なぜ「忘れ物を叱る」のが無意味なのか

忘れ物をしても叱らない教育をしている学校があるとかいうTogetter記事を見て、「そりゃそうだ」と思ったのだが、そこについてるブコメ群のかなりの部分を占める意見が否定的なのに驚いた。いや、ほんとに驚いた。

b.hatena.ne.jp

もちろん、「叱ってもいいことない」という論調に賛同するコメントもないことはないのだけれど、「いや、それは当人のためにならないだろう」という意見が多い。ああ、地獄への道は善意で舗装されてる、と思った。

もともと教育現場で「叱る」という行為が横行していることに関しては別途思うところがあるのだが、そこまで話を広げると収拾がつかなくなるので、そこはおくとしよう。教師が叱ることが場合によっては認められるとした上で、なお、少なくとも忘れ物に関しては効果はほとんどない。それは私自身がほとんど常にクラスいちばんの忘れ物王者であり、そしてそれはいくら叱られたってなおらなかった過去をもっているからだ。忘れ物は叱ったからってなおらない。たかが一例でそう断言するのはおかしいのかもしれないが、実際、最近の研究でも注意欠陥/多動性障害に関しては叱責のような感情的なアプローチに効果がないことは明らかになっているはずだ(適切な文献がすぐに見つけられないのだけれど、例えばこのあたりにも叱責は否定的に書かれているように見える)。「いや、忘れ物が全部注意欠陥/多動性障害というわけじゃないだろう」というかもしれないが、だったらなおさらのことだ。ちなみに、私は注意欠陥/多動性障害の診断を受けたことはないし、たぶん診断基準に当てはまったことはないと思うのだけれど、スペクトラムな人間として、そういう傾向を生得的にもっていたことはあり得ると思っている。

 

「叱責すべきだ」と考えているひとは、たったひとつの事実を誤解しているのだ。それは、忘れ物をした当人が忘れ物をどう受け止めているのかだ。彼らは、「忘れ物をするやつは、そもそも『忘れ物をしてはいけない』という認識がないのだろう。だから忘れるし、忘れたことをわるいとも思っていないにちがいない。その認識は改めさせなければいけない」と考えているように見える。それはちがう。断じてちがう。

忘れ物常習犯だった者として言わせてもらおう。だれも忘れ物をしたいなんて思っていない。事実はまったくの逆で、忘れ物に対してはひどく緊張する。私の時代には叱責されるのが当然だった。毎日のように黒板に名前を書き出され、恥をかかされた。そんな状態を望ましいと思ってるひとなんていない。それ以前に、たとえ叱責されることがなかったとしても、忘れ物をすると困る。これは特に叱責されることがない個人的な場合にははっきりと感じることができる。たとえば財布を忘れて出かけたら、駅からすごすごとUターンしてこなければならない。せっかく買ったばかりのものを店に忘れて帰ってきたら、その敗残感たるや言葉に尽くせるものではない。忘れ物は、気がついた瞬間にひどく落ち込むものだ。だれも平然となんかしていない。もしも平然としているように見えるとしたら、それはあまりのことに茫然自失しているのだ。「あれほど忘れないようにと気をつけたのに、なんで忘れてしまったんだろう!」と、自分で自分を責めている。その姿が、外見上は「こいつ、全然反省しとらんやないか!」と逆に受け取られてしまう。

「じゃあ、忘れ物しないようにしたらいいじゃないか」というかもしれない。しかし、なぜそれができるのか、忘れ物ばかりしてる本人にはわからないのだ。十分に注意しているつもりだし、言われた手順は全てやっている。けれど、忘れる。忘れ物常習者というのは、そのぐらいにひどい。そして、それは叱ったからといって治るもんじゃない。

 

じゃあどうすればいいのか、みたいなことまで書きたかったんだけど、ちょっと今日は時間がない。またいつか、続きを書けたらと思う。