定義されない話には気をつけよう - 解決されない「問題解決能力」

「問題解決」は、家庭教師のような仕事をしていると避けて通れない概念だ。なぜなら、家庭教師の仕事は公教育の補完であると期待されているのだし、その公教育の基準を決めた学習指導要領には、「問題解決」の言葉が頻出する。そういう感覚でこの記事を読んで、そりゃちがうだろうと思った。

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「問題解決能力」とは、具体的にどのような能力なのか。 | Books&Apps

素直にそうコメントしたら、思いの外に星が集まって、やっぱり自分の感じたことと同じようなことをみんな感じてるんだろうなと思った。

「問題解決能力」とは、具体的にどのような能力なのか。

裏方いっぱいやってそれはものすごく勉強になったからこの話はよくわかるけど、そういうことする力と問題解決能力は全然別の話だと思うな。

2021/11/01 10:03

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と、ここまでの話なら、それで済むのだけれど、なんだか元記事の記述があんまりにも奇妙に感じたので、少し調べてみた。すると、もっと奇妙なことがわかった。なんと、元記事にある

「仕事は、目の前に課題があれば、不本意であってもまずは愚痴らずに何でもやってみて、そこで成果をあげる行為」

という認識だ。

そしてそれを、問題解決能力と呼ぶのだ。

といった考え方が(ま、表現のマズさはおくとして)通用する業界もある、というよりも、むしろそういう業界での使われ方がひょっとすると主流じゃないのか、と気づいたのだ。え?

 

もともとこの「問題解決力」という概念は、アメリカで流行したproblem solving skillsの翻訳として日本で重視されるようになってきたものだ。そこで、英語で検索をかけてみた。ちなみに、problemもsolveもともにラテン語にまでさかのぼることができる古い言葉であるのに対し、problem solvingは1950年代に使われ始めた言葉であるらしい。それほど古い概念ではない。

検索の結果ヒットした上位は、大半が就職関係のサイトだった。すなわち、「企業は人材に問題解決力を求めています。あなたも問題解決力を身につけましょう」的な使われ方だ。そして内容を見てみると、たとえば

www.indeed.com

には、「問題解決力は問題の原因を見極め、効果的な解決をもたらすのに役立ちます」みたいなあまり役にも立たない定義のあと、具体例として、

アクティブ・リスニング
分析
リサーチ
創造力
コミュニケーション
頼り甲斐
意思決定
チーム・ビルディング

が挙げられている。あれ? これって私の理解している問題解決力と微妙にちがわないか? むしろ、元記事にあった「目の前の課題をなんとかやっつけてしまうこと」の方に近くないか? これらのスキルは、つまりは目の前に問題が(たとえばセミナーの開催という仕事が)どん、っと置かれたときに、それをどうにかうまいことやってしまうために必要とされる技術のことではないのだろうか。だったら、それは、元記事にある考え方と大差ない。え?

 

「問題解決」は、すくなくとも私がなじみ深い教育産業界においてはまったく別な概念として扱われている。たとえば中学校学習指導要領を参照すると、

第3節 数学

第1 目 標
 数学的な見方・考え方を働かせ,数学的活動を通して,数学的に考える資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
⑴ 数量や図形などについての基礎的な概念や原理・法則などを理解するとともに,事象を数学化したり,数学的に解釈したり,数学的に表現・処理したりする技能を身に付けるようにする。
⑵ 数学を活用して事象を論理的に考察する力,数量や図形などの性質を見いだし統合的・発展的に考察する力,数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表現する力を養う。
⑶ 数学的活動の楽しさや数学のよさを実感して粘り強く考え,数学を生活や学習に生かそうとする態度,問題解決の過程を振り返って評価・改善しようとする態度を養う。

の(3)に記されたように、明らかに「練習問題を解いた過程」の意味で用いられている場合がある。しかし、これはどちらかといえば傍流の使い方だ。たとえば同じ数学のセクション内でも

数学を活用して問題解決する方法を理解するとともに,自ら問題を見いだし,解決するための構想を立て,実践し,その過程や結果を評価・改善する機会を設けること。

のように、明らかに「練習問題を解く」という以上の意味で「問題解決」を使っている文脈がある。こちらのほうが、教育産業界での使われ方としては主流だろう。たとえば技術家庭科の技術の項目では

技術に込められた問題解決の工夫について考えること。

との記載もあって、これも「解法」の意味ではない。道徳科においては

⑸ 生徒の発達の段階や特性等を考慮し,指導のねらいに即して,問題解決的な学習,道徳的行為に関する体験的な学習等を適切に取り入れるなど,指導方法を工夫すること。

と、明らかに特定の意味で「問題解決」を使っている。「問題解決」以外にも、「問題を解決する」「課題を解決する」「問題を見出したり解決する」の形ではさらに多用されている。これらの概念は、たとえば

第2節 社会

第1 目 標
 社会的な見方・考え方を働かせ,課題を追究したり解決したりする活動を通して,
広い視野に立ち,グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的な国家
及び社会の形成者に必要な公民としての資質・能力の基礎を次のとおり育成するこ
とを目指す。

のように、教科の学習項目の外側にひろがっていくものとして用いられているように見える。つまりここでいう「問題」は、教科書や参考書、問題集に記載された練習問題のような問題ではなく、一般的な「解決すべきもの」としての問題であり、学習内容をその解決のためのツールとして捉えようということである。

一般に、学校で習った知識は、問題解決のためのツールとして使える。もちろん、情報収集したり実験したり分析したり討論したり発表したり、その過程でコミュニケーションをとったり意思決定したりすることは必要になる。だが、(すくなくとも学習指導要領の上では)、そういったスキル、たとえば図書館やインターネットの使い方とか実験の手法、ディスカッション、プレゼンテーションの技術などは学校で学ぶことになっている。つまり、問題解決のためのツールは一通り学習していることになっている。ということで、「じゃあ、それをどうやって問題解決につなげるの?」が、問題解決能力を語るときに重要なポイントとなる。そこでカギになるのは、一般に問題には、well-definedな問題とill-definedな問題があることだ。well-definedな問題は問題設定がそのまま論理的な手順を踏まえることで正解に至るものであり、数学の計算問題や(国語教師にいわせれば)国語の読解問題など、教科学習のなかで試験に出るような問題がその代表的なものだ。ill-definedな問題は、そもそも問題設定が漠然としているとか、ゴールが曖昧だとか、何をもって解決とすればいいのか評価が困難だとか、そういった類の問題だ。たとえば昼飯の問題のようなものがそれにあたる。今日の昼飯をどうすべきなのかは日常の中ではけっこう大問題なのだけれど、千円使ったら失敗なのかとか、カップ麺で逃げるのは反則かとか、そもそも抜いてしまうのは問題解決になっているのかどうかとか、最終的には何が問題だったのかさえわからなくなる。こういう問題は、テストには出ない。マル付けができないし。

学校では、well-definedな問題を扱うのはたやすい。というか、そればっかりやってる。ということは、改めて「問題解決」が強調されるようになったのは、「学校でやってることはill-definedな問題には役に立たないじゃないか」という反省からなのだろう。そう考えると、学習指導要領の「学習項目の外にひろがっていくような」ものとしての「問題解決」の使われ方は合点がいく。そして、そういう文脈で読むと、多くの「問題解決」が「問題を見出したり解決する」と、「問題発見」とセットで用いられている理由もなんとなくわかる。

学校での学習事項が本来は問題解決のためのスキルとして活用できるにもかかわらず実際にはそうなっていないのは、まずは狭い教科の枠組みの中だけで問題を考えているからで、現実に適用可能な問題が見出されていないのではないか、という考え方がひとつだ。そして、適用可能であるにもかかわらずそこに活用できないのは、それがill-definedであるからで、だとしたらill-definedな問題をwell-definedな問題に還元していく手法が必要なのではないか、という考え方がもうひとつだ。おそらくこのような発想から、教育産業界で「問題解決力」を語るときには、その半分以上は「問題を定義する能力」が想定されている。これはある意味当然で、「正しく発せられた問いは問題の半分を解決している」といわれるからだ(調べてみたらチャールズ・ケタリングの言葉らしいのだけれど、もっと古い引用のような気がする)。ill-definedな問題をwell-definedな問題に落とし込むことさえできれば、あとは手に馴染んだ(はずの)ツールがある。だから、問題解決力とはほぼイコール問題を見出して定義する能力のことである。

実際、近年増加してきた中学入試問題の新傾向や大学入試のAOの課題なんかを見ると、そういう立場から解いていくことを期待された出題が多い。漠然とした環境問題や社会問題を提示し、「あなたならどうしますか?」的な設問に答えさせる問題だ。当然、そういった現実問題を制限時間や文字数制限のある入学試験で解決できるわけはない。だから、その道筋をしめすことが得点評価の対象になるわけだが、その際、最も重視されるのは問題をどう設定するのかということだろう。すべてにあてはまるわけではないが、そういう傾向の問題が多いと感じている。これが家庭教師としての「問題解決力」のとらえ方だ。

 

その一方で、一般にはそれ以外の「問題解決」の概念もあるのは、それはそれなりに感じていた。たとえば神経科学や心理学の方では、「問題解決」は、人が問題を解決していく際の内的過程を示す概念だ。一般的に人間は、問題を認知し、それを把握し、分析し、解決のゴールを想定し、その解決に至る道筋を組み上げて問題解決に至る。そういった精神の動き、あるいはそれに伴う神経系の動きは興味深い研究対象になる。あるいはそういった過程を論理学的に考証することもできる。さらにはそれにもとづいてコンピュータ・プログラムを組み上げることもできる。そういったときに語られる「問題解決」は、教育産業界で語られるものとは少し異なったものだろう。

だが、いろいろな領域で「問題解決」が語られるようになったのはそもそもなぜなのだろうか。これは上述のようにアメリカから入ってきた概念なので、ちょっと英語の文献を探してみた。けっこう錯綜している。というのも、problem-solvingという言葉が用いられる以前から「問題を解決する」のはごくふつうにそこにある行為だったからだ。だから、プラグマティズムで有名なデューイがproblem-solvingの元祖として出てきたりしてびっくりした。ちなみにデューイの著作を何冊かピックアップしてテキスト検索をかけてみても(このあたりがシロウトにもできるのがインターネット時代の恩恵だ)、problem-solvingは出てこない。solve the problemみたいな用法で数箇所ヒットする程度だ。なので、現代的な意味でのproblem-solvingはもっと後になって、一方で心理学の領域で、もう一方でビジネス書で扱う概念として、1960年代以降にひろまっていったようだ。

たとえば「ブレーンストーミング」の提唱者として知られるアレックス・オズボーンをproblem-solvingの元祖的にあげてあった文献もあった。多くのビジネス書を著した人物である。ただし、problem-solvingが頻繁に語られるようになったのは彼の死後、1970年代以降で、その際にモデルとしてとりあげられることが多かったのはトヨタカイゼンPDCAサイクルであったようだ。つまり、ある意味、「問題解決」の本家・本場は日本ということにもなる。そういえば、この流れでコンサルなんかがよく使うLeanの概念には、翻訳の仕事でよくお目にかかった。そういうふうに見てみると、やっぱり「問題解決」は、ビジネス現場で1970年代以降に重要視されるようになった概念だと考えるべきもののようだ。たしかに一方には純粋に心理学的過程や神経科学的な過程としての研究があって、その成果が教育学にもとりいれられている部分はあるけれど、これほどまでに「問題解決」が語られるのは、産業界でそれが多用されるようになったかららしい。

実際、この「問題解決」が教育現場に持ち込まれたのは、私の曖昧な記憶と理解によると、産業側からの要請だった。企業が新卒者に「問題解決力」を求めるようになり、それが大学教育に要求され、その要請が順次下送りされ、小学校の学習指導要領にまで記載されるようになった。1980年代の中曽根政権下の臨時教育審議会以後、教育には産業界が必要とする人材を供給する役割が担わされることになった。ま、それ自体は(批判される部分はあっても)ある程度は「そりゃそうだろう」でもあるのだけれど、その結果としてけっこう「それはどうなのよ」的なものも流れ込んでくることになった。教育の成果をビジネスでそのまま利用できるスキルセットとして捉えようという考え方もそのひとつで、学問側からは「大学は就職予備校ではない」と反発を招くことになった。とはいえ、制度は世の流れを反映したものなので、抗いきることはできない。もしも大学がそれに対応できなければ、そこを補う業者が現れるのが教育産業界の常だ。アメリカで起こっているのがそういうことで、problem-solvingで検索すると無数の就職関連サイトがヒットする。セミナーやら教材やらコンサルティングやら、「問題解決力をつけていい職を!」みたいなサイトがずらずらと上位に並ぶ。一方の日本では、大学側が表面上これをしっかり受け止める形で対応した。同じように「問題解決力」で検索すると、上位にたとえば中央大学の情報が出てくる。大学紹介の一部らしいのだが、

コンピテンシー定義一覧
問題解決力
【定義】
課題を正しく理解する。解決策を立て実行する。その結果を検証し、計画の見直しや次の計画への反映を行う

問題解決力 | 中央大学

とあって、先に述べた「問題を定義する能力」とよく似たものとして定義している。つまり、産業界からの「現場で仕事をなんとかやっつける力をもった人材をくれ」という要請に対し、学問側からは、「そういったill-definedな問題に対しては、それを的確に定義づける力をもった人材を育成しましょう」という答えが返されているわけだ。だが、ここですでにすれ違いが起こっている。

産業界としては、なにも問題をきれいに切り分けてwell-definedな問題に還元する能力がほしいわけではない。そうではなく、ill-definedな問題であっても、とりあえずそれをなんとかしてしまう力、片付けてしまう力がほしいわけだ。これが産業界のいう「問題解決力」であり、そのツールとしていろいろなものが用意されてきたけれど、そんなものは使えればいいのであって、究極的には仕事を片付けることが重要だ。理屈の上では仕事には目的があり、目的があるならば評価基準があり、また戦略があり、戦略があるならばマイルストーンがあり、マイルストーンが達成されたかどうかは常に評価基準に照らしてフィードバックをおこない、アウトプットの管理を行うことで最終的な目的が達成される、ということになるのだけれど、そんなことよりも、もっと直感的に「仕事が進んでいる」ことが重要だ。理屈はどうでもいい。仕事なんてのはやってるうちにどうにかなるもんだし、愚痴らずにやってれば問題は解決する、というのが現場の感覚だ。

しかし、教育業界としては、「問題解決力を」と言われた以上は、それに対応した教育をしようということになる。大学への要請は高校、中学、小学校へと降りていき、小学校の学習指導要領にも「問題解決」が記載される。だがそこでの「問題解決」のイメージは、全く異なったものとなる。基礎教育ははるか昔から「問題を解決する」という作業を延々と教えてきたのだし、もしもそれがwell-definedな問題の枠組みを出ないじゃないかと批判されるのなら、ill-definedな問題をwell-definedに還元していく技法をあらたに教えましょうよということになる。そして、新傾向の問題が生み出され、塾や家庭教師が商売のネタにする。

 

どうやらこういう構図があるから、私みたいな立場の人間が、コンサル的な立場の人のいう「問題解決力は目の前の仕事をやっつけることだ」みたいな発言に違和感をもつ。そんなことやってたらPDCA回らないだろうと相手の言葉で皮肉のひとつも言いたくなるが、彼らから見ればPDCAみたいなツールは結局は目の前の仕事をやっつけるための道具のひとつにすぎないのだから、「理屈よりも成果」という本質の前に「そうじゃないんだよ」ということになるだろう。

結局のところ、「使える人材がほしい」という要望を「問題解決力」みたいな雑な言葉で括ってしまったのがいけないのではなかろうか。たしかに仕事の現場は、理屈で割り切れない部分が大きい。これは私も、かつてある流通業者の内部で仕事をしていたときに、強く感じたことだ。青果の販売だったのだけれど、ネットショップの注文がふえて出荷作業が滞り始めたときに、とにかく伝票の発行システムをどうにかしないといかんだろうということになり、私がその仕様策定を担当することになった。それで受注から出荷までの業務の流れをぜんぶ洗い出したのだけれど、出るは出るは、不具合を力技で解決してきたパッチとバッドノウハウの集積で、にっちもさっちもいかなくなっている。ボトルネックの箇所は特定したものの、それをいじるとほかのパッチが動かなくなり、さらにさかのぼるとほかにも波及して、全体が破綻する。結局はぜんぶ一から組み直すのがいちばんだというありきたりの結論になったのだけれど、それを提案したら「理想論だ」と瞬時に切り捨てられた。そして、その理由もわかる。ひとつひとつはものすごくつまらないものだけれど、「ここは変えられない」「ここを変えると彼が困る」「ここのコストはかけられない」みたいな非常にスペシフィックな理由がそれぞれにあり、「いや、だから一気に変えないと」と思っても経営上そこは譲れないことだというのもわかる。属人的にうまくまわっている仕事があったら、そこを潰しては利益が出なくなるという感覚にもなるだろう。結局、仕事とはそういうもので、理屈で割り切れるもんじゃなく、それでも目の前にある課題をどうにかこうにかするものだ。もちろんその際に、いろいろなスキルが役に立つこともあるだろう。だからたとえばアクティブ・リスニングやチーム・ビルディングの技法を学んでおくことも重要かもしれない。創造力や分析力を養っておくことも大切だろう。コミュニケーション能力や意思決定力も欠かせない。けれど、「問題解決力って、そういうものをすべてわかった上で、なおそれだけでは足りない努力や根性でしょう」となる。そういった現場の感覚はよくわかる。だが、それを「問題解決力」って言葉でいってしまったらダメじゃない。

人間は言葉で動いている。言葉にさまざまな思いをのせる。けれど、言葉で伝わるのはしょせん文字面だけの情報でしかない。そこにどんな思いをのせたって、よっぽどの詩人でもなければそれをダイレクトに伝えることはできない。だから、文字列で表された言葉の定義が重要になる。そして、「問題解決能力」のように、一見定義されているように見えてものすごく曖昧につかわれている言葉では、情報はつたわっているように見えて伝わらない。そして、それでは問題は解決しない。

 

ビジネスの現場で活用される問題解決ツールの多くは、概念としての理解は難しくない。たとえばはるか昔にちょっとだけ翻訳の仕事で関わったことのあるTOCの理論は、数ページの解説を読んだだけで「なるほど、そりゃそうだ」と理解できるものだった。けれど、じゃあそれを実際の仕事の現場に応用できるかといえば、それは超絶にむずかしい。現場の流れは複雑に絡み合って、解きほぐすにはその現場の実態に対する深い理解が必要であり、また同時に事業の経営的な位置づけもしっかり理解しなければならないからだ。そういった現場への応用は、学校教育では学べない。大学でケーススタディなんかをやればある程度は学べるかもしれないが、限界がある。なぜならすべての現場はそれぞれに個別のユニークな事情を抱えており、一般化できない部分を避けがたくもっているからだ。それを解決する応用力をもしも求めているのなら、それはもう現場での実践の中で培うしかないだろう。そこまで学校教育でできるもんではない。

学校教育で養成できるのは、そういう現場に向き合ったときに、じっくりと立ち止まって「じゃあどうすればいいんだろう」と考える力だ。謙虚に一から組み上げていく態度だ。過去の知恵や周囲の知恵に助けを求める力だ。まっさらな紙に最初の一行を書く度胸だ。それが学問の本来だと思うし、学習指導要領で求めているのも結局はそういうことなんだろうと思う。教育産業の端くれで飯を食う以上、それに少しでも寄与することができればと思うけれど、テスト対策なんかやってたんじゃなかなかそうもいかないよなあと…