外国大学への進学を勧める理由とその対応 - 主に英語に関しての話

私立高校なんかでよくプログラムに組み込まれてる短期留学などの語学留学を除けば私の生徒で外国の学校へ進んだ人はいまのところいないのだけれど、遠からず出てきても不思議はないと思っている。先日も、体験授業だけ受けて結局契約には至らなかった医学部受験生がいたのだけれど、外国の医学部の選択肢を示したら飛びついてきた。そのぐらいに、外国の大学で学ぶことは特別なことでなくなってきている。ウチの息子も、コロナがなければバークレー音楽院ぐらい、行ってたかもしれない。息子といえば、彼の保育園時代の同級生がこないだ遊びに来て、フランスに料理人の修行に行くのだという。世界は狭くなった。家庭教師をやっていても進路のひとつとして外国の大学をあげる生徒も現れるようになったし、そうなる以前から私の方から外国の大学を考えてはどうかと提案することもあった。

なぜ国外に進学先を求めてはどうかと提案するのかといえば、ひとつには、日本の大学入学選別システムを回避するためだ。このブログで何度も書いてきているが、伝統的な学力テストによる大学入試の方法に対して私は否定的な見方をしている。繰り返しになるので詳細を省いてまとめると、それは「学力があればこの程度の問題は解けるはず」という設定に対して「問題が解ければ学力があると評価されるんですね」と解釈して「対策」をとることから発生する歪みだ。「AならばB」として設定されたものを「BならばA」と受け止めて対応することは正しいのだろうか。私はそれはちがうと思う。そういった「対策」を全員がとることで本質を離れた競争が発生し、それが本来は豊かであるべき高校生の生活に過剰な負担をかける。それは正しいことではない。だから、回避できるなら回避すべきだと思う。

実際、回避する方法は増えてきている。伝統的な受験勉強をしなくても大学に入る方法は整備されてきている。たとえば今年度は大学受験生の当たり年で3人の高校3年生が進学準備をしているのだけれど、そのうちの1名は早い段階から志望校を決めてそこの「総合型選抜」に照準を定めている。そのためには学校のカリキュラム内で研究発表を行っておく必要があって、高2ではそういうコースを選択し、校外でのプレゼンテーションも実施した。中学3年のときには英語が苦手で苦労したのだけれど、英語の実力を地道に積み上げてきて、どうにか出願基準を満たすところまで到達した。こういう方法をとれば、真正面からぶつかる学力テストの準備を回避できる。また、1名は志望校を絞り込むことで難易度の低い受験ができそうだ。ある程度は伝統的な受験勉強もしなければならないが、そこまでやりこまなくても彼なら通るだろう。こんなふうに、やりようによっては高校生活のすべてを受験勉強に潰されるようなしんどい受験生生活を回避できる時代になりつつある。そして、外国の大学への進学も、その方法のひとつになる。

もちろん、進学先による。トップクラスの学校に関しては日本でいうところの内申書に相当する高校からの推薦書が必要なようだし、志望書もかなり高度なものをしっかりした英文で書き上げねばならない。一方でコミュニティカレッジあたりだと入学手続きだけで入れたりする。その中間にはいろいろあるが、いずれにせよ、おおまかにいえば伝統的に外国の大学は日本の大学に比べて「入るのは簡単だが出るのは難しい」と言われている。入試で厳しく選別されない代わりに、授業についていくのがたいへんで、手を抜くとあっさりと落第する。実のところ、日本の大学もかつての温情的な単位認定が減ってきているのだけれど、やはり伝統的には「入るのは難しいが、いったん入ったら卒業は既定路線」である傾向は強い。だから、困難な受験勉強を避ける選択肢になり得るわけだ。早いうちに志望校を絞り込み、そのアドミッションポリシーを研究し、なんなら「どうやったら入学できますか」というのを直接大学に問い合わせて準備すれば、順当に進学ができるだろう。

 

ただし、それでめでたしめでたしではない。なぜなら、「入るのは簡単だが出るのは難しい」わけで、まず、授業にしっかりとついていかなければならない。そのためには、何をおいても英語力となる。というのは、アメリカ、イギリスなどの英語圏は当然として、その周辺でも多くの大学では英語で講義やゼミが行われることが多い。もちろん専門領域の基礎知識がしっかりしていることが重要だし、真面目に新たなことを学んでいくこともだいじなのだが、その前提として英語で理解できるだけの語学力がなければどうしようもない。

もちろん大学側も、入学時点でしっかり英語力があることはチェックする。これは実質書類だけで入学できるコミュニティカレッジのレベルでも同じで、TOEFL等のテストを受けて一定のレベルに達していることを証明しなければならない。それが整っていない場合には、大学入学前に語学学校で一定期間を過ごさねばならないわけで、留学期間がのびることになる。これは、費用の面でも、また卒業までの時間が長くかかるという意味でもあまり好ましいことではない。

そこで、家庭教師としてできることはといえば、早い段階から英語力を上げておくことだ。ということで、中学に入ったらすぐに英語には力を入れる。その際に、「将来、外国の大学に進学しても困らないぐらいにはしておきましょうよ」ということを言うことも多い。というのは、オンライン専任講師になって以後、各地の私立中高一貫校の生徒が増えている。それらの生徒の親は業界用語でいう「教育感度が高い」人々であるので、そういう話がふつうに通じるのだ。むしろ先方から先回りしてそういうことを言われる事例さえあって、時代の変化を感じている。

では、外国の大学で英語で授業を受けるのに、どの程度の英語力が必要か。それは、高ければ高いほどいいのだけれど、英検でいえば二級では少し不足、準1級あれば十分という感じかなと思っている。これは教員側の英語力や専攻にもよるので一概にはいえない。日本の大学であっても、教員の日本語がわかりにくい場合があったりする。学問上の達成と言葉で伝える力はそこまで強く相関しないのだから、これはしかたないだろう。概念を伝えるのにもって回った言い方をする必要はないのだから、本来なら英検二級程度の文法と語彙に準拠すれば十分だ。もちろん専門用語は別だけれど、それはどのみちそこから学ぶものだから問題ない。ただ、「二級では少し不足」というのは、現実にはそこまでしっかり噛み砕ける人のほうが少ないからだ。一方で準一級ぐらいだとオーバーキルという感じはする。まあ、だからといってそこまであってはならないことはない。むしろ、英語力は高ければ高いほどいい。あくまで最低限のレベルの話だ。そして、大学側の要求もそのあたりのレベルであるようだ。

現代の若い人の英語力は、昔に比べれば飛躍的に上がっている。英語教育の問題点は長年言われ続けているのだけれど、それに対して何の進歩もなかったのかといえば、それはあまりに教育業界に対して失礼だろう。私が家庭教師として教えはじめた10年前からだけでも生徒の英語の発音ははるかによくなっているし、読解力も上がっている。だから、ちょっとだけ英語に力を入れてやれば、高2が終わる頃まで(つまり進路を決めなければならない頃まで)に英検二級程度の実力まで上げておくことは、特別に優秀な生徒でなくてもふつうに可能だ。だから、多くの高校生に外国の大学への進学のチャンスがある。

 

とはいえ、実際にもしも彼らが外国の大学に進学したときのことを考えると、不安になる。というのは、自分自身の経験を振り返って、学校の授業では大きく欠けるものがあると思うからだ。それは、英語圏の教科書を読んでみればわかる。中学生程度の基本概念を表す言葉が、まるでわからないのだ。

私は、高校時代には英語が苦手だった。「英語のできない文系と数学のできない理系とどっちがマシか」と真剣に悩んで、結局工学部に進むことになった。その後も特別な英語の勉強なんかしなかったけれど、何を勘違いしたのか翻訳者になりたいと思って、25歳の年に最初の訳書の出版にこぎつけた。このあたりの話は長くなるので別の物語だけれど、ともかくもそういうふうに長いこと英語の実務をやっている。だから英語はできて当然だ。それが、何かのイベントだかなんだかで「海外の教科書」みたいなのを見たときにショックを受けた。知らない単語ばかりだったわけだ。考えてみたら当たり前な話で、だって私は外国の小学校にもハイスクールにも行っていない。そこの教科書に何が書かれてあるか知らないのは当然だ。けれど、それはその教科書で学んだ人々が当たり前のように知っている概念だ。理科だったら、「光合成」「膵臓」「偏西風」「抵抗」なんて用語は中学3年生なら誰でも知っている。社会なら「熱帯」「産業革命」「憲法」なんて言葉もそうだ。数学なら「代入」「放物線」「相似」、国語なら「名詞」「倒置法」「隠喩」なんて言葉は授業でふつうに出てくる。それを英語でなんというか、日本で高校3年生まで英語を6年(いまの指導要領なら8年)勉強しても知らずに済ませられるのだ。それに気がついたときには愕然とした。自分は、「1+1=2」でさえ、英語で表現できないのではないか!*1

もちろん、単語レベルの問題なので、こんなのはすぐに追いつくことができる。にしても、出発点で既に基礎知識が異なっているのはハンデだろう。これは、外国の大学に進学する場合にはもちろんだが、それ以外でもあてはまる。日本の大学でも英文で書かれたテキストや論文を読まねばならない機会は増えている。そういうときに、専門用語を辞書でひくのはしかたないとして、「屈折率」みたいな簡単な用語から全部辞書に頼らねばならないのではやっぱりしんどいのではないだろうか。いくらAI翻訳が発達しても、基本的なところはやっぱり素でわかったほうがずっと理解が早いにちがいない。

そこで、数年前から、一部の生徒には英語の教材として英語で記述された理科や社会の教科書を使うことをはじめた。やってみると、英語のレベルとしては英検二級程度の英語で書いてあるので、そのレベルを学ぶ生徒にはちょうどいい。その上、各教科の内容を英語で学ぶことで、日本語で学ぶ学校の授業との二本立てで理解が深まる。これは一石二鳥だなあと思っている。割とタイミングや教科の選択が難しいのだけれど、うまくはまると相当に生徒の力になる。日本の伝統的な大学入試の英語の長文でも、科学的な内容の文章が出されることがけっこうあるので、そういう場合にも単語力が役立つのだしね。

 

時代は変わるし、それにあわせて学問も変わる。そんななかで、受験産業だけは変わりにくい。これは、変わらないほうがラクに金儲けができるからでもある。同じ正解を繰り返し伝えてればいい伝統芸能的な世界では、宗匠はいつまでも権威でいられる。同じことだけやって、生徒にダメ出しし続けてればいいんだから。けれど、それでは世の中の役に立ち続けることはできない。一歩前に出続けることでしか、未来は開けていかないと思う。自戒を込めて、そう思う。さて、次はAIだと……

*1:もちろん数式で書けば理解してもらえるんだけど