多様性と宗教と

私の宗教に関するスタンスは割とはっきりしている。個人的に敬虔でありたいと願っているが、それは他者と共有するものではない。したがって、共有することを前提として人が集まる組織宗教に属することはないし、そういったものとは距離をおきたい。このあたりは、すこし前の記事でも触れたことだ。

mazmot.hatenablog.com

組織宗教に辟易するのは、その排他性だ。それは、宗教に限らず一般に、生き残りのための戦略、組織維持と拡大を活動原理に組み込まない組織は簡単に消滅してしまうからだ。言葉を替えれば、組織の維持・拡大はあらゆる宗教にとって不可欠のものになる。そのときに、信者の他宗教への流出はもっとも忌むべきものになるし、他宗教の信者を改宗させることはもっとも重要な行いになる。組織への忠誠と布教がおよそあらゆる宗教に組み込まれるわけだ。

余談であるが、日本における宗教には、そういった他宗教への敵対性は強くない。これはおそらく江戸時代の檀家制度の名残だろう。檀家・氏子の制度では、各寺社に信者が割り当てられている。仮にその信者がよその寺社に参拝しても、自分のところから逃げ出すわけではない。信心深くなくても、檀家・氏子であることに変わりはない。利権としては安定しているから、他宗教に寛容でいられたのではないだろうか。まあ、檀家制度以前から寛容だったフシがないわけでもないので(たとえば兼好法師なんかはかなりいい加減な宗教観に見える)、これは実証性を欠いた憶測に過ぎないのだけれど。

もちろん、組織の生き残り戦略としては、必ずしも他宗教に対する排他的・敵対的な姿勢だけが選択肢ではない。新興宗教のなかには、他のあらゆる宗教を自分たちの教義のなかに取り込んでいく方向で生き残りをはかっているものもある。つまり、お釈迦様の言うこともキリストの教えもアッラーのお告げも何なら孔子の言葉だって、根本的にはぜんぶ同じことを言ってるじゃないかというわけだ。そういう汎宗教主義に立てば、対立なしに他宗教の信者を取り込んでいける。もっとも、先方が対立的であれば他宗教への流出は止められないので、主流派にはなれない。弱者の戦法だといえるかもしれない。

 

いずれにせよ、組織宗教に身を置く限り、他宗教の信者である人とどう付き合っていくのかは課題になるだろう。かつて小さな共同体でほとんどの用が足りていた時代には、そもそも他宗教の信者と付き合う必要はなかった。商売などの取引で関わり合う必要があっても、それは仮のものと割り切ることができた。つまり、日常は内側で進行し、外側との相互関係は日常とは切り離された空間でのみ行われるものであって、そこは特別であって日常の原理は通用しないと考えればよかったわけだ。「あいつらはちがう」で、ことが済んだ。同質である共同体の内部と外側は、実質的に分離可能であった。しかし、現代はそうではない。

資本主義、あるいは産業化の結果として、現代は人間が個として存在せざるを得ない時代だ。宗教は、かつてのような小さな共同体の中の共有原理ではなくなり、産業社会のなかでバラバラに存在する個人が一時的に身を寄せる疑似共同体を提供するものになった。この疑似的な共同体にはある程度の相互扶助、ある程度の安住の場所はあるにせよ、かつての地縁的な共同体のようにそこに全面的に依存することは不可能になっている。人はあくまで個人として産業社会のなかに居場所を見つけるのであって、そこで充足されないものを宗教共同体で補うことになる。つまり、日常は共同体のなかにあるのではなく、外側にある。非日常の特別な空間は、むしろ宗教の方になっている。

そういうときに「あいつらはちがう」は、通用しない。現代社会でなぜ「あいつらはちがう」という態度が差別として糾弾されるようになったかといえば、もちろん多数派によるそういう姿勢が多くの実害を生み出してきたからではあるのだけれど、根本的には人間性を疎外した産業社会において、人間を能力以外の属性でもって分けることが合理的でないからだ。人間を労働力としての単位でみる産業社会は、その個人がイスラム教徒であろうがヒンズー教徒であろうが仏教徒であろうがキリスト教徒であろうが、差別しない。差別をする合理的根拠をもたない。だからこそ近代になって差別がこれほどまでに排除されるようになったという見方も可能になる。

しかしまた、産業社会の原理は、個人に自由を認めることでバランスをとる。産業社会の原理は、ある意味、宗教のように人々を覆い尽くす。けれど、組織宗教のように改宗を求めることはしない。なぜなら、この産業社会組織は、組織維持の原理によって成り立っているのではなく、人間の生存への欲求によって成り立っているからだ。だから、「人は働いて賃金をもらう」という原理への帰依への代償に、心の自由を保証する。どのような信念をもっていても構わないし、どのようなライフスタイルを選んでも構わない。何なら性別だって、どのように自認しようが自由だ。それがすなわち多様性であり、多様性は産業原理の統一性との抱き合わせで保証される。宗教もその多様性のひとつだ。

かつては、宗教を同一にする共同体が基本的な人間のニーズを満たし、多様性はその外側にあった。だから、多様性を拒否して生きることも、ある程度は可能だった。だが、現代ではそれは逆転している。多様性を前提とする産業社会が基本的な人間のニーズを満たし、宗教共同体はその内側で存在している。多様性の一つとして存在している。

そんな時代にあって、宗教は急速に個人化しつつあるように思える。私のように「組織宗教は願い下げ」という人間もいる。最近増加しているムスリムのように熱心な信者が集まる宗教の信者でさえ「それは内心のことだから」と、宗教共同体外ではその属性を意識させないような行動をしている。むしろ、信者であるがゆえに差別されたくはないと思っているだろう。宗教共同体内部でさえ、「他宗教のものと付き合うな」的な言説は消失している。他宗教の教義に触れることを禁忌するようすも、一部の急進的な新興宗教を除いてはあまりみられないだろう。目をつぶって内にこもることは、そもそもこもるべき内側に生活基盤がないのだから、およそ現実的ではない。

とはいえ、それが汎宗教主義に行き着くのかといえば、そうではなかろう。そうではなく、他宗教の教義に触れても、「そうなんだ、じゃ、私は教会行くね」と、無関心とはまたちがう、他者を尊重しながらも「自分は自分」と割り切るところだろう。場合によっては、理解できない、奇妙だ、変だと感じることもあるだろう。けれど、そのときに、「あいつらはちがう」と排除するのではなく、それはそういうものだ、世の中にはそういう人もいるんだろうと遠ざけながらも敬意をもつ態度がひろまっているのではないだろうか。つまり、ひとつひとつの個人の自由にかかわる部分には、それが認められているのだからと容認する態度が、教義にかかわらずあるのではないだろうか。

そしてこれが宗教に限らず、「多様性」に対処するときに現代社会で求められている態度なのだろう。異質なものを排除するのではなく、異質なものがそのまま異質なものとしてそこに存在することを許容する(ただし、それは産業社会の教義である「きちんと賃労働をこなす」ということ(場合によっては弱者保護の特例ルールに則って行動すること)が遵守されていることが前提である。もちろんそこが遵守されていない場合には制裁があるわけだが、それを行うのは個人ではないので、ここに注目する必要はない)。その態度の中心にあるのは、「個人は個人」という感覚だ。自分は自分であり、他人から干渉されたくない。その裏返しとして、他人には干渉しない。それが現代社会の「多様性」を支える原理だ。

そして、それが宗教共同体内部でも適用されるようになってきているのではないだろうか。聖典の解釈についても、絶対的な正解を規範として受け入れることが求められるというよりも、規範を示して、あとはそれをどのように受け入れるのかは個人に任せるという態度になってきているのではないだろうか。その際に、他宗教からの情報を参照するのも、個人の内部のことであるから認めざるを得ないのではないだろうか。そうなってくると、結局は、宗教共同体に属していても、信念に関しては非宗教的な個人と同じ内面の自由であり、あとは共同での儀式的な行いに参加する際の行動が規範に外れていなければよしということではないだろうか。

こんなことをつらつらと考えたのは、この匿名日記の記事をみたから。

anond.hatelabo.jp

宗教的な信念はその人の内面だし、その際に教義は参照項目になっても、絶対ではない。もしも他宗教の教義で心に響くものがあれば、それは自分の宗教の教義に照らしても、その体系のなかで再解釈できるものだろう。多くの宗教は懐が広いので、さまざまな思考に十分に対応できるものをもっている。一本、自分のなかの信仰を通しておいて、ときにはその対照として、ときにはその補強として、他宗教の説を聞いてみるのはいいことではないだろうか。その際に、対象は宗教でもいいし、宗教以外の何者かでもあってもいいし、ときには正体を隠した宗教であっても構わないのではないか。自分のなかにひとつの信仰が通っていれば、それはそれで問題ないのではなかろうか。

そして音楽に関しては、また別な話なので…