「子どもの貧困とライフチャンス」が出ます

久しぶりに、翻訳者としてのクレジットがはいった本が出る。英語の出版で謝辞を入れてもらったのはここ10年で2度ほどあるけれど、それは翻訳者としてではなくそのコーディネイトをしたという意味でしかない。翻訳者として名前を出してもらえるのは15年ぶりぐらいになるのではないだろうか。やっぱり嬉しい。

今回の翻訳、いつものことながら、私の専門外の本である。もともと専門というものをもたないのが専門だと言いいはってる私だから、訳書がすべて専門外なのはあたりまえといえばあたりまえだ。ただ、関心のない分野ではない。ひとつは教育ということであり、もうひとつは貧困ということだ。教育は、家庭教師という仕事とかぶさってくる。貧困にかんしては、いやでも向こうからやってくる。無関心というわけにはいかない。

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この本、もともとは5年ほどまえ、イギリスで出版されたものだ。もちろん私はそのあたりのことは知らなかった。業界の人間ではないからだ。しかし、業界人である北海道大学の教授はそれを見つけ、緊急に日本で出版しなければならないと考えた。彼には、日本の状況とイギリスの状況がダブって見えたのだろう。そして、「早い、安い、そこそこうまい」翻訳者である私のところに相談を持ちかけてきた。3年と半年ほど前のことだ。「3ヶ月で訳せるか?」という。「2ヶ月でやる」というのが私の答えだった。渡された本の序章を読んで、「ああ、これなら読みやすいからだいじょうぶ」とおもった。機械翻訳の進歩で仕事が減るなか、弱小翻訳事務所として仕事はいくらでもほしいし、回転率をあげるのは重要だとおもったからでもある。

ところがことはおもうように運ばなかった。実は序章は特別に読みやすかった。なぜなら、それは以後の各章になにが書いてあるのかをわかりやすく要約するイントロダクションだったからだ。つづく第1章はともかく第2章以後はかなりガチガチの論文で、論文特有のまだるっこしさがある。おもしろくないとまではいわないが、「さっさと要点に入れよ」とイライラさせられたり、「引用がはいるからといったって、そこは文章が長すぎるだろう」とツッコミを入れたくなったり、まあ、素直に読めない文が連続する。専門用語を調べるのは仕事だからそれはそれとして、イギリスのローカルな法制度なんかは、定訳があるわけでもなく、またその実態がどういうものかを知らなければ的確な訳ができるわけもなく、調べるのに実に手間取る。べつに自分が受け取るわけでもない補助金の受給手続きを調べるとか、正直、めんどうだった。

そのぐらいで弱音を吐いていては業務としての翻訳はできない。やることはやるんだからとがんばって作業を進めているなか、父親が体調を崩して入院した。おまけに、こちらは英訳本になるけれど、劣らず大きなプロジェクトを受注してしまった。待てるものなら待ってもらいたいと交渉し、結局2ヶ月どころか5ヶ月ちょっとかかってようやく納品した。病床の父親の枕元で翻訳の作業を進めたのも、いまとなってはおもいでだ。そういう事情があったから翻訳の出来としてはあまり満足できなかった。けれど、急ぎだというし、監訳をしっかりやるからという話だったので、手放した。温めておいて改善するだけの余裕はこっちになかったのだし、企画した教授としては間に合わせたい会議とかがあったらしいのだし。

そこから出版社の編集もはいり、出版に向けて順調にすすむように思えた。契約書まわりの事務翻訳もついでに私の方で担当することになって、どうにかこうにかそちらも動きはじめた。ところが途中で、おもいもかけず中断してしまった。細かい事情を書くと長くなるので書かないのだけれど、複数の事情が錯綜して、企画がピタリと止まってしまった。「緊急出版じゃなかったのかよ」とおもわないことはなかったが、私のどうこうできることではなかったので、傍観するよりなかった。

それが、1年以上のブランクを経てようやく今年になって動きはじめた。動きはじめてからもトントン拍子とはいかない。たかが200数十ページの本、いまの技術なら2週間もあれば下版できるだろうとおもうのだけれど、アカデミックな出版は感覚がちがう。いや、確かに早さが取り柄で仕上がりは雑という私なんかのやり方とは明らかにちがうわけで、そこはたいしたものだとはおもう。とにもかくにも、この秋に校正がたてつづいて出て、ようやく責了とおもったらもう販売だ。このあたりのスピードは、やっぱり現代。

 

さて、裏話は実はどうでもいい。書きたいのは、その本の内容だ。私は専門家ではないからことの重要性はわからないのだけれど、この本に記載されたイギリス社会の状況、とくに子どもたちの成長と貧困をめぐる状況は、あまりにも生々しく、また、日本の現状とつきくらべてみて「なるほどね」とか「そういうことだよなあ」とうなづかざるを得ない記述に満ちている。これは貴重だ。

だから、この本は教育学や社会学の専門家ではない人々にも読んでもらいたい。けれど、「じゃあ買ってください」と素直に宣伝できるかといえば、それも気が進まない。なぜなら、(読みやすいものにしようという担当編集者の努力にもかかわらず)論文が基調になっているこの本は、それなりに読みづらいからだ。こういってしまってはミもフタもないが、本の宣伝用のチラシには「省庁・自治体子どもの貧困対策担当、議員、支援者、研究者・学生など、子どもの貧困対策と子どもの権利実現を担う人々の未来に向けた必携書」と書いてあるのが、まあそういうことで、そういう人びとならまちがいなく買って読んだほうがいいんだろうが、それ以外の人びとがあえて買ってまで読むべきかというと、残念ながら「それって無茶ブリだろう」とおもわざるをえない。

具体的にいうと、この本は情報の宝庫だ。ひとつの事実が述べてあったとして、もともとの仕立てが論文だから、必ずその根拠になる文献があげてある。だからたとえば行政関係者が「こういう事実がイギリスでもあるから日本でもかんがえないといけない」と審議会かなんかの原案でもつくろうかとおもったときに、「じゃあ、その根拠はどこにあんの?」という質問に、かんたんに答えることができる(そのために参考文献のリンクとか、とくに念入りに校正で手をかけた)。研究者が論文を書こうとおもったときも、さかのぼって原資料にあたることができる。まだるっこしい議論の進め方も、正確で読みちがえがない。政策の流れがどんなふうにできてきたのかを的確に知ることができるだろう。

だが、それらは、上記以外の多くの読者にとってはたいした魅力にはならない。私のように「へえ、ゼロ時間契約なんてものがあるんだ。ひどいや。あ、でもかんがえてみたら、それって日本のバイトとおなじことじゃん」みたいな興味で読む人間にとっては、「いや、もう参考文献なんかどうでもいいから、もっと現状をおしえてよ」となるだろう。学問というものはつねに疑うものだから、必ず根拠が必要になるし、論証の手続きも重要だ。だが、一般人はそれを学者という商売に委ねてかまわない。とりあえず信じるから、結論だけおしえてくれよとおもう。そしてそういう要望にこたえる書物もある。安直なブログ記事なんかもあふれている。それはそれで必要なわけだ。

だから私も、そういうものとしてここから何回かに分けて、この本で語られたことを紹介していこうとおもう。おそらくベストの方法は原文に沿って、その学術的な部分を俗にかきかえ、参考文献なんかもぜんぶ省いて提示することだろう。けれど、そこまでやったらたぶん出版社に怒られる。なので、長めの読書感想文として、私自身の感想や経験を織り交ぜながら書いていこうとおもう。

 

(次回につづく)