DeepLを業務に使った

翻訳エンジンのDeepLは、登場したときから「あ、これで時代は変わったな」と思わせてくれるものだった。ただ、実際の仕事に使おうとは思わなかった。仕事というのは翻訳仕事だ。業務としてお金をもらう仕事では、いくら優れていても使う気になれない。クライアントは、そこに払うつもりでお金を出しているのではないだろうと思うからだ。ただ、業務としての翻訳以外では、けっこう使ってきた。個人的な翻訳プロジェクトではかなり使った。結局それは日の目を見なかったのだけれど、そうやって使い込むことで練習にはなった。また、教材作成で使った事例は、ここでも報告している。

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そうやってあちこちで使うことで、だいぶとDeepLのクセみたいなのもつかめてきた。もっとも、DeepLも進化を続けている。たとえば上記記事を書いた2年ほど前には英語でしか利用できなかった別候補の提案が既に日本語でも利用できるようになっている。正確性もだいぶと向上した。ただ、今回、初めて業務で使用したのは、そういうことだけが理由ではない。

 

昨年の夏から年末にかけて、1冊の本を訳した。まだ出版社から発売に関する何のアナウンスもないので書名その他の詳細は控えておくのだけれど、監訳者付きの専門書で、多数の論文が引用された相当に硬いものだ。ここから得られる印税は(発売前からいうのも憚られるが)微々たるもので、とても投下労働力に見合うものではない。そういう意味では「業務」というのもちょっとちがうような仕事である。まあ、儲からなくても遊んでいるよりはマシか、程度の仕事ではあるし、勉強になるからやってもいいか、程度の趣味みたいなものでもあったりする。

この本、面倒くさいことに、既に邦訳のある本の改訂版だ。幸い、この時代だから旧版・新版のテキストファイルは入手できる。Meldで比較すれば差異がわかる。見てみると、骨格はほとんど変わらないし、かなりの部分が流用できる。ただ、変更がないように見える部分にもところどころ語句の置き換えや追加・削除がある。さらに書き換えられた箇所、追加で書き起こされた箇所もそこそこに入り混じっている。専門書だし、旧版もあちこちで参照されてきた教科書的な位置づけの本であることから、基本的には旧版の残せるところは残したほうがいい。旧版の翻訳そのものも、けっして悪くはない。

となると、作業としては新版の英語テキストを参照しながら旧版の日本語テキストを修正していくことになる。まあ、それで別に問題はないかとスタートして、すぐに案外とやりにくいことに気がついた。というのも、ところどころにチャンクで入ってくる新規原稿部分を翻訳するときに、頭が切り替わらないのだ。

どういうことか。既存の翻訳を修正するときには、頭は編集者モードになっている。文章を書く立場を離れて、第三者的な目で「ここはこういう意図で書いてるんだよね。ここは前の文を受けてこうなってる。だったらここはこうすべきじゃないのかな……」みたいな感じで頭が動いている。その一方で、少しでもまとまった文の翻訳をするときには、頭は著者モードになっている。翻訳者というのはそういうものだ。原著者に成り代わって別な言語で同じ内容を語るイタコ稼業だ。原著に書かれてある内容を読み取ったら、できるだけそのメッセージを損なわないようにして、一から自分の言葉で書き始める。その際に、スタイルは意識するのだけれど、それは自分のなかに予めプリセットで用意してあるいくつかのスタイルの中から選ぶことになる。基本的には、自分がブログなんかの文章を書くときと変わらない。砕けた調子、硬い調子、柔らかい調子、おどけた調子、いろいろあっても、ぜんぶ自分の言葉だ。なるだけバリエーションは増やすように意識しているけれど、他人の言葉では喋れない。そこまで器用じゃない。だから、既訳部分に新規原稿が挟まると、「うっ」となる。他人の言葉のなかに、自分の言葉をうまく組み込めないのだ。どうしても調子が変わってしまう。もちろん、そこを切り替えてなんとか挟み込むことができたら、あとは頭を編集者モードに切り替えて違和感のないように調子を整えることぐらいはできる。けれど、編集者モードから著者モードに切り替え、さらに編集者モードに切り替えるというのは、やってみると思った以上にストレスだった。

そこで、DeepLを使ってみることを思いついた。まとまった新規原稿部分が出てくると、すぐに原文のテキストをコピーしてDeepLに入れる。これはMeldでdiffを見ているから、ふつうにPC作業の流れで行える。そして、旧版のテキストに組み込む。そのうえで、同じ編集者目線のまま、修正を加えていく。これがかなり快適だった。だいいちに、頭を切り替える必要がない。ずっと編集者モードのままで作業ができる。もちろん、DeepLみたいなAIの仕事は基本的に信用できない。けれど、それは旧版のテキストに対するときも同じだ。旧版の翻訳者に対するリスペクトがないわけではない。だが、基本的に他人を(というよりも自分もふくめてあらゆるテキストを)信用しないのが編集者だ。人間の訳したものであろうがAIの訳したものであろうが、必ず何らかのケチはつけられる。批判をする。批判の果てに結局は元原稿のママを採用することもあるし、てにをはを改めることもある。文章の組み立てを変えることもあれば、専門用語の統一を変更することもある。それをやるのは同じ頭で行うので、人間の訳とAIの訳が混じっていても気にはならない。少なくとも、気にならない程度にDeepLは精度の高い翻訳を返してきている。下手な人間の翻訳者なんかよりは、遥かにマシだ。

実際、人間は間違える。改訂作業のおもしろいところは、原著の改訂によって、旧版の読み間違いがはっきりする場合があることだ。2通りに解釈できる表現があって、旧版を読みながら、「ああ、そういうことなんやね」と納得している。そこに、ひとつの単語が加わること、ひとつの文章が挟まることで、「あ、こっちの解釈は違ってたんや」と気づくことがある。さらに、原著で変更のないセンテンスでも、なんとなく違和感がある場合もある。そんな場合、思い切ってDeepLに突っ込んでみる。そうすると、まったく別な解釈の文が吐き出される。それを見て旧版の解釈違いに気が付くこともある。最初から自分で訳していたらたぶん間違えない自信はあるけれど、読んでいたら少しの違和感を覚えながらも読み過ごしてしまう。それがDeepLを併用することで、違和感を拡大してはっきりと見ることができるようになる。これは老眼鏡並みに便利。

ということで、今回の翻訳では、自分ではほぼ訳さなかった。ひたすらに原著のテキストと旧版+DeepLで構成された日本語テキストを突き合わせ、推敲に徹した。それがよかったと思う。というのは、翻訳しているときなら「自分は翻訳者であって学者じゃないんやし、専門用語は監訳者がなんとかするやろ」と、あまり深く調べもせずに辞書的に訳してしまうような箇所でも、編集者目線なのできっちりとウラを取りに行くことができたからだ。そのせいでよけいに時間がかかり、よけいに割のあわない仕事になったことは否めない。その代わり、クォリティがあがったのは間違いないし、なによりもいい勉強になった。そして、多忙な監訳者の負担を少しでも減らすことができたのではないかと思う。

 

そうやって勉強したことは、おいおいに書いていこうと思う。いままで自分が思い違いしていたことも多々あったし、また、「これって奇妙な訳が定着してるんちゃうん」みたいな気づきもあった。そういうネタを拾えた仕事でもあった。少しぐらいは余得がないと、こういうことはやってられない。納品物はもう自分のものではないが、そこから得られた知見は、自分のものとして使わせてもらおうと思う。

しかしまあ、ChatGPTの話題が持ちきりのこのタイミングで、周回遅れのDeepLでもないよなあと思わなくもない。次回に似たような仕事があったら、ChatGPTがどの程度組み込めるか、やってみたいなとは思う。とはいえ、AIにどんどん奪われるこの時代、仕事、くるかなあ……