「ディスレクシア」(マーガレット・J・スノウリング)を読んだ

本をもらったので、昨日、一気に読んだ。もっとも、200ページほどの本だから、それほどたいへんな話ではない。

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「もらったから読んだ」というのは身も蓋もない事実で、けっして興味があったわけではない。とはいえ、私の仕事にまったく無関係かというとそうでもない。というのは、(言語圏によって発生率は異なるようだが)ディスレクシアはそこらの公立小中学校でも各学年に1人か2人いるのがふつうなぐらいにありふれた障害であるからだ。そういった障害が学校でうまくサポートされず、家庭教師にヘルプを求めてくるケースは十分に想定される。家庭教師商売をやっている以上、無関係とはいえない。

無関係ではないが実際には、10年を超える家庭教師としてのキャリアで毎年十数人からときにはそれ以上の生徒を教えてきているにもかかわらず、私はいまだにディスレクシアの範疇に入りそうな生徒にあたったことがない。同僚の講師の中にはディスレクシアの疑いがある生徒を担当した人はいるのだけれど、最終的にそれは他の学習障害だろうという結論に達したと先日聞いた。なので、どういうわけだか、私の周囲には実例はない。それでもまあ、いつそういう話がくるかわからないので、知っておくにこしたことはない。

ただ、それでは興味が続かない。途中で投げ出してしまうだろう。読み通せたのは、ディスレクシアについて語ることで、この本が「言葉ってどういうものなんだろう」という問いに思わぬ方向から答えてくれるからだ。私たちは、「言葉は自然に覚えるもの」として扱う。小学校の国語の授業の成り立ちを見ていると、そういうふうに思える。一方で、小中学校での英語教育の内容を見ていると、「言葉は理屈で理解するもの」として扱われているように思える。だが、実際はどちらでもない。「自然に」のなかには、けっこう複雑なメカニズムがある。そのメカニズムは、「理屈での理解」ともやや異なっている。何らかの法則性を把握することによって言葉という暗号の解読が実行可能になっていくのだけれど、それは論理というよりはもっと肌身に沿ったもののような気がする。多数派の人々とは同じように言葉の理解が進まないディスレクシアな人々の分析を通じて、このあたりの「ちょっとちがうんだけどなあ」という感覚が腑に落ちる場所に整理されていくような気がした。

その一方、ディスレクシアは遺伝的な要因が発現する形質であると断定されているのには驚いた。驚くと同時に、それが納得できる形で展開されているのに感心した。遺伝子が支配するタンパク質は、実は単独で目に見える結果を生むものではない。それは他の遺伝子からもたらされる他のタンパク質との共同の中で何らかの作用を引き起こす。そしてそういう遺伝子の発現は、環境要因によってトリガーが引かれる。それらの働きが連鎖的、累積的に行われて、ようやく障害のごく一部の要因が動き始める。だから、たとえ遺伝的な要因を根本に持つものだとしても、結局はそれが絡み合ってディスレクシアという障害となって現れるまでには個体を取り巻く環境、さらにはその成長の歴史、ときには偶然や運・不運のような要因までが関係してくる。同じ遺伝的素質を持っていても、それがディスレクシアという障害として発現しない場合だってある。程度も異なれば、困難の意味や位置づけも異なる。遺伝子なんてことを持ち出すとまるでそれですべてが決定されるような印象を受けるが、実際に起こることは多様であり、スペクトラムとして展開する。そういった多様性は生物が獲得してきた強みであって、忌避すべきものではない。なすべきことは、その多様な特性が障害として個人の「生きること」を阻んでいかないように手を打つことである。そういった立場を強く感じた。

書いてある内容を読んで素人なりに私はこんなふうに感じたわけだが、一方、書かれていないことに関しても、いろいろと思うことはあった。たとえば、言語に関するあるタスクを実行すると脳のある領域が活性化する、みたいなことが実験から実証されているのだそうだが、「はたして人間は身体(脳)をそこまで同じように使うのだろうか?」という疑問が生まれた。たとえば、同じタスクを同じ道具を与えてやらせてみても、(正しいやり方みたいなのを指導しない限りは)人間は百人百様の身体の使い方をする。彫刻刀なんか持たせたら、確かに手を使うというところまでは同じなのだけれど力の加え方とか刃の当て方とか、同じではない。もちろんそこは指導によってある程度の型にはめていくことはできるのだけれど、それは身体の動きが外側から見えているから可能になる。動きが見えない脳の働きなんて、しょせんはすべてが我流ではないのだろうか。ある人が左頭頂側頭部を使って単語分析を行っているとしても、他の人が別の領野を使っている可能性は否定できないのではないだろうか。だが、実験結果はそうではないようだ。ということは、脳の領域は運動器官でいえば手や足のような特定の運動を分担する器官に相当するのだろうか。けれど、たとえば足の不自由な人が腕力でもってある程度の運動能力を確保するように、代償的な脳の使い方というのもまた可能なのではなかろうか。そんなふうに、空想はどんどん広がっていった。

 

結局のところ、私はこの本をディスレクシアを理解するために読んだのではないのだろう。むしろ、そういったスペクトラムの範疇に入らない人々、つまり自分が日々に接する生徒たちのことを思い浮かべながら読んだ。特に、外国語として英語を学びはじめる中学生の学習の進め方をディスレクシア支援の方法と突き合わせながら読んでいた。というのも、この本はイギリスの事情を前提に書かれてあり、(ときどき対照として中国語などの別体系の言語に関して触れられることがあっても)基本的に英語に特有な困難がそこに関わってくるからだ。おもしろいのは、フォニックスがイギリスで英語教育に全面的に取り入れられたのはそれほど古い話ではないということが書いてあったことだ。これは日本でフォニックスが注目されるようになった流れなんかを思えば、なかなかに興味深いことである。

監訳者はこの本の読者を「研究者や学生も含まれる」と想定しているようだ。確かにそういった人々が読んで有益なものではあるだろう。けれど、もともとの建付けはあくまで入門書のシリーズの1冊だ。だから、途中、唐突に「魚油とサプリメント」みたいな項目が出てくる。概ね、「いや、影響が皆無とはいいませんけど、直接に改善に役に立つかと言われたらそんなエビデンスはありませんし、まあ、おすすめはしませんねえ」程度の言及なのだが、研究者相手ならあえてそんなことは書かないだろう。だからこれは、ディスレクシアに悩む当事者の家族や支援者に向けて「ディスレクシアってこういうものですよ」と伝えるための本であるにちがいない。そして、それを具体化するための工夫もされている。一貫して3人の当事者の事例を参照し続けていることなどはその最たるものだろう。だが、残念なのは、翻訳においてそれが十分に活かされ得ないことだ。やはり日本の当事者家族や支援者には、日本の事例、日本語に特有の研究こそが役に立つ。そういう意味で、翻訳であることそのものに限界がある。私が言うべきことではないのだとは思うが、この翻訳を出発点として、日本語版の類書が編まれることを期待したい。