自分でない何かを求めるのは群れ生活者の宿命かもしれない

Tracy Chapmanというシンガー・ソングライターがいて、Talkin' 'bout a Revolutionとか、やたらと格好のいい曲を歌っているのだけれど、なんと言っても出世作のFast Carがすばらしい。アコースティックのギターリフ(けっこうむずかしい)にのせて最小限のバンド編成で進んでいくのだけれど、歌詞が聞かせる。この歌を聞いていたのはちょうどブルデューとかを読み始めてた時期で、貧困の再生産みたいな概念がいまひとつ体感的につかめなかったのを、すっとわからせてくれた。そういえばその少しまえに流行ったSuzanne VegaのLucaは児童虐待のいちばん見えにくところを教えてくれた。こんなふうに、ときには数百ページの大著よりも数分の歌のほうが納得感をもたらしてくれる。もちろん、重厚な著作の重要性がそれで矮小化されるものではないのだけれど。

youtu.be

Fast Carは貧困のなかで虐待されてきた主人公(女性)が恋人との再出発に夢を描き、けれど新しい街でもやはり貧困からは逃げ出せない状況を歌ったものだ。そのテーマはそれはそれで重いのだけれど(その重いものを美しいメロディと甘い声で歌っていくのは凄いのだけれど)、最も耳に残るのはコーラス部分の最後のこの歌詞だ。

And I-I had a feeling that I belonged
I-I had a feeling I could be someone, be someone, be someone

「belong」という感覚を私はこの歌から学んだ。誰かのものである、どこかに所属しているという感覚は、つまりは孤独ではないという感覚であり、それは社会の一員としてしか生きることができない霊長類に共通する感覚だろう。森の哲人とよばれ単独行動で知られるオランウータンでさえ、緩やかな群れを形成しているといわれる。多くのサルの仲間では、群れから離れて単独行動する雄も、実は緩やかに特定の群れと繋がっているのだといわれている。社会から切り離された場合、物理的な生存基盤が脅かされるだけでなく、おそらくは心理的な基盤も崩れていくのだろう。このあたり、人間も同じことである。90%以上は猿一般と変わらない。安心をつくるのは、belongedの感覚だ。

そして、「be someone」だ。「何者かになること」が、希望を与える。そして、このsomeoneは、けっして有名人とか人気者というわけではない。もちろん、英語でもsomeoneを「大物」の意味で使うことは多い(その場合、対義語はanyone とかnobodyとかになるだろう)。しかし、それは特定の行いや場所に関する文脈での用法だと、辞書は言う。

someone
1. PRONOUN
You use someone or somebody to refer to a person without saying exactly who you mean.
2. PRONOUN
If you say that a person is someone or somebody in a particular kind of work or in a particular place, you mean that they are considered to be important in that kind of work or in that place.
Someone definition and meaning | Collins English Dictionary

2番めの意味が「大物」だ。1番目の意味は、「誰か」ということである。たとえば、「誰か手伝ってよ」とか、「誰かがこっちを見てる」とかいった用法だ。別に有名人に手伝ってもらいたいわけでも大物がこっちを見ているわけでもない。

Fast Carのsomeoneは、ちょっと聞くと2番めの「大物」の意味のような気もする。「新しい生活をはじめたらきっと何者かになれる。成功して、郊外に家を買ってひとかどの人物になれるかもしれない」と、そんなふうに思うかもしれない。実際、その夢はこんなふうに歌われている。

We'll move out of the shelter
Buy a bigger house and live in the suburbs

しかし、重要なのはその前のバースだ。父親がアルコール依存症の失業者で母親が愛想を尽かして出ていったことを歌ったあとで、

I said "Somebody's gotta take care of him"
So I quit school, and that's what I did

学校に行かずにコンビニで働いている現状の説明がある。そこでsomeoneと互換的に用いられるsomebodyが、「誰かが面倒見なくちゃ」と、1番目の用法で語られている。主人公は、この段階で、この「誰か」を引き受けているのだが、それが自分自身の人生を食いつぶしていくことを自覚している。だからこそボーイフレンドの車に夢を託す。その車が州境を超えていくときに、belongedと感じ、そして、someoneになれるかもしれないと思う。してみると、このsomeoneは、父親の人生の後始末をする誰かではない、べつの誰かであればそれでいいのだということになるだろう。「何者かになる」というのは、けっして「大成功をおさめる」ということではなく、「いまの自分ではない別の人物になる」ということだ。そして、そこには、疎外された人が常に感じる「みんなはちゃんと居場所があるのに、自分にはそれがない」という感覚が裏側にある。どこにも帰属する場所のない人間はnobodyであり、帰属する場所があってはじめてsomeoneになれる。そんなsomeoneになりたいと、Fast Carの主人公は歌っているのだろう。

 

だが、皮肉なことに、帰属するところのない人間などいない。人間は本質的に社会的生物であり、社会のなかに居場所がなければ存在できない。実際、この主人公も、「父親の世話をするためにコンビニで働く」という(引き受けたくはない)社会的な居場所をもっているのだ。だからsomeoneになりたいというのは、「自分ではない誰かになりたい」つまり「もっとマシな生活をしたい」ということである。ただ、それが現状を改善するという外部の変化によるのではなく、「自分が何者かになる」という形で発露しているだけだ。

では、なぜ「よりよい現状への希望」が「何者かになりたい」という表現をとるのか。それは、人間が群れ生活者として、避けがたく群れの他の成員を観察しているからではないだろうか。生物の存在基盤は基本的には外部環境であるのだけれど、群れ生活者にとっての存在基盤は群れという社会だ。だから、社会の外側の環境への関心よりも、社会の内側をつくる他の成員への関心が桁違いに強くなる。そしてもしも自分が苦しいのであれば、なぜ他のメンバーは苦しくないのだろうかと思う。それは自分が自分だからだ。自分が彼であれば、こんなに苦しまずに済む。これが「自分ではない何者かになりたい」と思うメカニズムだろう。そして、生憎なことに、苦しみは個人的なものであり、自分だけが感じることのできる感覚だ。だから、私たちは常に「自分だけが苦しい」とか、「他の人も苦しいかもしれないけど自分は特に苦しい」と感じる。理性としてではなく、動物的な感覚としてそう受け止める。だから私たちはつねに「何者かになりたい」と思う。そういうことではないだろうか。

 

では、充足された人は「何者かになりたい」と思わないものだろうか。苦しいからべつの誰かになりたいと思うのなら、苦しくない人はそうは思わないのだろうか。私にはそんなふうに見えない。むしろ、充足されたように見える人ほど、「何者かになりたい」という願望が強いように思える。たとえば中小企業の社長がスポーツカーを買うときの感覚は、「スポーツカーを乗り回すような格好のいい人間になりたい」という願望ではなかろうか。ステータスシンボルとよばれるものを求める人の感覚は、たいてい、そのシンボルによって表される「何者か」になりたいのだと、私には見えてしまう。

いや、そういう物質的な成功者はけっして充足されているのではない、心の平安をもっている人こそが充足されているのだというかもしれない。言葉をかえれば、社会的な自分の役割を自分自身のアイデンティティとして引き受け、それに没頭している人は、いまさらなりたい何者かなどないのだろうと、そんなふうにも推測される。それはそうかもしれないとも思う。ただ、残念なことに、そういう人に出会ったことはない。もちろん私の見てきた範囲など世界のごく僅かだし、類は友を呼ぶともいうから、充足できない私のような人間の周りにはそういう人しか集まらないのかもしれない。けれど、「ああ、この人は尊敬できるなあ」と思える哲学者のような人でさえ、「こんな自分ではダメだ、もっと修行しなければ」と思っているように見える。あるいは、平安の極みにいるような乳児を抱えた母親でさえ、「もっといいおかあちゃんにならないとね」と話していたりする。もしも充足しているように見える人がいたとしても、それは「私でない誰か」の姿として見えているだけなのではないだろうか。そういう落ち着いた人になりたいと思うのも、結局は「私でない誰か」になりたいというこっち側の願望ではなかろうか。

そういう人しか周りにいないからかもしれないけれど、私には、「何者かになりたい」、それも「大物」という意味の「何者」ではなく、「自分ではない誰か」の意味での「何者かになりたい」は、群れ生活を営む生物としての人間の宿命的な感覚ではないかと思えてしかたない。その願望に食い散らかされてしまうと、人生はロクなものにならない。けれど、適度にそういう感覚があれば、それは向上心ということになるだろう。そして、「よりよい場所」をめざす向上心は、確かに人間を進歩させるのかもしれない。だから、そういう感覚を抱え込んでしまうことそのものは、いいことでもわるいことでもない。重要なことは、生得的なその感覚をどこまで理性でコントロールできるかではないだろうか。

 

人間は社会の中でしか生きられない。けれど、社会というものには五感で知覚可能な実体はない。ただ、その存在が概念として理解できるだけのものだ。ある意味では幻影だ。共同幻想だ。それでも人間はそこに依存して生きる。そういう構図を理性で認識すれば、既に「自分」という何者かである存在が、それでも「何者かになりたい」と願うプロセスが見えやすくなるのではないだろうか。そうやって「何者かになる」ことは、社会のなかでの自分の居場所を再設定することでもある。それはつまり、社会に受け入れられること、つまり、belongedである自分を実現するために必要なことではないだろうか。

それにしても、これだけ長く生きてきて、何者にもなれないというのは、いったいどういうことなんだろうかと、自分自身を振り返って、嘆息が漏れる。たしかに私は編集者にもなったし翻訳者にもなった。風来坊にもなったし教師にもなった。経営者にもなったし非正規の底辺労働者にもなった。夫にもなれたし父親にもなれた。けれど、いまだに「何者かになりたい」という願いは消えない。まったく、ろくでなしだ。そういえば「ろくでなし」を英語ではnobodyと…

 

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この文は、シロクマ先生のブログに触発されて書いた。けれど、先生のブログの内容との関連は、ないな。スミマセン。

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