宗教に関する断片的な思い出 - 1990年代の地方都市と農村で

私はノンポリであると同じくらいに非宗教的だ。ただ、これにかんしては個人的に引いている一線がある。「宗教」というものを私は2つに分けてとらえている。まずひとつは個人的な非合理な思考だ。もちろん非合理的思考のすべてが宗教であると考えているわけではない。非合理的思考のうち、なにかを畏れ、なにかを尊いものとし、自らの行動を律するものが宗教だ。これはほとんどの人間の内にあるものだと思う。なぜなら、世界は人間の頭脳が合理主義で解析できる限度を遥かにこえた複雑系として存在するからだ。どれだけ合理主義を信奉する人であっても、日々の生活を実行していく上では、なんらかの非合理的な信念をもたねばやっていられない。朝起きて「気分がいいな」と思うことに理窟は要らない。友だちをつくるときにいちいち自分にとっての利害を考えるやつはいない。飯は箸と茶碗で食うものであって、合理主義で食うものではない。人間の生活を構成しているものの大部分は習慣と信念であり、部分的にそこには合理的な根拠もあるのだけれど、そうであったとしても「昔からやってるから」とか「これはそういうもんだろう」みたいな薄弱なものであることが多い。そういった非合理的な習慣や信念のなかで、とくに畏敬の念にかかわるものを私は宗教であるととらえる。したがって、そういう意味での宗教は非常に個人的なものである。個人的なものではあるが、習慣や信念は社会的に共有される部分が大きいので、ある程度は社会的なものにもなる。そういった宗教的な思想に従って自らの行動を社会的に受容可能なものに整えていくことが「敬虔」な態度なのだと思う。そういう意味で、私は敬虔な人間でありたいと思う(思うだけで実際にそうだとは言っていない)。

そういった個人的な敬虔さを体系化し社会構造化したものとして、組織宗教がある。組織宗教は、もともと各個人のなかにある非合理的な習慣や信念を根っこにもっているので、多くのひとに受け入れられる。言葉をかえれば、多くのひとが共有する習慣や信念を、宗教という形で組織化する。この組織宗教が、私がとらえる2つめの「宗教」だ。組織宗教の特徴として、非合理的な思考になんらかの根拠を与えてくれることがある。なぜ朝の空気が気持ちいいのかといえばそれは神の恵みであるのだし、なぜ隣人を友としなければいけないのかといえばそれは神の愛である、という具合だ。そして、その根拠の由来に関しては、やっぱり合理的な根拠はない。聖典に書いてある、というのは決して合理的根拠ではない。それを信じるかどうか、だけだ。信じる動機としては、「だって昔からそうやってきて、人類はうまくいってきたじゃない」という経験則がある。そして組織的な宗教は、信念に関わる原理のほかに、組織に関わる原理でうごくようになる。自然選択的な原理によって、自らを維持できない組織が脱落していく結果、組織維持に一定以上のリソースを割く組織宗教のみが生き残る。キリストがペトロに教会を築けと言わなければ、キリスト教が後の世にのこったかどうか疑わしい。ブッダの教えはサンガが継承・発展させたのだし、宗教改革プロテスタント教会がなければ組織的な抵抗にはなり得なかっただろう。組織宗教の重要な特徴は、組織そのものの存在にある。そして一般に「宗教」とよばれるのは、この組織宗教だ。

私は敬虔なひとでありたいと願う(願うだけかもしれないが)一方で、組織宗教は願い下げだ。それは坊主を嫌い続けた(それは多分個人的怨恨だったのだが)父親の影響であり、それ自身が非合理的な信念だ。いわば、宗教的信念によって組織宗教に反発する。とはいえ、積極的に組織宗教の本山に火をかけにいくような織田信長でもなくて、寺社に行けば小銭をさらって賽銭ぐらい投げる。葬儀に行けば坊主の読経も聞くし、結婚式では十字架に頭を下げる。自分自身は組織宗教と無縁でいたいと思うが、組織宗教が歴史的に果たしてきた役割や未来に果たす可能性がある役割まで否定しようとは思わない。

もちろん、歴史をみれば組織宗教が行ってきた悪行がそこかしこに目につくだろう。気分がわるいのでいちいちはあげない。その一方で見逃してならないのは、組織宗教が多くの弱者を救ってきた事実だ。たとえば仏教なんかは、もともと衆生の救済がその最大の目的であったわけで、歴史的に貧民救済事業なんかはずいぶんとやってきた。教会もそうだ。ムスリムに関して私はまったく無知なのだけれど、イスラム教の拡大の背景にはそれが社会の相互扶助を基盤としていることがあると聞いたこともある。権力から見放された人びとに力をあたえることは、多くの宗教が果たしてきた重要な役割だろう。

とくに、多くの宗教は、神の前での平等観から、社会からはじき出されたひとを積極的に拾い上げてきた。社会のなかに居場所を失った人びとを吸収する役割を果たしてきたのである。罪人であっても、悔い改めて宗教組織のなかで修行に励んで救済される道が用意されていた。江戸文学には寺に入って更生するような物語もあったように思う。宗教は、社会が養えなくなった規格外の人びとを引き取ることもできた(ある部分ではこのあたりは昔日のヤクザとかぶる部分もあるのだけれど、その話は長くなるだろうからやめておく)。組織宗教が提供する物理的な構造物は、あるときはシェルターとしての役割も果たした。そして、加賀の一向一揆のように、ときには権力に対抗する拠点にもなり得た。

 

もう20年以上前になるのだが、私は丹波の農村に一時居留していた。そのときに見聞きした話だ。ある家に、40歳に近い独身者が住んでいた。近所のひとの言葉では、彼は心の優しい人であった。けれど、勉強ができたわけではなく、また人付き合いがうまいわけでもなかったので、いつのまにか職をうしない、無職と、ときに臨時的な雇用との間を行ったり来たりする生活を続けていた。その数年前からは非正規の職もみつからず、母親の年金に頼って先祖伝来の田舎家でほそぼそとくらしていた。だが、そこで母親が亡くなり、彼は窮地に立たされた。彼が窮地に立たされたというよりは、その小さなむらで、地縁共同体的な関係にある数軒の家が困った。放って置いて餓死させるわけにもいかない。働きに出てくれればいちばんなのだが、本人にその気も能力もなさそうだ。野菜ぐらいなら余り物をもっていってやらないでもないが、現金までは出せない。一家をかまえる力のない男に、近所づきあいもできない。つまり、農村の相互扶助社会の一員としてみとめられるだけのことができない以上、相互扶助の対象になりにくいわけだ。なお、彼の家屋敷の権利は末子である彼ではなく、とうに地域をはなれてしまっている跡継ぎの血筋の方に移っている。無資産・無収入で、ただそこにいるだけの存在だ。本人もこのままではどうしようもないとわかっているのだが、かといってすでにどうしようもない状態が何年もつづいているので、いまさらといえばいまさらで、どうすればいいのかもわからない。通りすがりからみればいくら親戚の所有になっているとはいえ家賃をとられるわけではない家に住むことはできるのだし、1人が食うぐらいの小銭は稼げなくはなかろうと思うのだが、そういう生活力みたいなものと無縁で何十年も生きているとそれは相当に難しいことでもあるようだ。

そこで近隣の世話人的な縁者や遠い都会の跡継ぎ筋の親戚が相談した結果、彼は天理教に引き取られることになった。「天理教で修行をしてやり直させる」みたいなことを言っているひとがいたが、どちらかといえば天理教に厄介払いしたような印象でもあった。ただ、それが彼にとって一概に不幸であったとも思えない。教団の方で元気にやっているという噂も聞いた。持病もあるような話だったから、草深い田舎でひとり引きこもっているよりは、健康にもよかったのではないだろうか。田舎では社会的に居場所を見つけられなかったかもしれないが、宗教組織のなかで、どこかに自分の居場所を見つけたともいえるだろう。よかったとかわるかったとか言えるほどに私はそのひとも前後の事情も知らないのだけれど、そのときに、「宗教というのはこういう役割を社会のなかで果たしてきたのだなあ」と感じた。

 

私がこの農村に身を寄せていたのはわずか2年ほどのことだ。その前後は、そこから10kmほどはなれた地方都市でくらしていた。およそ、丹波という土地は、さまざまな宗教の交差点だ。PL教や真光教の源流でもある大本教の発祥の地でもあるし、古来の寺社仏閣も多い。金光教天理教といった老舗の新興宗教の教会、もちろん創価学会支部もあった。

私が仕事をしていた事務所にしてからが、4階建てビルの4階にあったのだけれど、すぐ下のフロアには幸福の科学が入っていた。いや、私の事務所さえ、ずいぶんと怪しげだった。これは書きはじめると長くなるので端折るのだけれど、今回の選挙でいったら参政党みたいな感じのミニ政党(結局誰も当選しなかったので政党ですらないが)の事務を引き受けてたときもあるし、農業関係の小さな雑誌の発行所であったこともある。ある意味、幸福の科学以上に怪しげな人びとを惹きつける磁力を発していた。もちろん、まともなひともたくさん出入りしていて、私はいまでもそういった農村の人びとから力をもらっているのだけれど、紛れるように怪しい人もずいぶんとやってきた。ま、私自身がかなり怪しいので、類は友を呼ぶのだろう。

そのなかのひとり、Kさんは、統一教会の人だった。もちろん(といっていいのかどうかわからないが)最初からそうだといっていたわけではない。どういうツテで現れたのだったかもう覚えていないのだけれど、Uターンの新規就農者ということで自己紹介があった。農協の発行する機関紙の紙面トップに写真入りの記事があるのを見せてもらった。その頃で40歳ちょっとぐらいの、農村部では若手とよばれる年齢層の人だった。もううろ覚えだけれど確か10メートル×50メートルの相当におおきなハウスを2棟建てて施設園芸をやるのだという。「回転をあげて稼がないといけないから、小松菜とホウレンソウでいこうと思うんです」みたいな話だった。そのときには、「すごいひとがいるもんだなあ」と感心した。数百万円の投資をして、それを上回る売上をあげて経営を回していこうという。「もちろん無農薬です」と胸を張るので、売るのがたいへんでしょうというと、産直組織があって、そこにおくるのだという。「自分がつくる野菜だけじゃ手配できないから、市場のセリに参加する権利も手に入れたんですよ」という。地方都市の市場は、片手間で趣味のようにつくっている野菜が持ち込まれることもあるので、目利きをしっかりすれば品質のいいものを安くで仕入れることもできるのだそうだ。そういう野菜を仕入れてきて「産直」(と言えるのかどうか疑問だとそのときも思ったが)で消費者に直送する。そこに自分がつくる菜っ葉類を加えれば、売上は安定するというわけだ。たいしたもんだよねえと、素直におもった。

つぎにあったのは、まだ寒い2月の頃ではなかったかと思う。すっかりしょげていたので聞いてみると、大雪にハウスを潰されたのだという。大型ハウスは構造上、雪に弱い。とくに日本海側の重い湿った雪は、多くの被害をもたらす。それは地元の人だからよく知っていて、パイプも一回り太いものを使って頑丈に組み立てていたのだけれど、それでもやられてしまった。なにせぐんにゃり曲がってしまっているので、修理などできない。全面的に建て替えるぐらいしか方策はないけれど、そのためには倒壊したハウスの破れ果てたビニルや折れ曲がった鉄管を撤去しなければならない。産直のネットワークを抱えていることがこういうときには裏目に出る。野菜を安定して供給し続けるためには毎日の市場からの仕入れと出荷作業が欠かせず(平常時の数時間のハウスの世話に割く時間は余裕であるとしても)、こういう非常時にハウスの撤去に集中してかけられる時間が取れそうにない。

ここで、私は施設園芸の過酷な経済を教えられることになった。Kさんが「農協の融資」だといっていたのは、実はリース契約でしかなかった。「3年で完済したらあとは自分のもの」といっていたハウスは、(農協職員の口約束は知らないが)実際には3年の使用権でしかなく、つまりはその数百万円の投資は、投資でもなんでもなく、少なくとも契約上は施設使用料でしかなかったようだ。最初の数年は売上をすべてつぎ込んで融資の返済に当てるという計画は、実はどこまでいっても売上は農協に入っていくというしくみでしかなかったようだ。もちろん、口約束ではたぶんリース落ちのハウスは「どうぞ使ってください」ということになるのだろうし、その際のハウスの土地の使用料は微々たるものになるのだろう。にしても、それは契約書のどこにも書いていなかった。しかしまた、もしもハウスの所有権が農協のものであるのなら、大雪被害による損失は農協のものであるのが筋だと思われた。けれどKさんによれば、倒壊したハウスでも、融資の返済は続けなければならない。融資じゃなくてリース契約なんだろうと思うが、どうもそれ以外にも新規就農資金の融資はうけているようで、話が混乱している。なにが正しいかわからないが、毎月の支払いだけは確実な数字のようだ。なんだ人生のすべてを農協の借金のカタにとられてるみたいじゃないかという感じだ。これがUターン新規就農の現実なのかと、まだまだ田舎のシロウトだった私は暗澹たる思いでその話を聞いた。

けれど、Kさんはしょげてばかりではなかった。どこからその信念がくるのだか、とにかく頑張るという。そこで私は、ひとつ提案をした。地方都市に引っ越して1年以上がたつというのに、私はまだ自分の畑というものがなかった。せっかく農地が郊外に広がる場所に住んでるのに、土に触れる機会がない。運動不足にもなる。だったら、Kさんがハウスの残骸を片付けるのを手伝うというのはどうだろう。その代わり、Kさんが出荷するのに余る野菜を分けてもらう。私にとってわるい取引ではないような気がした。

Kさんは、一気に元気を取り戻した。「神様が助けてくれた」みたいなことも言っていたように思う。その頃までにKさんがクリスチャンだということは聞いていたので、「信仰のある人は言うことがちがうなあ」ぐらいに私は思った。そして、それから1ヶ月ばかりたって春の日差しが戻りはじめたころ、私はKさんに連れられてその倒壊したハウスの現場を訪れた。思った以上に悲惨な状況だったが、私はこういうグチャグチャなところで頭を使いながら身体を使うのは嫌いじゃない。半分楽しみで片付けに通うようになった。Kさんは1回か2回野菜をくれたほかは忙しいのかめったに会わない。けれど、近所の婆さん連中が通りがかりに野菜をくれるようになった。隣のハウスのプロ農家とも知り合った。彼は地元の若手ホープであり(といってもKさんとたいして年齢は変わらない)、トマトを周年栽培していた。なるほど、このぐらいしっかり出荷できるなら、農協の支払いもどうということはないのだろうという感じだった。もちろん大雪でもハウスを潰すことなどなかった。

鉄骨やビニルの残骸を片づけた跡地に、ハウスが再建されることはなかった。Kさんにはとてもそれだけの余力はなかったわけだ。その代わり、Kさんは跡地に露地栽培をはじめた。たかが1反ほどの露地栽培でどれだけの売上が見込めるのかわからなかったが、放置しておいたところで始まらない。私も手伝って夏野菜を植えた。けれど、その収穫ができる頃になると、Kさんは畑に現れなくなった。ナスもトウモロコシもどんどん盛期を過ぎるから、しかたないので私は出荷できなさそうなのからもいで食べるようになった。たまにいいのがなくなってることがあったから、「ああ、Kさんが出荷したんだな」と思う程度で、その夏はほとんど顔を合わせることがなかった。そのまま季節が巡って翌年の春ぐらいじゃなかったかと思う。突然Kさんが事務所にやってきた。そして、「仲間がやっている集会があるんだけど、来ないか」という。ここに来てようやく、私はKさんの「キリスト教」が、カトリックプロテスタントの教会ではなく、なんらかの新興宗教なのだろうと思い至った。めんどうなので断ったのだけれど、しつこく言うので詰まっている予定表を見せると、「その空いている日でいい」と言う。そうなると断るのもおかしいので、じゃあその日に、と訪問することにした。行ってみると、学生の頃に話に聞いたことがある統一教会だ。なんだかしらないけど奇妙な踊りをしてるビデオを見せられ、「どうだ?」と聞くから「いや、もういいです」みたいなことを言って退散した。実際、たかが数十分のビデオだったけれど、時間を損した以上の感想は出てこなかった。あれ、なにがしたかったのか、未だに理解できない。

その後、Kさんとあったとき、「まつもとさんは神の使いだと私は信じていますけれど、神様のことを話したくないのは理解しますから、まつもとさんとは農業のことだけにしますね」みたいなことを、気を悪くしないでください的な口調で言った。私は別に人の信仰はその人のものだからどうでもいいと思っていたので、とくにKさんとの関係がその一件で悪化したこともなかった。ただ、いろいろと思い当たるフシはあった。

Kさんの「産直」は、つまりは統一教会の信者向けの事業だったのだ。だから、安定していた。信者なら、教会関係で回ってくる野菜には文句を言わずに金を出すだろう。そういう意味では、Kさんが曲がりなりにも新規就農者として食っていけたのは、統一教会のおかげであるわけだ。けれど、その売上の大半は、農協への支払いに充てられる。Kさんは、産直の売上だけでは足らず、いろいろとアルバイトを掛け持ちするようになった。そうやって稼いだお金でなんとか農協への支払いを続ける。「3年で完済したら」という話を何度も聞かされたが、隣のハウスのプロ農家の話とかいろいろ総合すると、どうも夢を見ているような気がしないでもない。子どもも多く、家族を養うのもたいへんなKさんは、たまに顔をあわせるといつも忙しい、しんどい、金がないと言っていた。そして、たまに神様のことを話した。話してから、「あ、まつもとさんにはこういう話はしないことになってましたね」みたいに謝るのだけれど、神様の話をしているときは目の光り方が全くちがっていて、正直、私は少し怖かった。

その後も私はハウス跡の畑に通い続けたけれど、Kさんはもう現れなくなった。畑の主がいないとはいえ、放置したら草だらけになるだけだ。仕方ないので、私は自給用には広すぎる畑を自分の裁量で耕すようになった。そうやって出入りしていると、近所の人から噂を聞く。Kさんは最終的にはもちこたえられず、都会に舞い戻っていったそうだ。農協と宗教、どっちがKさんの生活を破壊したのか、私にはいまもわからないでいる。

 

とにもかくにも、組織宗教は願い下げだ。それは、新興宗教だけではない。いや、むしろ旧来の宗教の方に私は強く反発を感じる。それは先に書いた父親の私怨(たしか小学校時代にお寺のボンボンに地域でもっとも貧しい地区の子だというだけで相当に馬鹿にされたとか言っていたと思う)の影響もあるのだろうが、やっぱり先に書いた農村に居留していたときの経験が大きく影響している。数十軒しかないちいさな集落だったのだが、高齢化の時代ということもあって、何度も葬式があった。その葬式のたびに、きらびやかな格好で地域の寺の僧侶がくる。あるとき、私の住んでいる家の隣人が死んだ。50歳前の、農村では若いひとだ。元は板前だったらしいのだけれど、身体を壊して生家に引きこもるようになっていた。数年前に同居していた母親が死んでからは、母屋は荒れるままにして、離れに引きこもって病身をいたわっていた。その彼が、死んだ。無一物の貧しさの中でしんだ。その葬式、坊主がベンツでやってきた。デカすぎで、むらの道に入らない。交通整理係が嘆くのだ。あんな外車、傷をつけるわけにもいかないし、かといって坊さんを遠くから歩かせるわけにもいかない。あちこち整理して、ようやく場違いな空き地にとまった車から降りてきた血色のいい僧侶を見て、私は心底、仏教というものに絶望した。これはありえんわと思った。貧しさのなかに放置した挙げ句、死んだらいそいそとやってきてお布施をぶんどっていくのかよと、呆れるばかりだった。

 

農業は、宗教と相性がいい。複雑系である農業は、合理主義でつめていってもなかなかうまくいかない。やるだけのことをやっても、結局は祈ること、感謝することでどうにかなる部分はなくならない。だから、農村には古くから地域の寺社があるのだし、明治や昭和の頃からの新興宗教もけっこう根を張っている。世話になった農家でお昼をごちそうになったとき、その床の間に真光さんの軸がかかってあるのにようやく気がついたこともある。列車の窓から「あれが大本の農場」と教えてくれた人もいた。新規就農の若い人たちには、そういった組織宗教には属さないけれど、「スピリチュアル」な指向性をもった人がすくなくなかった。自然を相手にする仕事をしていると、やっぱり人間を超えたなにかを思ってしまうのは無理のないことなのだろう。

私はそういうものを否定したいとは思わない。一方で強く合理主義を信奉しながらも、同時にそれで全てが割り切れるもんじゃないよとも思っている。だから最初に書いたように、できれば敬虔な人でありたいと願っている。だが、組織宗教の生臭さ、胡散臭さには辟易する。宗教に限らない。組織というものには、つねに警戒心を抱く。それは、組織が不可避的に組織の維持・拡大を原理としてそこに組み込んでいるからだ。

人間は社会的存在であるから、かならず他者と協同して生きる。その協同のあり方に秩序をもたらすのが組織だ。だから、組織をつくることは社会生活においてはごくあたりまえなのだし、その組織が安定していることも、ある程度は重要だ。けれど、組織は目的ではない。目的を果たすための道具だ。目的が達成されるのであれば、組織そのものの存在は重要ではない。ところが、一般に、組織はその組織の維持・拡大を目的に組み込んでしまう。宗教でいえば、かならず布教が信者の義務になる。なぜなら、維持・拡大を意識しない組織はやがて消え去ってしまうからだ。「生き残るものだけが生き残る」という身も蓋もない自然選択原理によって、維持・拡大を原理に組み込まない組織は消えていく。ときには、本来その組織ができた目的以上に、維持・拡大に特化した組織だけが生き残っていく。宗教に限らない。既得権益をがっちりおさえてあらゆる手段で新規参入者をはばむような組織をみていると、「それって本来の自分の存在意義を忘れてるんじゃない?」とおもわざるをえないことがよくある。そういった組織のもっともおおきなものは、国家であるかもしれない。本来は人びとの幸福を最大にするために存在するはずの国家なのに、やたらと好戦的で、勢力の維持・拡大に多大なリソースを割く軍事国家などはその典型だ。ミサイルにかける金を困ってるひとにまわすのが本来だろうとおもうのだけれど、それでは生き残れない。結局は人民を飢えさせても軍備を増強するような国が生き残ってしまう。

そういう奇妙な現実を是正していくには、組織なんてないほうがいい。けれど、なければ不便だろう。だから、あらゆる組織には、その寿命をあらかじめ設定しておくべきだと、私はいつのころからか夢想するようになった。存続のための存続をゆるさない天寿があれば、組織の自己目的化は避けることができるんじゃなかろうか。そういう夢想は、やっぱり非合理的で、だから私の宗教なのかもしれない。さて、布教活動を…