正社員的な雇用をされていた人が独立して自営業として、あるいは事業を立ち上げて、同じ業務に携わるのは、珍しいことではない。私の周辺のごく狭い世界でも、たとえば去年、家庭教師の会社の営業をしていた若い人が独立して営業専門の会社を立ち上げた。若いころ私が修行させてもらった編集プロダクションはほぼ社長一人の個人営業に毛の生えたような(それでも一応は株式)会社で、社長は当時業界トップから転落したばかりの学参出版社の部長職から飛び出しての起業だった。その会社の周辺には、同じように会社からはじき出された編集者や営業がフリーランスとして数多くいた。社長の話によると1970年代なかばに出版不況があり、そのときに潰れたり人員整理をした会社がけっこうあって、そこから十年後の当時の出版業界は人材がだぶつき気味だったのだそうだ。フリーランスとして古巣の仕事を請け負う人々が数多くいて、それが出版業を支えるようになっていた。そういうことも知らずに業界底辺である編集プロダクションにアルバイトとして飛び込んでいった私もずいぶんいい加減なものだが、やがてそこで正式に雇ってもらえることになり、そこでの仕事が後の私の人生を左右することになった。ほんっと、わからないものだ。
だから私はこの非正規雇用の時代になるずっと前から非正規雇用の世界で生きてきたことになる。ここまでの生涯を通じてみると、その編集プロダクションで正規雇用になってからの3年を含め、会社に保険を払ってもらって雇われていた年数は合計6年にすぎない。あるいは、それに自分で会社をつくってそこに在籍した5年を加えても、わずか11年ばかりに過ぎない。それ以外は、すべて自営業として過ごしてきた。フリーランスという言葉が定着する以前にはプータローとかフリーターと呼ばれたときもあったし、「自由業」みたいな言葉で呼ばれたときもあった。他人がなんと呼ぼうが大きな括りでいえば「自営」になるわけで、私は基本的にずっとそれで通してきた。15年前からは屋号もできて、青色申告もしている(その前は白色だった)。フリーランスとしての生き方には、それなりに心得がある。そのいいところもわるいところも知っている。
その上で私は、どちらかといえば会社員的な生き方よりもフリーランス的な生き方の方に共感する。会社にぶら下がって生きる人生が多くの不幸の原因であるとさえ思うこともある。駆け出しの頃はそうは思わなかった。二十代の頃には、まともな会社でまともな給料で雇われることができなかった自分をひどく惨めに感じていた。自分自身がそれを選んだのだということがよくわかっていたのに、なぜ自分がそうしたのかをどうにも理解できなかった。
それが三十代になって、自分自身の非正規な生き方を振り返って、発想が180度逆転した。実はフリーランス的な生き方こそが正しいのではないかと思うようになった。そして、その発想をベースに、小さな会社をつくった。当時はまだ有限会社というものが存在したので、登記が簡便なそちらを選んだ。そして通算で6人の若い人を雇用し、5年間、経営を続けた。その5年で私は多くのことを学び、世の中そんな単純なものではないのだということを痛感させられた。
なんでこんな昔話を書いたかというと、こんな記事
につけたブコメ
タニタ公式Twitter「中の人」、退職していきなり個人事業主になって不安じゃないですか? | サイボウズ式
会社つくった25年ほど前に、こういうこと考えてた。会社員みたいな生き方はおかしいから全部フリーランスになるべきで、そういう人々を生み出す会社をつくりたいと。やってみて、自分の誤りに気がついた。長い話だよ
2020/02/05 12:13
に思わぬ星がついてしまったからだ。だれも読まないだろうと思って書いた個人的な感慨に、注目する人がそれなりにいたようだ。そして、id:micromillion さんからはidコールまで頂いた。自分一人で納得しているわけにもいかなくなってしまった。この短い100字のコメントでは、何が言いたいのだかわからないだろう。もうちょっとだけでも、わかるように書かねばならない。
ただ、これはほんと、長い長い話になる。私の人生の中でも最もややこしい時代のことであり、その説明をはじめるとどこまでも話が広がっていくことになるからだ。
自分の人生に関しては、これまでも自伝的なエッセイをいくつか書いてきた。いずれも書籍にするつもりで書いたものだから、かなり長い。ひとつはなぜ自分が翻訳者になれたのかを書いたもので、これははるか昔、有料メールマガジンというものが存在したときにそこで販売した。もうひとつはある健康食品系のベンチャー企業に在籍した2年間のことを書いたもので、これはその会社との守秘義務にも触れるから私家版として10冊だけ制作してごく限られた人々にだけ読んでもらった。さらに、十年ほど前にある出版社との間で料理に関するエッセイを書く話が持ち上がり、いろいろと悩んだ挙げ句に自分自身の半生を追いかけながら料理のエピソードを盛り込んでいくという形で1冊書き上げた。ただし、これは出来がよくなかったらしく、ボツ原稿となってしまった。これも、(冊子の形にはしなかったが)何人かの人には読んでもらっている。
これらの3冊で私の生涯はほぼ網羅できると思ってきた。私が死んだあと、子孫のなかに私のことを知りたい人が現れたとしても、この3冊を残しておけばだいたいのことはわかってもらえるだろうと思ってきた。けれど、実はこの3冊で触れなかったことがある。それは、自分がつくり、そして手放してしまった小さな会社のことだ。このことは、どの本でもほとんど触れていない。
そのぐらい、私にとっては書きにくいことなのだ。だが、いつかは書かねばならないと思ってきた。書かなければいけないと思いながら、先延ばしにしてきた。
ひとつには、自分にとって失敗を見つめることが辛いことだからでもある。自分の愚行だけなら、いくらでも振り返ることができる。恥ずかしいと思いながらでも、人に言うことだってできる。だが、自らの愚かさが人を傷つけてしまったことについては、やはり忸怩たる思いが抜けない。できれば触りたくないと思ってしまう。また、会社というパブリックな存在のなかで、私が書いてしまうことで差し障りを感じる人もいるかもしれない。それが筆を鈍らせる。
けれど、書かねばならない。なぜなら、会社をつくった当初より、それを実験であると私が位置づけていたからだ。レポートのない実験はありえないだろう。それは実験でも何でもなく、ただの遊びに過ぎない。そして、もしもそれが私の単なる遊びだったとしたら、それによって人生を狂わされた人々になお泥をかけるようなものではないか。
だから、これを機会に、自分が為そうとしたこと、為したこと、そして為し得なかったこと、そこから学んだことを書こうと思う。ただし、それはもう長い長い話になる。このブログの枠に収まるかどうかもわからない。だからとりあえず、できるだけ近いうちに執筆にかかる。そして、何ヶ月かかるかわからないけれど、うまくまとまったら、それをどこかで読めるようにする。それを約束してしまおう。そうしなければ私はいつまでたっても始めないだろうから。
だから、これは予告編だ。乞うご期待、とは言えない。以前のエッセイがボツになったことからわかるように、私の書くものはごく一部の人にしか評価されない。多くの人から見れば退屈極まりないものにしかならないだろう。それでもよければ、その節はよろしく、程度しか言えない。
なんともシマリのない予告編になってしまった。まあ、それがふさわしい程度のものなのかもしれない。いつになったら書き上げられるかなあ…