Web 2.0 以前のテレワーク - ノマド的生き方の思い出

私は若いころ、学参業界と呼ばれた出版業界の片隅でフリーの編集者をしていた。地味で泥臭い仕事で、だから大学を卒業しなかった私でも潜り込むことができたわけだ。主な業務は原稿作成から下版までの校正作業を含む一切だ。写植の時代から電算写植、DTP黎明期からDTPが標準になる時代ぐらいまで、そういう仕事をやっていた。編集プロダクションのアルバイトから修行を始め、足を洗う数年前は小さな会社をつくって事業にしていた。だから20年近い経歴はずっとフリーというわけではない。

もともとこの仕事、好きではなかった。生きるための稼ぎとして始めた仕事が、そのうちにクライアントの業務の流れに組み込まれ、抜けようにも仕事が追いかけてくるようになった。だから学参以外の仕事があれば必ずそっちを優先して請けるようにしていたし、学参の仕事は可能な範囲で下請けに出して、できるだけサボるようにしていた。もっとも品質は確保しなければいけないので、完全に丸投げはできなかった。このあたり、チキンな性格がよく出ている。

そんなふうに年月が過ぎていたのだが、ある年、「嫌な仕事とかゴチャゴチャ言わず、今年は死ぬ気で稼ぐぞ」と決心した日があった。というのは、その年は指導要領の改訂を受けての教科書大改訂の年にあたり、私が最も多くの仕事をもらっていたクライアントで大規模な業務が発生していた。そしてそのクライアントは電算写植へのデータ入稿を活用することで大幅な業務フロー改革を行って、その大波を乗り切ろうとしていた。その中で、データ入稿ができる実行部隊として、私に白羽の矢が立った。可能な範囲でいくらでも仕事は受注できる。ただし、まだまだ経験の蓄積されていないデータの世界だ。中途半端なことでは大規模な穴を開けてしまう。請けるか、逃げるか、ふたつにひとつだ。私は腹をくくることにした。

通常よりも早い2月あたりから仕事がはじまった。クライアントからNECのノートパソコンを支給され、私は準備にかかった。その矢先、札幌に住むひとつちがいの兄から緊急の連絡が入った。兄嫁が危篤だという。私はとるものもとりあえず札幌に飛んだ。そして1週間がたって、兄嫁の息は絶えた。

いまならまったく別な対応をするのだと思う。けれど、若い私はどうしていいかわからなかった。ただ、同様に若い兄を放っておくわけにいかないと感じた。そこで弔いの準備のためにいったん東京に戻った私は、PCや書類をカバンに詰め込んで札幌に戻った。そして、喪に服した家で仕事をはじめた。

仕事をはじめてみると、それはそれでなんとかなることがわかった。ひたすらデータをつくりこむ作業だから、誰にも会わず、ひきこもっていてもできる。東京では都心部にアパートを借りていてクライアントから呼び出しがあればいつでも行ける態勢をとっていたのだが、そこを離れても、雑用がないぶんだけ作業に専心できる。1ヶ月もこもっていれば数冊分の原稿ができるから、PCをかかえて東京に戻り、クライアントの編集部の片隅にデスクを借りて入稿のための仕上げ作業をやる。数日の滞在でそれを終えると、再び札幌に戻る。そういうサイクルを何度も繰り返すことで作業は進行した。

やがて最初の頃に入稿した原稿のゲラがあがってくる。これは宅配便で東京から送ってくる。朱を入れて、同様に宅配便で返送する。この間のメインの仕事は原稿作成だから、そのリズムを崩さないように、ゲラのための移動は行わない。最初は2000円近い運賃を高く感じたが、そのうち、そのぐらいできちんと届けてくれるのは安いものだと思うようになった。そうやって夏を乗り切り、すべてのデータを渡し、校正から下版へのサイクルになった。さすがにその作業は遠隔ではできず、私は東京に戻ることになった。その頃には兄の生活もすっかり落ち着いていた。悲しみは悲しみとして、ひとは日常を取り戻さねばならない。

大車輪で校了へと動いて、私の請け負った仕事はほぼ予定通りにゴールに到達した。だれもが未経験のチャレンジで、よくあれだけのことができたものだと思う。実際、他の編集プロダクションが担当した教科は大幅に進行が遅れていた。なので私はそちらへの応援にも駆り出され、そして最終的にかなりまとまった売上が手に入った。私の生涯で、ほぼ唯一、まともな収入があった年度だった。

その大金を懐に、私はようやく念願をかなえることにした。学参業界から足を洗うのだ。まずは東京を引き払った。そして、いろいろあって、2年ばかり、全国あちこちの田舎を見て歩くことになった。あちらに3日、こちらに10日というように、農家や田舎暮らしの人々の家に草鞋を脱いでは、その暮らしの様子をつぶさに学ばせてもらうことになった。その話は長い別の物語になる。

ただ、世の中、思ったように事は運ばない。それだけの仕事を成功させた人間を、クライアントは放っておいてはくれないのだ。大改訂の翌年で学参業界全体の仕事は大きく減っていたけれど、それでも小さな仕事は継続的に発生する。クライアントはそれを私に回してくれた。

奇妙なもので、いったん根無し草の生活をはじめると、やはり不安が生まれてくる。お金はほしいのだ。だから、私も「学参から足を洗う」という決心はどこへやら、追いかけてくる仕事を渡りに船と請けることになる。結果として、私は旅の荷物にゲラを突っ込むことになった。一応、根拠地として京都にアパートを借りていたから、ゲラはそっちに届く。不在配達票をもって荷物を受け取りに行くと、そのまま再び旅に出て、そして出先から宅配便でゲラを返送する。そのうちに担当者からは「次はどこから荷物が届くか楽しみです」とまで言われるようになった。「寅さんみたいですね」と笑っていた人もいた。携帯電話が普及していなかったから、電話連絡はこっちからするか、アパートにいるときに運良くかかってくるのを受けるかしかない。それではあまりに不便だというので、滞在先の電話番号を教えることもあった。固定電話をそういうふうに使う感覚は、いまとなってはちょっと不思議かもしれない。

ちょうど、パソコン通信なるものが世の中に出回り始めた時期だ。インターネットが日常になるよりはるか以前、まだまだコンピュータは暮らしの中に入り込んでいなかった。それでも旅を続けながら、私はコンピュータの基礎をおぼえ、DTPにつながる知恵を学んでいった。そこから先は、次の物語だろう。

 

この話はフリーランスの業務であって、いま急浮上してきたテレワークとはちょっと毛色がちがう。どちらかといえばだいぶ前に流行ったノマドワークに近いような気もする。とはいえ、インターネット以前、会社に行かずにどうやって業務を成り立たせていたのかという疑問に、ひとつの事例として答えられるのかなと思って、このコロナの時代に書いてみた。ま、若くて体力があったからできたんだよなあと思う。