「いつ、だれが」に関心がある自分と、ない自分

辻邦生の「安土往還記」を少し前に久しぶりに読み返した。中学生か高校生の頃に何度も読んで「スゲェわ」と感心して以来、十年ぐらいおきに読み返しているんじゃないかと思う。とりあえず手堅く楽しめる1冊として、自分の中ではリリーフエース的な位置づけといったらいいかもしれない。この話、もちろんフィクションではあるのだけれど、さまざまな歴史上の人物がまるでそこで息をしているかのように描かれている。「ああ、人間は意志の力でこんなふうに歴史を動かしてきたのだなあ」と、虚構であることを知りながら感心してしまうという寸法だ。

人間であるから、私はやっぱり人間に興味がある。人間がどんなふうに考え、どんな決意で行動したのかが、私の関心を惹きつける。歴史を振り返ると、「いつ、だれが」というのはとてつもなく大きな関心になる。そして、「もしもあのとき信長が暗殺されなかったら」とか、「もしも石田三成が…」みたいなことを考えてしまう。子どもの頃には、そういう空想を何時間も何時間も弄んだりもした。

けれどまた、学ぶにつれて、歴史は決して個人が動かせるものでもないことを知るようにもなっている。確かに信長は旧来の慣習を打ち壊していったかもしれないが、それは信長個人の思想や才能や性格による部分が確かにあったとしても、基本的にはそれを歓迎する社会がそこになければ花開かないものであったはずだ。家康が成功したのも、家康個人の策謀や人望といった個人的な資質はたしかにあっただろうが、何よりも地域的な大名支配を単位としながら経済的には全国を一律に統治する政府の存在を人々が求めなければあり得なかったことに違いない。言葉を換えれば、個人の存在がなければ細かなフレーバーは変わっていたはずだけれど、大きな流れは変わらなかったのではないかと言える。暗殺されずとも信長は失脚したのかもしれないし、あるいは単純に豊臣家の代わりに織田家が関白職についていてあとは大差ない世の中になっていたのかもしれない。細かな事績は書き換わるだろうけれど、ヨーロッパの市民革命・産業革命の時代に日本が東洋で独自の進化を遂げていった大きな流れは変わらないのかもしれない。

そういう立場からは、歴史上の人物の細かなことなんかよりも、それを支えていた社会がどういうあり方であったかの方に興味が惹かれることになる。歴史上の出来事については、その社会の動きを象徴するもの、社会の動きを把握する手がかりとなるものとして、重要視するようになる。そこに個人の生い立ちや決意や展望や思想を読み取ることは、半ば以上にどうでもいいことになってくる。

 

なんでこんなことを改めて書くのかといえば、黄金頭さんのこちらの記事を読んだから。このあたりの歴史は、非常に興味深い。

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日本書紀が歴史上重要な書物であることは言うまでもないこととして、それがどのように成立したのか、内容がどのように当時の人々の思想を反映していたのかは、まだまだこれから解明されていかなければならないことだろう。そして、藤原不比等がそこに一役買ってるとかいう話は、ゾクゾクするほどおもしろい。小説だって書きたくなるだろうし、誰かが書いたのなら買って読みたくもなろうというものだ。そこに関わった個人が、どういう思惑で、どういう策略で、どういう行動でそれを形にしたのかは、想像するだけで楽しい。

しかしまた、現実には「日本書紀」のような書物は、個人の力だけでは成立しない。仮にそれが書かれることが可能であったとしても、それを受け入れ、長きに渡って教養の基本として学ばれる対象になるためには、それを必要とする人々のニーズが素地としてなければならない。そしてそういった社会のあり方、稲作農耕がこの諸島に根付いて、それが「くに」という姿をとってきた中で、さらに変化をしていく原動力が社会にあってこそ、そういった小さな思いつきや政策が説得力を持ち、人々の支持を受け、そして共通の神話として受け入れられていくわけだ。だから、いまの私は、どちらかといえば、「いつ、だれが」にはあまり興味はない。

「いつ、だれが」は、文学的な興味としては中心になる。坪内逍遥を持ち出すまでもなく、文学にはヒーロー、ヒロインが必要だ。私はそういうものを読者として好むし、いまだにそういうものを求めて小説を読む。その一方で、現実の歴史に対しては、もうそういう関心は持てなくなってしまった。関心は、個人に対してではなく、その集団に対して存在する。

 

歴史だけではない。現代という時代を捉えるときにも、同じことが言える。だから、政治家を個人として評価するような話には、どうしても乗れない。そりゃ、個人としては優れた人、尊敬すべき人も多いことだろう。だが、だからといってそれが社会のなかでどれほどの役割を果たすだろうと思うわけだ。そうではなく、社会はそれを支える物質的基盤とともに、もっと別のもので形作られている。そっちの方が、たまたま議員バッジをつけている誰かさんの個人的なことよりもずっと重要ではないかという気がするのだ。

とはいえ、人間であるから、私はやっぱり人間に関心がある。「社会」みたいな実体の存在しない概念相手には、酒だって飲めない。飲み明かすなら、やっぱり魅力的な個人を前にしている方がいい。もちろん、飲み明かすなんて体力は、もうとうになくなっているのだけれど。