政治に経済を語ってほしくない - どうやら私は自由主義者らしい

政党座標テストなるものがあった。

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むかし流行った性格診断とか動物占い程度のことではあるのだけれど、意外な結果が出たのでちょっと考えさせられた。

あなたの政党同調度は:

完全に右派と左派の中間, 61.1% 自由主義者

自分自身の意識としては私は「ノンポリ」だ。いまではこういう言い方はしない。私が若い頃は「野球チームはどこ?」というのと同じくらい気軽に政治意識を尋ねられたものだ。ちなみにその時代、「野球じゃなくてサッカーなんですよね」というのはあり得ない話で、どうでもいいと思ってる人はだいたいが「巨人かなあ」で、アンチが「阪神タイガース!」、本当の野球ファンは「近鉄」とか「南海」と答えたものだった。政治の方では「右」か「左」か「ノンポリ」に三分された。どれかのカテゴリーに分類しなければおさまらないのがダイバーシティもへったくれもない当時の空気で、私はノンポリ枠だった。

とはいいながら、私の人生、完全に非政治的であったのかといえば、それはちがう。いまでも密かに自慢しているのだが、国政選挙の公示日前日に届出書類の束を抱えて3つの府県の選管をハシゴした人間というのは、たぶん私ぐらしか生存していないだろう。参議院の全国比例区に10人の候補者を立てるというミニ政党の無謀な企画に乗っかって、その裏方をやったらそういう結果になってしまった(もちろん選挙は大敗を喫した)。そういう人間を非政治的とは言えない。

けれど、その政治運動は、右でも左でもなかった。だから古い時代の枠組みでいえば、「ノンポリ」とでも表現するしかないだろう。活動中にはけっこう多くの新左翼系の人々が流れ込んできたから、そういう人々には恩義もあるし、親しくもなった。ただ、違和感も感じていたから、私はあえてそういう人々に対しては「右翼ですよ」と自分の立ち位置を表現していた。私が右翼を名乗らなくなったのは、単純に「ネトウヨ」みたいな人々と一緒に括られたくないと思うようになったからに過ぎない。あるいは、もしもそういう「愛国」的な人々が右翼なのだったら、私は右翼ではない。右の主張にも左の主張にも、違和感ありまくり。

ということで、上記の「政党座標テスト」で「完全に右派と左派の中間」とされたことには驚きはなかった(驚きはないけれど、客観的に見れば自分の言動は「はてサ」と呼ばれる人に近いのかなと思ってたから、ちょっとした安心でもあった)。驚きだったのは、「61.1% 自由主義者」のほうだ。へえ、私ってリベラルだったんだ!

 

この「政党座標テスト」、アメリカのサイトだから、アメリカの政治状況下での評価だ。だからこの場合の「自由主義」は「リベラル」の翻訳である。ちなみに「自由主義」の対極に位置している「共同体主義」は耳慣れない言葉だが、英語では「communitarianism」となっている。「コミュニティ」重視の主義主張ということになる。つまり、「個人」を重視する自由主義に対して「地域」や「社会」を重視する立場となる。右に寄れば伝統社会を守る「保守」となり、左に寄れば「社会主義」となるわけである。

私に関していえば、かつての政治的活動の立場からいえば、「地域」重視のはずだ。だから「共同体主義」の方に大きく振れていても不思議はないのに、やってみたら「自由主義」に大きく偏った。ちなみに、英語版でもやってみたら「27.8% Left, 47.2% Liberal」と、ちょっと左に寄ったけれど、自由主義側に大きく偏っている傾向は変わらない。英語と日本語の結果がちがうのは、そのときの気分もあるけれど、やっぱり翻訳の問題だろう。これはこれで興味深いが、まあ、そこはおいておく。

 

この2次元の党派性の分布を見ていて気がついたことがある。それは、左右の軸を形成している価値観が経済であり、上下の軸を形成している価値観が正義であるということだ。経済についての考え方のグラデーションによって水平座標の位置が決まり、正義に関する考え方の変異によって垂直座標の位置が決まる。経済に関しては制限と放任、正義に関しては個人優先と社会優先が両極端になるという仕組みだ。これはまあ、解説にも書いてある。

気がついたのは、このマトリックスでは経済と正義をそれぞれ独立した指標と考えているけれど、自分はそうではない、ということだ。自分は経済と正義を対立するものと考えている。対立という言い方はちょっとちがう。互いに政治的リソースを食い合うものだと捉えている。だから、政治の争点が経済政策になることにひどく違和感がある。そんなことをやってるヒマがあったら、もっと正義のことに取り組めよと思ってしまう。それ、政治のやることじゃないから、と。

もちろん、経済は重要だ。人間、食うものがなければ生きていけない。正義ということでいえば、食うものがあってはじめて正義を考えることができる。衣食足って礼節を知る、だ。さらに、多くの不正は、経済的な搾取の形をとって現れてきた。だから、正義を語るのであれば、まず経済をどうにかしなければならない、という発想はわかる。けれど、経済活動というのは本来個人の領域のものだ。そうじゃないの?

 

政治は、個人と個人が集まって社会をつくったときの社会の動きを扱うものだ。そのツールは法律であり、財政である。ごくごく大雑把に括れば、法律は正義を扱うものであろう。では、財政は経済を扱うものなのか? ケインズ以来、その答えは「イエス」になった。しかし、本来、財政は正義を実現するためのコストを支払うためのものではないのだろうか?

では、なぜ財政が経済を扱うようになったのか? 答えは簡単で、それが正義の実現への早道だと考えられたからだ。たとえば、多くの食えない人がいる。人間と生まれて生きていくのに十分なリソースがないのは正義ではない。しかもそのリソースが全体として不足しているわけではなく、一部に偏在しているために多くの人に行き渡らないのであれば、それは断じて正義ではない。では、その不正を正すためにコストを支払うとして、どのような手段が最も確実かつ低コストか。私有財産の没収と計画経済というソリューションを出したのが百年前のソビエト連邦であり、景気を刺激することで富の循環を促進するというソリューションを試みたのがアメリカ合衆国だった。どっちが正しかったのかはすぐに世界的な戦時経済体制に入ったのでわからなくなったが、戦後数十年の変遷の中で生き残ったのは後者のほうだった。

つまり、経済は手段であって目的ではない。そして、目的が正義であるのなら、経済という手段がベストであるのかどうかは常に再検討されるべきだし、もしももっとコストパフォーマンスの高い手段があるのであればそちらに切り替えるべきだということになる。あるいは経済的な手法に関して、方向性を切り替えることも十分に検討に値することになる。

だから、経済を正義とは別次元のものとして横軸に表現することは、ある程度は妥当性があるのだろう。ただ、その場合でも、経済は正義の実現手段なのだから、まずはどういう正義を実現するのかがはっきりしていなければ適切かどうかを判断できないはずだ。ところが、なぜだか政治の話をすると、必ず「経済はどうします?」というのがくっついてくる。その場合の「どうします?」は、一方的に「景気を良くすることが政治の使命である」という価値観に立脚している。それ、本末転倒だから。

 

長いこと生きてると、景気がいい時代も悪い時代も見てくることになる。そしてどんな時代にも、幸福な人と不幸な人の両方がいることがわかる。景気が良ければ誰もが幸福かというとそんなことはないし、景気の悪い時代にはみんなが不幸かというとそんなこともない。ただ、景気の悪い時代にはその割りを食って追い詰められる人々が増えるのは事実だ。それは(例えばバブル期のように)景気がいい時代に勘違いをして身を持ち崩す人々が増えるのと同じくらいにまちがいない。そして、バブルに浮かれて生活を壊してしまう人々に対して自己責任をいうのは容易いが、不景気で失業して生活苦に陥る人々に同じことをいうのは酷だ。だから、景気が落ち込まないように配慮することが政策としてあってもかまわないとは思う。

しかし、より重要なことは、景気がよくても悪くても一定数は発生する不幸を、経済にかかわらず救済することだろう。つまり社会保障政策だ。その政策のコスト効率を高めるには、発生する不幸を少なくするほうがいい。そのためには極端な景気の悪化は避けたいし、もしも経済政策によって悪化を容易に避けられるのであれば、それは実施すべきだろう。

 

ここで重要なのは、経済の動きをコントロールすることは、まだまだ人間にはできないということだ。少なくとも、再現可能性を実証性の基礎に置いた近代科学的な発想は、1回こっきりの歴史過程を制御することに向いていない。制御しようとする人間そのものが制御されるシステムの一部なのだから、システム論的にも相当に困難なことは理解できる。そして実際に、多くの経済政策が予想外の展開を生み出している。

さらに、仮に経済の動きをある程度コントロールできたとしても、それが必ずしも政治の目的とは整合しないということがある。たとえば、100年前の経済学者が考えた有効需要の創出という発想は、それなりに説得力はあるし、実証的にもその効果は認められているらしい(このあたり、勉強していません。伝聞です)。しかし、マクロの経済の動き(というよりもマクロな経済指標の動き)と個別の苦境(年収や可処分所得)との関係は必ずしも連動していない。平均的にはそれらの指標はある程度関係しているのだけれど、政策が対象とすべきなのは社会的な正義という観点から見てこぼれ落ちる層なのだから、そういった人々との関連で見なければならない。そうなってくると、マクロな経済指標はどうも怪しくなってくる。たとえば、リーマンショック以後のどん底を経てからは、経済指標は一方的に右肩上がりに上昇している。その中で、「等価可処分所得の中央値の半分に満たない」人々は増加している。つまり、社会保障政策の対象とすべき人々が増えているわけだから、マクロの経済指標と政策目標は必ずしも相性がよくないことがわかる。

つまり、正義を実現するという政治の目標の手段として経済に手を出すというのは、それほど効率的なことではない。効率的な局面もあるにはあるのだけれど、常に効率的かと言われれば決してそうではない。 むしろ、経済政策は、そこに費やされるリソースの大きさからいって、他の政策を制限する要因として働くのではなかろうか。

 

政治に経済政策を期待する声を聞いてみると、「そりゃ、景気がいいほうが仕事がしやすい」「収入が上がる」「生活が楽になる」というもっともな内容であることが多い。けれど、個人の経済活動なんて、しょせんは個人的なものだ。いい仕事がしたければ転職すればいいのだし、収入が欲しければ頑張って働けばいい。生活が苦しければ不要な支出を削る工夫でたいていの場合はしのげる。それでも苦しいときに、はじめて社会的な正義に訴えることができる。

だから、まともに生活できている人々、ましてや株の売り買いやら資産の運用やらでヌクヌクと暮らしている人が、いまさら政治に何を求める根拠があるのだと思う。株が上がったほうが嬉しいってたって、それはあんたの商売の話であって、およそ政治とは関係ない。正義とは無関係だ。

だから、政治に経済を語ってほしくない。アベノミクスとか、そういうことをあたかも重要政策であるかのようにいうのは勘弁して欲しい。それに対抗して経済政策をどうこう話す方も見苦しい。「経済は争点ではない」ぐらいに言い切って欲しい。ところが、そういう政党はない。共産党でさえ、経済を口にする。そりゃそうだろう、左右の軸は、経済の軸で、共産党といえば左であることがアイデンティティなんだから。

実際、私がかつて関わったミニ政党でさえそうだった。「経済よりも生命を」という思想を根本にもっていたはずなのに、いざ立候補して「経済政策はどうしますか」とアンケートがきたら、「もちろん、経済はしっかりやります」みたいな回答をしていて心底がっかりしたものだ。カネがなければ始まらないという厳粛な事実と、金儲けを重視しますというのは、根本的にちがう。政治にはそこをはっきりと区別して欲しいと思うのだけれど、どうやら私の思想は極端にマイナーなものであるようだ。

 

そんなふうに自分の思想をまとめてきて、ようやく納得がいく。なるほど、私は「自由主義者」だ。自分自身の生き方について、とやかく言われるのを嫌う。私がなにか商売を始めたかったら、それは放っておいて欲しい。倫理的に問題なければ、何業でもかまわないだろう。それが失敗しても成功しても、自分のやったことだ。同じことを他人にも求める。

ただ、そうはいいながら、それで失敗した人々が苦しむのを見るのは嫌だ。それは人間として許されない。だから、そこを守る政策は必要だし、もっと踏み込んでそういう不幸が発生しにくいような政策も必要だろう。そして、そのコストを負担することも厭わないし、コストがかかるならお金のあるところから徴収するべきだろう。

なるほど、「リベラル」とはこういうことか。リベラルはもともと自由主義者で政府の介入を嫌う人々だったけれど、その流れはネオリベに行き着き、それとは別に社会保障や社会的な公正を重視する人々を現代ではリベラルという。そういう説明を聞いて長いこと腑に落ちなかったけれど、自分自身がリベラルだと判定され、そして自分自身の思想を点検してようやく納得がいった。

自由であることは、責任を伴う。その責任とは、社会的正義だ。そして、自由を自明視するのであれば、同時に社会的正義の実現も自明視しなければならない。だから後者が目立ってあの「リベラル」の概念になる。

だったら、リベラルと呼ばれている人々が政治に経済を持ち込むのはまるで似つかわしくないと思う。結局、そういう人々って、本当の意味でのリベラルじゃないんじゃないかなあ。それとも私の「61.1% 自由主義者」判定がおかしいのか。ま、しょせんは性格判断だし。