「正しい勉強の仕方」なんてない - 幻は追いかけないこと

「勉強のやり方を教えてほしい」という需要が多いことに、家庭教師をやっていると気がつく。そこに至る状況はだいたい想像できる。

「なんで勉強しないの」
「やろうと思ってるんだけど」
「じゃあ、やりなさい」
「何からやったらいいのかわからない」
「まず宿題からやりなさい」
「それはやってる」
「ほかにやることあるでしょう」
「学校で言われたことはちゃんとやってる」
「それでこの成績なの? あなた、ほんとうに勉強のやり方がわかってないのね」

みたいな会話が親子であるんじゃなかろうか。「勉強のやり方を教えてほしい」は、生徒自身の口から語られることもあるし、家庭からの要望として聞くこともある。その真意は、「これだけ一生懸命勉強してるのに成績が上がらない。それはやり方がわるいからにちがいない」という感覚だろう。もちろんそればかりではない。子どもに向かって「勉強しろ」といっても「この子は何から手を付けていいかわからないんですよ」みたいな状況説明を受けることもある。そういう判断を下支えしているのは、「勉強には正しい手順があり、それが理解できていれば勉強はスムーズに進むはずだ」という信念だ。

わるいことに、この「勉強の仕方」は、営業の売り込み文句にもなってしまっている。そりゃそうだ。家庭の側にそういった需要があるときに、「それを解決します」と押し込めば、契約がとれる。だから、「ウチの先生はわからないところを教えてくれるだけじゃなくて、勉強の仕方から教えてくれます」みたいに宣伝する。このトークは「あなたのお子さんの成績が伸びないのは、頭が悪いからじゃなくて単純にやり方を知らないだけなんですよ」と、先方の自尊心をくすぐる効果もある。だから、ときには「勉強のやり方を教えてほしい」という要望は、本来それがあったというよりは、むしろそういうところからインプットされたものであったりもするだろう。子どもの側の感覚からは信じられないことかもしれないが、実際には親のすべてが子どもに勉強を強制したいと思っているわけではない。「勉強はそこそこにして、もっとのびのび育ってほしい」と思っている親だって、案外にすくなくはない。ただ、彼らも「でも最低限、成績は普通じゃないと」と思っている。ところが現実はそうではない。だから「勉強の仕方」で成績が伸びるのなら、そんなすばらしいことはない、と思うわけだ。

ストレートにこういう要望を受けると、実のところ、こちらとしては困ってしまう。こういう流れのなかで「勉強のやり方」という言葉でイメージされるようになったものが、あまりにも現実離れしてしまっているからだ。おまけに、そのイメージが実に多様で捕まえどころがない。小学生なんかはこの言葉で算数の解法パターンみたいなものをイメージしている場合もある。そうかと思えば、スケジュール管理のイメージでいる親もいる。中学生あたりだと、そもそも「勉強のやり方」が何を意味するのかのイメージすらない。そういう人々にとっては、「勉強のやり方」は、あらゆるマイナスを一気にプラスに変える魔法のようなものでしかない。そして、そんなものはこの世に存在しない。

もちろん、「誤った勉強方法」はあり得るし、それに対置される「正しい勉強方法」は想定できる。ただ、それはごく常識的なものにすぎない。なぜなら、もしもそういった方法があったとしたら、それが既にスタンダードになっているはずだからだ。学校の教師の仕事が仮に「勉強を教えること」であるとして*1、既知の「よりよい勉強の仕方」が存在するのであれば、何はさておいてそれを教えるはずだ。実際、学校の教師はノートのとり方であるとか定期テストの準備の仕方であるとか、割とていねいに教えている。なぜそれを知っているかといえば、「勉強のやり方がわからない」と言っている当の生徒に聞いたら詳しく教えてくれるからだ。つまり、既知の方法論はたいていの生徒は既に知っている。それでも「わからない」と言うのであれば、それは実際には魔法のような「勉強の仕方」が存在しないからであるにちがいない。

だから、私は「勉強のやり方を教えてほしい」というストレートな要望に対しては、なんとかそれを別の方向にそらせるように工夫する。「やり方以前の問題かもしれませんよ」とか「案外とやり方はわかっていてほかのところで躓いているのかもしれませんよ」とか、逃げを打つ。「実際に指導してみて様子を見ないとわかりませんねえ」と、これはあながち嘘でもないことを言ったりもする。基本的に親は成績しか見ないから*2、成績が上がれば文句が出ることもない。勝手に「ああ、勉強の仕方を教えてくれたんだなあ」と解釈してくれる。もちろん、私だって知らないそんな手法を教えたわけはない。そんなものがあったら、こっちが知りたいわ。

 

会社の名誉のために言っておくと、他の講師はもうちょっと真面目に対応している。「勉強のやり方を教えてほしい」という要望に対して、進捗管理の方法だとか付箋の付け方、アンダーラインの引き方、ノートのまとめ方、単語帳の作り方、推薦する参考書、問題集の使い方なんかをていねいに説明して対応する。いや、私だってそういうことをまったくしないわけではない。ただ、おそらくは、要望されている「勉強のやり方」と、そういった実務的なアドバイスは、たぶん大きくちがっている。だって、たしかにそういう実務的な方法論は多少の役に立つかもしれないが、それでもって成績が大きく伸びるようなことは、どう考えたってあり得ないからだ。たまに、「そういうコツを教えたら成績が上がってご家庭にも喜んでもらえました」みたいに報告する講師もいるが、さすがに成績評価をそこまで単純に捉えてるわけじゃなかろうと思う。どう考えても針小棒大だ。まあ、どこかで誇張を入れなければ話なんて成り立たない。それはこんなブログを書いていてさえ思うのだから。

ともかくも、「勉強のやり方を教えてほしい」と要望する生徒は、基本的には成績が伸びないか、下がっている生徒だ。順調に成績が上がり続けている生徒からは、そういう要望は出ない*3。成績が上がらない原因はさまざまだけれど、根本的には、そもそも「成績」という考え方が存在するからだといえなくはない。つまり、相対評価だろうが絶対評価だろうが、成績は数字として算出される。テストの点数なんてのは、端的に数字が出る。数字が出れば、比較が行われる。比較をすれば順位が出る。順位は相対的なものだ。だから、誰かの成績が上がれば誰かの成績が下がる。言いようによっては、世の中の半分の生徒は成績が下がっていると言っていいのだし、「今回、数学は上がったんですけど国語が悲惨で」みたいな話がしょっちゅうあることを思えば、ほとんどの生徒が何らかの「苦手教科」で成績を下げている。つまり、「成績」というシステムがあれば、必ず「成績が下がって」とか「伸び悩んで」という問題が発生するわけだ。そこに受験産業がつけこむ余地がある。そうやって私のような家庭教師が生活の糧を得るわけだから、世の中は無常。おっと話が逸れた。

極論はさておき、多くの生徒が問題を抱えているのは現実として間違いがない。そして多くの場合、「努力の方向がおかしいよ」というのは、見ていてもわかる。たとえば、これは真面目な生徒によくあるのだけれど、自分の得意分野の問題を大量に解いて時間を奪われている場合がある。方程式が得意な生徒が方程式の問題ばっかり解いて勉強した気分になっているとかね。いや、それ時間のムダでしょ、とこっちは思う。だって、もう既に全問正解することがわかりきってるのに、それをその上に練習してどうすんの。けれど、やってる側の心理としては、そういう問題をやってる限りは、答え合わせで大きな満足感が得られる。なにせ、全部マルがつく。疑問も出ないから作業としてはどんどん進む。こんなにたくさんの問題をやって全部正解し、自分はエラい!って自尊心、自己効力感が高まっていく。けど、点取りゲームの定石からいえばアホとしか言いようがない。3問続けて正解が出るようになったら、そのタイプの問題は当分は手を付けなくていい。正解がなかなか出ないタイプの問題を崩していけば自ずとテストの点数は上がる。そういった「間違った努力」をしている生徒は、確かにいる。けれど、それは「勉強のやり方がわからない」とは、ちょっとちがうだろう。指摘してやると、気まずい笑顔を浮かべて「ですよねえ」と返してくる。自分でもわかっているのだ。ただ、実行できないだけだ。あるいは、「勉強しなきゃ」と机の前に座るんだけれど、固まったようにそこから何もできないままに時間が過ぎてしまう生徒もいる。なんのことはない、私だってそうだったからわかる。「やり方がわからない」のではなく、単純に「できない」んだ。「やらなきゃいけない」とわかっても体が拒否するものを、どうしようもないだろう。こういうものを「やる気」だとか「やり方」だとか言ってたんでは、絶対に解決しない。「いや、じゃあ、それやらなくていいから」というところからスタートするしかない。そして、体が拒否しない別の学び方を探すことになるだろう。

そういった「うまくいかないポイント」をきちんと意識させ、ひとつひとつ解きほぐしていくのは家庭教師の仕事だ。だが、それはどう考えても「勉強のやり方」ではない。そういう概念でまとめてしまうにはあまりにも多様であり、あまりにも個別で、あまりにも細かい。「こうやってみたら」という提案と「やっぱりうまくいきません」みたいな反応、「だったらこうしてみるか」みたいな再提案が連続する試行錯誤のプロセスであって、方法論に落とし込めるものではない。

もちろん、一般論として、学習に対するアドバイスをすることはある。たとえばつい先日も、中学校に進学したばかりの生徒に、「学校の授業がいちばんたいせつなんで、どうやって居眠りせずに注意を持続するか」とか「提出物をテスト直前まで溜めてしまわないためにはどういう工夫をすればいいか」とか「教師は基本的に教えたがりなので、どうやってそれを利用するか」とか、そんなアドバイスをした。けれど、こんな通り一遍のアドバイスがそれなりに意味をもつのも、この生徒に対して2年間、それを受け入れる下地をつくってこれたからなのだ。そうでなければ同じ言葉は単にお説教になって、なんの効果ももたらさないだろう。だいたいが、この程度のことは学校の教師自身が最初に説明している。特別なことでもなんでもない。だから、ほとんどの生徒は知っている。わからないと信じている「勉強のやり方」とはまったく別次元のことだ。

だから、現実には「正しい勉強の仕方」なんて、この世には存在しないのだと考えたほうが、よっぽどスッキリする。そういうものがあると思うから、子どもたちは迷うのだ。自分自身がやっていることが間違っているからダメなのだと思い込む。あるいは、他の生徒はそれを知っているからうまくいくのだと思い込む。そんな思い込みが人生になにかプラスをもたらすだろうか。疎外感と自信の喪失につながるだけではないのだろうか。「やり方さえわかれば自分はトップにだってなれる」というのは、思春期にありがちな劣等感の裏返しとしての自己万能感でしかない。それは人をどこにも連れて行かない。

 

では、「勉強のやり方がわからない」と悩む生徒に、対応する方法はないのだろうか。ないと投げ出してしまったのでは、プロじゃない。対応の方法は状況によってさまざまでひと括りにはできないのだけれど、それはそれなりに対処する。そして、細かなことを抜きにすれば、ひとつのよくある対応策にまとめることだってできるだろう。それは、状況を客観的にみるよう、生徒に促すことだ。容易なことではないが、それができれば多くの生徒は「勉強のやり方」で悩まなくなる。

生徒の人生は生徒自身が主体なのだから、そこに客観性を持ち込むことは本来不可能である。しかし、主体でありながら、ときどき外側に視点を移してみることは不可能ではない。その方法として割と有効なのは、「遠くを見る」ことだ。物理的に遠くを見ることは姿勢を正し、目の緊張を和らげ、健康にさまざまな効果をもたらすのだそうだが、心理的にも「遠くを見る」ことはプラスの影響をもたらす。たとえば、1年後、5年後、10年後の自分を想像する。そういった遠くを見ることで、風景が俯瞰的に捉えられる。その風景のなかに自分を置けば、自ずと何が重要で何が取るに足らないことかが見えてくる。そうすれば、「いまなにをすべきか」がはっきりと見えてきて、迷いがなくなる。眼の前のことに一喜一憂する必要がないのだということがわかれば、長期的な取り組みが可能になる。そうすると、短期的なイベントに対応することも楽にできるようになる。

しかしまた、客観性だけでは人間は動けない。あまりにも客観的に過ぎると、極端な話、生きる意味さえ見えなくなる。人間は無数にいるのであって、そのなかで自分が自分である必要などないことに気づく。いわゆる人間疎外というやつだ。そこに落ち込まないためには、やはり人生を生きる主体としての主観が重要になる。主観とはつまり、動物的な感覚だ。欲望であったり喜びであったりする。そういった感情をたいせつにすることで、方向性が見えてくる。生きることに意味が生まれる。

だから私は、できる限り、生徒には「やりたいことをやりなさい」とアドバイスするようにしている。やりたいことを中心に大きな絵を描けば、そのなかでつじつまを合わせていくために「ここはこのぐらい、こんなことをやっといたほうがいいな」というのが見えてくる。そして、それは実行可能な計画に落とし込み、そして実行することもできる。

「いや、やりたいことをやれって言ったらゲームしかしないでしょ、こいつら」という意見だって、あると思う。そしてそれはたしかにそのとおりなのだ。けれど、思い返してみよう。「ほっといたらテレビばっかり見る」と言われた昭和の時代、「そんなふうに放任したら古典なんて誰も読まなくなる」と言われた時代を通じて、実際に読書量は減っただろうか。「ゲームボーイばっかりする」とか「Wiiかプレステしかやらん」と言われながらも、実際には若い人々の教養は全体としては上がってきたのではないだろうか。かつての劣等生だった私からみれば、現代の若い人たちは実際のところよく勉強しているし、いろんなことを知っている。好きなことばかりやっているようで、実はそれが教養を受け入れるベースをしっかりつくりあげているのではないかという気がしてならない。

 

結局のところ、「勉強のやり方」という括りの「勉強」が問題なのだろう。これは語源的に、「がんばる」「嫌なことを無理矢理にでもやる」という意味で使われてきたものが、明治期に「英語に勉強する」(英語学習をがんばる)、「漢学に勉強した」(古典を無理矢理にでも覚えた)みたいな用法を重ねるなかで「学習」の意味に転用されるようになったものだ。だが、そこには、やはり「やりたくもないことだけどしかたないからやるんだ」みたいな含意が、意識されなくとも残っている。そうではなく、人間はもともと、好奇心のカタマリだ。好奇心を満足させるためなら、多少の犠牲も厭わない。そうやって「学ぶ」ことは人間の本性をつくりあげ、なんならそれが基本的人権のひとつとして認められるようにさえなった。そういう経緯を思うなら、学習に方法論があるとしても、それは自分自身の欲求を満足させるためのものであって、自分自身で試行錯誤をし、あるいは自分から調べたり、具体的なアドバイスを求めたりして見出していくものにちがいない。だから私だって、漠然とした「勉強のやり方を教えてください」みたいな質問からは逃げるしかないけれど、もっと具体的な質問にはいろいろと具体的に提案することができる。そのときに、「じゃ、結局何が獲得目標なの」みたいなことは必ず確認するわけだし、そのためには最終的に「何がやりたいの」みたいなことを話すことになる。遠回りでも、そこから攻めなければ、前に進めないと思う。人間は、しょせん、欲にかられて動くもんだと、マズローもいってなかったか。やれやれ、煩悩から解脱なんて…

*1:これに関しては言葉尻の問題でもなく異議はあるのだけれど、一般の通念ではそうだろう

*2:親によっては、成績以前に「子どもの勉強する姿」を気にする場合もけっこうあるのだが、これは生徒に「なるべく親のいるところで宿題するようにしてください」と言うことでだいたいは解決する

*3:のではないかと想像する。というのは、そういう生徒が家庭教師を必要とすることは基本的にないので、実例に乏しいから