Twitterをはじめてみた

Twitterのアカウントをつくった。特に深い意味があるわけではない。

Twitterを最初に使い始めたのは割と古く、2010年初頭のことだ(アカウントそのものはもう少し前につくっていたようにも思う)。ブログを書き始めたのが2006年で、その頃はいろいろな選択肢があった。いろんなサービスも出ては消えという状態で、その中で「ミニブログ」として注目を集めていたTwitterにも興味を覚えた。リーマンショック後で仕事の先行きも不透明な中、「これからはソーシャルメディアだ」との掛け声もあって、ちょっと乗り遅れ気味ではあったけれど、「Twitterぐらいやっとかないとなあ」という気持ちで始めたように思う。

やってみると、それなりにおもしろかった。それまでつながることが思いもよらなかった人々と知り合うことができた。特に東日本大震災のときには、Twitterの力に驚かされた。そこから見えてくる世界が自分の知っている世界とまるで違うことに、社会の複雑さを思い知らされた。震災までの1年間の助走期間があったことは自分にとって幸いだったと思う。

ただ、SNSは時間食いだ。リーマンショックでも途切れることがなかった翻訳の仕事が地震の後ぱったりと止まってしまい、急速に金に困ってくるようになって、しかたがないから事務所は開店休業にして働きに出ることになった。そうなると、とてもTwitterなんかやっている暇はない。そこで得られた関係を切るのはつらかったけれど、やむなくフェードアウトすることにした。いつか戻るつもりで、アカウントは残していた。

何年かたって戻ろうとしたとき、もうパスワードも忘れてしまっていることに気がついた。めんどうなのでまたしばらく放置し、さらに数年たってまた気になった。実はTwitterのアカウントは仕事用とプライベートとブログの宣伝用を分けて3つつくっていたのだが、早い段階でほぼ活動をやめていた2つは整理して消してしまおうと思った。そして残りの1つは復活させようと思ったのだけれど、その肝心のプライベート用のアカウントに設定していたメールアドレスを、その少し前に失っていることに気がついた。パスワードを失ってもメールアドレスがあれば戻ることはできる。そのはずだけれど、メールアドレスまで失ってしまっていては、どうしようもない。戻ることもできず、消すこともできず、Web上のゴミとして、私の古いアカウントは管理不能になってしまった。大失敗。

それからかなりたって、2年ほど前だったか、Instagramをやってみようと思って、その際にTwitterアカウントを新たにつくった。ただ、こちらはInstagramを続ける体力がなかったせいで、ろくろく使いもせずに干からびてしまった。ほとんど何も使わずに、結局は消してしまった。

 

なぜ、古いアカウントからフェードアウトしなければならなかったのかとか、なぜ2年前につくったアカウントを使えなかったのかと考えてみた。それはある意味、私が「正しく」Twitterを使っていたからだろう。当初の「ミニブログ」という認識とは異なって、Twitterは実際にはコミュニケーションのツールだ。フォローし、フォローされることで、そこに緩いコミュニケーションが成立する。興味をもった個人のアカウントを追いかけて「そうか、そういうこともあるか」と思ったり、「こんなことがあったんだよ」という独り言に反応してくれる人がいるのに喜んだりする。おそらくそれがTwitterの王道の使い方なのだろう。ただ、そういうコミュニケーションのためには、タイムラインをある程度は追いかけていないといけない。全部が全部読むことなんてできないし、特に私が抜ける頃からタイムラインの仕様が変化してフォローしていないアカウントからの情報もどんどん流れるようになってからは、タイムラインをどこまでも追いかけることなんておよそ無理になっている。それでも、眺めている時間が多ければ多いほど、Twitterを楽しめるような仕組みにはなっている。それは時間の限られた私には無理だ。だからもうTwitterは自分の生活からは切り離すしかない。もうそこに戻ることはないだろうと思っていた。

 

けれど、しばらく前から、考えの断片をどこかにメモしておく必要があるかもなあと思うようになった。ちょっと物騒な話なのだけれど、奈良の発砲事件のあと、容疑者のTwitterアカウントが発見され、過去の投稿が流布するという出来事があった。それによって、容疑者がその数年間にどんなことを考えていたのかが可視化される。これはおそらく、今後の公判やその後の犯罪をめぐる議論のなかで、ますます重要な役割を果たしていくことになるだろう。そういう意味では、非常に貴重な記録でもある。

私は別に重犯罪を犯す予定はないのだけれど、やっぱり自分の日常をどこかに残しておくことは意味あることではないかという気がし始めた。もちろん、長くブログを書いてきているので、その軌跡は残っている。既にサービスをやめたところに書いていたものも、少なくともローカルにはログを保存してある。日常の記録、日記みたいなものはたしかに残っている。ただ、ブログはやっぱりある程度はひとの目に触れることを想定して書いている。だから、ある程度のまとまりはある。

もっと断片的な想念は、日々に起こる。ほんの二、三行のそういった思いは、書き留められることもない。それだけの値打ちもないだろう。けれど、それを蓄積しておけば、やはりなにかの役に立つような気がする。いつか消えてしまうものとしても、少しの役には立つ可能性がある。誰かがその跡をたどるのか、自分がたどるのか、そんなことは全く起こらないのか、よくわからない。よくわからないけれど、よくわからない未来には、多少の投機はしておいてもいい。

 

だから、今回、私はTwitterの「正しい」使い方はやめようと思う。これをコミュニケーションのためのツールとして使うのはやめようと思うわけだ。タイムラインなんて見ていられない。そこはスッパリとやめる。そのためにはフォローはしない。フォローなんてするから、その人のことが気になるのだ。いや、気になるひとはいる。けれど、追いかけるのはやめる。そんな時間はない。そこに時間をかけて自滅するぐらいなら、やらないほうがいい。残念だし寂しい話だが、そこは割り切ろう。

純粋に、自分自身のメモとして使う。そういう使い方なら、しばらく続けられるかもしれない。だから、フォローも、フォローバックもないし、リツイートやらコメントやらがあっても基本的には読まない。そういうことをやらないことを前提にすれば、たぶん、しばらくは使い続けられるだろう。その意味は十分にあると思う。たとえばこの先、私が老年性の痴呆になっていくとしたら、その過程を追いかけることができるかもしれない。それはそれでひとつの知見だろう。

 

あと、実利的なこととして、TwitterアカウントがないとTwitterで流れてる情報が読みにくいということがある。すぐに「アカウント作れ」と言ってくるんだから。まあ、営利企業のサービスなんてそんなもんなんだろうけど。なんだかなあという感覚は、どうしても抜けない。

 

Jun Mazmot (@JunMazmot) / Twitter