シアワセの容相

あしたはこっちだ

Job Descriptionのない世界にて ─ または、指導要領ぐらい読んどけよという話

国語科は、語学教育です!

 現役の国語教員によると、「国語」という科目は語学教育ではないのだそうだ。

anond.hatelabo.jp

この書き込みは、こちらへの返信ということ。

anond.hatelabo.jp

こちらの方は、特に国語教員というわけでもなさそうなので、

内田樹のいう国語力とは、ethicsなのか、japaneseなのか、rhetoricなのか。
明治時代に国語という科目を作ったとき、なにを目的にどういう設計をして作ったカリキュラムなのか気になる。
推論だけど、自由七学芸のうちの修辞学、論理学、文法を輸入して、まとめて1つの科目にしたんじゃないなかと思う。
修辞学のうち、弁論術が大きく省かれて、文章においての修辞だけに特化したのは、それまでの儒学教育からの流れか。
品詞分解と詩学に特化してたのは江戸時代からの伝統だし。
古典と小説と評論と詩と、ぶっちゃけ授業の目的とする方向性はまったく別だよね?
教材として日本語の文章を使うところは共通してても、別のカリキュラムだと思う。

という推論も、それはそれで問題ないだろう。しかし、現場の教員がそれに対して

はい、そうです
重なる部分はありますが、
「日本語」というのは、言語学上の1言語に過ぎませんが、
「国語」になると話が変わってきます

と、それに賛意を示しているのを読むと、「おいおい、ちょっと待てよ」と言いたくなる。

教員というのは現代日本の教育システムの中に雇われている被雇用者であって、その業務内容は文部科学省の通達、すなわち「学習指導要領」で決まっている。その学習指導要領には、「国語」という教科がどういうものであるのか、これ以上ないくらいにはっきりと書かれている。それによれば、高校国語科全体の目標は、

国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力を伸ばし,心情を豊かにし,言語感覚を磨き,言語文化に対する関心を深め,国語を尊重してその向上を図る態度を育てる。

と、基本はやはり語学教育であることがはっきりと述べられている。その上で、さらにカリキュラムごとにその内容は若干異なっている。たとえば「国語総合」の「内容」は「A 話すこと・聞くこと、B 書くこと、C 読むこと」の3分野から成り立っているので、明らかにベーシックな語学教育だ。「国語表現」では、その「内容」の(2)で

(1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 様々な考え方ができる事柄について,幅広い情報を基に自分の考えをまとめ,発表したり討論したりすること。
イ 詩歌をつくったり小説などを書いたり,鑑賞したことをまとめたりすること。
ウ 関心をもった事柄について調査したことを整理して,解説や論文などにまとめること。
エ 相手や目的に応じて,紹介,連絡,依頼などのための話をしたり文章を書いたりすること。
オ 話題や題材などについて調べてまとめたことや考えたことを伝えるための資料を,図表や画像なども用いて編集すること。

とされているので、その名の通り、ディベートやレポート執筆、プレゼンテーション資料の作成など、社会に出てから必要とされる実用的な技術について学ぶことが教科の目標であることがわかる。

その一方、「現代文A」の目標は

近代以降の様々な文章を読むことによって,我が国の言語文化に対する理解を深め,生涯にわたって読書に親しみ,国語の向上や社会生活の充実を図る態度を育てる。

であり、「現代文B」の目標は

近代以降の様々な文章を的確に理解し,適切に表現する能力を高めるとともに,ものの見方, 感じ方,考え方を深め,進んで読書することによって,国語の向上を図り人生を豊かにする態度を育てる。 

であるように、基本的に「読解」に重点を置いた学習であることがわかる。このうち、「A」の方は単純にリテラシーの向上に終始するのに対し、「B」の方はさらに深いところまで進めようという方向が伺える。しかしながら、

(1) 次の事項について指導する。

ア 文章を読んで,構成,展開,要旨などを的確にとらえ,その論理性を評価すること。

イ 文章を読んで,書き手の意図や,人物,情景,心情の描写などを的確にとらえ,表現を味わうこと。

ウ 文章を読んで批評することを通して,人間,社会,自然などについて自分の考えを深めたり発展させたりすること。

エ 目的や課題に応じて,収集した様々な情報を分析,整理して資料を作成し,自分の考えを効果的に表現すること。

オ 語句の意味,用法を的確に理解し,語彙を豊かにするとともに,文体や修辞などの表現上の特色をとらえ,自分の表現や推敲に役立てること。 

という具体的な指導内容を見れば、これがあくまで語学教育の範囲内でしか扱えないことがわかる。それは、続く「内容の取り扱い」の項で

総合的な言語能力を養うため,話すこと・聞くこと,書くこと及び読むことについて相互に密接な関連を図り,効果的に指導するようにする。 

と記載してあることからも明らかだ。語学教育は英語であるとスペイン語であると中国語であるとを問わず、「読む、書く、聞く、話す」の4要素から成っている。それを踏まえてこの学習指導要領を読めば、国語科はまさに語学教育そのものであって、それ以外の何ものでもないことが明らかだ。ちなみに、古典については省略したが、興味のある人は見て欲しい。似たような話が並んでいるだけだから。

ここは世界標準が通用しない世界

雇われてする仕事には、基本的にJob Descriptionというものがある。すなわち雇用者が被雇用者に対してどのような労働を要求しているのかを明確に定めた説明書で、これが雇用契約の基本を成す。雇用契約に定めのないことは、雇い主がいくら要求しても従う必要はないし、逆に雇用契約に定められていないことをやったらそれは勤務評定を下げることに直結する。場合によっては解雇の条件を満たす。

これがおそらく世界標準の考え方だと思うのだが、どういうわけだか私はこのJob Descriptionというものにお目にかかったことがない。何度か雇われて仕事をしたことがあるが、どの場合でも、面接時に大雑把なことを口頭で説明されただけで、あとは「やってみればわかります」式でしかなかった。ひとつひとつの業務内容については開始前にオリエンテーションがあるわけだが、そこではじめて「あ、自分の仕事ってこうだったんだ」と悟る始末。それも、たいていは採用時に聞いていた話と微妙に違うから、「え、こんなことまで私の仕事?」が含まれていることもめずらしくない。それでも給料が欲しければやるのが、何十年変わらない日本の末端労働事情。

いや、オリエンテーションさえなく、採用したままの放置プレイっていう会社もあった。社長は、デスクの向こうから「こいつはどうやるかな?」って顔で見ている。こっちは、「この会社の利益になることはなんだろう?」「社長はなにをやったら喜ぶんだろう?」って推察して、独断専行で行動する。それが当たったら一気に評価は上がるし、当たらなければ「あいつは使えない」と評価が下がる。スリリングで面白かったけれど、そういう会社はいつまでも存続しない。あのまま上場のゴールまで行ったら、それはそれで面白かったかもしれないが、どだいもとから無理な話、だったのだろう。

教師は恵まれてるんだから、ね!

そんななかで、教師にはめずらしくJob Descriptionが存在する。上記の学習指導要領だ。少なくとも教壇の上でなにをすることを求められているのかは、学習指導要領に記載されている。もちろんその曖昧な記述の内容を充足するためには手練手管が必要になるのだろうが、それは手段であって目的ではない。職務の目的は、ここに記載された学習指導を行うことだ。少なくとも学校外の社会はそれを期待している。

ただし、現実の教員の世界はそうではない。だいたいが労働基準法なんてそっちのけで時間外労働が標準とされるような世界で、明文化された学習指導だけをやっておけばそれでOKなどという労働者がいたらたちまちその固有の社会からはじき出されるだろう。わけのわからない慣習と因習にがんじがらめになって、学習指導なんて、期待されている職務内容のごくわずかを占めるに過ぎない。そして、期待されている大部分の職務内容が不文律化されていて決してJob Descriptionなんて存在しないということでは、教員の世界も標準的な日本の労働環境となんらかわりはない、というのは事実。

しかし、だからといって、学習指導要領なんてどうでもいい、というのは話が違う。ここに「語学教育をしろ」とはっきりと書いてあるのに、そこにまったく別の教育内容を盛り込もうというのは、明らかに職務規定違反だ。それは、職業倫理上、あり得ない話ではないのだろうか。

もちろん、学習指導要領が金科玉条だなどというつもりはない。いくらJob Descriptionに業務内容の規定があったとしても、それが非合理的なものであったり違法なものであったりといった理由で実行不可能なものに関しては、それに背いたとしてもお咎めはない。そこまでいかなくとも、労働者たるもの、業務内容の改善を上司に申し出ることは推奨されこそすれ咎められることではない。だから、「いや、国語教育というものは単なる語学教育じゃありませんよ」と現場で感じるのであれば、その声を上げることはたいせつだろう。学習指導要領なんてものは、そういう声を集めて改善していけばいいものだ。指導要領の改善に先んじて、先行事例的に自分の信じる教育をやってみるのもいい。

ただ、あたかもJob Descriptionに従っているような顔をしながら実は別のことをするのは、誤っている。「私は指導要領には従いません」と宣言してやるなら、それはそれで価値がある。しかし、公的な資金を受け取っている学校では、それはできないはずだ。特殊な状況でもない限り、指導要領無視では単位は無効になる。そう、下手をしたら生徒の単位を無効にしてしまう実害を与えかねない行為。

ほんとうのプロって?

実際のところ、教育というものは、科目に分けて行えるものではない。英語と国語はいっぺんに教えたほうが教えやすいし、微積分学は力学を素材に練習するのが最も早道だ。修辞学の背後にはギリシア以来の世界観が密接に関係しているのだし、日本人の自然観を学ばずに和歌の真髄を掴むのも困難だろう。

そして、職業人は労働者とイコールではない。生徒にものを教えるという職業の要請は、教師という労働契約の職務内容の規定と無条件で一致するはずはない。そこに葛藤が生じるのは理解できる。同じような葛藤は、医師と病院勤務とか、プログラマとサービスエンジニアとか、そういった場でも生じるだろう。哲学的な文章の読解を生徒に教えていて哲学そのものに触れないのは、職業倫理上は不可かもしれない。学習指導要領が「それは社会科の指導内容で国語科ではありません」と明確に示していても、その不可分なものを分けろと指示する指導要領のほうがまちがっていると言いたくなるかもしれない。

だったら、そう言おう。こっそり隠れてやるんじゃなく、問題があるなら表に出してしまおう。そうやって学習指導要領がよくなればみんながトクをするのだし、あるいはそもそも学習指導要領なんてない世界、学校なんて不要な世界がその先にあるのなら、それはそれでもっと幸せになる人が増えるかもしれない。

ほんとうのプロであるのなら、目先の小さな仕事のことだけでなく、世界が変わることを考えよう。それこそが、目先の小さな仕事に価値を与えてくれるのだから。