論破するのは議論ではない、というあたりまえの話

ものすごくレベルの低い話をするのだけれど、世の中、議論することの意味を取り違えている人があまりに多いように思う。議論は、議論への参加者を説き伏せるために行うのではない。議論は、よりよい解決策を発見するために行うものだ。これは議論の大原則だ。なにも私が独断でいっているのではない。たとえば、Googleで「debate goal」と検索してたまたまトップに出てきたサイトには、

Three interrelated goals of the class are:

  • To become exposed to important—and often controversial—issues in American history, and TO THINK ABOUT THEM.
  • To comprehend historically significant and often complex ideas, and to articulate a position regarding them.
  • To listen to others with an open yet critical mind, and to become more clear and persuasive in arguing your own position.

Goals of Class Regarding Discussion and Debate

とある。どうも大学の歴史の授業心得らしいのだけれど、目標は「考えること、学ぶこと、人の話を聞くこと」であるとしている。さらにこの少しあとには、「権力闘争になりがちだ」と戒めた上で、

Discussions and debates in this class do not have winners or losers

と、勝者・敗者などないのだと注意している。そして、検索結果の2番めに出てきたサイトには、

「議論には3種類ある」とした上で、

The second-worst kind of debate is the kind we engage in most often. It’s the debate where the goal is to prove that you're right.

An even worse kind of debate is the kind where the goal is to destroy someone.

The best kind of debate, on the other hand, is the kind where the goal is to make progress together. The process of this debate often leads the group to explore ideas that no one member could have come up with on their own.

How To Have A Productive Debate

と書いてある。「自分が正しいこと」「相手をやっつけること」が目標の議論はダメで、「参加者の誰もが気づかなかったようなアイデアを探る議論」こそが実りあるものだとしている。ほら、私の言ったのとほとんど同じだ。答え合わせでマルがつくと、やっぱり嬉しいな。1番目の検索結果のものは教育上のものだし、ここにはあげなかったけれど3番目のものも教育上のものだ。だから一般的な意味での「議論の目標」で最初に出てくるのが「議論はいっしょに前進してくためのもの」としているのは、常識的にそうなんだと言っていいのだろうと思わせてくれる。まあ、しょせんGoogleだから、もっと正確な調査は専門の人がやってくれたらいい。

ともかくも、常識的に考えれば、わざわざ人が集まってしゃべるのだから、そこには生産的な意味があると思うのが普通だろう。自分の考えがすべてならなにも人の意見を聞く必要はないのだし、叩き潰したいような相手とはかかわらなければよろしい。論破するのはゲームとしてはおもしろいのかもしれないが、議論の場を設定するコストに比べて見合うものとは思えない。

他人の意見を聞き、自分の意見を開陳し、それを突き合わせてよりよいものを探るプロセスは楽しいものであるし、それを経ることで思いもかけなかった新しいアイデアが浮かんでくる。そういう経験を積んできた人類は、話し合いによって問題を解決していく方法を学んだ。それが現代、議論が重視されている理由だろう。衆知を集めればよりよいものがうまれることを、私たちは経験則として知っている。議論をする目的は、そこにしかない。

 

しかし、人々が集まってなにかを成し遂げようとするとき、議論だけが効果的な方法であるかというと、そうとばかりはいえない。すくなくとも、歴史的にはそうでない場面のほうが多かったことだろう。たとえば、地域に用水が不足しているとする。その解決のために議論すれば、水の配分方法であるとか利水施設の新設であるとか、いろいろと生産的なアイデアは出てくるだろう。しかし、そのときに、一部の集団が結託して他の集団を排除し、用水を独占してしまえば、なんら新しい方法を試してみなくても、その集団にとって問題は解決する。戦争のような単純な力勝負では、あれやこれやと作戦を議論するよりも、専断果敢に攻撃に踏み切ったほうが勝利の確率は高い。技術が概ね出尽くして発展がプラトーになってしまった文化では、議論するよりも秩序を守るほうが生産性が高い場合もある。議論は効果的な方法であるが、常に最良の方法であるとはかぎらない。

ということで、議論が最良でない場合、人々は議論の形式をとっても実際には議論なんてどうでもいいという態度をとることになる。たとえばそれは、議論の形で他の権力者を蹴落とす闘争になる。あるいは、議論といいながらリーダーがその意思をメンバーに伝達するだけの場をつくる。場合によっては、そういった場が権力交代の舞台ともなる。

どうやらこれがこのくにで起こってきたことらしい。会議は、会議を実施したという履歴のためだけに必要となる。基本的にそこは、上意下達の場である。しかし、ときには権力簒奪の場にもなる。その場合、必要なのは論理ではなく、場の力学だ。だから、議論以前に根回しが重要になる。賛同者をいかに集めるかが重要であり、もしも論理性が関わるとしたら、その賛同者を募る過程でのみ重要であって、議論の場では完全に不要なものになる。

 

そういった会議が上から末端まで日常化してしまった世界では、「議論とはより良い解決策を見出すための知恵の出し合いだ」みたいな正論は、寝言にしか聞こえないのだろう。だから、学校でも正しい議論の方法を教えない。いや、学習指導要領では教えることになっている。たとえば中学校の学習指導要領では、国語の2年と3年に「議論や討論をする活動」が組み込まれているし、社会科では教科目標に「議論したりする力を養う」と記されている(個別には地理・歴史・公民の各分野で議論する力を養うことになっている)。実際、国語の試験問題では、議論している場を想定した設問がふえてさえいる。しかし、ではそういった教育を受けた人々がちゃんと議論する力を身につけているかといえば、疑問だと思わざるを得ない。

知識として身につけても、実際にそれを練習する場がないからだ。いや、練習する場は無限にある。日常の社会生活のなかで、議論によってよりよい方法を見出していける場はいくらでもあるだろう。ただ、そういう場で、議論がおこなわれることはめったにない。

たとえば、校則に関して、生徒と教員が議論できる場が設けられたとしよう。このとき、「自由闊達な議論」がおこなわれるだろうか。教員は「立場として」意見を制限される。議論の場に赴く以前に、「どこまで譲歩できるか」が既に決定されている。そういう場で、それでももしも、教員も生徒もそれまで思いつかなかったようなアイデアが発見されたとしたらどうだろう。教員にできることは、せいぜい「持ち帰って検討する」のが最大ではないだろうか。ほとんどの場合はそこまでいかず、想定外のことは議論の対象から排除されるだろう。「それを話し合う場ではありません」と、枠組みが切られてしまう。なぜなら、枠組みは最初っから事前準備のなかで決定されているからだ。

こういった「話し合い」でおこなわれ得るのは、せいぜい生徒の側からの苦情申立と、教員の側からの説得でしかない。それは、「話し合いは実施した」というガス抜きにしかならず、実効的な意味合いはほとんどない。

なぜそうなるのかといえば、同じようなこと、議論の体裁だけをとった上意下達の会議が教職員のレベルでおこなわれているからだ。権力関係が歴然としてる場では、会議の結果は既に決められている。もしもその結果を変えたければ、論理の力では変えられない。会議の場でいくら名案が出ても、それは「次回までに検討」と闇にほうむられるだけだ。まして、お互いのやり取りのなかでどちらの考えも及ばなかったような次元の高いアイデアが浮かんでくるようなことはない。だから、結果を変えるには、会議の場で考えるような悠長なことではダメだ。それ以前にしっかりとアイデアを練り上げ、練り上げたアイデアを持ち回って参加者に根回しをし、会議の場で主導権をとらなければならない。つまり、権力関係がある場では、権力闘争が何より優先される。いいとかわるいとかは抜きにして、それが現実だ。

あるいは、根回しもなしに会議の結果を変えたければ、徹底的に相手を論破するしかない。人格攻撃や泣き落としや駄々をこねるところまでも、ありとあらゆる技を動員して、論敵を困らせ、論敵が退却するように仕向けなければならない。これもまた、一種の闘争だ。こういった闘争の場としてしか議論を用いないのが教員の日常であれば、どうして正しい議論を生徒に教えられるだろうか。

いったいに、そういった闘争は、このくにの会議でごくふつうにみられるものだ。それが標準といってもいい。だから、会議は「よりよい解決策を産み出す」ための生産的なものではなくなる。たとえば、国の有識者会議に出席する人に聞いた話では、ああいった会議の結論はあらかじめ役人が用意していて、それを変えることはほとんどできない。だから、影響を与えたかったら、有識者会議がひらかれる以前に省庁に出向いて根回しをしておかなければならない。もしもそういうことがなしに有識者会議によばれたら(彼はそういうふうによばれることが多いらしい)それはアリバイ作りの員数合わせでしかない。「いろんな意見を聞きましたよ」という形をとるための要員であって、その会議でなにを喋ろうが、政策に反映されることはほぼない、のだそうだ。

だったらなぜそんな会議に出るのか。それは、やはり一種の闘争なのだ。この先、省庁と交渉する際に、「あのとき、あの会議で私はこういう問題を指摘しましたよね」とねじ込むことができる。議事録に残れば、「それが指摘されていたのに行動を起こさなかったのはけしからん」と批判することができる。その会議では実効性はなくとも、将来に向けての布石にはなる。どうもそういうことらしい。

有識者とよばれる人においてさえ、そういうレベルでしか会議をしていない。かなしいかな、「互いのもつ知見を照らし合わせ、そこから新たな発見をする」みたいな生産的な知的活動は、そこにはない。そして、世の中の多くの人が、そういった戦いこそが会議であり、会議でおこなわれるものが議論であると、肌感覚で認識してしまう。

 

だから、なにかというと他人を論破したがる人が現れる。揚げ足を取り、嘲笑し、相手の話を遮り、ありとあらゆる手段で論敵を封殺にかかる。ちょっとは落とし所とか考えないのかと傍からみていて思うが、権力闘争として議論をとらえている人にとっては、一歩譲ることは一歩の負けである。勝負こそがすべてなのだから、まずは勝たねばならない。もしも相手のいうことが正しければ、勝利したあとに、それを取り入れればいい。それが議論の方法だと、勘違いしている。

正しく議論するためには、「自分には見えてないところがあるかもしれない」「自分の枠組みからでは考えきれない領域があるかもしれない」と、あらかじめ認めておかなければならない。そういう前提があるからこそ、「他人には見えないことを自分は提案できる」「他の人の枠組みから考えの及ばないことを自分は問題提起できる」といった自負を正当化できるのだ。どっちが正しい、誤っているなんて、この混沌とした世の中で、そうそう簡単に決められることじゃない。それがわかるなら、誰も議論なんかしない。ひとりの頭では追いつかないから多くの頭でマルチコアに考えようよというのが議論なんだけど、それよりなにより権力という人々には、なにを言っても通じない。

実際、権力闘争がすべてというのはある意味正しくて、とことんな話、正義は拳銃の前にあっさり倒れたりする。マルクスはそういう意味で正しいのだろう。けれど、それでもなお、正義が世の中にあると、私は信じていたいな。こういうことについて議論できる人がいればいいんだけど…