教師が「叱る」ことは原理的に可能なのだろうか?

家庭教師をやっていて、生徒を叱ったことがない。これはなにも私の性格がどうとかいうことじゃなく、原理的に家庭教師は生徒を叱る立場にないからだ。もっとも、生徒の方で勝手に「叱られた」と受け取る場合があるので、これはなんとかしなければいけないといつも反省する。たとえば、中学生の数学で、カッコを外すときにいつも正負の符号をまちがえる生徒がいるとする。そういうまちがいを「うっかりミス」みたいな雑な括りで処理していては絶対にそのようなミスはなくならない。失敗には必ず原因があり、原因を潰さないことには同じ失敗は必ず再発する。そして原因分析には、失敗をした当事者の感覚の分析は欠かせない。だから、「なぜここでまちがえたと思いますか?」と、生徒に理由を聞く。この聞き方をちょっとでもまちがえると、生徒は「叱られてる」と思って「スミマセン」としか答えなくなる。そういう返答がかえってきたら聞き方が悪いので、大いに反省するしかない。

家庭教師が生徒を叱れないのは、「叱る」という動詞には、必ず権力構造が内包されているからだ。たとえば、

しか・る【𠮟る/×呵る】
[動ラ五(四)]目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。「その本分を忘れた学生を―・る」

出典:デジタル大辞泉小学館

となっている。目下・目上というのはすなわち権力構造の中での下位者・上位者ということである。すなわち、「叱る」ためには権力構造がなければならないし、「叱る」のは権力上位者の特権であるともいえるだろう。

通念上は、教師は生徒に対して「目上」である。つまり、権力を行使する上位者である。それを盾に、「生徒が怠けたらビシビシ叱らんとあきませんよ」みたいに言うベテラン家庭教師に出会ったこともある。「先生の方から叱ってください」みたいに言ってくる生徒の親もいる。けれど、冷静に考えたら、少なくとも家庭教師にそんな権力はない。

なぜなら、家庭教師なんて、「生徒の成績を上げる」業務を対価をとって委託されている存在に過ぎないからだ。サービスを売っているといってもいい。このような契約は、契約者同士が対等の関係であってはじめて成立する。八百屋が大根を売るのと本質的に変わらない商行為だ。八百屋が大根を売るときに、八百屋と買い物客の間に権力関係は存在しない。大根が高いと思えば客は買わなければいいだけの話だし、客が法外な要求をすると思ったら八百屋は売らなければいいだけのことだ。八百屋が売らないのは権力的なのではない。あるいは、契約関係において最大の権利行使は、契約の破棄である。その限度内で、八百屋は権利を行使できるともいえるだろう。そう思えば、家庭教師が生徒に対して行使できる最大の権利は「そんなことをするのなら自分は教えない」と契約を破棄することでしかないだろう。そしてそれに関しては、「こんな教師なら金を払ってまで来てほしくない」と契約を破棄する権利を生徒の側も持っている。つまり、権利としては対等であって、どちらが上位・下位という権力構造のなかにはない。

実際のところ、権力は、家庭教師という業務の遂行にとって特に必要がないものだ。権力でもって従順に生徒を自分の意図通りに操作できたとして、それでもって生徒の成績が上がるかと言われれば、否と返すよりない。生徒の成績は生徒が成長することによってしか上がらないし、生徒の成長は、生徒の行動をコントロールすることで促進できるものではない。野菜を育てるのと同じで、ひたすら水を撒き、雑草を取り除いて待つぐらいのことしかできない。「芽を出せ」と命令して発芽する種子はなく、「成長しろ」と命令して伸びる枝はない。「大きく太れ」と命令しても果実は肥大しない。けれど、だからといって農家にやるべき仕事がないわけではない。同様に、生徒の行動にいちいち指図しなくとも、家庭教師にはやらねばならない作業がいくらでもある。それをやっていれば「生徒の成績を上げてほしい」という業務上の付託はたいていの場合はどうにかなる。だから、契約関係の上では本来発生しようのない権力を、幻の上に求める必要などない。

そして、権力のない家庭教師には、生徒を叱る能力はない。目上の者でもないのに、目上にだけ許された「叱る」行為はできない。だから私は生徒を叱らない。「目上・目下」という関係性がなくとも知識や技能は伝達できる。「三歩下がって師の影を踏まず」なんてのは、およそ世迷い言であると言い切ってかまわないと思う。

 

学校教師はそうではない、と思ってきた。なぜなら学校教育法に、

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

とあるからだ。「懲戒」は、通常、一定の権力構造のもとに行われる。

ちょう‐かい【懲戒】 
[名](スル)
1 不正または不当な行為に対して制裁を加えるなどして、こらしめること。

2 特別の監督関係または身分関係における紀律の維持のために、一定の義務違反に対して制裁を科すること。特に、公務員の懲戒処分。

出典:デジタル大辞泉小学館

したがって、学校教員には「教育上の必要」を前提として、一定範囲内での権力が法律によって付与されているものだと考えることができる。だから、教員が生徒を叱るときには、叱るという行為そのものに対してではなく、「それが教育上必要あるのかよ」ということに対して批判されねばならないと思っていた。たとえば以前に書いた

mazmot.hatenablog.com

なぜ「忘れ物を叱る」のが無意味なのかという記事でも、わざわざ「教師が叱ることが場合によっては認められるとした上で、なお、少なくとも忘れ物に関しては効果はほとんどない」と書いている。これは、上記の法律上の規定を念頭に置いたものだ。効果がないのに叱ることは、常にアウトカムについて説明を求められる家庭教師的な常識からいえば、「教育上必要」ととてもいえないと感じていたわけだ。

 

ただ、それ以降、どうもこの「叱る」という概念について、引っ掛かりを覚えていた。というのは上記記事に続けて書いた記事でも触れたのだが、ブックマークのコメントで、「あ、この人は"叱る"という言葉と"叱責"という言葉を別概念を表すものとして使ってんだな」と思われるものがあったからだ。そのときに連想したのは、馬の走り方だ。私のようなシロウトは、馬が走ってるのを見ても「あ、走ってるな」としか思わないのだけれど、見る人が見ればそれはギャロップであったりトロットであったりペースであったりと、まったく別な概念で表現されるものであるのだそうだ。ということは、一部の人にとっては「叱る」と「叱責」は完全に区別されるものであり、それにはそれなりの事情があるのだろう、と考えたからだ。知らないことを放っておくのはどうも気持ちが悪い。そこで、「叱る」ことに関して、教育学でどのように扱われているのか、ちょっと調べてみようと思った。

メタ分析とかやるようなことでもないしやる能力もないし、30件ほど文献を集めてざっと読んだ印象だけではあるのだが、「叱る」行為に関する評価は実に幅広い。大別するならば、「叱ることが教育上効果がある/必要だ」とする立場と、「叱ることは有害だ」とする立場に分かれるだろう。その両極の間で、さまざまな温度差もある。意外だったのは、前者の立場の方が多いことだった。後者の立場は、おもに障害者教育などに関して見られることが多かった。なので、後者の立場でもたとえば発達障害に関しては叱ることは害が大きいと考えていても、その他の場合には許容している可能性を除くことができない。一般的にすべての場合に関して叱ることをネガティブに捉えている論は、ほとんど見かけなかった。実際のところ、これには驚いた。

そして、気になっていた「叱る」と「叱責」の使い分けだが、これをほぼ同義の交換可能な概念として使っていた例の大半は、「叱ることは有害だ」の論調のものであった。私の感覚としては動詞としての「叱る」の名詞形が「叱責」になるのだが、たしかにそういう使い方をしている事例は何件もあった。ただ、その大半が否定派の方であり、肯定派の方は1件か2件しかなかったようである。とはいえ、じゃあ「叱る」と「叱責」を明確に別概念として定義していた文献があったかといえば、そうではなかった。肯定派の多くの文献では、「叱責」という単語を使わず「叱る」の名詞形は「叱り」と記述されていることが多かった。

興味深いのは、肯定派の「叱る」概念が、多くの場合、「褒める」との対立として捉えられていたことである。否定派には、そういった概念の立て方は見られなかった。これは、肯定派においては「叱る」のは生徒に対する教育的介入の手段であると考えられているからのようである。したがって、論旨も「効果的な叱り方」みたいなものになり、効果を高めるために「叱り」と「褒め」を併用することが勧められる、みたいな論が多かったわけだ。

そういった論の中身を見てみると、感情的であったり、禁止的であるような「叱り」は効果が低く、論理的であったり例示的であるようなものが効果的であると書いてあったりする。このあたりで、「なるほど」という気持ちと「そうなのか?」という気持ちが同時に起こった。というのも、確かに感情的な言葉は伝わりにくい。その一方で論理的な説得は効果的である。しかし、上記の「叱る」という言葉の定義には、「強くとがめる」とある。「強く」というのは感情的なことではないのだろうか。論理的に説得する場合、そこに「強く」というのはどう馴染むのだろうか。どうも実感が湧きにくい。たとえば、英語で「叱る」の概念に相当すると言われるscoldという単語は、

Definition of scold
transitive verb

: to censure usually severely or angrily : REBUKE
intransitive verb

1 : to find fault noisily or angrily
2 obsolete : to quarrel noisily

Scold | Definition of Scold by Merriam-Webster

とあって、やはり強い感情や怒りの感情を伴うのが通常のようである。もちろん英単語と日本語の単語は一対一で明確に対応するものではないのだけれど、「叱る」に関してはこの英語の定義のほうが、なんとなく日本語の「叱る」をよく説明しているような気がする。声を荒げたり怒気を含むことが、「叱る」には含まれるように思えてしかたない。もしもそうではない、そういった感情を含めるのは効果的ではない、というのであれば、それは単に「指摘」や「説明」であって「叱る」のではないんじゃないか、みたいな気分になってくる。

まあ、このあたりは感覚のちがいであり、「叱る」を別な概念として使うのであればそれはそれでかまわない。だとしても、やはりそこには権力関係が存在することが前提であり、そしてその権力関係は学校教育法11条に由来すると考えるのが正当なのだろうと思う。

 

さて、そんなふうに、まるで異世界でも見るような気持ちで「叱る」関連の文献を眺めていたのだけれど、最後の方で目に止まったものがあった。

ci.nii.ac.jp

学校教育法が禁止する「体罰」とは何か 前田聡

この論文は特に「叱る」ことをテーマにしたものではなく、体罰との関係で教師が生徒を叱る場面が出てくるために検索にヒットしたものなのだけれど、学校教育法11条と懲戒権のことなど、改めていろいろ勉強になる内容でもあった。著者は法学の人らしい。私が「おや?」と思ったのはここだ。筆者は1963年初版の『教育法』(兼子仁)に触れて、

ここでは,何が体罰か,という点については行政解釈を踏襲しつつも,人権尊重の観念と「非権力的教育観」という 2 つの理念によって体罰禁止の趣旨が説明されていることが注目される。

と述べている。「え? 非権力的教育観って?」と、思って脚注に目を移すと、

兼子は,旧教育基本法 2 条,同 7 条をふまえて「今日の教育は,被教育者の自発性を尊重しながら社会生活自体のもつ教育機能を活用して行われる社会的作用とされている」という「社会的教育観」としたうえで,かかる教育観を現行法がとっているのならば,「教育主体の優越性は著しく減退し,もはや教育は法的には権力作用ではなく,非権力的な社会作用となったものと解される」と述べる。

とある。よくわからないのでさらに調べてみると、どうやら法学の方では行政が行う活動を「権力的」と「非権力的」に分類しているらしい。権力的活動とは強制力を伴うもので、たとえば法律や条例などの法の制定、裁判所の執行命令などが該当するらしい。一方の非権力的活動は、強制力を伴わない行政サービスのようなものが当てはまるらしい。

私は公教育というものを学校教育法にもとづく強制力(具体的には11条の懲戒権)をもったものと考えていたのだが、どうやらこの1960年代の法律書、そして現在の法学の方の常識では、教育は典型的に「非権力的行政活動」に属するらしい。たとえば「教育行政機関と学校の関係」(伊津野朋弘)には戦後教育に関して、

教育行政は、権力的手段をもって目的達成を意図する行政作用を多く含む一般行政から独立し て、独自の非権力的行政を実現すべく構想され、それは教育委員会制度の創設となった。そして そこ での教育行政は、「保育行政・助長行政」であり、「その手段においては、権力の行使というものではなく、むしろ精神的または物質的な奉仕」でなければならないとされた。かくて教育は行政上の不当な支配を否定し、自律性を実現すべきものとされるにいたった。そこに戦後教育行政の一つの基本をとらえなければならず、したがって戦前の学校管理概念とは自ら異る実質をもった機能が、行政機関と学校との間にはつくりださなければならないのである。

とある。つまり、教育は本質的に非権力的であるというのである。

非権力的であっても、公的機関は権力性を帯びる。これはちょっと前にも書いたことだ。たとえばおよそ非権力的に行われるはずの行政サービスである水道事業においてさえ、恣意的な意思決定は住民の健康を脅かすだろう(だから意思決定と執行は別組織が行うべきだというのが先の記事の主張だった)。ただ、非権力的な相互作用において、基本になるのは契約関係であり、契約関係において一方が他方に対して行うことができる究極の権利は契約の破棄である。そこに力関係の優劣があれば弱いほうが被害を一方的に被るにせよ、非権力的な行政サービスでは、最も強い強制力は当該サービスの停止であり、それを上回るものではありえないはずだ。

このようにして改めて学校教育法11条を見てみると、教員が生徒に対して加えることができる「懲戒」の最も強力なものは、「教育を行わない」ことであるにちがいない。そして、実際に、学校教育法35条には出席停止処分の規定がある。出席停止は相当に厳重な処分であることがこの条文に定められた手続きからもわかるし、その上でなお、「出席停止の期間における学習に対する支援その他の教育上必要な措置を講ずる」と教育サービスを完全に停止してはならないことまで定めている。こうしてみると、11条の「懲戒」は、実際には文字づらから受ける印象とは裏腹に、決して強力なものではありえないのではないかと思われる。

 

ところが現実には、この懲戒権を根拠に、学校ではさまざまな生徒への権力行使が行われる。懲戒権が定める「懲戒」が具体的に禁止されている「体罰」以外の処罰を任意に含むものであれば、その権利でもって生徒のあらゆる学校生活を教員は縛ることができる。なぜなら、「教育上必要がある」と認めれば、それだけで教員は懲戒を加えることができるからだ。しかし、もしも教育行政が法学が教えるように非権力作用であるのなら、学校教育法が定める「懲戒」の意味が変わってくる。それは究極には(厳正な手続きを踏んだ上での)出席停止処分であり、そこに至る前の警告である。それ以外の権力構造を背景にした教師の恫喝、脅迫、強制などは、すべてあってはならないことになるのではないか。

そして、権力構造がないとき、すなわち、「目上・目下」の関係が存在しないとき、語義的に「叱る」ことは不可能になる。教育は、権力による行為のコントロールとしては存在できなくなる。そうではなく、学ぶ者が成長していく過程をサポートすることが教育であるという、本来のあり方としてしか存在できなくなる。そして気づく。なあんだ、学校教師だって家庭教師と同じじゃないか。教師だからといって自動的に立場が上だなんてことはあり得ない。物事の道理を伝え、わかってもらうのに、そんな社会関係は必要ない。人間と人間は本質的には対等であり、対等であると腹を括ったところからしか見えないものがある。相手が見えなくて、どうやって教えることができるよと思う。

 

結局のところ、「正しい叱り方」とか「効果的に叱る方法」とか、そんなものをいくら読んでも私の心に響かないのは、それらがすべて、「教師が上で、子どもは下」という関係性を前提にしているからなのだ。そういう関係性がおかしいと思えるのは私が一介の雇われ家庭教師に過ぎないからなのだけれど、よくよく考えてみたら、学校教師だって大差はない。そりゃ、学校教育法11条に懲戒権はあるのかもしれないけど、現実を見ようよ。教師だって一人の人間として長所もあれば欠点もある。教師に任ぜられた途端にそういった欠点が消えるわけじゃない。ダメダメなところがあったって、役割を果たせればそれでプロだ。役割を果たすときに、ありもしない優越性は必要ない。そういう割り切りができない限り、学校は正常化しないと思うよ。

 

(追記)                          

学校教育法11条の「懲戒」について「じゃあ、どういうものが懲戒に当たるの?」という具体的な規定を知らなかったのだけれど、文部科学省体罰禁止に付属する文書で例示していた。それによると、

(2)認められる懲戒(通常、懲戒権の範囲内と判断されると考えられる行為)(ただし肉体的苦痛を伴わないものに限る。)
 ※ 学校教育法施行規則に定める退学・停学・訓告以外で認められると考えられるものの例 
 ・ 放課後等に教室に残留させる。
 ・ 授業中、教室内に起立させる。
 ・ 学習課題や清掃活動を課す。
 ・ 学校当番を多く割り当てる。
 ・ 立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。
 ・ 練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる。

となっていて、概ね、一定の自由を制限する処罰を「退学・停学・訓告以外」にも可能としている。このなかに「叱って」という文言が入っているから、文部科学省としては「叱る」ことが可能としているのだということがわかる。

ただ、近年の精神的な暴力は肉体的な暴力に劣らず深刻な被害を及ぼすという考え方に立てば、「肉体的苦痛」の代わりに「精神的苦痛」でもって処罰を加えるのはどうなのよ、ということにもなる。まあこれは、別の話になるんだろうな。