの割で顔を出していた。高齢であるし、コロナが流行していることもあったから。ちなみに、父親が死ぬ前には何人か実家の近くに訪問指導で家庭教師に行く生徒を抱えていた。これは父親が入院したタイミングで会社に頼んでそのあたりの生徒を入れてもらったものだ。そうすることで週に2回は仕事で実家付近に行くことになり、そのついでで入院周りの用事を片付けることができるようになった(交通費つきで)。父親が死んでもすぐに生徒が全員いなくなるわけではなく、週1回のペースはしばらくはそうやって維持された。生徒がいなくなって以後も、母親はまあ高齢でもあるし、週に1回ぐらいは顔を見にいくかなという感じだった。ときどき休ませてもらって、月に3回ぐらいになることが多かったようにも思う。顔を見て、買い物に行って、必要に応じて手伝い(たとえば高いところにあるものをとるとか、菜園を耕すとか)をして、日帰りしていた。たいした負担でもなかった。

それが、一昨年の11月だったか、母親は転倒して背骨を砕いた。年寄りにはよくあることらしく、背中が曲がっている年寄りはだいたいそういうことをやっているらしい。少し砕けただけなので日にち薬以外に特に治療法もなく、まあ安静にしておきなさいよ、というようなことだった。この時期には私も少しだけ買い物や通院で実家に行く回数が増えたと思う。ただ、この骨折そのものは、それほど深刻なものではなかった。

ようすがおかしくなったのは去年の3月頃だった。椅子から立ち上がるのに苦労する。床にこぼれたものを拭こうとして四つ這いになると、もう立ち上がれない。明らかに体力が落ちている。歩くのも不安定で、ヨタヨタとしている。この段階で、私は「ついに体力の限界が来たのか」と思った。高齢のために身体が弱り始めたのだと思った。いよいよこれは要介護かもしれない。だったら、まずは私が実家にいる時間を長くするしかない。実家で暮らすことを前提に、いろいろと身辺の準備をはじめた。このときに書いたのが、この記事だ。

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だが、動き始めるのが少し遅きに失した。医者に相談してからと思っていたのだが、定期的な通院日が4月の下旬に予定されている。そのときに相談してと思ったのがまちがいだった。年寄りだからといって、体調が変化していくときに、その変化のスピードを見くびってはならない。もう1ヶ月、せめて2週間でも早くに動いていればと後悔したのだけれど、通院予定日の数日前、実家に行ったら母親が完全に立てなくなっているのを見た。「これはヤバい」と、すぐに病院に行った(病院の玄関で車椅子を借りてそれに乗せた)。そしてそのまま(その個人病院ではなく規模の大きい総合病院を紹介されて)入院となった。

この段階で、私は長期戦を覚悟した。母親の入院は2週間ぐらいは続きそうだという。その間に自宅にある荷物を実家で生活できるだけ移して、自宅の方は長期不在の体制をとる。実家の方は介護生活に適するように整える。そのつもりでまず自分の荷物をまとめて移動した。コロナなので見舞いはできないが、慣れない入院で母親が苦労してはいけないので、できるだけ毎日看護ステーションを訪れては不足がないことを確認することにした。やれやれ、孝行息子だ。だが、案に相違して、母親は4日で退院になった。5月連休前のタイミングということもあったのだろう。連休中はどうせドクター不在だからということなのかもしれない。まずは、母親の回復が順調だったからだろう。

では、母親の不調は何だったのか。なんとそれは投薬ミスだった。骨折後、骨密度を測定して「これは骨粗鬆症の治療を始めたほうがいいでしょうね」と、外科の方でカルシウム剤を処方された。ところが、母親は、そうやって投与され、薬によって吸収を促進されたカルシウムから骨をつくるだけの代謝能力を持っていなかった。結果として血中カルシウム量が亢進し、高カルシウム血症となってしまった。それに付随して脱水症やら何やらと、トラブルが一気に押し寄せたのが真相だった*1

やってきた認知症

その骨粗鬆症対策の処方をはじめてからの4ヶ月で、落ち込んだのは体力だけではない。認知能力も急速に低下した。父親が入院した3年前には、認知能力にそれほどの不自由はなかった。物忘れはしょっちゅうしていたが、それは私が子どもの頃からそうだった。時代が時代なら、注意欠陥障害とでも診断されていたかもしれない。診断がおりない程度の軽微なものであったかもしれない。いずれにせよ、本人の日常生活に困らない程度のものであった(こっちは困ったが)。なので、「物忘れをするようになった」と母親が言うたびに、「むかしっからやんか」と言って笑い話にするのが常だった。それが、父親が死んだあとから徐々に「これはやっぱり加齢のせいやな」と、認知症的な特徴が目立つようになってきていた。かかりつけの医師もさりげなくそのあたりをモニタしてくれていたように思う。とはいえ、変化は緩やかだった。ところが、その入院までの4ヶ月で、明らかに認知機能が衰えた。短期記憶がもたなくなった。すぐに忘れる。

顛末がはっきりした退院後、薬害は恐ろしいなと、改めて思った。身体と脳と、どちらにもダメージがでかい。笑うのは、退院してきた直後、まだ足元がふらついているのを、「やっぱり入院なんかしたらダメやね」と何度も繰り返し言っていたこと。本人の感覚では、歩けなくなったのは入院してベッド生活を強制させられたから、ということになっている。「たった4日寝ただけでも、足腰って弱るんやねえ」と。ちゃうんやって。入院時点で車椅子やったやろ、と訂正するのだけれど、本人、そのあたりの記憶はない。記憶がないのではなく、改竄されている。いや、記憶の改竄は彼女の若い頃からの得意技で、我が家のお家芸、何なら私も遺伝的に受け継いでるぐらいなのだけれど、さすがに数日前の記憶まで創り変えてるのはどうなのよ。ああ、認知症

そこからしばらくは、基本を実家生活にし、週に1回、自宅に戻ることにした。たまには自分の布団で眠りたいから、1泊してまた実家に戻る。目を離すのが怖かったから、そういうふうにすれば自宅に2日帰っても、足掛けなら週の7日間すべて、母親から目を離さずに済む。そうやって実家にいて、そして、母親と毎日、近くのイオンに買い物に行くのが日課になった。それは、買い物が目当てというよりも、散歩のためだ。なるべく人の少ない早朝の時間帯に、ショッピングカートを押して食品売り場内を一周する。30分も歩くとすっかり疲れてしまい、その日の運動はおしまいということになる。はじめは足元が定まらず、だいぶ気を使った。ちょっとしたスロープでもカートを支えられずに転ぶ可能性がある。カートが走らないように押さえたり、母親の脇にそっと手を回したりと、安全にはだいぶと気をつけた。

1ヶ月ほどもすると、だいぶと足元がしっかりしてきた。そのあたりから、自宅の滞在時間をのばしていった。2泊するようになり、やがて3泊になった。夏の暑さが厳しくなると大阪に泊まるのは苦痛になって、なるべく泊まらないように、そのぶん往復の回数を増やした。秋からは、実家に2泊3日で1週間をまわす基本サイクルが定着した。週1で行っていた1年前から思えば負担増ではあるけれど、どちらかといえば自宅で自分のペースを取り戻せているので、まずはめでたしめでたしというところだ。

だが、体力は回復した一方で、認知機能は低下したままだ。私は別に認知症に詳しいわけでも何でもない。だから、医学的な診断基準でどのあたりから母親が認知症の分類に入ってきていたのかを判断することはできない。おそらく、現在の母親は認知症と診断されるだろう。3年前はそうではない。骨折前はどうだったか、それは確実なことは言えない。だいたいが、骨折事件にしたところで、「立ったまま靴下を履こうとしたら転んだ」と、ツッコミどころ満載のアクシデントだったわけだ。ふつう、80歳を超えたら、座って靴下を履くやろ、と思う。安全のためにはもっと慎重であっていい。それを軽視したのは、やっぱり認知機能の衰えじゃなかろうか。そのあたりで診断基準は満たしていたかもしれない。あるいはもっと前だったかもしれない。神のみぞ知る。

ともかくも、いったん衰えた認知機能は回復しないようだ。身体の諸機能が回復したのと対照的だ。いまでは骨折前と変わらないぐらいに身体は動く。年齢の割には敏捷で、バランスもいい。散歩には杖をつくけれど、それは「転ばぬ先の杖」的な意味で持っているだけに見える。退院直後にはあちこち掴まりながらしか動けなかったのが嘘のようだ。身体は回復するし、なんなら鍛えることだってできそうだ。だが、頭の方はそうはいかない。短期記憶のもたなさは、退院以後、改善しない。客観的に測定できるわけではないので断言はできないが、おそらく非常にゆっくりと、さらに低下を続けている。

そういう母親をまる4日間、単身で置いておくのはどうなのよと、自分でも思わなくもない。去年の秋からのサイクルでは、だいたい中4日で2泊、ときには1泊か日帰りで回している。2泊するとちょうど1週間だから都合がいいのだけれど、ときどき仕事の都合やお天気の都合で、サイクルをずらしながら調整している。4日を超えてひとり置くのは心配だ。だったらもっとサイクルを短くするか、実家の滞在時間を長くすればいいじゃないかという気もする。おそらくこの先、そういうことになるのだろう。だが、いまのところはこれでどうにかなっている。だったら、過剰サービスすることもない。

ストレスと、笑いと

薄情かもしれないが、あまり長くいっしょにいると、お互いの精神衛生によくない。頭ではわかっているのだけれど、やっぱりボケ老人といっしょにいると、イライラするのが避けられない。10分ぐらいの間に同じことを4回も尋ねられると、さすがに「さっき言うたやないの」と、埒もないことを言ってしまう。当人もよくわかっていて重要なことはメモに書くのだけれど、まず重要でないことでも何度も同じことをいう。「ミカン食べるか」「要らん」「ミカンどう」「べつにええよ」「そこにミカンあるで」「いまは要らん」「ミカンお食べ」あたりで、「さっきから要らんて言うとるやろ!」と、つい声が大きくなってしまう。これは私にとってストレスだ。私にとってだけではない。「私、なんで怒られたかは覚えてないんやけど、怒られたことだけは覚えてるねん」と、母親が言っていたことがある。短期の記憶がもたなくなっても、すべてが均等に忘れられるわけではない。どうやら、日常の通常運転に関する記憶は失われやすく、心配事に関する記憶は根強い。だから、「息子に怒鳴られる」(私は別に怒ってるとか喧嘩してるとかいうつもりはなくて、ただ声が大きくなるだけなのだけれど)という経験は自分のこの先に直接影響するから心配事として記憶にこびりつく。あるいは、「今日は○○ちゃんが来るんやけど、遅い」という言葉もよく聞くようになった。訪問者はだいたいは親戚なのだけれど、母親は(ここを話すと長くなるので端折るが)一世代下の親戚の女性に人望があって、いまでもたまにそういう人が訪問してくれる。それはいいのだけれど、カレンダーを見ると、数日先に、訪問の予定が母親の字できっちりと書き込んである。「今日とちゃうみたいやで」とそれを見せると不思議そうな顔で「私の字やねえ」と納得するのだが、しばらくすると「それにしても○○ちゃん、遅いねえ」となる。高齢者にとっては、日常と異なることは楽しみの面よりも不安の面が大きい。だから、訪問があるという事実は不安の対象として忘れないが、その日時のような具体的な事項はすぐに忘れる。結果、「遅いねえ」となる。

話が少しそれたが、ともかくも、母親と私、いっしょにいると、それぞれがそれぞれのストレスを受ける。重要なことはメモに書くとしても、まず、そのメモをどこかに忘れる。見つかると、今度は何のメモだったか忘れている。傍で見ているとイライラする。その私のイライラが、母親に伝染する。ストレスだ。だから、連続してあまり長期にいっしょにいないほうがいい。私の感覚だと、3日が限度だ。だから、2泊が基準になる。4日以上置くのは心配だからいまのサイクルになるが、もう少し弱ってきたら、まずはそっちを短くすることからかなあと思う。連泊を増やすのは、最後の手段だろう。

 

そうやって、誤魔化すように、なんとか自立してもらっているのだけれど、そうまでして自立を続けさせる意味があるのだろうか。これは兄とも話すのだけれど、意味があるとかないとかいう以前に、それ以外の選択がない。このあたり、私の両親がかなり特殊な人生を選んでいるせいだ。これも書くと長いので端折るのだけれど、現状にとって重要なことは、建物のことだ。まだ世の中がやたらと明るかった30年ほど前のこと、両親は渾身の力でいまの家を建てた。それも、母親にとっては「夢の家」ともいえる超カスタマイズされた建物だ。実際、その原案となる設計図は母親自身がひいた。それを設計士がまともな図面に起こしたのを、再三にわたってダメ出しをし、さらに建築中も現場に入り浸ってあれやこれやと大工に注文をつけた挙げ句に出来上がった家だ。つい先日も、「この家のことで、もっとこうしたらよかった、みたいなことはひとつもない」と、満足気に言っていた。母親の生活スタイルにぴったりと密着し、そのやりたいことがすべてそのまま実現できる環境になっている。母親の身体の延長のような家なのだ*2。あの家は母親と切り離して考えられないし、母親はあの家と切り離して考えられない。存在があの家と不可分に結びついている以上、たとえば施設に入れるとか、およそありえない話になってしまっている。

まあ、医療の世話になるのは別な話だから、いよいよ弱って入院とかいうことになれば、それはそれであり得るだろう。ただ、自立が難しくなって介護が必要になってきたら、自宅でその介護体制をとること以外、考えられない。幸か不幸か、それを支えるぐらいの金は父親が残している。訪問介護訪問看護、ヘルパーさんなんかを総動員して、あの家を母親専用の介護施設化することになるんだろう。ただその場合、やっぱり母親の精神的な支えとして、私がある程度、近くにいる必要はあると思う。さんざん親不孝を続けてきた末息子としては、そのぐらいのことはせねばならんだろうとは思っている。

そこに悲壮感はない。なぜなら、これがなかなかにおもしろいからだ。たしかに認知症の母親と暮らすのはストレスになる。それは先に書いたとおりだ。けれど、そのストレスは、ボケが私の方に向かってくるときだけだ。食べたくもないミカンを10分の間に5回も勧められるとか、わざわざ何が食べたいかを聞いてきておいて別のものを出してくるとか、ふつうに腹が立つ。けれど、自分の方角に向いてこない認知症は、ただ滑稽なだけだ。iPhoneをどっかにやったと大騒ぎをしてポケットから出てくるとか、無料で漫才を見ているようなもんだ。

そしてなによりも、母親はそれを笑い飛ばす個性をもっている。長年(おそらくは)注意欠陥障害を生きてきたツワモノだけある。眼の前にあるかぼちゃを「なんでこんなとこにあるんやろ」と不思議そうな顔をしている。「さっきイオンで買うたやん」と指摘すると、「不思議なことがあるもんやねえ。全然覚えてへんわ」と言う。そして、「年をとるっておもしろいねえ。こうやって不思議なことが毎日起こる。飽きへんわあ」と笑う。私もいっしょになって笑う。「安上がりでいくらでも楽しめて、こんなええことあらへんな」と。自分に向かってこないボケは、けっして嫌なものではない。ただし、当人がそこに嫌な感情をもたない限りにおいては、ということだ。ネガティブな感情は、いくらボケていても、心のどこかにまとわりつく。そしてそれは日々をつらいものにしていく。それさえなければ、忘れるのはとくにわるいことでもない。

いまを生きることの大切さ

ただ、忘れることがだんだんと不便になりつつあるのは事実だ。母親はよく「年をとると忙しいね。年をとったら暇で時間を持て余すんやろなと思ってたけど、こんな忙しいとは思いもよらなかった」みたいなことを言う。なぜ忙しいかといえば、忘れるからだ。母親が退院直後は私が飯をつくっていたのだけれど、身体の回復とともに母親がつくるようになった。ところがこれが時間がかかる。なぜかといえば、「じゃあ、晩御飯は魚でも焼きましょう。付け合せに大根なますでもつくるわ」となったとする。そして、魚の切り身と大根を台所に出してくる。1時間後に行ってみると、どちらもきれいに片付けられていて、「晩御飯、何する?」と聞いてくる母親がいる。「さっき、魚と大根って言ってたやん」というと、「そうやったね」となる。なぜいったん出した切り身と大根が消えているのかといえば、それを晩飯の用意にするために出したことを忘れて、「あ、こんなとこに出しといたらあかんわ」と、冷蔵庫にしまってしまうのだ。そのうえで、改めて、「そういえば晩御飯、なににするんやったっけ」と考え始める。もしもこの段階で私が来なければ(私は別の階でオンライン授業をしていたり、その他、雑用をしていることが多い。母親はだいたい昼間は台所にいる)、たとえば冷蔵庫から鶏肉を取り出して、玉ねぎを刻み始めたりしているだろう。その作業が連続していればいい。けれど、もしも間で少しでも他の用事が入るとする(たとえば洗濯物を入れるとか、ふつうに家事の間にはいろんな用事が挟まる)。すると、刻んだ玉ねぎをポリ袋にしまい、鶏肉を冷蔵庫にしまって、ほっと一息つく。そしてまた、「晩御飯、何つくろう」と考え始める。そりゃ、忙しいわ。

忘れるならメモをしたらいい。それは、私が言わなくても(言うけど)、母親自身が自覚している。だから、台所にはいっぱいメモが置いてある。そのメモを、母親は、「これ、なんやったっけ」と言いながら見る。たとえば晩御飯のメニューをメモしておく。けれど、それが今夜の晩御飯のつもりなのか、昨日の晩御飯のメモだったのか、あるいはテレビの料理番組で見たレシピのメモなのか、もう判別がつかなくなっている。よって、それをじっくり研究し、挙げ句の果てに解読を諦めて、流しの前に戻る。そしてまた、献立を思い出せずに、メモを探しに行く。それを繰り返す。ああ、忙しい。

いまのところ、まだ「忙しい」で済んでいる。そしてそれが「年をとってみないとわからないもんやねえ」と、新鮮な驚きにつながっている。喜びにさえなる。けれど、それがだんだんと「不便」に変わっていく。やがて、うまくいかないになり、生活に困難を覚えるようになるだろう。

けれど、そんな先のことは、考えてもしかたのないことだ。重要なのは、「いま」を母親が楽しんでいることなのだ。そのことで思い出すのは、以前訳した本のなかで、子どもの幸せについて書かれていた文章だ。子どもの幸福は、それが将来の人生に大きな影響を与えることから特に重要だとされている。子ども時代が不幸であれば、その後の人生にも大きなハンディキャップが加わることになる。だからこそ、子どもの幸福は重要だとされる。しかし、と、その文は力説していた。子ども時代は、それ自身が幸福な時間として重要なのではないだろうか、と。将来への影響とかを一切無視しても、子どもが幸せであることは、子ども本人にとって重要なのではないか。なぜなら、子どもは未来の大人であるだけでなく、子どもとして「いま」を生きている人なのだから。だとしたら、「いま」を生きるひとりの人間として、幸福であるべきではないのかと。

そして、その考え方は、年をとって認知が怪しくなってきた老人にも同じように適用できるだろう。老人に未来はないかもしれない。けれど、「どうせあとは墓に入るだけだから」と、「いま」が不幸であっていいものだろうか。「いま」が幸福であることが、どれほど人間にとって重要なことか。それは計り知れないのではないか。

だから、いま、この瞬間を楽しめるのであれば、認知症だって、それはそれでOKじゃないか。先のことを考えたってしかたがない。そりゃ、人間、いつかは死ぬんだ。けれど、おあいにくさま、いま、生きている。生きているあいだ、生きている人間として、最大限に楽しむことに、まだ来ない未来なんて、何の関係があるだろうか。

そして、認知の衰えてきた母親には、それなりに楽しみがある。認知が衰えてくると、新しい刺激に対する耐性が低くなる。だから、昔のようにあちこち旅行に行くのも億劫になるし、大勢のお客さんを迎えるのもしんどくなる。そのかわり、単調な毎日の中でも、昔のことを思い出すことができる。思い出を反芻し、そこに意味を付け加えていくことは、母親の毎日の大きな楽しみだ。そしてここに、彼女の得意技が色を添える。記憶の改竄は、その被害を受ける側に立つと本当に鬱陶しい。けれど、それが自分自身の思い出だけの世界なら、いくらでも都合よく改竄してくれてけっこうだ。このようにして、母親の昔の思い出は、どんどん美しくなっていく。「忙しい」毎日のなかで、ふとその美しい思い出に浸ることができれば、こんなに幸せなことはなかろう。たとえそのために、晩飯の献立が焼き魚から豚肉炒めに変わろうとも。

*1:外科医の方で血液のモニタをサボっていたのが悪い方に転んだ。訴訟もんだぞ、ここがアメリカなら

*2:だから彼女が死んだらどうしたらいいのか、誰にもわからない。あまりに特殊すぎて、引き取り手がないだろう。私だってあそこに住むのはイヤだ