自尊心がなければやってらんない、という話 - The Greatest Love of All

家庭教師やってると、失敗ばかりでときにはイヤになる。生徒とのセッションは基本的には楽しい時間だ。けれど、それが結果としてどうなのかというと、たとえば「やっぱりここ、まちがえるかよ」とか、「なんでテストの点数が伸びないんだよ」とか、客観的にみて失敗に分類されるようなことばかり起こる。生徒とはあらかじめしっかりと話し合って目標とかマイルストーンとかを決めてある。それにもとづいてこっちはこっちでいろいろと作戦を立て、ストーリーを描いている。そのストーリーどおりに進むことのほうが少ない。だいたいは、「あー、あ。やっちまったよ」みたいな後悔の連続になる。

それでもおもしろいもので、生徒は成長していく。人間ってのは、どんな障害があってもそれをはねのけて育っていく力があるんだと感心する。まるで舗石を突き破って筍が伸びてくるように、力強く伸びてくる。そういうのを見てると、「下手な家庭教師なんて要らないよなあ」とも思う。世に「親はなくとも子は育つ」というけれど、庇護したり、導いたりする外部の力がなくても、人間は自力で成長する。むしろ、そういった外部からの介入を跳ね除けるように育つ。周囲からの働きかけは、むしろ邪魔になるようにさえ感じられる。

明らかに周囲からの干渉が成長を阻害する場合のひとつは、その干渉が生徒の自尊心を傷つけるものであるときだろう。なぜなら、自尊心こそが成長の原動力だからだ。いまもっている生徒にも、その親が「この子はプライドばかりがやたら高くて」とこぼす中学生がいるが、私はその生徒を高く評価している。なぜなら、プライドが高い人は(それが虚栄心による外見的なものでない限りは)、たいてい、そのプライドに見合っただけのことをやってのけるからだ。もちろんそのためには条件を整えてやらなければならない。それはこっちの仕事だ。プライドだけでどうにかなるものではないが、プライドのない人は、いくら条件を整えておいてもなかなかそこに食いついてこない。プライドは、正常な自尊心があることの表現だ。私はそれを何よりも尊ぶ。

だから私は家庭教師として、その自尊心を傷つけるような言動は意識して避けるようにしている。冒頭に書いたように失敗もあって、相手の性格を読み間違え、自尊心に訴えたつもりでそれを挫くような話し方をしてしまったことも、つい1年ほど前にはあった。客観的指標の失敗よりも、こういう失敗のほうがダメージが大きい。結局その生徒からはクビを切られたのだけれど、いまだに寝覚めがわるい。生徒の自尊心は決して傷つけてはならない。

しかし、子どもたちには、家庭教師なんかよりも遥かに影響力の大きい存在がいる。日常的に生活をともにする家族だ。特に親の影響は大きい。そして、親が常に自尊心を傷つけるような言動をとっていれば、生徒には逃げ場がなくなる。自尊心を失った生徒は、天与の成長力を失っていくだろう。自尊心は世界に対する信頼と裏表の関係にある。自尊心を失えば、世界に対する信頼が失われる。それは世界に対する扉を閉ざすことになる。これはどう考えても好ましいことではない。

「お前はバカだ」「努力が足りない」「なんでわからないの」「人並みのこともできない」みたいな「叱り」言葉を発する親は多い。ときには家庭教師の面前で子どもに向かってそんなことを言う親もいる。家庭教師の前では言わなくても、指導中、生徒がポロッと「頭が悪いって親に言われるから」みたいにこぼすこともある。ときには、なにがなんでも子どもを否定にかかる親だっている。たとえば、この匿名日記の記事で描かれたケースなんかはそうだ。

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彼が言うには、勉強をしなくなったのは親がバカにしてくるから、とのことだった。

勉強するとバカにされるの? と聞くとそうではなく、自分が何かしら知識を言うと、子供のくせにとか、どうせテレビやネットで見ただけだろうとか、知っていること自体を非難されるのだという。

他にも自分が正しいことを言っても聞いてもらえない、頭ごなしに否定されるなどといった不満があるという。

そういった積み重ねで、だったらもう自分はバカでいい、勉強なんかしないと思うようになったということらしかった。

「勉強しろ」と子どもにいいながら、その成果が出てくると、それを否定するようなことを言う。そりゃ、勉強なんかしたくなくなるだろう。家庭教師がいくら作戦を立て、ビジョンを示し、ストーリーを描いても、これでは前に進むはずがない。ある意味、手のつけようのないケースだ。

子どもの自尊心はズタズタになっている。そこに手当することが必要だ。自尊心を取り戻せるような介入をしなければならない。だが、もしもそうやって成果が出ても、またその成果は親によって否定されてしまうだろう。生徒だけ見ていても、問題は解決しない。

親に対して、「生徒を否定するのをやめてください」と直接言うべきだろうか。「そんなことをしていたらダメです」と強く言うべきだろうか。それは言えない。もちろん、直接的な雇い主である親に対してそういうことを言ったら立場がなくなる(つまりクビを切られる)という事情はある。けれど、それが理由ではない。ここで親に対して考え方を改めるように言うのは、事態を決して改善しないからだ。

なぜ親が、子どもを否定するのだろうか。その心理を考えてみよう。子どもが何か言ったときに、それに対して否定的な発言をしてしまうのは、親の側に余裕がないからだ。外見上余裕があるように見えても、実は心理的にかなり圧迫されている。というのは、他者に対して攻撃的になる人の多くは、不安を抱えていることが明らかになっているからだ。親は、明らかに自分の子どもに対してさえ攻撃的になっている。これは不安の裏返しだ。

不安はさらに複雑なかたちをとっている。というのは、子どもは他者であると同時に、親にとっては自分の延長でもあるからだ。根拠もなく自分と同一視するのが、一般的な親の心理だ。だから不安である親は、その不安から逃げようとして、自ら努力するのではなく、子どもに努力を求めることになる。その上でなお不安であるから、ほとんど自傷行為に近い心理で子どもにきつくあたることになる。これが、一方で「勉強しろ」と要求し、そのために家庭教師までつけながら、他方で「そんなことはだれでも知ってる」みたいにその成果を否定にかかる親の心理なのだ。

つまり、こういった親に欠けているのは、世界に対する信頼感なのだ。そして、世界に対する信頼は、自尊心の裏返しだ。結局、親に自尊心が欠落していることが、根本原因である。そんな親に対して、「そんなふうに子どもを否定してはダメですよ」みたいに「原因はお前だ!」的な対決をしたらどうだろう。ただでさえ自尊心が失われているところに、さらに致命的なダメージを与えてしまう。これは問題を解決しないどころか、さらに深いところに突き落としてしまうだろう。

だから、こういうケースでは、子どもに向かっても、親に向かっても、表裏なく、褒めることを中心に状況を改善していくしかない。親は、(それがいいことかどうかはさておいて)心理的に子どもと自分を同一視している。子どもを褒めることは、親の自尊心を回復することにつながる。親の自尊心が回復しないことには、子どもの自尊心は回復しない。

だから、子どもを褒めることは、子ども自身の自尊心を回復する上で、二重の効果がある。ただ、褒めるためには、褒めるに値するだけの成果をあげなくちゃいけないんだよな。で、またそれが、この状況だとえらい難しくて。やれやれ、たいへんだ…

 

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