価値観から逃れられないからこそ、いったんそこを保留にすることが重要になるという話 - 「良い」「悪い」で見えないもの

何の気なしに書いたブコメに星がいっぱいついて慌てることがある。いや、私の意見に何かを感じてくれた人が多いのは単純に嬉しい。一生懸命考えて書いたブコメだと、特に嬉しい。慌てるのは、何の気なしに書いたものが思わず伸びるときだ。詰めて書いてないから、曖昧になっている。曖昧なぶん、ときには真逆に受け取られることもある。これまでも何度かそういうことがあった。そして、昨日も。

問題のブックマークコメントは、これだ。

新書の役割――「ナチスは良いこともした」と主張したがる人たち(田野 大輔) | 現代新書 | 講談社(1/5)

「良いこと」とか「悪いこと」という言い方が、そもそも歴史に向き合う態度じゃないと思う。

2021/06/27 10:49

b.hatena.ne.jp

元の記事は、「ナチスもよいことをした」と主張する人々に対して、「それはおかしいよ」と、本を紹介しながら述べるものだ。私は基本的に、その論の張り方に同調する。ブコメ群の中には批判的なものも多いけれど(その中にはある程度頷けるものもあるけれど)、私は細かいことはともかく、「ナチスのいいこと」なんてのはほとんど悪事の一環でしかないと思うので、あんまり記事の批判はしたくない。だいたいが、この記事の中でも触れられているTwitterで話題になった高校生だかなんだかがナチスを擁護した小論文を書いた件にもブックマークコメントをつけて、

予備校時代、一番添削に困った「完璧な文体でナチスの政策を肯定した小論文」とヒトラーファンの女子高生の話 - Togetter

何の教科かによる。国語だったらケチつけるわけにいかない。社会だったら、ケチつける穴を見つけられなかった自分を恥じるべき。 / 教科枠のない小論文なら、社会科的な観点から批判できると思う

2021/02/08 12:22

b.hatena.ne.jp

社会学的な観点からは絶対に批判されねばならないと主張したぐらいだ。だから、そもそも「ナチスもいいことをした」みたいな言い方は、あんまりにも幼稚じゃないの、と言いたくて、最初にひいたブックマークコメントを書いたわけだ。「良いとか悪いとかはお伽話の世界の話であって、そういう単純な切り方をしたら笑われるよ」と。

ところが、意外なことに、これが「相対論」みたいに取られてしまった。確かに、読みようによっては、「物事には良いことも悪いこともあるんだから、そこは公平に評価すべきじゃないの」みたいな主張にとれなくもない。もともと100字制限のあるコメントで誤読を避けることはできないとはいえ、そういう読み方をされるのは本意ではない。それで批判する人(ブコメをずっと読んでいくと批判するひともいたし、わざわざブコメへのブコメで批判してくれたひともいた)に関しては、「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ」で済む。けれど、たくさんついた星の中の、ひょっとしたら半分くらいのひとがそういう誤解をしてつけてるんじゃなかろうかとも思った。だとしたら、そういうひとの主張を代表しているような顔をするのは嫌だ。ここで言い訳しておけば、取り消したいひとは取り消せるだろうとも思った(自分がつけた星の上にカーソルをもっていってしばらく待つと、取り消せる仕様のようだ)。

 

私は、社会を見るとき、自分の価値観から逃れられないのを知っている。だから当然、「これはいい、あれはダメ」みたいなことを思う。そういった意見が個人的な偏見であったとしても、それを主張するのは重要だと思っている。だから、多くの人が肯定する宿題という慣行に対しても、「それって根拠がないんじゃない?」みたいなことを平気で言う。だって、おかしいものはおかしい、と思うからだ。こんなもの、価値観のカタマリだ。

ただ、じゃあ、何のためにその価値観を他者にぶつけるのかといえば、それは愚痴ではない。いや、愚痴っぽくなることも多いけれど、なるべくそれは避けたいと願っている。そうではなく、未来をよりよいものしたいと思うから、自分の価値観にもとづいて、「こうしたほうがいいのに」と主張する。自分の価値観に沿ってよりよい未来がほしいわけだ。もちろん、それは他の人の価値観に適合しないかもしれない。そこは弁証法だ。異なる意見がぶつかったとき、そのどちらでもない新しい地平が開けることもある。未来はそうやってできていくのだと思う。そこに投機するための原動力として、自分の価値観は存在する。

そして、その価値観は、過去に学ぶことによってより深められる。補強される。なぜなら、過去の事実は、実にいろんなことを考えさせてくれるからだ。だからこそ、私は歴史に興味がある。その中には、たとえば千年前の源氏物語に対する興味みたいなものもあるし、つい十年ばかり前の太陽光発電の制度ができた経緯みたいなものもある。そして、そういうものは、より詳しく知れば知るほど、さらにいろんなことを学ばせてくれる。

 

たとえば、私は家庭教師として中高生に歴史を教えることもしばしばあるわけだけれど、中学校の歴史の教科書にはかならず、戦時中の日本の「欲しがりません勝つまでは」的なポスターが掲載されている。戦時下に国家主義のもとで人々が総動員された様子を学ぶためのいい資料だ。これが出てくると、私は(時間的余裕があればだけれど)、必ず、「同じようなポスターはアメリカでもつくられた。国家総動員的な動きは特にイギリスでは強かった。なぜなら、イギリスは連日ドイツ軍の空襲にさらされ、いつ侵略されても不思議ではない状態だったからだ」といった解説をする(ちなみにこれは、20代の頃に写真史関係の本を翻訳していたときに学んだ)。こういう知識は、戦争というものがどういうものであるのかを考える上で役に立つと思うからだ。

ただ、ここで、もしも「よい、わるい」といった価値観を安易に持ち込むとどうだろう。たとえば、「国家総動員は人々の自由を侵害するから悪い」という価値観で日本の「欲しがりません勝つまでは」を断罪するとする。すると、「同じようなものはアメリカにもイギリスにもあった。みんな、悪いことをしていたんだ。だから、日本が特に悪いということはない」みたいな、安直な「相対論」みたいなのに落ち込まないだろうか。あるいは、「当時の侵略国家の日本は悪い国なので、そのための総動員は悪い」みたいな価値観で物事を判断するとどうなるか。「よい総動員」と「悪い総動員」が存在することになってしまわないだろうか。

それでは、本質から遠ざかる。そうではなく、歴史事実に対しての善悪は、いったん保留する。そして、未来に対してのみ、価値観を投影する。すると、当然、私のような人間の価値観からすれば、「国家のために自分の全てを投げ出すのが美談になるような世の中はまっぴらゴメンだ」ということになる。そうなると、「たとえ日本であれイギリスであれ、とにもかくにも、国のために死ねというような社会はまちがってたんだよな」ということが見えてくる。つまり、そもそも戦争に至るような社会のあり方そのものに対する批判が生まれてくる。これは相対論ではない。

つまり、自分の価値観に基づいた判断をするためには、細かなひとつひとつの事実に関して、その歴史の文脈の中では価値判断すべきではない、となる。なぜなら、価値判断は事実を見えなくするからだ。そうではなく、ひとつひとつの事実が由来した力学を観察する。観察するときにもちろん自分自身の価値観から感情は動くのだが、なるべくそこを保留する。そうでなければ、それは阪神タイガースの応援で騒ぐ外野席の観客みたいなことになってしまう。

どういうことか。たとえば、昨今の日本の政治になぞらえてよく引き合いに出されるインパール作戦を考えてみよう。これはひどい作戦であり、あちらこちらと批判されるエピソードが山盛りだ。特に、その中でも牟田口廉也将軍の言動はネットミームにさえなっている。だから、我々外野席の人間としては、「牟田口はカス!」「あんなやつがいたから日本が負けた」みたいなことを言いたくなる。だが、それは、外野の観客としては言ってもいいのだけれど、歴史から何かを学ぼうとするときにはけっして言ってはいけない。なぜなら、もしも将軍がもっと優秀な人であり、戦略にも長け、合理的な判断ができる人であったとしたら、インパール作戦は一定の成功を収めたかもしれないのだ。そのとき、それを「よかった」と、歴史を見るものは言ってもいいのだろうか? 確かに白骨累々のジャングルの退却路は避けられたかもしれない。けれど、それによってビルマ、あるいはインドにさらに犠牲が拡大していたかもしれないのだ。もしも現代の価値観から「人殺しをする戦争はよくない」というのであれば、じゃあ作戦の成功はより大きな人殺しにつながらなかったと保証できるのか、ということになる。日本が勝利して大東亜共栄圏が完成したら、それはそれでめでたしめでたしだったのだろうかということになる。

「お前は日本が負けたことがよかったというのか!」みたいな罵声が飛んでくるかもしれない。私は別に敗戦を喜ぶようなナントカ症候群の人ではない。けれど、日本が勝って万々歳とも思えない。現状の日本の政治を見る限り、もしもこれが70年前にアジア一帯に広がっていたらと思うと、かなりげんなりする。とことんでいえば最初っから戦争とかなしに繁栄できたらよかったと思うのだし、けれど、植民地争奪戦の19世紀からの流れの中でそれが無理だったのなら、それはもう、私の価値観で物を言うのをやめようと思うばかりだ。そして、過去に対して「あれがよかった、これがよかった」という口を謹むかわりに、未来に対しては、「戦争を絶対に起こさないような世の中にしよう。戦争がなければそれでOKなんて話じゃないよ。だって、戦争がなくったって、多くの人が自分の意志に背いて無理やりにしたくもないことをさせられて、しんどい思いをしてるじゃないか。そういうのはまっぴらだよ」と、価値観全開の主張をする。「誰も喜ばないオリンピックなんてやめたらいいのに!」は、1936年のベルリンオリンピックに対しては言わないが、まだ歴史には組み込まれていない2021年東京オリンピックに対しては言う。未来はまだ変えられる可能性がある。だからこそ言う。

 

こういうのが「相対論」だと言うのなら、もう私は文句は言わない。この考え方が批判されるのなら、それはそれで納得する。互いの批判はけっして後ろ向きなことではないと思う。私は、びくびくしながらそれを歓迎するだろう。批判と批判がぶつかって、なにか新しいものがうまれる。人間はそうやってここまで来たのだと思うし、ここから先も、そうやってなんとかかんとか、やっていくのだろうと思う。すくなくともあとしばらくは。