無目的な行動と合目的的な行動と - まとまらない雑感

山登りらしい山登りをやめてから20年以上になる。ピッケルだとかクライミング用のロープだとか山靴だとかは、結婚したときに捨てた。命を危険にさらすことができる立場ではなくなったと覚悟を決めたからだ。ただ、実質的にはその数年前からそういった道具類を使うことは絶えてなくなっていた。時間がなかったからでもあるし、大学山岳部が衰退してそちらから合宿に参加を求められることもなくなったからでもある。ある意味、ちょうどいいときにやめていたのかもしれない。というのは、おそらく、体力的には山登りをやめる直前の30代なかばまでの頃がピークだったからだ。

実際、あの頃は、いま思えばバケモノ並みに体力があった。条件のいい残雪期とはいえ白馬岳から唐松岳鹿島槍ヶ岳を経て扇沢までの40km、高低差9千メートルぐらいはある行程を山スキーを履いて2泊3日で走破したのなんか、ちょっとアタマおかしいんちゃうかと冷静になれば思う。あるいは合宿参加のときのこと、新雪が積もるとパーティーの先頭はペースが落ちるので全力で飛ばして疲れたら交替するのを繰り返す(そうすることで後続は通常より遅いペースながら前進することができる)のだが、私が先頭になるとなぜだか後続がついてこれないという異常事態が発生したりもした。ペース狂ってリーダーは苦労しただろうな。

いまではそんなムチャはできない。興味深いのは、ムチャをやりたいとも思わなくなっていることだ。若い頃には、地図を睨んでは「この雪渓とこの雪渓をつないで滑降したらこっちに抜けられる」みたいなことを思いついたら「よし、行ってやるぞ」と気もちが盛り上がったものだ。それが、そういうことを絶えて思わなくなった。欲というものは、その人の器量に応じて発生するものらしい。欲がなければ「登れなくて残念」とも思わない。奇妙なもので、「あんなしんどい思いをして、よう山なんか登るわ」と、他人事のように思うようになる。「危険やからやめとけ」と、昔の自分が聞いたらとげんなりしてしまうような言葉を口にしそうにもなる。人間とはかくも勝手なもの。

総合的な体力は、おそらく多くの人が30代半ばまでにピークを迎えるのだろう。野球選手なんかを見ていても、どうもそんな感じがする。もちろん、筋力であるとか、個別の能力はそれからでも鍛えることはできる。私だって、たぶん、腕の筋肉だけなら、毎年、ストーブ用の薪を切ったり割ったりしているいまのほうが若い頃よりも上だろう。だが、たとえば同じだけ筋力を使ったとして、その後の回復の度合いがまったくちがう。若い頃なら「あー、疲れた」とそのまま眠って翌朝にはすっかり元気になっていたものが、いまでは筋肉をほぐして十分なケアをしても、回復に数日かかったりする。人間も生物である以上、身体的な能力に加齢による衰えが生じるのは、避けがたい。

頭脳も身体の一部分である以上、やはり年齢とともに衰える。高齢の母親を見ていると、やっぱり新しいことを覚える能力はずいぶんと衰えるものだなと思う。その一方で、瞬発力というか、「ああ言えばこう言う」能力はいっこう衰えてくれず、憎たらしいことこの上ない。過去の記憶が薄れることもないし、なんならそれを自分に都合のいいように改変する創造的な能力も相変わらず衰えていない。むしろ磨きがかかってるんじゃないかと思うぐらいだ。筋力と同じで、総合的にみれば若い頃ほどの能力はないのかもしれないが、個別には年老いても伸ばせる部分もあるのかもしれない。

そもそも、頭脳の「能力」とはどういうものだろうかということでもある。頭脳をコンピュータにたとえるとすれば、(インターフェイスの部分はおそらくまた別の能力ということになると思うので)、主に情報処理と情報の貯蔵が脳の能力を表すことになるのだろう。処理速度そのものは、まちがいなく若い頃のほうが速い。暗算のスピードでは、いまの私は中学生にだって負ける。ただ、情報処理というのは、既存の情報を参照し、照合し、判断していく過程でもある。つまり、そういった処理の道筋が必要になる。それを既にプログラムとして所有しているかどうかが、けっこう情報処理の過程では重要だ。「コンピュータ、ソフトなければただの箱」というわけだ。いくらCPUが高速だろうがGPUが利用できるようになっていようが、足し算だけなら電卓と変わらない。そしてプログラムは、いったん形成されれば記憶領域にインストールされる。つまり、情報の貯蔵を司る記憶のほうが重要になってくる。

記憶領域の処理能力は、記憶可能な情報量のほか、読み込みや書き込みの能力、情報のエラー訂正の能力などに依存するだろう。このうち、書き込みの能力は、やはり明らかに若いほうが優秀だ。携帯電話の普及前、私は主な連絡先の電話番号はだいたい暗記していた。語呂合わせで覚えるのが得意だったし、なんなら数回かければ指先がダイヤルの感覚を覚えているような気さえした。100件ぐらいは暗記していたのだが、そんな力は、いまはない。その一方で情報を記憶領域から読み込む能力はそれほど変わっていない気がする。いまだに何十年も前のことを思い出せるのは私の特技だ。また、記憶可能な情報量の総量はそれほど変わらなくても、圧縮するプログラムを備えるようになるので、全体としては情報量の蓄積は大きくなるような気がしている。情報量が多いとエラー訂正の精度も高まるだろう。ということで、記憶領域に関しては、どうも年齢とともに低下する能力よりも、上昇する能力のほうが大きいような気がしている。

実際、家庭教師として生徒に教えていると、「若い頃はアホやったなあ」と痛感することが多い。「こっちのことも知ってたし、あっちも知ってたのに、その関連になんで気づかんかったんやろ」と呆れることもけっこうある。たとえば、昨夜も生徒に頼まれて世界史の講義をしたのだけれど、アッカド人がセム語族であったとかいう部分で「そういや、高校生の頃に、『なんでそんなことがわかんねん』と思ったことがあったなあ」と思い出したりもした。なんのことはない、それは粘土板に残された楔形文字が解読されているからわかっているので不思議でもなんでもない(教科書を読めばその程度のことは類推できるようになっている)。けれど、高校生の私にはそれが思いつかず、「学者が適当にええかげんなことを言うとるんやろ」ぐらいに思っていた。2つの情報を結びつけて類推するプロセスは、そういう思考過程を何度も重ねることでやがて頭の中のプログラムとして機能するようになる。人生を重ねるなかでそういったプログラムを大量にインストールしていくので、大人はやっぱりそれなりに知恵が回るようになっているわけだ。

だから、昔の自分のことを思い出すと「アホやったなあ」と思う。これは知識のことばかりではない。若い頃、他の人に対してどれほど想像力のない応対をしたかとか、赤面するしかない。「あんなアホなことをせんかったらよかったのに」と思うことは十や二十ではきかない。歌の文句ではないが、後悔ばかりの人生だ。差別的な言動も数しれない。そう思えば、いまの若い人たちは価値観がアップデートされていて、尊敬する。その分だけ生きにくさもあるとは思うが、老後になってからの後悔の記憶は少ないほうがいい。それだけ人生が豊かになるだろう。

 

ただ、だからといって、いまの私が、将来さらに、自分自身をアップデートすることを望んでいるのかといえば、特別にそういう欲求は感じない。これもまた、おもしろいことだなあと思う。たしかに、過去の自分よりは現在の自分のほうがいい。少なくとも、体力とかお肌のハリだとか、そういった純粋に身体的なものを除外すれば、自分自身は年齢とともにアップデートだけでなくアップグレードもされていると感じる。いまさらWindows XPを使いたい人なんかいないように、愚かな若い頃に戻りたいとは思わない。もちろん、若さには能力以外の魅力がある。それは可能性というやつで、だからこそ企業に雇ってもらえたり、あるいはパートナーが見つかったりもするわけだ。年齢を重ねると未来の可能性は限定されるので、そういったアドバンテージはなくなる。だから、そういう部分では若さを羨ましく思うことはある。けれど、こと自分自身の能力というところだけなら、いまのほうがずっといい。ではあるのに、「じゃあ、将来はもっとよくなる可能性があるんだから、それに向けて努力しよう」とは思わない。未来の自分のためになにか勉強しようとか、そういうことはほぼ思わない。

「自分を成長させるために頑張ろう」みたいな感覚は、私にはない。過去にもなかったし、いまもない。これはもう、そういう個性なのだというしかないのだろうけれど、どうやら私は時間軸に沿った努力というものができない。もちろん、頭ではわかる。わかるからこそ、生徒にも「目標」や「マイルストーン」を意識させ、それに向かった計画の重要性を説く。なんならそういう計画を自分でも立てて、それに沿って指導を進めたりもする。それは、将棋の駒を進めるのと同じだ。ゲームの感覚といってもいい。けれど、人生はゲームではない。いくら「I want you!」と歌おうが、人生はゲーム感覚では進められない。私にとってはそうなのだ。私にとって人生(life)とは日々の食事であったりそのための買い物であったりそれを支える仕事であったり睡眠であったり、つまりは生活(life)であり日常(life)である。そこには目標もなければ戦略もない。

若い頃はそうでもなかったかもしれない。少なくとも、中学生、高校生の頃には人生になにか目標があるべきではないかと考えていたフシがある。目標という言葉ではなく、「人生の意味」みたいな言葉で考えていたような気もする。「人はなんで生きるのか」みたいなことを、飽きもせず考えていた。何年も考えてようやくたどり着いた結論は、「生きてみなければわからないよな」だった。そこで自動的にそこから先を生きることが決まった。もしもあの頃に「人が生きるのにはこういう意味があるのだ」みたいな結論が出ていたら、もうそれで満足して、生きるのをやめていたかもしれないとも思う。どうだろう。まあ、よくわからない。ともかく「やってみたらわかるかもしれない」程度の「体験人生」ぐらいのつもりで生きているうちに、いつの間にか「人生の意味」みたいなものはどうでもよくなった。そんなものは後付けでいくらでも考えられる。とりあえずは目の前の生活をまわすことのほうがたいせつに思えてきた。とくに40代に入ったばかりで息子が生まれて、それどころではなくなった。とりあえず預かったこの赤ん坊がひとり立ちするまで、自分の毎日の最優先事項はその成長を見守ることだろうと思ったからだ。そして、ひょっとしたら自分の親もそういうつもりで自分を育ててくれたのかもしれないと思い至った。もしもそうやって、次の世代を育てることがもっとも重要なことであるのなら、「人生の意味」なんて、個人のレベルのものではないということになる。「種の保存」みたいなね。それはかなり気色悪いので、やっぱりそこに何らかの意味付けをすることそのものが間違っているのではないかという気がだんだんにしてきた。そして、そのうちにもう本当にどうでもよくなった。しんどいこともあれば楽しいこともある。泣いて笑って、それで毎日が過ぎていけばいいではないかと、吉本新喜劇のような世界が目の前に開けていった。

 

そんな生活の中でも、もちろん、欲はある。たとえば、「ギターがうまくなりたいなあ」というのは、中学生で初めてギターを手にしたとき以来の長く抱いてきた欲だ。仕事が忙しくてギターどころではない数年を過ごしたこともあれば、生活に追われて「いつの間に錆びついた糸」にさえ気づけない時期もあった。けれど、そのたびに、6本の弦に戻ってきた。おもしろいのは、そうやってブランクがあって、久しぶりに弾いてみたときには指がぜんぜん動かなくて「だめだこりゃ」と思うのに、十日も弾いていると「あれ? 前よりうまくなってないか?」と感じることだ。うまくなっているかどうかはともかく、以前とは別の展開が弾けるようになっている。以前には思いつかなかったフレーズが出てくる。そうやって以前にぶつかっていた壁を乗り越える。

たしかに、若い頃のように器用に指は動かない。けれど、確実に「自分が納得できる音」は出せるようになってきている。長いこと続けていればこそだろう。続けるために欲は必要だったけれど、それは目標とかゴールとかに落とし込めるようなものではない。もちろんそういう欲を「プロ」とか「メジャーデビュー」みたいな目標に落とし込む人もいる。実際、若い頃にはそういう人たちとセッションすることもあった。けれど、私は「プロになりたいか」と言われても「そりゃ、お金もらえるなら嬉しいけど、でも、今の自分の腕じゃお金もらえるだけの演奏はできないよねえ」みたいに思うばかりだった。「じゃ、練習してうまくなったら」みたいに目標設定してやればよかったのかもしれないが、そんなことしなくても毎日時間の許す限りはギター弾いてるんだし、それでこの程度の腕前なんだからなあ、みたいな感覚が抜けなかった。だから、プロ志向の連中よりは、「とりあえず演奏がキマったら楽しいよね、いい音源ができたら嬉しいよね」みたいな感じのバンドでやっていた。レコード出せれば凄いかもしれないけど、そんな遠いことは実際には意識できなかった。

目標があった人々は、その後どうなったのだろう。目標が達成できないとわかったとき、どうしただろうか。あるいは目標が達成できたらどうなっただろうか。多くの人が音楽をやめてしまったのではないだろうか。目標とかゴールとか、あるいはそれに向けての努力とか積み上げとか、そういうのは人間を前に進ませてくれるし、効率的に歩ませてくれる。けれど、それはまた、人生の有限性にもつながってしまう。限界を見せてくれる。戦術的に考えたら1日が24時間では足らなくなるかもしれない。けれど、地球の自転速度は変えられない。目標達成のためのマイルストーンは、達成できなければ目標の変更か作戦の見直し、ときには撤退を要求する。それはシビアに現実を突きつける。合理的な行動を要求する。

合理主義は、効率的、能率的に物事を進める上ではこの上なく役に立つ。その一方で、日々の暮らし、「なんとなく」とか「いつものことだから」とか「楽しいから」「義理人情で」みたいな日常は、合理主義と相性がわるい。忙しさに紛れて長く手も触れなかった楽器に手を伸ばすのは、合理的な行動ではない。そんなふうに何度も中断し、何度も再開するようなプレイでは、何かの目標を達成することは決してできない。けれどまた、そういった非合理的な行動は、人を思いもかけないところに連れていく。「え? こんな音が出るの?」みたいな驚きが自分の指先から生まれたりもする。そういった予想のできない展開は、人生を豊かにしてくれる。

 

老子の「無用の用」ではないが、どうも世の中には「無目的の合目的性」みたいなものがあるような気がする。生物の生存戦略と形質を学ぶと、その合目的的な身体構造に驚かされる。しかし、進化論の教えるところでは、その合目的的な形質は、決して目的を定めた合理的手法によって達成されたものではない。あるいは、ブルデューの著作で再発見される芸術についての言及があったと記憶しているが、およそ本人の自己満足以外の何の目的もなしに創作された作品群が、ある文脈に置かれたときにまるである種の芸術的な主張の先駆作品であるかのように位置づけられることがある。こういうのも、無目的の合目的性であるだろう。

人生を振り返ったときに、「すべてのことは定められていた」とか、「真っ直ぐに一本の道を歩いてきた」「何一つムダなことはなかった」と感じられることがあるだろう。たとえば有名なスティーブ・ジョブズスタンフォード大学卒業式スピーチでは、ジョブスが大学からのドロップアウトを決めたあとカリグラフィーの授業を受けたことが後にMacのフォント表現に役立ったことが述べられている。まるで運命が導いたような出来事だ。ただ、大学で鬱屈していたジョブスが将来の夢のためにカリグラフィーを学んだとはとうてい考えられない。実際、スピーチでジョブスは単にそれが「魅惑的だった」からで「自分の人生になにか実用的な役に立つわけはない」と思っていたことを述べている。そういった無目的の行動が、結果として合理的で最適化されたステップでは達成できない製品を生み出した。まさに、無目的の合目的性だろう。

 

目標のない人生、行きあたりばったりの人生では、人はたいしたことを達成できない。けれど同時に、目標や作戦に縛られた人生は、その合理性が連れて行ってくれる場所にしか人を運ばない。おそらく望ましい人生は、合理性と非合理性のバランスをとること、感覚で選択をしながらも、いったん選択した行動の先に目標を見つけ、そこに向けて合理的な行動積み上げていくことによって成立するのだろう。私のようにふらふらと、非合理的なことばっかりに手を出す人生は、どうせたいしたことにはならない。生徒に指導するときには、私はいつもそんなことを念頭に置いている。

ただ、自分のことになると、なかなかそうはいかない。行きあたりばったりの人生、わかちゃいても、やめられない。合理的に考えたらどう転んでもありえない選択ばかりする。だって、その先にどんな風景が開けているのか、おもうだけでわくわくするからだ。もちろん、何ごとかが起こる前に野垂れ死にする可能性だってある。というか、そっちのほうがありそうなことだ。けれど、それもまた人生。