退屈からの脱出 - なんだかわけのわからない予告として

ラジオが好きなのは、自分の好みの範疇からはみ出して、新しい音楽を聞けるからだ。アルバムを漁ったり(若い頃はレコード屋に入ったらなかなか出てこれなかった)、あるいはいまならYouTubeで検索したりして音楽を聞くと、どうしても自分に馴染みのあるものしか聞かなくなる。ラジオだと、もちろん局を選ぶ時点で自分の好みから大きく外れるものは除外するのだけれど、それでもあえて自分からは選ばないだろうジャンルをどんどんかけてくる。まだインターネットなんて言葉を聞いたこともなかった時代、仕事をしながら聞いていたのは駐留米軍がAM電波を使って流していたFEN(Far East Network)だった。洋楽好きの私は好みの曲がたまにかかるのでいつかそこからダイヤルを動かさなくなっていた。ただ、そのカバーするジャンルは実に広く、いわゆるポップ・ミュージックからもっとハードなロック、オールディーズからトップ40、R&Bからジャズと、さまざまな番組が用意されていた。軍隊にはあらゆるタイプの人が集まるから、その嗜好も多様で、ラジオにもそれが反映されていた。私は(日曜日にごくわずかあるクラシックの時間は聞かなかったが)そのほとんどを聞いた。そして、自分がそれまでに聞いていたボブ・ディランビートルズとディープパープルとエリック・クラプトン(なんだかこっ恥ずかしくなる取り合わせだ)及びその周辺なんて広い広い音楽界のごく一部分でしかないのだということを知った。結果として、私はさまざまな音楽を無節操に吸収し、それは自分自身の血肉になっていった。ラジオは私を変えた。だから私はラジオに感謝している。

そんなFENの番組の中でも特に私が楽しみにしていたのは毎晩夜に1時間だけ放送されるR&Bの番組と、週末に放送されるカントリーのカウントダウン(ヒット曲を順番に放送する番組)だった。R&Bとカントリーといったら、まるでBLMとQアノンぐらいに対極の存在なのだけれど、完全に無縁かといえばそうでもなくて、古くはレイ・チャールズがカントリーソングをヒットさせたり、当時だとライオネル・リッチーポインター・シスターズアニタなんかがカントリーチャートに顔を出したりしていた。カントリー系のアーティストから尊敬を集めるプレスリーが生前にはジェームズ・ブラウンと親交があったとか、ジャンルは聞く人の便宜のためのものであって、音楽そのものではないように思う。ともかくも、そんなふうに当時のモダンなカントリーを聞いていたせいで、いまでもふっと、その頃の曲が頭を流れたりする。たとえば、

www.youtube.com

Garth BrooksのStanding Outside the Fireなんて曲が、今朝目覚める前に頭の中で流れていた。そして、若い頃の自分、いまの自分をそれにあてはめてみたりしていた。

 

たぶん高校生の頃からだと思うのだけれど、私は「生きる意欲」みたいなものを感じられないひとだった。恵まれた生まれ方をしたので、何不自由ない生活だし、なにか不満があるわけでもない。強いていうならもうちょっとハンサムに生まれたかったとかもうちょっと健康でいたかったとか(アレルギー体質で喘息とか湿疹で苦労していた)、小さな不満がないわけではなかったが、だからといって人生が嫌になるほどの問題ではなかった。死にたいというほど積極的に嫌なことは何一つなく、とはいえ生きたい思うほどに魅力的なことにも行き当たらず、ただひたすらに退屈していた。息をするのもめんどくさいから、もしも自主的に止められるものなら止めてもいいやぐらいの感覚でしか生きていなかったのだと思う。ときにはじゃあいっそ死んじまうかなあ、みたいなことも思った。若い人は、大人が思う以上に死に近い(これは十分に意識しておかないと忘れがちなことだ。自分自身がそうだったことさえ、時には忘れてしまう。長く生きてきた人から見たら、ほとんど理由にもならないようなことであっさり死んでしまうのが若い人なのだ。死ぬのがめんどくさい以上の理由が、生きていることにないなんて普通だということは、よくよく思いだしておいたほうがいい)。

当時はノストラダムスの大予言が流行するぐらいに終末感が漂っていた。公害とか資源の枯渇とか東西冷戦とか、世の中ロクでもない話題ばかりだった。だから、いっそカタストロフがきてみんないっしょに消えてしまうならそれはそれでおもしろいぐらいに思っていた。そして、奇妙なことに、どうやらそれがごくわずかだけ、私を生かしてくれる動機になっていった。

つまり、大破滅なんて、そんなしょっちゅう見れるもんじゃない。もしもそれが起こるなら、その一部始終を見届けずに死ぬのは残念だ。まあ、私みたいなひ弱なやつは最初の一撃で死ぬほうかもしれないけれど、それでもそれがどんなふうに始まるのかぐらいは見れるだろう。知らずに死んだら、無念のあまりに化けて出るかもしれない。せめてそこまでは頑張って生きようよ、と、なぜだかそこに「生きる理由」を見つけてしまった。

やがて1970年代も終わり、どうやら世界はそう簡単に壊滅しないらしいとわかる年齢に私も成長していった。そして、この「世界の終わりを確かめたい」という動機のほうもそのまま成長して、「世界がどう変わっていくのかを見極めたい」という気持ちに変わっていった。自分の生きているいまは、ひどく退屈だ。たとえばローマ帝国が崩壊するときに、その地域に住んでいたとしたら、さぞスペクタクルだったろうとか思う。関ヶ原の戦いだったら、足軽としてでも参加したかったと思う。けれど、そういう変化がひょっとしたら実は起こりつつあるのではないかという気がするようになっていた。退屈に見える日常だけれど、それは気がつかないだけで、見える場所から見たら案外と歴史は大きく動いているのかもしれないと思うようになった。

「社会」という概念でものを考えるようになったのはその頃からだったと思う。社会は人間一人ひとりの寄せ集めだけれど、人間一人ひとりとは異なった動きをする。人間は退屈かもしれないが、社会の動きはダイナミックだ。社会がどう変化するのかを眺めることができれば、それは退屈な毎日を紛らせてくれるかもしれない。そのためには、それを眺めるのに適した場所にいくべきだろう。それはきっと、自分のいる場所ではない。そう思った私は、思い切って10年馴染んだ東京の生活を引き払った。いろんなひとに出会い、いろんな動きに手を貸した。勝つ見込みのない選挙運動に走り回ったこともある。会社を立ち上げて人を雇ったこともある。売れない本の束を抱えてイベント会場からイベント会場へと渡り歩いたこともある。いろいろな集まりに顔を出し、ときには自分でそれを仕切った。数百人の集まりの事務仕事の裏方を組織したこともある。その過程で進化するコンピュータと格闘し、バッドノウハウを溜め込んだりもした。それを使って仕掛けを作っては失敗したりもした。

そういう姿だけ見れば、私自身が「熱く生きている」ようにに見えたかもしれない。けれど、私は常に冷めていた。炎の只中にいてさえ、自分はそれを外側から眺めている気分でいた。なぜなら、それが自分の望んだことだったからだ。最もよく見える位置は、それが起こっている中心部だ。参与観察という言葉を私は意識していた。変化に関わっていく人たちを見るために自分はここにいるのであって、その変化そのものを起こそうとしているわけではない。関心があるのは変化だけれど、それは自分の外側で勝手に起こるものであって、自分が起こすものではない。社会の変化というものはそういうものだと考えていた。たとえば当時はほぼ電力としてはゼロに近かった太陽光エネルギーの利用を本気で代替エネルギーとして現実化しようと運動している人たちを見るには、そういう人が主催する勉強会に参加するのが手っ取り早かった(実際、そのおかげで後にフィードイン・タリフの政策が実現したときにそのブレイン的な位置についた人をそういう時代が来る前に見ることができたりもした)。そういう勉強会に参加しているひとの多くがそういう未来を信じていたり、あるいはそういう未来を望ましいものとして熱意をもって語るのに比べて、私にはそういう情熱はなかった。ただ、変化していく時代、変化していく社会を、そういう人々の動きを感じることができるのがおもしろかった。そういう位置にいるためだけに、私は「生きているフリ」をしていたともいえる。自分自身の執着は、生きることにではなく、社会の変化を見ることの方にある。好奇心が生への執着よりも先にくる。だから私は少しぐらいの損は気にしなかったし、少しぐらいの苦労は進んで引き受けた。そのほうがよく見える場所にいけるなら、喜んでそうした。「キミは変わってるな」みたいに言われることもあった。議論に参加せず、議論の成り行きをひたすらに眺めていた。そのほうがおもしろかったからだ。私はひどく冷めていた。

実際、大きな変化は起こったのだ。振り返ってみると、子どものころに退屈していた毎日の中でさえ万博は開かれ、連合赤軍浅間山荘にこもり、オイルショックでトイレットペーパーはなくなり、ドルが安くなって海外旅行にいけるようになり、スリーマイルで爆発が起こり、NECのパソコンが普及し、ベルリンの壁は崩壊し、チェルノブイリで事故が起こった。これらは皆、歴史の教科書に載ることになる。そして、よく見える場所に行こうと思ってから私が目の当たりにしたのは、米の自由化であり、地方都市の衰退であり、農業の高齢化であり、インターネットの普及であり、その他、短くまとめることがとてもできない数多くの社会の変化であった。そういうものをお腹いっぱいになるぐらいに見ることができたのだから、ある意味、私は正しかったのだ。炎の中で熱く燃えてしまったのでは、それに気づけなかったかもしれない。たとえ炎の中に踏み込んでいるように見えても身の回りにバリアを張って(また古い言い回しだ)いて、常に冷めていた。だからこそ、変化を変化として見てくることができたのかもしれない。

 

ただ、そういった経験は、徐々に私を変えた。これもまた、まちがいのないことだ。ちょうど好みの音楽を聞きたいと思って流していたラジオ局がいつの間にか私の好みを変えていったのと同じことだ。その最大の変化は、社会を自分の外側にあるものとして見なくなったことだろう。社会は個人の単なる寄せ集めではない。社会には社会の独自の力学がある。しかしまた、社会は個人が集まることによって成立している。そして、その外側に出ることはできない。あるいは外側に出てしまえばその力は働かず、つまりは存在しないも同然になるのが社会だ。社会を見るときには常にその内部に入ることが必要になり、内部に入るということは自分自身が社会の一部になるということだ。つまり、部分として全体を見るという禅問答のようなあり方をしなければ本当に社会を見ることはできない。そのときに、自分自身はバリアの内側にいて、あるいは雨のかからない傘の中にいるつもりでいても、実際にはそんな防壁は存在しない。雨が降れば濡れるのだし、棍棒で殴られれば痛い。自分が透明人間になったつもりでいても実際にはその存在だけで人を傷つけることさえある。参与観察なんてのは嘘っぱちだ。社会を見るときには、ただ当事者として部分を見ることができるだけで、それを積み重ねることによって全体を想像できるに過ぎない。そういうことがだんだんにわかってきたのだと思う。

そして、それを通り過ぎて、ようやく私は自分自身に興味をもつことができるようになった。自意識が目覚めはじめた中学生の頃のような興味のもち方ではない。そういう興味は、自分自身の外見が冴えないという認識や成績の方もパッとしないとかスポーツはダメダメという事実の前に急速にしぼんでしまう。そうではなく、自分自身の変化に対する興味だ。若い頃に世間に対しての興味はまったくなかったのに、社会の変化を見ることに執着できたのとよく似ている。結局、おもしろいのは存在ではなく変化なのだ。

社会とかかわる中で、私は変化する。「社会とかかわる」といっても、実際に相互作用が発生するのは抽象的な社会との間ではなく、他の個人との間でのことだ。たとえば家庭教師として、私は生徒の変化に付き合う。人間は変化するものだし、特に若いうちの変化は目覚ましいものだ。そういった変化にかかわる中で、実は私自身が変化している。それを感じることができるから、おもしろい。こんなおもしろいことがあるから、人間やめられんわ、と思う。若い頃、口を開けば「退屈だ」と言っていたのが嘘のように感じられる。

 

半年ほど前からはじめたプロジェクトがある。まだまだ道半ばで、どこまでいけるのか、どんなアウトプットになるのか、ぼんやりとしている。それでも私はこれを形にしたいと思っている。カントリーソングの歌詞を借りるなら、火中で踊っている。やけどをするかもしれない、恥をかくかもしれない、それでも前に進みたい。それは、そこから発せられることになるメッセージそのものよりも、それを通じて自分が変化することが楽しみだからなのだ。

そして、このプロジェクトは私ひとりのものではない。自分ひとりならできないことができると思えるのは、力を貸してくれるひとがいるからだ。そのひともまた、この仕事を通じて変わるだろう。まだまだ若いから、これからどんどん変わる。その変化を見ることができるのも、楽しみのひとつだ。成長という言葉がぴったりくる変化は、きっとあざやかなものだろう。

既に自分の中には、半年前にはなかったものがある。変化はもうはじまっている。ゴールはまだ遠いけれど、きっと何かが生まれる。具体的に書ける日がくるのが待ち遠しくて仕方ない。