無敵の人になる方法 - はみ出し者の組織における役割

家庭教師を派遣する小さな会社に雇われて子どもに教え始めてからちょうど8年になる。初めての生徒をもったのが2013年の2月だった。いまでも印象に残っている。あの頃は、私もまるで素人で、生徒にずいぶん迷惑もかけた。私だけじゃない。会社もいまよりもずっといい加減だった。私自身が会社に不信感をもっていたし、会社の方も講師は使い捨てという態度だった。実際、2年ほどで最古参になれたぐらいに人の入れ替わりが激しかった。ロクなことではない。

この8年で私は大きく変わった。あの頃には夢想もしなかったオンライン授業までやってるんだから、わからないものだ。そして、会社も変わった。まだまだ「ちょっとどうなの?」的ななところは多いけれど、ずいぶんとまっとうになった。ブラックだった労働環境も、ホワイトとまでは言わないが、だいぶ明るい色になった。それを証拠に、ここ4、5年は講師陣の顔触れがほとんど変わらない。ポツポツとメンバーの入れ替わりがないわけではないが、以前のように数ヶ月で消える人はいなくなったし、いつの間にかいなくなって「あれ? 辞めたの?」みたいなこともなくなった。このぐらいの人の入れ替わりはどこの会社でもあるだろう。人が安定することは組織が安定することでもあるし、サービスのレベルが維持され、向上していくことでもある。正直、こんなふうに変わるとは想像もしなかった。

とはいえ、私はこの家庭教師サービスを全国展開している会社とは、個人事業主としての業務契約を締結しているに過ぎない。いわゆる「契約社員」というやつだ。だからどれだけ会社が成長しようが、ある意味では他人事である。私がこの会社の仕事を始めたときはそういう立場の講師も多かったのだけれど、途中から会社は正規雇用の常勤講師の比率を増やす方向に舵を切った。安定し始めたのはその頃からで、やっぱり経済的な保障が何よりも重要なのだなあと思い知らされた。ちなみに私が「正社員」にならなかったのは自分にとってそのほうが都合がいいと判断したからで、そのことは5年前に電子書籍として出した本の中で詳しく書いた。繰り返しになってもいけないので、詳しくは書かないけれど、興味があったら読んでみてほしい(末尾にリンクを貼っといた)

会社の体質が変わったのはファンドが入って経営が変わったことがひとつの理由だ。ただ、その少し前から変化の兆候はあった。そして、単純に経営者が変わっただけで何もかもが変わるわけもない。やはり現場の一人ひとりの意識が変わったことが大きい。その変化のためにはやっぱり自由にモノが言える雰囲気が大切だ。そして、古参講師のひとりとして、私はそういう空気をつくるのに多少の寄与をしてきた自負がある。口幅ったい言い方ではあるが、大きな変化の中のごく小さな部分は、自分がいたからだと思っている。言葉をかえれば、そういうふうに思えるからこそ、ときに「しょうもない会社やなあ」と思いながらも、私は未だにその会社の仕事をしている。そしてたぶん、まだしばらくはそれを続けるつもりでいる。なぜなら、その「しょうもない」部分を少しでもマシにしていけると思うからだ。

ダメな勤務先は辞めればいい。基本的に私はそう思っている。ダメな連中のために自分の貴重な時間を潰すべきではない。ただ、ダメなところを辞めて、次にマシなところに移れるかといえば、その保証はない。だんだん年齢を重ねてくると雇用のチャンスはどんどん小さくなる。ある時点から私は、ダメなところから次のダメなところに移るより、ダメな場を少しでもよく変えていくほうが面白いと感じるようになってきた。それが常にできるとは限らない。けれど、できるのならそうするほうがエネルギーの使い方として賢いのかもしれないと思えるようになってきた。

ダメな職場に勤めている人の多くは、「ああ、ここ、ダメだなあ」とか「どうにかしてくれないかなあ」と思ってる。けれど、たいていは黙っている。言ったところで変わるもんじゃないし、批判ばっかりしてると空気を悪くする。周囲から煙たがられるし、場合によっては上から睨まれる。下手をすれば給料や雇用に響いてしまう。余分なことを言うことで職を失うぐらいなら、少しのことぐらい我慢すればいい。それが人生というものだと、目先のことに集中する。そうしていれば、どうにかこうにか生きていくことができる。ま、はなっから問題なしと思い込んで政治ゲームにうつつを抜かすような人々だっているし、もともと自分の目先のことにしか関心のない人だっている。そういう人はそういう人だ。けれど、話してみるとけっこう多くのひとが「もっとこうすればいい」みたいなことを思いながら黙っている。身の安全のために黙っている。

ダメな場を少しでもよくしたいと思うのなら、そういうひとが声を出せるようにするのがいちばんだ。なぜなら、自分ひとりでは絶対に大きな場を変えることはできない。それだけのエネルギーもないし、だいいちが、自分自身の問題意識が正しいかどうかもわからない。「絶対こうなった方がいい」というアイデアがあっても、自分しか賛同者がいなければ基本的にそっちには動かない。けれど、多くのひとが賛同するようなアイデアであれば、意外に簡単に場は変わる。じゃあ、賛同するひとがいるかどうかっていうのが問題だけれど、それは皆が自由に喋るようにならなければわからない。皆が意見を言えるようになったら、場は変わる。ときには自分から見て「あれ? かえってわるくなったんじゃないの?」って方向に変わることもあるけれど、変わるときはチャンスだ。止まっている石は動かせないけれど、転がりだした石は脇から小さな力を加えるだけでうまくすれば望んだ方向に向きを変える。変わり始めたら、まずそれだけで大きな第一歩だ。

そしてここで、私のようなはみ出し者が役に立つ。正規雇用の常勤の講師たちは、そうそう簡単に声を上げられない。生活がかかっている。けれど、時間いくらで契約している私のような立場なら、いくらでも言いたいことが言える。だから私は、この8年間、会社のミーティングに出席するたびに文句を言い続けてきた。自分に関係のない常勤講師の問題にまで首を突っ込んで文句をつけた。なぜなら、常勤講師が働きやすい職場になれば会社全体のクォリティが上がり、それが自分の仕事のしやすさにつながってくることに気づいていたからだ。末端の労働提供者に過ぎないくせに、会社の経営方針にまで偉そうに意見を言った。もしもそういう変化が起これば、自分の仕事がやりやすくなることがわかっていたからだ。

ふつう、そこまではできないと思う。なぜ私ができたのかといえば、「クビにするならいつでもクビにしてくださいよ」と言える立場をつくりあげてきたからだ。いわば、組織内の「無敵の人」だ。一般に「無敵の人」は悪い意味で使われる。安定した社会のルールを無視して好き放題に振る舞うその姿勢は、秩序を壊すだろう。けれど、ダメな組織を変えようと思ったら、そういう無敵の人が必要だ。私は半ば意図せず、半ば意識的に、そういう人になった。

通常、雇用者と被雇用者の立場は、圧倒的に後者が弱い。雇用者が「嫌なら辞めてもらってけっこう」という言葉と、「嫌ならいつでもクビを切れ」という言葉では、強いのは前者だ。後者は普通、負け犬の遠吠えにしかならない。そうならないようにするためには、本気で「辞めさせたければ辞めますよ」と言えなければならない。そのためには2つのことが重要だ。

まずひとつは、「こいつを辞めさせたら損だな」と会社に思わせることだ。これは案外と簡単にできる。もともと非正規雇用契約社員は常勤の正規雇用に比べて会社にとってメリットがある。なにせ安いから。ぶっちゃけの話、家庭教師の給料なんて底辺レベルでしかない。正規雇用だとそうではあっても固定給に保険だとか賞与だとかいろいろ付いてくるから多少はマシになるのだけれど、非正規だととにかく安い。これはデフォルトで会社のメリットだ。ただ、それだけなら「代わりはいくらでもいるよ」というのが産業革命以降の雇用者の立場になる。そう言わせないためには、真面目で優秀な従業員になることだ。難しいことではない。余分なことに気を回さず、求められたことをやればいい。この会社が講師に求めているのは、第一に生徒を辞めさせないこと、第二に生徒家庭から追加の授業を申し込んでもらうことだ。つまり売上を減らさず、増やすことだ。この2点だけそつなくこなせば、それができない他の講師よりも評価は上がる。会社がぜひとも手放したくない講師になれる。

もうひとつは、それでも万一辞めなければならなくなった場合でも困らないだけの準備をしておくことだ。それは、自らの技量を磨いておくことだ。プロの家庭教師として、そのレベルを高めておけば、いざというときの保険になる。なぜなら、その技術はそのまま会社を辞めても使えるからだ。たとえば、私は常に会社とは無関係な生徒を何人か確保しておくことにしている(私が非正規雇用を選んだ理由のひとつはそこにある。並行して個人営業が可能だから)。もしも会社を辞めても、最低限の収入は確保できるし、生徒を増やせれば失った分もカバーできる。じゃあなぜすぐにそうしないのかといえば、個人で生徒を集めるのはめんどくさいからだ。会社にぶら下がっていれば生徒を集める方にではなく、教える方に集中できる。そこはメリットだ。けれど、常にスキルを磨いていれば、会社にすべてを依存する必要はなくなる。使ってくれるならそれはそれでいいけれど、嫌なら自分でやるよという姿勢が身についてくる。あるいは、他の会社に行ってもいいよと言えるようになる。

会社にとって惜しい人材になることと、会社に生活のすべてを依存しないようにすることと、この2点で、会社という組織内で私は無敵の人になれた。利害はあるけれど執着のない関係者になれた。だから、言いたいことは遠慮せずに言う。それが組織内を活性化して、会社がいい方向に変わるのに少しでも寄与したと、自分ではそんなふうに思っている。

「それってタダ働きじゃない?」と言われたこともある。こういう自慢話をすると、鋭い人は気がつくのだ。組織が良くなることでトクをしているのは会社であり、私ではない。捨て身の無敵の人になることで、私はリスクを背負い、会社は活性化する。それって単純に損じゃないかというのだ。それはそうかもしれないなあとも思う。けれど、そこまできたら、私には別な動機があるのだということがわかってくる。

それは、会社の方針をもっと大きく変えることだ。たとえば、いま、会社では講師の標準的なプラクティスとして、宿題を義務付けている。どんな生徒であっても、毎週、宿題をきっちり出さねばならない。私はこれを変えたいと思っている。なぜかといえばそれは子どもたちのためにならないと信じているからだ。その信念のもとをたどれば宿題嫌いだった昔の自分がいる。だからこれは宗教みたいなもんだ。宿題根絶は私の悲願だ。だからまず、ひとつの会社で「宿題は必ず出すもの」という思い込みを、「宿題は必要に応じて出すもの」というごく当たり前の実践に変化させたい。その上で、「必要なんてほとんどないじゃない」という事実に気づかせたい。そうやって、宿題依存の業務形態を変えさせたい。そんなもの、ごく小規模の特殊な家庭教師会社ひとつ変えたところでどうなると言われるかもしれないが、もしもこの会社がそう変わることで他社に差別化ができ、営業成績が上がるようになれば、必ず業界に追随するものが現れる。世の中の変化はそういうふうにして起こすものだと思う。そこまでできたら、多少自分に損なところがあっても本懐ではないか。

だから私は、いまもときどき思い出したように、会社のミーティングでは「宿題なんて毎回出す必要ないですよ」とか、「習慣だからって勉強するのは害悪でしかないですよ。あれは必要だからやるんです」みたいなことを言う。無敵の人だからそれを言えるのだし、そういうことを言っていると、そのうちに「そこまで言ってもええんやな」という空気が生まれてくるはずだ。そしたら、本当の意味での議論が始まる。そして、議論の中で会社も変われば、私も変わる。それが楽しくてしかたない。

人生、楽しまなければ損だ。だから私は、あえて組織におけるはみ出し者になる。追い詰められてはみ出すのはしんどいだけだ。楽しくなんかない。けれど、自分からきっちりと準備してはみ出すなら、こんなにおもしろい役回りはない。人がそれを道化と言おうが、それもまた、人生。

 

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