なんか、増田ばっかり見てるようで「ヒマ人か」とバカにされそうでもあるのだけれど、ここのとこ体調がイマイチで、気合を入れて行動するだけのエネルギーがなかなかとれない。そのエネルギーを本来はそれほどエネルギーを要求されないはずの家庭教師の仕事のために温存しなければならないから、いきおい、ダラダラ過ごす時間が長くなる。まるで中学生がサボる言い訳のようではあるが、まあ、低調な時期がくればまたテンションの上がる時期も来るはずと、ここは開き直っている。
で、ここのところ気になった「はてな匿名ダイアリー」の投稿、通称「増田」2件:
前の方のエントリで、著者は
・時間内に長文から要点を抜き出してまとめる能力(理解力・まとめ力)
・読み上げた音声から概要を図にして説明する能力(理解力・整理力)
・3回読み上げられた文章をできる限り暗記して、書き出す能力(暗記力)
・問題と解答を見せて、それと同じ論理の問題をその場で応用して解く能力(論理理解力・応用力)
・見出しと小見出しだけ見せて、だいたいの内容を予想する能力
・3回画面に表示される難しい言葉をその場で覚える能力(語呂合わせを使えとか、頭文字を覚えろとかヒントを出す)(暗記力)
・読むのに15分くらいかかる文章(キーワードは太字)を読ませ、読み終えてからキーワードについての感想や知識を書き出させる(集中力・理解力)
について「テスト」をすれば「勉強する能力」が高まると主張する。これに対して、
それこそ普段の授業でやってることでは? ちゃんと聞いてる?
というコメント(私じゃないよ)が入ったのに対する反論として、あとの方のエントリがある。ただ、私から見れば、ここのところ、実は著者の「わかってない」ところが端的に現れているように見える。
この方法そのものを授業で教えようって言ってるんだ。
地頭のいい人たちが自然にできている学習の力を、意識的に学ばせてできなければできるまでやらせて、勉強の苦手な人を減らそうという意図だよ。
どういうことか? ひとことで言ってしまえば、「最初はテストって言ってるのに、あとの方では授業って言ってるじゃないの」ってことなのだけれど、それだけじゃ揚げ足を取ってるようにしか見えないだろうから、もうちょっと長く書くことにしよう。
まず、「普段の授業でやっていること」という反応そのものが正しいのかどうか、私は疑問をもっている。国語の教師なんて、国語が語学教育であることさえ認めないような輩がいくらでもいるようだし、漢文なんて業界の都合だけでカリキュラムが組み立てられている疑いがある。ただし、本来あるべき姿としては、あるいはタテマエとしては、実際、最初のエントリ(元増田)の主張している能力は、ほぼそのまま学習指導要領に記載されているものとして解釈することができる。つまり、本来は、「普段の授業でやる」ことが期待されているわけだ。
だが、これが実際にできていないのではないかというのが、著者の主張になる。「しかし、普段の国語の授業は余計な解説が入るし、一つの文章を何時間もかけて読むので短時間に長文から要点をまとめるという技能だけを何度も教え込むことはできない」とか「ノートの取り方や、理解の力は自己責任として突き放してるのが今の教育ではないかという話」とか「もっと重点的に暗記に絞った訓練をするべきだ」とかいった主張は、それらを授業で教えてもらえなかった著者の個人的な体験から来ている。そうしてもらえたらよかったのになあということからの提言なのだろうから、そこは確かなものとして受け止めるべきだろう。
だが、こういう「効果的な指導法」のようなものは、実は個別の生徒の個別の状態によって異なっている。いみじくも著者が「なぜかといえば、僕がIQが高いアスペだったからだ」と書いているように、この方法は著者のような人には有効かもしれないが、他の人には同じ教育目標のために別なアプローチが必要かもしれない。極端な話、おそらくこの著者よりももっとアスペな私には、国語の勉強なんてほぼゼロで十分だった。そんな太古の話を持ち出されてもこまるのだろうが、参考書や問題集を一冊ももっていないにもかかわらず、高校時代には進学校でトップ番付の常連だった。だが、そういう無手勝流は、他の生徒には通用しない。だから、私は家庭教師になって国語を教えるのにいちばん苦労した。自分がやったことがない勉強をどうやって教えたらいいかがわからなかったからだ。まあ、そこから先は余談だが、実際、生徒によって各種のテクニックがある。その中にはオリジナルの秘伝もあったりするので、どうしても知りたければ本を買って欲しい(ま、たいしたものじゃないけどね)。
そして、個別の生徒に対する特殊な指導法は、大人数に対して教えなければならない学校の教室では使えない場合が多い。最大公約数的な部分をとっていけば、どうしても国語の授業は退屈になる。学校の授業が(特にアタマの回転の早い生徒にとって)ピントのはっきりしないボヤケたものに感じられるのは、基本的にはそういう理由なのだと思う。だが、それよりももっと根の深い問題もある。
私が中学生、高校生だった1970年代には、まだまだ学校の教師には教育者としての矜持があった。ただし、「昔はよかった」的なことを言うつもりはない。その「矜持」の中身の大半は「教育者は聖職者であって生徒を導く模範でなければならない」みたいな大時代的なものであって、その裏返しとして「愛のムチ」である体罰はあたりまえみたいなアホな信念が生まれるようなものでもあった。さらに、玉石混交度合いはたぶん昔のほうがひどく、ただ威張るだけで中身のない教師なんてのものいくらでもいた。それでも一部の「玉」の方の教師には、子どもの本当の意味での成長を支えるのが自分の役割だと自覚している人々も多く、そして、それらの人々は、安直な「勉強」がもつ弊害をしっかりと意識していた。
だから、世間がどれほど受験熱に浮かされようが、「学校はそういうところではありません」と、きっぱりと「教えるべきことを教える」という姿勢を貫いていた。授業ではあくまで学習項目の理解を優先し、点取りのためのテクニックを教えるようなことは基本的にしなかった。
そういう姿勢に対して、世間の風当たりは強かった。ネットがない時代だったから情報があやふやだし、私自身の記憶もいい加減なのだけれど、確か1970年代の末か80年代の半ばまでのことだったと思う。「なぜ予備校や学習塾にできることが学校にできないのか」という学校叩き、「学校が機能していない」という声高な主張が行われるようになった。「学習塾で教えてもらったら生徒はこんなに点数が伸びる。学校はダメじゃないのか」という批判だ。そして、その結果として「塾に学べ」みたいな風潮が、確か関東を中心とした中学・高校に広がり、学習塾の講師が指導法を学校教師に教えるみたいな実践が行われるようになった。その結果として、多くの中学・高校が変質し始めた。具体的には受験を目標とした補習が広く行われるようになり、小テストの繰り返しとそれをマイルストーンにした対策が授業に盛り込まれるようになった。こうして、学校と塾のやっていることはだんだんと変わらなくなっていった。
重要なことは、このような変化が学習指導要領の変化と無関係に進行したことだ。学習指導要領そのものは、改訂のたびにより幅広く柔軟に思考する力を伸ばす方向や、よりコミュニケーション能力を重視する方向へと進化していった。ところが学校の方は、よりテスト対策を重視する方向へと進んでいった。そして、まるでその埋め合わせとでも言うかのように、技巧を敵視する古臭い作文教育のような、無意味なところばかりは温存した。
ここで重要なことは、「点数をとるための対策」は、基本的に学習指導要領に記載された学習の諸目的とは完全に別物であり、ときには対立さえするものだということだ。すなわち、
に書いたように、本来テストとは「一定の能力が獲得できたらこれだけの問題は解けるはず」として作成されているのだが、それが「これだけの問題が解けることが一定の能力である」として運用されてしまっている。だから、伝統的に学習塾や予備校でやってきた「点取りゲームに勝つ方法」が「教育」であると誤解されて、それが誤解であることさえ意識されない現状ができあがってしまっている。あるいは、やたらと技巧ばかりを重視する数学教育のようなものができあがる。それは教育ではないということが、もはや寝言や譫言のようにしか聞こえない時代になってしまっている。
こういった現状認識があれば、なぜ「増田」が最初のエントリで「テスト」を提案しているのに後のエントリで「授業」を語っているのが「わかってない」と感じられるのか、理解してもらえるのではないだろうか。つまり、増田には「本来学校教育はこうあるべき」という理想がある。それが実現困難なことはさておこう。あるいは、「本来は学習指導要領でそういうのを教えることになっている」というタテマエと現実の乖離も、とりあえずは脇に置こう。そういうのをさておいても、もしもそういう教育によって得られるものを「テスト」にかけ、そしてそのテストで成績であるとか大学進学であるとか、あるいはその先につながる生涯年収であるとかが左右されるようなところを認めてしまうとしよう。そうすると、学習産業は、増田の主張する教育目的とは全く無関係に、「そのようなテストで点数をとる技法」を開発する。これはもう、そういう関係のプロとして保証する。これは増田が想像している以上のものを出してくる。最小限の努力で最大限の点数のアウトプットを出すことが受験産業に求められているわけだから、その手法が教育目標と合致していようがいまいが、そんなことはどうでもいい。仮に、入試がじゃんけんで決められるような日が来たとしたら、じゃんけん必勝法でも無理矢理に編み出してしまうのが受験産業というものだ。
そして、そうやって得られる高得点は、増田が望む能力を実現して得られるものとは全く別物になるはずだ。そんな未来を増田が望むわけはない。そういう未来が実現したとき、増田がどれほど地団駄踏むか、容易に想像できる。だから、「増田はわかってない」と、私は言う。
私たちは、まだ本当の意味で人間を評価する手法を知らない。そういう手法の代替として長く運用されている学力試験というシステムは、巨大な弊害を生み出し続けている。ここを変えるためには、単純に試験方法を工夫するだけでは無理だ。なぜなら、新しい方法には、必ず新しい対策が生まれるからだ。「傾向と対策」を繰り返すだけでは本質はなにも変化しない。
そうではなく、人間の評価をどのように社会に当てはめるべきかという思想、あるいは、そもそも人間の評価を必要とする社会の仕組み、そういったものから再構築していかなければならないのではないか。あーあ、たいへんだ。そんなことするよりも、点取りゲームを楽しんだほうがよっぽどラクだ。かくして、世の中は、今日も変わることなし。
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追記:こういう返事を頂いた。
ま、どんな道を通っても真理に至る人はいるので、そこは否定はしない。ただ、「指導法」ってのは多くの人が多くの試行をしてきて、「これがベスト」ってのがないってことはほぼ明らかになってる。要は、個別の事例、個別の状況によって、さまざまな手法が必要ってことなんだけどなあ。
まあ、学習塾に三代続けて通うような時代だから、いまさらそういうのがおかしいってのは、アホみたいに見えるんだろうなとは思うよ。けど、こっちからみたら、そういうのがアホみたいに見えるんだけどなあ。ま、立場のちがいということで。