曲がり道を前にして

…クイーン学院を卒業したとき、未来はまっすぐに、一本道みたいに続いてる、そんなふうに見えた。マイルストーンがひとつひとつ、先の方にはっきりと見える気がした。でも、いま、道は曲がっている。曲がったところの向こう側に、何があるのかわからない。けど、もっとずっといいことがあるんだと信じようと思う。それはそれで素晴らしいことでしょ。道が曲がってることが。そこをぐっと曲がったら、その先がどこに続くのか、想像してみる。柔らかい輝きと陰影が緑に光る風景の中にゆれる、そこで見つかるもの。新しい景色。新しい美しさ。稜線や、丘や、谷間が進むにつれて…

L.M.モンゴメリの「赤毛のアン」(Anne of Green Gables)の最終章、私の最も好きな一節だ。レドモンドでの奨学金が受けられることになっていたアンは、マリラとグリーンゲイブルズを守るため、地元で働く決心をする。マリラに自分を犠牲にすることはないと言われて、こんな答えを返す。ふくらんでいた夢はいったん諦めても、その先に、もっと豊かなものが待っているのではないかと期待する。その強さは、若かった私の胸を打った。おそらく作者自身も気に入っているシーンだったのだろう。続編の「アンの青春」(Anne of Avonlea)できっちり伏線を回収している。

人生の中で、先のほうがずっと見通せるような気がするときは、確かにある。もちろんそれは、ときには希望が広がる真っ直ぐな道である場合もあれば、絶望だけがどこまでも続く苦難の道である場合もあるだろう。いずれにせよ、「あ、この先、こうなって、ああなって、こういうふうになっていくんだろうな」と予想できるときはある。細かいところまでは見えなくても、途中に置かれた一里塚の存在は見える。そこに至る途中で道端に何があるかまではわからない。ではあっても、どこを通って、どんなふうに進んでいくのか、それはだいたい把握できるような気がする。

けれど、それが見えなくなることも、実にまたよくある。一寸先のことも見えない暗闇もあれば、少し先のことまでは見えるけれど、そこから先はまるで想像がつかないときもある。ちょうど、モンゴメリの主人公が感じたように、少し先のことは想像ができる。その先は道が曲がっていて見通せない。そんなときには焦りや絶望もやってくる。それでも、そういうときこそ、曲がっていった先に広がる新しい景色を、雄大な山並みの曲線を、輝く風を想像すべきなのだろう。いや、ひょっとしたら、曲がった先は相変わらず暗い森の中で、やっぱり先は見通せないのかもしれない。あるいは期待したものとはまったく違った工事現場みたいな景色が待っているのかもしれない。けれど、想像するのはfree(自由&無料)だ。

少し前まで、私はなんだかこの先が見通せるような気がしていた。もちろん未来のことはわからない。細かいところはさっぱり見えない。であっても、いくつかのマイルストーンが先にあって、そこをうまいことこなしていけば、きっとたどり着けると思える場所も見えていた。その場所が夢に見た桃源郷であるかどうかはわからない。これまでの経験からいえば、そうでない可能性も高い。けれど、そこにたどり着きたいし、きっとたどり着けると思っていた。

その風景はもう見えない。突然に見えなくなったというよりは、だんだんと視界を遮るものが増えてきて、そして、急に森の中に導かれてしまった。少しだけ先は見えるが、そこからは道が曲がっていてもう見えない。この道を抜けて、もともと目指していたところに出られるのか、それともまったく別な方向に連れて行かれるのか、それすら見当がつかない。それでも前に進むしかない。人生の道に後戻りはない。

こうなることは、ある程度、予想はついていたはずなのだ。だが、なんだか自分のことのような気がせず、楽観視していた。「どうにかなるだろう」と、タカを括っていた。高齢の母親のことだ。ここ数ヶ月、急速に弱ってきた。父親が亡くなって以来、一人暮らしになってもうじき3年、その前の父親の入院中からいえば3年以上も一人暮らしを続けてきたけれど、そろそろ危ないかなと感じるようになってきた。もうちょっともつだろうと希望的観測をしていたのだけれど、床掃除の姿勢から立ち上がれない様子を見かけて、あ、やばいなと思った。ベッドに寝ているのでふだんの寝起きはできるとして、床のような低いところから身を起こすだけの筋力がない。いったん倒れたら命にかかわる可能性だってある。そろそろ一人暮らしは続けられない。

施設とか、いろいろ選択肢はある。けっこうな時代だ。兄夫婦ともいろいろ相談した。結論として、当面は私が実家に移動して、そこで生活するのがもっともよかろうということになった。というのも、私はいま、オンラインの業務ばかりで、仕事の面だけでいえばどこにいても同じことだからだ。まあこれは、ある程度、こういう事態を想定して意識して調整してきたことでもある。他の仕事を入れられなくはなかったが、無理に入れなかった。いよいよとなったら、自分が動くという想定で進めてきた。だが、その「いよいよ」が来ると、「あーあ」と思わなくはない。

それに、日々の業務はオンラインの家庭教師や英語の翻訳だけなのだけれど、ほかにもいろいろとやろうとしていたことはある。むしろ、そっちのほうが、遠くまで見通せる夢の大きな部分を占めていたとさえいえる。けれど、漠然としたそんな計画よりも、まずは目の前のことだ。目の前のことといえば高齢の母親と、それから日々の稼ぎ仕事だ。だったら自分が動くのがいちばん無理がない。現実とはそういうもの。そして、風景は一変した。地味な仕事を毎日こなしていくこと、お互い行動パターンのちがう母親となるべく衝突しないように生活を回していくこと、そんなことは見える。引っ越しまでのさまざまな準備も、日程に組める。だが、その先は大きな曲がり道になっている。どれだけの期間それが続くのかも予想できないし、どんなふうに状況が変化するのかもわからない。最終的にどんなふうに終わるのかも、想像を絶する。私の両親は、あまり典型的な生き方をしてこなかった人たちなので、その分、後始末もどんなふうにするのがいいのか、世間相場というものが通用しない。

しかし、だからこそ、私は「その先」にあるものを楽しみにしようと思う。この曲がり道の先に、どんな風景が待っているのか、ほんとうに想像ができない。想像ができないということは、どんな想像をしても自由だということだ。だったら、できるだけ美しい風景、喜ばしい風景を想像しよう。ちょうど、グリーンゲイブルズのアンがそうしたように、曲がり道の先を楽しみにしよう。

 

ちなみに、アンが進学を諦めた理由のひとつは、育ての親であるマリラの視力が落ち込んで失明の可能性さえ宣告されていたからだ。そもそも(当時の基準では)高齢のマリラとマシューの介護問題が発生することは、最初からわかっていたではないかと、傍からは思えなくもない。傍目だけではない。当人たちもそれは十分にわかっていたのだ。そもそも最初に子どもを引き取る話が出たのも、マシューが年齢のために肉体労働をきつく感じるようになったからだ。だから、そこで対策をしようとしている。男の子を引き取るつもりが女の子を引き取ることになってからでさえ、人を雇って対策をしている。それでもさらに年をとれば働けなくなる。それに対しては、ちゃんとコツコツためたお金を信託銀行に預けている。マシューは自分たちの老後に対してそれなりに堅実であったわけだ。けれど、銀行の倒産と、そのショックによる心臓発作という二重の不運があって、思い描いた老後の生活は全て消えた。人生なんてそんなものだろう。そして、この物語は、介護と生活のために進学を諦めるという悲惨な話として終わる。

けれど、これがそんなストレートな話だったら、「赤毛のアン」はここまで長く人気を保てなかっただろう。結局のところ、客観的な目線では悲惨に見えるストーリーであっても、中に入ってしまえば笑いもあれば感動もある。人生とはそういうものだ。インドの遠い地でシッダールタ王子が見たように、人生は苦に満ちている。生まれてすぐに人がするのは泣くことだし、死は苦しくないわけはない。仮に当人に苦痛がなくとも、周囲に苦痛を感じる人がいるだろう。けれど、じゃあすべての人間の物語は悲劇なのかといえば、やっぱりそこに別のものがある。なにか、もっと「生きててよかったじゃないか」と思えるものがある。だからこそ、望んだわけでもないこの人生、とりあえず最後まで見届けてやろうじゃないかという気持ちにもなれる。

いったんいろんなことを整理して、とりあえず目の前のことに集中して、それでも、希望は捨てないでおこうと思う。それがごまかしでも、かまわない。とりあえず先にいかなければ見えないものがあるのなら、そこまで行ってやろうじゃないかと思う。その先に何が見えるか、行ってみなければわからないのだから。