「手伝い」の概念は変化してきたのか? -  生業と家事のあいだ

「家のことを子どもが手伝うみたいな言い方をするようになったのって、いつ頃ですかね」。古い友だちにコーヒーをご馳走になりながら話していたときのことだ。田舎で百姓をやりながら大工としてそこそこに名前も売れてきたその友人とは、知り合ってもう四半世紀にもなる。いつの間にか遠くはなれてしまったが、人が大地に近いところで暮らしていくことの重要性については、それほど遠くない意識を共有できていると私は勝手に思っている。彼が淹れてくれるコーヒーはうまい。コロナだからと遠慮して、青空の下で飲む。稲刈りも済んで、すっかり秋の風景だ。

「えっと。そりゃ、子どもは家のことを昔から手伝ってきたんやろ。むしろ家の手伝いもしないで勉強みたいなのが最近のことで」

「そうじゃないんです」

私が理解できないのを見て取って、彼はゆっくりと説明をはじめた。もともと田舎の仕事というのは、暮らしの延長線上にある。暮らしとは生きていくことだから、たとえば飯を食うことだ。飯を食おうと思ったら料理をしなければならないから、料理は特別な仕事というわけではなく、生きていくことの延長であり、言葉をかえれば生きていくことそのものだ。料理をしようと思ったら畑の大根をひいてこなければならないから、自給用の畑をつくるのも暮らしの延長であり、そのまま生きていくことだ。このように、田舎で暮らすということは、そのまま、生きるために必要なおこないを実行することである。もちろんそれが田舎のすべてかというと、そうではない。古くは年貢のための田んぼをつくることはプライベートな生活ではなく、公的な勤めであっただろう。生活のために金銭が必要になる現代では、いくらそれが生きるためだといっても、賃金を稼ぐことまでは暮らしの延長としてとらえられないはずだ。だが、家のこと、たとえば雨戸を開けるとか布団をたたむとか、掃除をするとか草取りをするだとか、水やりをするとか犬の散歩をするだとか、そういったことは経済が支配する現代にあってさえ、生活そのものであって、生きている以上、することが当たり前なことのはずだ。さて、彼は若いころ、海外の農村に長期滞在していた。厄介になっていた家の子どもがよく働くのを見て、「おまえ、家の手伝いをようするな。エライな」と話しかけたら、キョトンとされた、というのだ。言葉が通じなかったわけではない。そうではなく、少年がやっていた家の仕事、家畜の世話だとかそういった仕事を、「手伝い」(親を助けること)のように表現されたのが、少年にとって腑に落ちなかったという話なのだ。つまり、それは少年にとって生活そのものであり、自分がそこで生きていく以上、やるのが当然なことであって、それで誰かを助けるとか、ましてそれをやるからほめられるというような種類のことではない。生きることそのものは確かに称賛に値することであるのかもしれないが、それでもわれわれはウンコをしている人に向かって「エライね」とは言わないものだ(乳幼児に向かってなら言うかもしれないが)。つまり、少年の仕事は生きることそのものであり、それを家のことを「手伝う」と表現する発想が、本来ありえないのではないか、と友人は気づいたというのだ。

「さあ。もしもそういうことなら、1960年代のエネルギー革命あたりかなあ」と、私は曖昧に返事をした。たしかに、一昨年死んだ昭和一桁の私の父親が少年時代に毎朝牛の草刈りに出かけていたとき、それを「家の手伝い」とはあまり思わなかったのではないか、という気もしたからだ。「家の手伝い」という概念が成立するのは、「家の仕事」が「主婦の仕事」とイコールで結ばれるようになってからなのかもしれない。いわゆるサラリーマン世帯が主流になるまでは、男も女もいっしょになって暮らしを立てるための仕事をしていたわけで、そのときにあんまり「お母さんのお手伝い」みたいな感覚は生まれないかもしれない。主婦がやるのが当然になって、主婦以外の立場は「手伝い」になったのではなかろうか。

まあ、このあたりは実際のところ、よくわからない。友人と話しても、そこに証拠が出てくるわけではない。だから私は、この興味深い仮説を抱えて帰宅することになった。

 

さて、そもそも「手伝い」という言葉はどこから来たのだろうか。辞書には意味は載っているのだけれど、日本の辞書には語源に関する解説が少ない(英語ではetymologyといって、割と調べやすい)。ならばと古語辞典をひいてみると、学習用の簡易な古語辞典(三省堂の「全訳読解古語辞典 第二版」)にはそもそも「手伝い」の項目がない。「伝ふ」の項目はあるが、これはまあ、現代語とそれほど大きな差はないようだ。古語に用例がないわけではないだろうが、あえて項目を立てるほど重要な言葉ではなかったようだ。

それは、この言葉が漢語ではなかったからなのかもしれない。そのあたり私は完全に素人なのだけれど、漢籍リポジトリで検索してみると(「手伝い」の伝は旧字の「傳」にして)、186件とヒット数が少なく、どうも熟語として成立していた気配はない。読みも訓読みだし、どうも日本で日本の事情に合わせて成立した言葉ではないかという気がする(この辺は少し詳しい人には容易に判断がつくのかもしれないが)。諸橋轍次の大漢和辭典にも記載はない。

それではいつ頃から「手傳」の語が使われていたのかというと、軽い検索で私が見つけたもっとも古いものとして平安時代の行事の記録(漢文)のなかに一箇所あったほかは、概ね江戸初期以降になるようだ。あるいはその少し前、大名たちが土木工事を行う際に、その役職名として「手傳方」として登場するのがどうも広く使われはじめた最初のように見える。まあ、素人の片手間の調査だけれど。そして、この「手傳」は、「お手伝い」、つまり主体が他にあってその指図で助力をする立場というよりは、むしろ、ある種の権限を移譲された役職であるようだ。そう思うと、(こちらは古語辞典に項目のあった)「手代」とよく似ているのかもしれない。「手代」は、江戸時代の下級武士の役職であり、それは文字通り「手」の「代理」であろう。「手傳」は、トップの「手」を「伝える」管理者の意味であったのではないかと思われる。

しかし、江戸中期になると、そういった管理者の意味での「手傳」に加えて、より現在の使い方に近い「手傳ひ」の用例が見られるようになってくる。労働者としての「手傳人足」のような使い方、「手傳五人」のように員数を表すような表記も見られる。そして「囲碁の手傳ひ」のように、傍目八目観衆の行動を表す川柳も詠まれるようになる。こうなってくると、現代的な用例とそれほど変わらない。

明治になると、織物生産の労働力として「手傳人」を記載した文書ものこっている(この手傳人の給金は織手女より低く、賄方よりも高い:「幕末・明治初期における桐生織物の生産構造」木村隆)。それでも明治時代の国語辞典には、やはり「手傳ひ」の項目は立てられていない。それほど重要な言葉ではなかったのだろう。もちろん、薄い辞書一冊で何が言えるわけでもないので、もうちょっと探すべきだろう(暇があれば)。ではあっても、少なくとも昭和に入るころには「〜も手傳って」のような用例が頻繁に出てくるようになる。「○○先生のお手傳いで」のように、「補助的な役割を果たす」的な用法も増えてくる。「植木職手傳」は植木職人の少し格下のものとして定義されていたりもする。

ただ、それでも、そういった言葉が「家の手伝い」という文脈で用いられることはなかったのではないかという疑いは残る。しかし、結論からいうと、そうではなかった。「家の手伝い」として生活に関する仕事を分担する概念は、少なくとも江戸時代に遡るようだ。

孫引きになるが、貞女教訓女式目に「十の年の頃よりも外へ出さず行儀作法の正しき道を行はせ、親たちの言ひ付け給ふ事を少しも背かずして、それより後は苧を績み、紡ぎ、物縫ふ事どもを教へて母親の手傳をさすべし」という記述があるらしい(「江戸時代に於ける裁縫教授の範囲に就いて」常見育男)。ちなみにこの本がいつ頃のものなのかはちょっと不明なのだが(似たような書名のものはあるのだけれど)、江戸時代に既に、家事仕事を娘(未婚の女性)に手伝わせるという概念はあったようである。

下って昭和になると、そういった概念にもとづいているのではないかと思われる文献が多くなる。例えば関東大震災のことを描いたエッセイには、兄が小さな妹にお膳を出すのを手伝ってくれと言っているセリフが描かれている(「震災美談 小さい勇士」中村左衛門太郎)。これは明治以降明らかに一般化している「力を貸す」意味での手伝いであるのかもしれないが、日常のお膳を出すことに「手伝う」という言葉を使っていることから、暮らしのなかで「家事を手伝う」という言い方が不自然でなくなっていたのだろうと想像できる。また、農村での生活を描いた心理学の論文には、「『兄も気の毒だ。』と小いすつぽ抜けた嘆息を洩す三吉には、この時からどうも子供の無邪気がなくなつて行つた。それは、田舎の子供に通有するまめな手傳によって家族を助ける風は俄に三吉から去つて、一見呆然として戸外に佇んでゐる事が屢々となり、且今迄になく、家の内に頭を抱へて寝そべり返る事も亦少くないやうになつたのでも分る」(「二等卒の三吉」石井淳)という記述もある。子どもが家を手伝うのが普通であったという記述である。戦前の泉鏡花の小説には、「農家の娘で、野良仕事の手傳を濟ました晩過ぎてから、裁縫のお稽古に熱海まで通ふんだとまた申します」という一節もある。野良仕事は生活の延長だから、そこでの活動が娘にとって「手伝い」と位置づけられているのである。また、「富士郡に於いては大部分の兒童が家事或は農事の手傳ひをなすが、兒童にとりては可成りの力役である」(「身體發育に及ぼす後天的影響について〔三〕」藤本薫喜・勝田早苗)と、農村部の子どもの活動を、少なくとも教育関係者は「手伝い」と捉えていたと思われることを示す文書もある。

はっきりとその概念が文書に残っているのが、昭和14年頃の警察によるケーススタディである「或る反抗少女の行動分析と性格變化」(井原法洞・城戸幡太郎)である。ここには、「…学校から断はられて中途退学をした。この頃から近所の知合から金を借りてゐたらしい。それから家に居て家事の手傳ひをさせて置いたが、近所の洋裁教授所に通ってゐる間に…」と、学校中退で定職のない少女が「家事手伝い」という体裁をとっていたことが明らかになっている。さらに学校教育で「手伝い」は、

生徒の經驗を重んじ、實習を獎勵すべきことは、家事教授作用に於ける第三の原理である。今家庭に於ける生徒の日常生活に就て見るに、生徒は家事の手傳に依り、可なり多くの家事上の經驗を有し、特に家庭に於ける家事の手傳を獎勵することに依り、存外多くの經驗を有せしめ得るものである。(「家事教授上の諸問題〔五〕」常見育男)

といった扱いがされている。してみると、どうやら第二次世界大戦前後には、少なくとも都会においては、「未成年女子に家事を手伝わせる」という概念が成立していたのは間違いがないようである。そして、そういった概念が、「子どものお手伝い」という概念形成に繋がったのではなかろうか。

余談になりかけるが、若い女性と「お手伝い」が親和性が高いのは、戦後に(履歴書や釣書で多用された)「家事手伝い」という言葉とともに、「女中」と呼ばれていた職業が「お手伝いさん」と呼称を変えたことも関係しているかもしれない。誰の小説だったか1970年代の軽い読み物に「お手伝いさん」という呼称を拒否して「女中」であることにプライドを持っている女性が登場していた記憶があるが、女中の呼称は1960年代くらいまでではなかったかと思う。谷崎潤一郎の「台所太平記」は「お手伝いさん奮闘記」として話題になったそうなので、1960年代にはもう「お手伝いさん」のほうが一般的だったのかもしれない。

話をもとに戻すと、結局のところ、「子どもの手伝い」という概念を最終的に定着させる上で大きな役割を果たしたのは、学校教育であったようだ。たとえば、戦後の家庭科の創設に関して、次のような記述がある。

昭和22年の家庭科の学習指導要領は、この新しい家庭科の特色を鮮明に示している。家庭科の中心目標は「よい家庭」の建設、「よい家庭人」の育成である。従来のように、よい妻、よい母のみではなく、夫・妻、父・母・子、兄弟姉妹、祖父母・孫、しゅうと・しゅうとめ・嫁として、すべてよい家族の一員の育成をめざしている。戦後の日本にとって民主化至上命令であったし、日本の民主化の基礎は家庭の民主化にあるので、家庭の民主化を担当する家庭科の教育は、民法の改正と相まって重要なものと考えられた。家庭科では、個人の尊厳と両性の本質的平等を実現することが説かれ、それに必要な範囲において家事技能と家事知識とが与えられた。具体的に言えば、「お父さんは日曜大工をし、子どもたちは自分のことは自分でした上に能力に応じて家事の手伝をし、おりおり家族会議を開き、お母さんに教養の時間を作ってあげる」というような種類の内容が取扱われた。男子にも家庭科を課したことは、日本教育史上特筆すべき革命的処置でさえもあった。(「戦後における家庭科教育の諸思想とその批判」原田一

ここで「子どもたちの家事手伝い」という概念がはっきりと学校教育に盛り込まれたようである。つまり、戦前の「女は家のことをしておればよい」という儒教的な考え方から、「なにか訳のわからない家の雑事は女の手伝い」という考え方が、「それは男女平等だから、子どもが男女を問わず手伝うべきだ」と変化したのではなかろうか。そのなかで、「お父さんは日曜大工」と、「男」の仕事は別格におかれているのが、やがて1960年代の産業構造の大変化で「男は仕事」とされるようになったのかもしれない。

戦後の教育の中での「お手伝い」の位置づけをたどるのは、それはそれでおもしろそうだけれど、たいへんそうだ。ともかくも、ここでは、

  • 「生業に関して子どもが『手伝う』という概念が生まれたのは近年ではないか」という疑問は、一応、否定された。
  • 「手伝」は、もともとは「助力」とは別の管理的な仕事を指す言葉であったのが転用されてきたらしい。
  • 家事に関する「手伝い」は江戸時代頃より女性のものとされてきたが、それが戦後教育のなかで変化したらしい。

というあたりがわかったということで、いったん調査の手を止めようと思う。いや、いろいろと知らないことが多いもんだわ。